家族の食卓
起きると自室のベッドで寝ていた。いつ移動したのか覚えていない。
夜更かしがたたって、昼に近い時刻だった。
なにを食べようか考えながら階段を下りていく。俺が日頃考えていることは次の食事のことだ。給食のメニューや、夕食のおかずのことを考えてボンヤリしていた小学生の頃とかわりばえしない。今は食事を作らなければならない立場だけれど、自分で作れるのはとても自由だ。材料をそろえて手間をかければたいていの料理というのは自分でなんとか作れるものだ。美味しいかは別の話だけど。
リビングには、俺より遅くまで起きていたはずの読がすでに白いシャツを着て、ダイニングテーブルでコーヒー片手に新聞を広げていた。父親が単身赴任したあとも、冬村家では新聞を定期購読している。
もともと父は新聞をあまり読まない、というか活字というものをほとんど手にしない人間だ。それに相反するように俺と窓はよく読む。新聞もテレビ欄や芸能欄をそっちのけで大きな記事のほうからなめるように読んでいく。
読と暮らした時期はわずかだったので、俺はこの兄のことをほとんど知らないわけだが、活字好きは兄妹で共通しているようだ。
キッチンの作業台に、大きなポットにまだ温かいコーヒーがたっぷりと残されていた。
「これ飲んでいい?」
「ああ、いいよ。おはよう」
「あ、うん。はよ…」
「みんなの分も淹れたんだ」
俺は面食らって兄から目をそらしていた。長らく、冬村家ではあいさつというものが存在していなかった。窓は俺が話しかけても無視するし、自分が用があるときしかこちらに話しかけてこない。
父がいた時はどうだったか忘れてしまったが、おはようとかただいまとか、そういった日常の言葉がこの家からは消失していた。
「飯も作ってある。冷蔵庫みて」
「え!? まじか」
兄が帰ってきたのも、悪いことばかりではなかった。人の手作り料理なんて、お金を払わないと食べられなかったのだ。冷蔵庫には、買い置きしておいた食パンの耳を綺麗に切り落としてキュウリとハムとレタス、それに茹でチキンを挟んだサンドウィッチと、目玉焼きに茹でたウィンナーがひとつの皿にのって、それが俺と窓のふたりぶん入っていた。
普段は朝飯なんて、トーストとサラダ(スーパーに売っている、洗わずに食べられるカットキャベツにトマトとドレッシングを合わせただけの代物)くらいで済ませている俺は、素直に感激した。
「あ、あの――」
礼を言おうとした矢先、窓がドタドタと降りてきて、あああ、わたしが読お兄さまのごはんを作ろうと思ってたのに!不覚だ!と憤慨した。怒りながらも読の隣を陣取って着席すると、いつもは黄昏の目をきらきらさせて彼女は読の手料理をもりもり食べた。謎のカップルを眺めながらその向かい側で、俺も食事をとる。
読のごはんはとてもうまかった。冷蔵庫にあった材料を使っただけなのに、なぜか野菜はしゃきしゃきと歯ごたえがあって普段より新鮮に感じる。一人暮らしではいくらでも手抜きになりそうなものなのに、読は自炊だけはきちんとしていたらしかった。
「はー、お料理上手な旦那様って最高。はやく読お兄さまと結婚したいなぁ」
「いや結婚は無理だろ」
起きてそうそう窓と不毛な会話をするのが心底面倒だったが、つい長年のくせで反射的につっこみを入れていた。
「二人暮らしすれば結婚したも同然よ! だいたいわたしとお兄さまはわざわざ結婚なんて面倒な手続きを踏まなくても、すでに同じ冬村家の戸籍の、れっきとした家族なんだからもう結婚してるようなものでしょ!」
「どんだけ前向きな解釈なんだよ。その場合俺の存在はどうなるんだ」
「そこがネックだよね、温さえいなければ完璧だったのに」
「俺がどれほどこの家に恩恵をもたらしてきたか、胸に手を当ててよく考えろ」
「そういえばさー」
話の流れを無視して、読が新聞を折り畳むと頬杖をついて言った。
「エリーゼってどこいったの?」
ぱたりと、空気が一変する。
エリーゼがいないことはむろん最初から気づいていた。でも、彼女の存在の意味合いを思い出すと、いなければいないで、そのほうがいいような気もして、話題にするのをためらっていた。
「昨日、読お兄さまから楽譜の読み方を教えてもらってて、それが終わったのがもう2時半くらいだったの。わたしが部屋に戻っても、ついてこなかった」
エリーゼは俺と顔を合わせる前までは、他の住民に見つからないように窓の部屋に隠れていたのだった。しかしもう隠れる必要もなく、窓にはっきりと邪魔者扱いされているので、わざわざ窓の部屋に戻る理由もない。
「じゃあ図書館かも」
「図書館? 近所の?」
「バンシーは夜中に図書館に行く習性があるんだって……」
玄関のドアががちゃりと開く音がして、俺たち兄妹は、そろって顔を上げていた。
「おはようございます。読さん、温さん。窓さん」
エリーゼは昨日とおなじ服、おなじ背丈、おなじ大人しい表情でリビングに顔を出した。しかし、身にまとう気配が昨日とは違っていた。なんと言えばいいのか、彼女の身体を成している輪郭が薄まって見えた。
様子がおかしいのだ。
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