1-3
「帰宅部エースの俺としたことが……抜かってしまった」
しんと静まりかえる廊下を歩きながら、誰に言うでもなく口からこぼれ出る。日中は様々な生徒であふれかえるこの場所も、下校時間を過ぎると次第にまばらになり、窓から差し込む夕陽に照らされながらやがては誰も居なくなる。耳を澄ませば微かに聞こえる野球部の練習のかけ声と蝉の声がどこかノスタルジックな響きで、心を少しざわつかせた。
「なーにが、『関、どうせ暇だろうから手伝え』だ。暇じゃないっつーの」
帰宅部だから暇だと決めつけるのは、早計で偏見だと思いませんか? 家が貧乏でバイトに明け暮れる苦学生かもしれないし、妹が重い病気で付きっ切りで看病が必要なのかもしれない。まぁ、俺の場合はたまたま不自由のない家庭に生まれて、バイトなんて一切したことがないし、兄弟に関しては、偶然にも病気なんて無縁のいつだって元気ハツラツオロナミンCな姉が一人いるだけで、妹なんてものは残念ながら存在すらしていない。あれ、おかしいな。でも、決して暇ではない。帰宅することに情熱を注ぐ、模範的な帰宅部員なのだ。……青春を無駄に浪費しているだなんて言わないで。
腕時計にふと目をやる。時刻は十八時と二十分を少し過ぎた場所を指していた。
「げっ、一時間以上もサビ残してたのか俺」
道理で夕焼けがやけにオレンジなわけだ。担任教師から、来週の授業で使う化学の資料整理を依頼された俺は、化学準備室でひたすらホッチキス留めの作業をしていた。あれ、最近のプリンタってホッチキスで留めるところまでしてくれるんじゃないんですっけ? っと素朴な疑問を口にすると、設定し忘れて印刷したんだ、ごめーん。と、まるでてへぺろが後に続きそうなトーンで答えるものだから、多少の殺意が芽生えたのは記憶に新しい。まぁ、まるで一生分なんじゃないかと錯覚するほどの量のホッチキス留め作業を黙々とこなしたおかげで、例の
「差出人も書いていないんだし、これ以上考えても仕方ないんだけどな……」
俺が所属する二年八組の教室の前に到着する。進級して三ヶ月ちょっと経過しているが、まだ僅かに新鮮さが残るその教室のドアに手をかけた時――
――教室に、誰かいる……?
教室のドアに備え付けられた細長い窓越しに、人の気配を感じた。……いや、別に何も不思議なことではない。俺と同じように教師に雑用を押しつけられた生徒も居るかもしれないし、部活中、教室に忘れ物を取りに戻る生徒だって居るかもしれない。そもそも放課後、教室に残ることを禁止されているわけでもないのだから、残って勉強している生徒が居ても不思議ではない。そう、何も不思議ではないのだ。だが――
――座ってるの、俺の席じゃないか?
校舎に差し込む夕陽がうまいこと反射して、ぼやっとしか見えないその人影は、どうにも、俺の席あたりに座っているように思える。……なんだろう、自分の教室に入るだけのことなのに、妙に入り辛さを感じる。そもそも俺の勘違いかもしれないし、授業中以外の座席の位置なんて大した意味を持たないのだから、別にどうでもいいじゃないか。それよりも、ただでさえ遅れている部活動をこれ以上遅らせていいのか? そんな体たらくで、エースの座を守りきれるのか? そう自分に言い聞かせて、一つ、深呼吸をする。よし。帰宅部エースの帰宅力、見せてやるぜ……!
がらがらがら……
意気込んだのはいいものの、なるべく、控えめな音になるようゆっくりとドアを開ける。人影がぴくりと反応して、こちらを振り返る。相変わらず良い感じに夕陽がまぶしくて直視できないが、やはり俺の席に座っているのは間違いないようだ。
「あ、俺すぐに帰るから、そのままで大丈――」
「――ずっと、あなたのことを待っていました」
……え?
「関くん……あなたを助けに来ました」
……え? え? ええっ……?
思いもよらない言葉をかけられ、脳の言語処理に遅延が生じる。
人影は立ち上がり、ゆっくりとこちらに近づいてくる。学校指定である白がベースのセーラー服が、夕陽に染められて今は綺麗なオレンジに映る。肩にかかるか、かからないか、そんな不安定なラインまで伸びた髪は、夕陽に染められても黒のままで、誰かが閉め忘れて開けっ放しの教室の窓から入り込むゆったりとした風にふわっと吹かれて、ゆっくりと綺麗に靡いていた。
「――メッセージは、読んでくれましたか?」
「……メッセージ?」
突然の問いかけに、遅延したままの脳がワンテンポ遅れて応答する。メッセージ、めっせーじ、Message……
……あ。
例の
「読んでくれたんですね。でも、大丈夫です。関くんには、私がついてますから」
「え、と……。それは、どういう……? そもそも君は……」
誰? という言葉が口から出ていく前に、違和感を覚えて思わず引っ込める。
小柄な体型、耳あたりの良い透き通った声、垂れ目がちで愛嬌のある顔——端的に言えば、ものすごくかわいい。小動物を連想させ、思わず守ってあげたくなるような——そんな存在感に、どこか覚えがあった。……いや、こんなにもかわいい女の子を青春ゾンビである俺が忘れるものか? 同学年であることを示す藍色の上履きが、余計に混乱を誘う。
「こうすれば、わかりますかね?」
彼女はポケットから見覚えのある〝たぬき〟のシールが貼られた眼鏡ケースを取り出す。眼鏡ケースの中からは銀色で丸っこい、金属フレームの眼鏡が出てきて、それを小さく白い綺麗な手で、ゆっくりと耳にかける。眼鏡のテンプルに絡まる髪をかき上げる仕草は色っぽく——不覚にもドキリとしてしまう。そして——
「あ……」
重なった。目の前の少女と、記憶の中の少女が。記憶の中の少女は、今と同じ眼鏡をかけていて、今よりもうんと髪が長く、表情がわかりづらい印象だったけど――
「……
俺がその名前を口にすると、彼女の顔がぱあっと明るくなった。
「覚えていてくれたんですね。うれしいです」
彼女は一歩踏み出し、俺の両手を握る。
「
そう言って、彼女――元、クラスメイトである千波茉莉は、一片の濁りもなく、人懐こい笑顔を俺に向けた。
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