第10話 荒木所長の場合
休日の亜紀は美咲を伴って散策に出た。
「美咲、本ばかり読んでたらもやしっ子になるわよ」
「ならないだってもやし食べてるもん」
「食べたからいいってもんじゃないけど、それよりそんな料理って作ったことないけど何処で食べてんの」
美咲は分かれ道から三百メートル先の茅葺きの家を指さした。
「その本もそこで貰ったの」
美咲はウンと頷く。
「何か難しそうな本ね、で、あのお
「あの家のおばあちゃん。あたしが一人で歩いていると電動カートが追い越しざまに声を掛けてくれたのそして膝に乗っけてくれて連れて行ってもらったの」
「でも一緒にドライブするのは良いけれど、勝手に人の家に上がり込んでは駄目でしょう」
「駄目じゃーあない、だっておばあちゃんが入れてくれた。そこにはずっと昔はあたしと同じぐらいの子が居たんだって、で、大きくなったからどっかへ行っちゃっただってこの本、その子が読んでたんだって」
「それで貰ったのか」
美咲はまたウンと頷いた。
「まあ得な性格ねそこがお父さんに似たのかしら」
美咲にお父さんの記憶は無かった。
「ねえママ、おばあちゃんに聞かれたけどお父さんってなあーに」
「まだあんたは知らなくていいの、分かった?」
また頷くと、美咲、ちゃんと返事しなさいって言うから、は〜い、と答えると頭を撫でてくれた。それからママとお手々繋いで野道を歩いた。
いつも
「そうですか、それで今日はお休みですか?」
「ああ、今日はあの
「それでお年寄りは入居してるんだから文句は言えないでしょう」
「文句じゃあ無い愚痴だ」
成る程と亜紀は笑って所長に、入居者はお客様ですよと云われて、苦笑いをした。来て間もない亜紀に愚痴を溢せる程にスッカリ頼り切ってしまった。その心の隙間を補うように、直ぐにご機嫌を取ろうと娘の持つ本に目をやった。
ほ〜う美咲ちゃんは字が読めるのか、と屈み込んだ。
「おじちゃんに教えて貰った」
「おじちゃんって誰?」
「この前から入居した仁科さんですよ」
戸惑う美咲に代わって亜紀が答えた。
「あの仁科さんの……、まさかお子さんじゃないだろうなあ?」
急に立ち上がった荒木の目は、ただ事じゃないと血走っていた。
「所長冗談がキツいですよ」
亜紀はその目に笑いながらも鋭い一撃を喰らわせた。
それもそうだなあと高笑いをした。
「でも仁科さんもお洒落な人だから浮いた話はあるだろうなあ」
「残念でした有りません仕事とか愚痴ばっかりで色恋は他人様の話ばかりで当人のは奥様だけですから」
「そうか結希さんとか云う娘さんもいるんだったなあ」
「仁科さんがそう言ったんですか」
「違うのか?」
「まあそう言う事にしときましょう」
「何か棘がありそうだなあ」
「ママに棘なんてありっこない」
美咲は膨れっ面して、おじさん嫌いっと、回れ右して行った。
突然の美咲の反撃に荒木が呼び止めても動かない。亜紀が呼び止めて、手招きすると引き返してきた。荒木は
「良かったら家に寄りませんか、美咲ちゃんには美味しいトマトジュースを作るから」
どうやら近所のお年寄りから園芸の手ほどきを受けて庭で野菜類を作っていた。
「美咲トマト嫌いっと」
「おじさんのはねぇ蜂蜜と混ぜて甘くて美味しいよ」
「蜂蜜入りだって美咲、一寸お邪魔しょう」
亜紀が優しく言うと、直ぐに頷いて家に入った。
もぎ取ったトマトをざるに入れて戻って来た荒木に、此の家は所長が手を加えたのか訊いた。
「勿論リフォームの業者に頼んで流しを都会風にやらせたがそれがどうかしたか」
荒木は流し台でトマトの皮を剥きミキサーに掛けていた。
「民芸調の居間にタワーマンションにありそうな特注品の流し台なので驚いた」
