第510話 秀一と美櫻

 ――ここは都立白鳥しらとり高等学校、三年B組。


「ごめん美櫻みお、待たせちゃって」


 教壇側の扉を開き、焦った顔で飛び込んだ秀一。そんな彼にううんと首を横に振りながら、美櫻は読んでいた文庫本にしおりを挟んだ。聞けば彼女、時代小説が好物なんだそうな。


「先生、何の用事だったの? 秀一」

「通信制の大学を薦められたよ、社会保険労務士も目指してみたらって」


 どうやら担任教師、桐島組長にビビりながらも諦めていなかったっぽい。どうするのと美櫻に尋ねられ、うーん悩み中と返し、押しつけられた資料を鞄に仕舞う秀一。


 三年生のこの時期だ、教室には誰もおらず二人だけ。だがこうしてはいられない、お爺ちゃんお婆ちゃんに晩ご飯を届けなきゃ。

 バイトが終わったら酒香季さかきで何食べようかと、肩を並べ校門を出る秀一と美櫻。そんな二人を校舎の影から、睨んでいる存在がいたことなんて気付くよしもなかった。


>>「美櫻、そっちは終わったのかい」

>>『終わったわよ、秀一は?』

>>「あとは柴田の婆ちゃん家だけ」

>>『私も一緒にいくー、じゃあ現地で』


 こんなLINEのやり取りも、二人には楽しい日常になっていた。

 秀一はいつも配達順では、柴田の婆ちゃん家を最後にしている。理由は家に上げられお茶を出され、話し込むことが多いから。そんな彼に美櫻も付き合うようになり、もはや婆ちゃんとは顔なじみ。


「柴田の婆ちゃん生きてるか」

「お婆ちゃん元気してる?」


 茶の間から上がりなと声が聞こえ、入ってみればもうお茶を煎れていた婆ちゃん。いつもより遅くなったせいか、口をへの字に曲げている。どうどう落ち着いてとなだめる二人だが、見ればテーブルには何枚かのパンフレットが。


「婆ちゃん、これ何?」

「二人組の男が来てね、土地を売ってマンション住まいにしたらどうかって。これが参考価格って言ってたけど、私にはよく分からなくて」


 パンフレットの隅に手書きされた、その数字を見て美櫻の顔が曇った。この辺の地価相場は一坪あたり、二百五十万円前後と父親から聞いていたからだ。庭も合わせて七十坪はあるこの家、一億七千万円は下らないはずと。


 住民が減少し続けている地区ならまだしも、人口が今でも増え続けている港区だ。公示価格より遙かに低い数字なんてあり得ないと、美櫻は秀一の袖を引っ張る。

 公示価格とは国土交通省が、固定資産税を算出するために公表する土地の価格。だが実際の売買とはかけ離れた設定なので、これを下回るなんてもはや詐欺。


「お婆ちゃん、騙されちゃダメよ」

「そうなのかい? 美櫻ちゃん」


 これも特殊詐欺なのかなと、秀一は桐島組長と若頭にLINEを送る。もちろん提示された金額と、パンフレットに記載された会社名も添えて。

 すると速攻で返事が返って来た、売らせるなと。会社を調べるから待て、登記書を相手に渡しちゃ絶対ダメだと。そこんとこ蛇の道は蛇と言うか、組長も若頭もよく分かってらっしゃるようで。


「でもねえ、この年になると庭の手入れもままならなくて」

「でもお金には不自由してないんだろ? 婆ちゃん」

「そりゃ蓄えがあるし年金があるし、夫が他界した時に下りた保険金は丸々残ってるからね」


 だから、だから高齢者は狙われるのだ。それが反社会勢力の資金源になっているのは、いまさら論ずるまでもない。

 そこで秀一の頭に、ピコーンと何かが閃いた。六千人を越える雅会だ、造園経験者だっているはず。ロマニア食品・AGIとして派遣すれば、お手頃価格で庭のお手入れをしてくれるだろうと。


>>「どうかな親父桐島組長、婆ちゃんは助かるって言ってる」

>>『よく思い付いたな秀一、万事俺に任せておけ』


 かくして組員が庭師として婆ちゃん家に派遣され、二人組の男がまたやって来たらとっちめることになった。桐島組長いわく、それが暴力団であろうと何であろうと問答無用でぶっ潰すんだとか。


 そして夕刻、ここは大衆お食事処と化した酒香季さかき。夜の部は十八時から暖簾がかかり、お客さんがチラホラ集まり始めた。夜はお酒も頼めることから、客足のピークを迎えるのは二十時から二十二時あたり。


