兄と妹(2)

 今なにか聞き捨てならない単語を耳にしたような……。

 脳がうっかりミスをしたのだろう。記憶を消去しようと集中するが、たたみかけるようにしてさらに窓が芝居かかったせりふを続けた!

「読お兄さま。この広大な宇宙で、たったひとりぼっちで浮かぶはぐれ子猫。孤独なわたしの、唯一にして最大の理解者! それがあなた! そして固い絆で結ばれる運命の相手そのもの! 前世から決まっていた規定事項なの!」

 またわけのわからないことが始まってしまった――。今までの出来事は前菜みたいなものだ。窓は本気の目で部屋から飛び出てくる。俺は頭を抱えた。このまま自室にこもって、ふて寝して現実から目をそらしたい。

「さっき逃げてしまったのは突然のことに驚いて……心の準備ができていなかったからなの! だって読お兄さまが帰ってくるなんて! 兄妹なのに一度も同じ家に住んだこともないものね。これから一緒に暮らせるなんて夢のよう!」

「ま、それはともかく降りてきなよ。これさ、下で食べない?」

「行く、行く」

 窓が笑う。

 頬のそばに光の粒が弾けるような笑顔。

 ああ、この世の中を斜めに見ることしかできないねじ曲がったハリガネのような魂を持つ厨二病メンヘラが、ここまで曇りなく他人を信奉することがかつてあったか? いや他人ではなく実兄だけど。

 八歳くらいからこのかた、ずっと反抗期の窓。「やみうさ」以外に、この子を屈託のない笑顔にさせる存在がいるとは……


 リビングに戻って、カレー皿を綺麗に平らげた窓は、ごはんをよそいにいそいそと炊飯器のそばにかがみこんだ。おかわりをするらしい。しかもまた最初と同じくらいの量をよそっている。

 厨二病で闇眷属でも育ち盛りの中学生、結局はもりもり食う。ろくに運動もしていないのにスレンダー。これはもう絶対に中年太りするタイプだ。

「なぁ、ちょっとくらいは、うまいとかおいしいとか温兄さん天才とか言ってくれてもいいんじゃないか」

「は?」

 目で殺せそうな冷たい瞳でにらまれてしまった……。懸命に働き、娘にどれだけ尽くしても感謝されないどころか気持ち悪がられ、ウジ虫をみるような目で見られる全国の父親ってこんな気持ちなんだろうな。かなしい。

 一瞬で不機嫌になった窓は再び席に着くと、またスプーンをわきわきと動かして俺特性のカレーを食べた。

「読お兄さまの住民票は、実家の住所のままでしょ」

「よく知ってるね。そうだよ」

「好きな人のことはなんでも調べるのは当然」

 いかん、つっこんでいたらきりがない。

「バンシーは家につく。住んでいなくても、お兄さまの本戸籍も住民票もこの場所だから。心配だった」

「えっとつまりだな、どういうこと……?」

「読お兄さまが死んでしまうなんて絶対にイヤ。それだけは回避しないといけない。だったら代わりに、わたしかあんたが死ねばいいでしょ。つまり、ずっと邪魔だったあんたが消えたほうがいい、至極単純な真理よね」

「そうかなぁ……命は等しく平等じゃないか?」

「年長者は若者に未来を譲るものよ」

「俺も若いわ。一歳差だろ」

「べつにわたしが若くして非望の死を遂げるのも、それはそれでいいかもって思うのよね。温と争ってもしわたしが死んだとしたら、読お兄さまは一生の傷を心に負う。ことあるごとに妹のことを思い出す、それも最も美しい姿のわたししか思い浮かばない。これはもう、読お兄さまと魂の結婚したといってもいい――」

 おっと、さすがになにを言っているのか分からない。窓は悦に入っているので俺の視線などお構いなしだ。

 萩尾望都先生の『トーマの心臓』は心が打ち震える名作中の名作だが、妹がいざトーマと同じようなことをしたら俺はもうこの先どうやって生きていけばいいかわからない。

「いやそもそも、窓、いつから?」

「いつからって?」

「どう考えてもほぼ接点のない兄貴の、しかも俺から見てどこも尊敬に値する部分が見受けられないこいつをどうやったら惚れることができるんだ」

 百歩譲って、血がつながった「きょうだい」に恋することは許諾するとしよう。昔からタブーとされてきた近親相姦はいつの時代にもあるものだし、人の心は縛れない。ただ、妹が思わず好きになってしまう兄というのは、大前提として「かっこいい」ものなのではなかろうか。容姿はもとより言動、職業、生き方。

 容姿だけは確かに良いが、それだけで危険は橋をわざわざ渡るバカはいない。中身が好きなのだろう。中身? 読の中身をよく思い返してみてほしい。無職で動画サイトを三年間も見続けていたような奴を好きになるのか? 

 兄という属性が好きなの? 背徳感にまみれることに快感を覚えるタイプなの? それならば、言わせて貰うが俺の方が優良物件だろ! 社交性ある、一通りの家事はできる、バイトの収入ある!

 かといってここで窓に、俺を好きだと言ってほしいわけではない。妹と恋するなどという酔狂な趣味はない。

「読お兄さまを好きにならない妹が存在するわけないでしょう」

「しらねーよ、他に妹いないし」

「そう、読お兄さまの妹はわたしだけ。こんなに誇り高いことあるかしら? ないわね。わたしがこの世で世界一幸福な美少女なのよ!」

 頭痛が痛いみたいな言い回しになっている。

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