「あの三人が改造した茅葺きの家なんか中は完全な山小屋風のシェアハウスでも水回りも此処よりもっとモダンにしてあるよ」
荒木は出来上がったトマトジュースを囲炉裏端に置いた。まず一口亜紀が味見して美咲に勧めた。美咲は一口飲むとそのままストローで飲み干してしまった。
「美咲ちゃんは気に入ったようだなあ」
もう一杯勧めるとそのまま頷いた。
「これって今頃出来ないでしょう」
「これはプランターで日当たりの良い室内で栽培してる、裏の縁側は障子でなくてアルミサッシの硝子戸だからハウス栽培並みによく育つんだ」
壁には所長が釣り上げたらしい魚拓も並んでいた。これらは此処に居残った集落のお年寄りと接する内にこうなって仕舞った。どうも此処に住んでる人達は毎日を気ままに生きている。それを身近で観ている我々にも伝播した。一種の伝染病なんだろう。
「伝染病? 何なのそれって」
「此処の人は
「そう云えばあの職場でもみんな似たような生き方が蔓延して独り身でいるけど、裕子さんの話では所長の場合はバツイチって聞いたけどそうなの」
「あの移動スーパーのお姉さんは相手と情報を選ぶ人だからその人が柳原さんに喋ったってことはもちょっと訊いて欲しくなってしまったよ」
あの三浦さんと云い、所長にもそんな空気にさせるのか、と亜紀は美咲を膝に乗せて黙って聞く事にした。
俺の別れた女は普通の顔立ちなのに、生き方が派手な女だった。俺がホテルマンだった時にバイトで途中から入って来た。なかなかいい女だった。切れ長の瞼にキラリと光る物があった。第一、物腰は柔らかいが、物事をハッキリ言う女だった。俺は奥手でいつも遠くから眺めていた。一番やり手の自称プレイボーイの奴が、真っ先に彼女をお茶に誘った。気が合うと思って今度は堂々とデートに誘ったら『見損なわないでよ』と見事に肘鉄を喰らった。それからみんなは戦々恐々として、馴れ馴れしく冗談は言っても、心の距離は空けるようになった。誰もプレイボーイの二の舞を避けた。そんなときに彼女は、俺には優しく接してきた。それでも嬉しさ半分と冗談半分で、それ以上のちょっかいを出すのを避けた。すると向こうは引くかと思いきや、更に優しくされた。俺も冗談半分から一歩踏み込むと、あいつ程ではないが冷や汗を喰らった。それでしょんぼりするとまた優しくされた。これでは俺の心は、ジェットコースターの様に激しいく上下に揺さぶられて溜まらず告白した。彼女もあたしも、と言われ有頂天になって一緒に暮らした。だが三年で破局に向かった。
「原因は何なの」
未だに解らない。一緒に暮らしていたアパートで、隣の夫婦と仲が良くなった。元々は彼女同士で仲良くなって、男の方はそれほど関心がなかった。しかし選りに選って俺が一泊二日間、本社で研修を受けた。そして帰って来ると、隣の夫婦は引っ越して、空き家になっていた。よくよく聞くと、夫婦喧嘩して急に引き払ったらしい。しかし突き詰めると、その原因が俺の女と隣の男が、一緒に実家へ帰省した事実が解って追求した。どうやら何もなかったが、俺の異常すぎる追求に『あなたがそんな人とは想わなかった』と来たから。そこから僅かなほころびが一気に裂けて行った。もうそうなると言うことなすこと、全てが裏目になった。覆水盆に返らずって、俺たちのためにあるようなものだった。ある日、彼女は置き手紙を残して去った。
「なんて書いてあったの」
「美しい思い出だけを残したいからさよならだって。あんたの場合は知らないが、勝手すぎると思わないか」
訴え掛ける荒木に「なるほどね〜」と亜紀は意味ありげに苦笑した。
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