「麻子さん、何してるんですか?」

「メニューに中華料理も導入したいって相談されてね、いま指導中なのよ美櫻さん」

「美味しそうですね、麻子さん」

「んっふっふー、そりゃ私が作るんだから美味しいわよ、秀一君」


 五徳の上で中華鍋を振るう麻子が、ニマッと笑う。

 お料理って、一朝一夕で覚えられるものではない。けれど普段からお料理をしている奥さま方なら、ポイントさえ掴めばお店として出せるレベルには行く。由里子と村上さんがメモとペンを手に、真剣な表情で麻子の手元を凝視していた。


 キッチンの中では出来上がった麻婆豆腐マーボードウフ青椒肉絲チンジャオロースー干焼蝦仁エビチリが大皿に並んでおり、麻子は更に酢排骨スブタをスタッフに教えていた。

 火属性の麻子だから、どのお皿も保温状態。立ち上る湯気が悩ましい中華の香りを漂わせ、胃袋を刺激してくれるのなんのって。


「こりゃ参ったな、美櫻」

「でも券売機にはまだ無いのよね、秀一」


 ミックスフライ定食の食券を手にする秀一と、ハンバーグ定食の食券を手にする美櫻が、うむむむという顔でカウンター席に座る。

 それは二人だけじゃなく、テーブル席に座った他のお客さん達もみな同じ。漂う中華の香りにどうしてくれるんだと、言わんばかりの顔をしていた。


「あー、麻子さん」

「なあに? 美櫻さん」

「各種定食の食券でさ」

「ふむふむ」

「何とかならないかしら」


 あらま、お客さんがみんな、しーんと静かになっちゃったよ。

 みんな尻尾を振るワンコ状態で、麻子の返事を待っている。


「中華四種類の盛り合わせ定食として、今お店にいるお客さん達の分なら。ねえ由里子さん」

「そうね、今いるお客さんの分なら。食材は大丈夫かしら、村上さん」

「添える搾菜ザーサイがちょっぴりになっちゃいますけど、他は問題ないですよ女将由里子さん」


 一斉にチェンジの声を上げるお客さんたち。あらあらまあまあと、眉を八の字にする由里子と村上さん。このあと来店したお客さんにソールドアウト売り切れを宣告し、ちょいと揉める事になるのだが。


「美味しかったね、秀一」

「あれってさ、ちょっとしたお店だといくらになるんだろうな、美櫻」

雲呑ワンタンスープも付いて来たし、二千円はするんじゃないかな」


 ビルを出て歩道を歩き、思いがけない中華定食の話題に花を咲かせる秀一と美櫻。だがそんな二人の前に、数人の男子が立ち塞がった。

 見れば同じ白鳥高等学校の制服なんだが、どうも雰囲気は友好的ってわけじゃなさそうだ。その一人が一歩前に歩み出た。


「あなた確か、F組の吉田君よね。私たちに何か用なの?」

「用があるのはそっちの転校生さ、橋田さん。おいお前、ちょっと顔を貸してもらおうか」

「お前言うな、俺には田辺秀一って名前がちゃんとある」

「はっ! お前で充分なんだよ。俺たちの学年マドンナを独り占めして名前で呼び合うとか、恐れ多いと思わないのか?」


 美櫻の意思を無視してかつ、本人が知らない所で結成された親衛隊ここに現る。うわ面倒くさいと顔をしかめる秀一と、やれやれと頭に手をやり地面に視線を落とす美櫻の図。


「女神の美しさを愛でる権利は、我々に平等に分け与えられるべき。その禁忌をお前は犯したのだ!」

「あのさ、なんだよ禁忌って。吉田君だっけ? 美櫻が好きなら好きって告白すればいいじゃん」


 ああ言っちゃった。

 思春期の男子が抱える一番の弱点を、秀一は言っちゃった。高嶺の花だからこそ、遠くから見守ろうなんていう病気に言葉の剣で切りつけたのだ。本人にその気は全くなかったのだけれど。


「な、ななな、我らが信奉する女神の名前を呼び捨てにするなど! 聞いたか同志諸君よ」


 路地裏に引っ張られ、よってたかってもみくちゃにされ、殴られるわ蹴られるわ。美櫻が誰か助けてと悲鳴を上げたが、その声は路地に空しく響くだけ。


 母の再婚で新しい家族と暮らすことになった秀一。義理の姉は割りと美形で体型も見事であったが、男にだらしない上ご飯の食べ方はみっともないし、何よりも金遣いが荒かった。それは家計を圧迫するほどに。


 義理の父親はそんな娘に甘く、そして実の母は義理の父にべったり。それはおかしいと異論を唱えた秀一は、やがて家庭内で孤立し家を飛び出すに至ったのだ。

 だから秀一は異性と接する時、容姿ではなく内面を見ようとする。女性としてではなく、人として尊敬できる相手かどうか。


 吉田の手が震えて立ちすくむ美櫻に伸びる。その時秀一は、その顔面に頭突きをかましていた。そして彼は無意識のうちに吠えたのだ、闇属性が持つ特技のハウリング不協和音を。

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