第1章  1963年 プラスマイナス0 - すべての始まり 〜 2 伊藤博志

 2 伊藤博志


 男の名前は、伊藤博志というらしい。姓名以外でわかっているのは、正真正銘日本人であることと、自分に関する記憶のほとんどを忘れてしまったということだった。

 ところが不思議なことに、政治や経済、歴史などについては驚くくらい覚えている。

「どうしてこんな服装で歩いていたのか、まるで思い出せません。きっとこの上に、何か羽織っていたはずなんですが……?」

 薄手の上下だけで寒くはなかったか? そんな質問への答えに、彼は不安そうな顔でそんなふうに言って返した。

 自分はいったいどこから来て、どこへ行こうとしていたのか?

 帰る家はいずこにあって、家族や親類は果たして、いるのかいないのか?

 何もわからないという男を、その日、智子は家に連れ帰った。もちろん警察へ……とも考えたのだ。しかしどう見ても悪人には見えなかったし、空っぽになった弁当箱を、悲しげに見つめる姿に彼女は思わず言ってしまった。

「もしよかったら、このままうちに来ませんか? 大したものはないけど、お腹いっぱいになるくらいなら約束できるし、そんな格好で外にいたら、きっと風邪引いちゃいますよ」

 そんな軽はずみな発言に、伊藤はしっかり躊躇を見せた。

「いや、大丈夫だから……」とだけ言って、ベンチから慌てて立ち上がろうとする。

 ところがその時、フワッと身体が斜めになった。何かに押されたようによろけると、そのまま地面にしゃがみ込んでしまうのだ。

 智子は急いで駆け寄って、そこで彼の身体が熱いと知った。さらに額に手を寄せて、

 ――すごい熱じゃないの!

 そんな事実を知ってからは、兎にも角にも智子の独壇場になる。

 伊藤が何を訴えようと聞く耳持たない。彼の身体を必死に支え、智子は家への道をひたすら歩いた。途中かなりの急坂があって、十歩歩いては休むといった感じになるが、その頃には伊藤も逆らうことなく智子の歩調に合わせて歩いた。

 そうして家に着いた時、ちょうど彼の気力も限界を迎える。

 急にガクンと膝をつき、そのまま倒れてしまうのだった。

 それから彼は、三日の間眠り続けた。医者によると疲労のせいだということで、当然といえば当然なのだが、当初、智子の母親は腰を抜かさんばかりに驚いた。たまたま家にいた智子の父親を呼びつけ、厳しい顔で事の次第を説明するが、父親の方は意外にも、

「今さら、病人を追い出すようなこともできんだろう。いいから、離れに寝かせてあげなさい。それから針谷さんに電話して、往診してもらうよう頼んだらいい」

 あっさりそれだけ言って、さっさと元いた書斎に引っ込んでしまう。

「針谷さん」とは、戦前から近所で開業している針谷医院のことだった。

 きっととっさに、未だ現役代議士である祖父の顔でも過ったか? さらに言えば、父、桐島勇蔵本人も、そこそこ名の通った弁護士なのだ。だから病人の一人や二人、面倒見る余裕はすべてにおいて十二分にある。三百坪の敷地に客人用の離れがあって、そこに寝かされた伊藤という存在は、それでも桐島家にとって厄介者のはずだったのだ。

 ところが熱も下がり、少し歩けるようになってすぐ、そんな立場が変化する。

「父が、伊藤さんと少し、話がしたいと言っているんですが……」

 智子が離れにやって来て、いくぶん遠慮がちにそう告げた。さらにそんな言葉の少し前、

 ――彼は、いつまでここにいる?

 そんな勇蔵からの問いかけに、智子はここぞとばかりに告げたのだった。

「あの人、自分がどこの誰だかもわからないの。だからお願いです。お父さんの力で、伊藤さんを助けてあげてください」

 すると一気に不機嫌そうになり、勇蔵は眉間に深々と皺を寄せた。それでも深呼吸一回分くらいで、とりあえず本人から話を聞こうと返事が返る。

 この時、桐島勇蔵は実際のところ、伊藤という男をすべてにおいて見下していた。

 ――どうせ喧嘩でもして、頭を打ちつけるなどしたのだろう……。

 そんな想像を決めつけて、さっさと追い出してしまおうくらいに考えていた。

 ところがだった。智子が紅茶を淹れて廊下を行くと、なんとも愉快げに笑う勇蔵の声が聞こえてくる。応接間に入ると、伊藤を案内した時とは別人のようで、

「おい智子! 紅茶なんかじゃなくてビールを持ってこい! あと、確か頂いたハムがあっただろう? あれをすぐに持ってきてくれ!」

 などと、上機嫌で言ってきた。

「昼間っから、お酒なんか飲むの? 伊藤さん病み上がりなのに……?」

 ――伊藤さん、大丈夫ですか?

 勇蔵への声の後、智子は伊藤に向かって口の動きだけでそう問いかけた。

 それから瓶ビールとグラスを用意して、高級ハムを切り分けたりと応接間と台所を行ったり来たりだ。そうしてようやく一段落ついて、智子はソファーに腰掛け、それから二人の会話に聞き入った。

 すると伊藤がまるで別人。どちらかといえば無口な方で、滅多に向こうからは話しかけてこない。なのに今や、息をするのも惜しいくらいに喋り続けて、その内容は智子にとってチンプンカンプンなものばかり。

 ところが勇蔵はどう見たって前のめりで、何度も頷きながら彼の話に聞き入っている。

 明治維新とは、本当のところなんだったのか? さらにそこから突き進んでしまった大東亜戦争の真実――などと、智子が知りもしない話ばかりで、終いには未来の世界情勢について語りだす始末だ。

そんな突拍子もない話にも、勇蔵は不思議と賛辞の声を惜しまなかった。

「君はきっと、歴史学者だったんじゃないか? いや、経済学者の方かもしれん……ただ、どちらにしても、今の日本でそんなことを言葉にすれば、いろいろと面倒な目にも遭っていただろうなあ……」

 そんなことを言いながらも、いつまでも戦後を引きずっていてはいけない、そろそろ国民に真実の歴史を知らせるべきだと宣言し、

「今後もできるだけの援助をしていくから、大船に乗った気でいてくれていい……」

 勇蔵はとうとう、そんな約束までしてしまうのだった。

 それからちょうど一週間後、伊藤は近所のアパートへ引っ越していった。

そこは勇蔵が顧問を務める不動産会社の持ち物で、引っ越しの日には智子も当然のように駆り出された。それでも最低限の家具や食器などは用意されていたから、足りない日用品を揃えるくらいで、あっという間に終了となる。

 驚くことに、伊藤は英語に加えて中国語、さらにヒンディー語やアラビア語まで堪能だった。

 そんな事実を知って、勇蔵は彼のために翻訳の仕事を取りつけてくる。彼の仕事はプロ顔負けで、翻訳を始めて二、三ヶ月もする頃には、フリーの仕事が舞い込むようになっていた。

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