第12話 澤木興信所
結希は興信所からの連絡を受けて大学からの帰り道に、亮介おじ様が調査を依頼した事務所に寄った。そこは繁華街からはちょっとそれているが、なかなか便利な所にあった。結希は入念にあのへぼ探偵からの尾行を巻いてやって来た。大通りから
慎重に周囲を確認してから、事務所前の踊り場にあるドア横の呼び鈴を押した。直ぐに事務員の木田が招き入れてくれた。二階は一階の喫茶店とほぼ同じ広さだ。ただ一階のカウンター席前の調理場が斜めになっていた。そこが二階へ上がる階段部分だった。
中は十八畳分の洋室だがパティションで部屋が二つに区切られていた。一方の十畳のスペースが事務所兼応接間になっていた。パティションの向こうは休憩室とトイレとキッチンがあった。事務室は木田の机と所長の
結希が座るソファー前のテーブルに事務員の木田が、あらっ結希ちゃん仁科のおじ様のお使い、とお茶を出した。その子供じみた言い方なんとかならないのと云うと、もう子供じゃあないわねぇと笑って茶化した。
事務員の木田は五十に手が届くおばさんだ。だが愛嬌はあり結希を子供の頃から知っていた。それだけに結希が大きくなるに従って反対に歳を取って老けて往くのを精一杯誤魔化していた。
「結希ちゃん、随分用心深いのね、まあここへ来る人はみんなそうだけど」
「相変わらず此処の表通りは人と車でごった返しているわね。で、所長の澤木さんは?」
「下で珈琲を飲んでるわ、喫茶店の窓越しに結希ちゃんが尾行されてないか確認しているから直ぐに戻って来るわよ」
「喫茶店! また加奈ちゃんと喋ってるの。それじゃあどっちが澤木さんの店だか分からないわね」
下の喫茶店は中年の夫婦が経営して加奈はその娘で、興信所助手として臨時に手伝って貰っていた。
木田の言ったとおり程なく澤木はやって来た。連絡をしたのなら待たしては駄目でしょう、と木田のおばさんは自分の机に戻った。
「結希ちゃんがここへ来るのは何年ぶりだろうねあの時はまだ高校生じゃなかった?」
「澤木さん前置きが長いサッサと要件を仰い」
結希がピシャリと言ってのけると澤木も生真面目に向き直った。
「その前に俺が下に居たのは早坂探偵事務所の者が付けてないか見張ってただけだよ。まああの
亮介さんは投資先の物色の目利きが良い。それに引き替え息子の亮治さんは雑だ、とぼやく澤木に結希も同感らしい。
「それはそっちも同じでしょうどれだけ手間暇を掛けないで依頼主の要望に応えられるかでしょう、ならあたしをマークした方が手っ取り早いちゅうのね」
「経費節減で我々も商売ですから早坂のやり方は間違ってないが……」
「あたしも生活が掛かってますから
「それは一緒でしょう。ただあなたは生活を守る方、我々はそれを攻める側ですから」
「中味は一緒なのに、じゃあどうして探偵事務所で無く興信所何ですか」
「我々は事件は扱わない。あくまでも身辺調査に徹してますからそこがあくせくと何でも引き受けざるを得ない早坂との違いかなあ」
「なるほどねー、その方が実入りがいいもんね、事件を起こすのは金の無い人だからね金持ちは喧嘩しないって言うもんね」
「所長、いい加減その辺で要件に入ったらどうなんですか結希さんもお忙しいでしょう」
ちょっと首を
澤木も笑いながら聞き流すと、呼び出した要件に入った。マザコン兵士が見つかったが、彼は要介護の特養ホームに入っていた。
「じゃあなぜおじ様に連絡しないの?」
「そこだが、彼は会いたくないこのままにしてくれと云う、で、彼が入ってる施設は熊本なんでそこまでその三浦さんっちゅう人が長旅に耐えられるだろうか」
「あの山里では杖を使って散歩しているって聞いているけど……」
なるほどとそれ以上は聞かず近況を語った。
まず引き上げ援護局や彼の実家から調べた。親戚筋は七十年の歳月でスッカリ変わっていた。その七十年の歳月を僅か数日で
彼は南方で終戦を迎え、復員船で横須賀港に上陸した。実家には知らせていないので迎えはなかった。病が癒えて二年近くを戦場で戦っていれば、もう彼にはマザコンの面影は無く
彼は嫁に母親が仕向けた者かと問い詰めた。女は哀れなあなたのお母様に同情しただけと言い張った。復員してからことごとく逆らう息子を当てに出来ない母親は嫁を頼った。
訳を聞くうちに彼の母に対するゆがんだ人生観が浮かんできた。彼は母親の呪縛から逃れるのに苦労したが、亡くなるとまた頼りすぎた反動で虚無感が漂った。彼は最も憎んでいたのは母であり、そして最も愛しても居た。それに気が付き今もそれで苦しんでいる。母は三十年前にとっくに亡くなっている。のに今はその母の年齢を遙かに超えて生きるのに苦しんでいた。
「その奥さんはどうしたのです」
「当然三十年前に離婚した。これで母への鬱憤は晴らせたらしいそれで思い通りに生きることにしたようだが現状はさっき説明したとおりだ」
「それでも三浦さんがお母さんの呪縛から解き放した一番の功労者なのにどうして会うとしないの」
「俺から事情を聞いて最初は会いたかったそうだ。だがもう体が動けない、尽きようとしている」
そう言われて、俺はとっさにスマホを取り出して、何か言いたいことがあれば、此の携帯に向かって喋ればそのまま三浦さんに届ける、と言って録画した。
「それでだ、俺は三浦さんに会いたくないのなら折り返し録画した三浦さんのメッセージを持ってきて遣ると約束したんだ」
「そう謂うことになったんですか」
「そう言うこっちゃ。それで最初に聞いた三浦さんの体調を窺いたいんだ」
「でも向こうは会いたくないんとちゃうの」
「いや、俺の感触ではお互い歳を取り過ぎてしかも良い想い出でも無い相手だからだろう、それでもビデオメッセージに同意したんだ。それを見た上で多分会ってみたくなると踏んだ。なんせ七十年の歳月を埋めようと言うんだ。どんな人間になってるかそこが俺たちの感覚を超えている処だろう」
ベットから半身を起こした老人が喋っていた。これが本人だと三浦さんが判別出来るか不安だった。それを見透かすように、澤木は我々は初見だが、三浦さんは直ぐに特徴を掴んで見分けられるとベテラン調査員が結希の不安を払拭した。
とにかくその動画をおじ様に見せるから、と結希はデータをコピーしておじ様に送信した。
「いつ返事が貰える」
「此の動画を送ってからだから、まあ三浦さん次第だけど、遅くても明日には分かるでしょう、そしたら案内を請うつもりだけど、また此処へ来ないといけないの? あの早坂を巻くのに、もううんざりしてるのよ、場所を変えたらどうなの ?」
「同業者だから此処で良い。向こうもここから先の居場所を知りたがってるからなあ。此処だとまたかと尾行も手を抜くだろう。それにこちらも新兵器がある」
「え、それって下の喫茶店に居る加奈ちゃん」
「背格好が似ているから同じ服装をすれば遠目にばれずに直ぐに煙に巻ける」
我々は常に早坂の上手を行くから、お父さんの仁科亮治さんには、良好な報告は届かないと太鼓判を押した。それより便利な世の中になって、あの戦前生まれの老人たちは付いて行けるかと澤木は思案した。
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