エリーゼの話(3)
「エリーゼは、風呂には入らないんだよね?」
「ええ」
エリーゼは睡眠もそれほど要しておらず、二時間ほど目を閉じて意識を失っているあいだに済んでしまうというのだ。なんと羨ましいことか。人間の時間は有限だ。俺はまだ若いから実感しにくいけれど、父親やバイト先の店長なんかは、大人になってからの時間の過ぎる早さについて時に哲学的に語り始める。子ども時代、特に十二歳ごろまでは、時間がゆっくりと流れる。実際の時間ではなく体感時間だけで考えると、人が二十歳になる頃には、もう人生のほとんどが終わっているようなものなのだと。背筋が冷える話だ。
「故郷の国では、森の中の、綺麗な泉のほとりで水浴します。服は着たままです。わたしたち妖精の衣服は、すぐに乾く機能が備わっていますから。人間界にいる間は、この身体はかりそめのものなのです。実体はありませんので、水浴も食事も必要としません。そうですね……魂だけの状態、幽霊のようなものだと思ってもらえればいいです。とはいえ、水浴びは気持ちがいいですから、務めがある期間にそれができないのは残念ではあります。気分的な問題……ですね」
「妖精の世界のこともっと知りたい。興味しかないよ」
エリーゼはテーブルの上で組んでいた手を、ふっと強く握りしめた。大きな瞳を丸くしてこちらを見上げる。
「ほ、ほんとうですか……わたし、人間の方とお話するのは初めてなので……、勝手がよくわからなくて。なにか失礼なことをしていませんか。その…」
風呂場の方向をちらりと目をやって、彼女は肩を落とした。窓のことを気にしているようだ。
「ただでさえ、ご家庭の、ご兄妹の中に他人が居座って、死を見届けるなんて言って……やっかい者だというのに」
「気にしないでよ、それが役目なら仕方ないし。それより、妖精って礼儀正しいんだって関心してるところだよ。俺のイメージでは、悪魔っぽいというか。勝手に人間の食べ物盗んだり、いたずらするって感じだったから。児童書だとそういう風に書かれてる気がする」
「そうですよね!」
同意されたことにきょとんとする。妖精の世界にも本があって読書をするのだろうか。妖精の国それ自体がファンタジーの世界なのだ、どんなことが書いてあるのか。物語があるとしたらどんな内容か、それとも実用書ばかりなのか。
「わたしも読んだことがあります。故郷ではなくこの世界で、です……」
ぴんと姿勢を正し、視線をあげ、エリーゼは罪を告白するように――昨日の明け方に人のプリンを食べてしまったと言わんばかりに告げた。
「……温さん。われわれバンシーは本が大好きなのです。人間界で時間があいたときは、決まって図書館に行きます。図書館で、真夜中、だれもいないときに、わたしたちはこっそりと本を拝借して読んでいます。バンシーは一日のうち、二時間ほどの睡眠で済んでしまいますから。いつも暇を持て余しているのです。え、へへ。このお宅にやってきてからも、夜中はそっと家を抜け出して、近くの公共図書館におじゃましていました。仲間のバンシーに会えることもあります。真夜中の図書館はわたしたちの交流、連絡の場でもあるのです」
読書好きを暇だからと謙遜して表現したが、その控えめなところすら、俺の心をくすぐった。
「そうなの!? すごい……、今想像して鳥肌立った。ロマンだ。図書館に集まるなんて、あれだ、あの映画。『ベルリン・天使の詩』みたいだね」
「え? て、天使ではありません……バンシーです」
エリーゼは頬を赤らめた。この目に映る、人間味のある身体が霊体とはにわかに信じられない。
すきとおるような白磁の肌に、青いオパールの瞳。ピンクゴールドの髪。羽が生えていないだけで、ほとんど天使みたいなものじゃないか。
彼女は死にゆく者の苦しみと寂しさを少しでも和らげるために、やってくる。
誰に感謝されるわけでもない、人の目には見えない。けれど、その魂のそばに寄りそう。そのためにやってくる。少なくとも俺は、今のところはエリーゼのその言葉を信用していた。遠い将来に俺が死ぬときにはエリーゼに看取ってもらいたいと思えるほどには。
俺も行ってみたかった。真夜中の図書館。俺は人だから、鍵のかかった図書館に入ったら不法侵入になるし、非現実的だ。それに図書館にひっそりと集ったバンシーたちも、人がやってきたら恐れて逃げてしまうかもしれない。
「じゃあ図書館に行けば他のバンシーに会えるんだね。それは確かに行きたくなるよね。本も読めるし仲間に会える」
「……期待に添えなくてすみません。バンシーに会えることは、実は滅多にないんです」
「そうなの?」
「みなお仕事が忙しいのです。それに人間界から妖精の数もどんどんと減っています。今は科学の時代ですから……。因果関係ははっきりしていませんが、科学が発達し、自然現象の仕組みが解明されるとともに、妖精の総数は少しずつ目減りしていくのです。いつかはAIが、バンシーの代わりに働いてくれるのかもしれませんね」
『妖精はいない』と誰かが口の端にのぼらせるたびに、妖精は一匹死ぬ。
これは、子どもの頃に読んだ絵本に書いてあった。
だから決して言ってはいけない。「妖精なんていない」と……。
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