なるようにならない元勇者の災厄
夜乃偽物
さよなら人族
世界を売った男①
ある演習の帰り道。並んで歩くくたびれた兵士の汚れた靴が、ちゃちなおもちゃの盾を踏みしめて去っていった。その後ろ姿を何も言わずに見送る子どもの小さな背中を、ぼくは馬車から見ていた。
その時ふっ、と思い出した。ここではないどこかで今と全く同じ気持ちを感じたことを。気持ちは記憶と繋がり、懐かしいと感じる見たことのない風景も思い出す。
そしてぼくは自分がどんな人間として生きていたかを思い出した。
ならこんなことをしている暇はない。とっと逃げる方法を考えないと。
と、その前に。馬車を降り、さっきの子どものもとへ走る。
それは、ぼくが勇者として祝福を授かり力を得るための儀式を行う一週間前のことだった。
十七歳の夏だった。
***
『勇者とは、魔族の内で数百年に一人現れる強大な力を持った魔王に対抗できる、人族で唯一の存在である。あらゆる人の中で最も優れた力と清く正しい心、見るもの全てを惹きつけるカリスマを持った英雄の中の英雄。全人類の希望の象徴である——とか、うんたらかんたら。
何度も読まされた聖書の一文を読んでぼくは再確認する。
やってやれねぇ。
本棚に戻し書庫を出る。英雄だなんだ、そんなのはぼくの性分に合わない。力なんて欲しくないし正しさはぼくの心の中にしかない。
いつだってぼくは『どこにでいるちょっとした落ちこぼれ』で、期待なんてされないしされたくもなかった。今までのぼくは、よくこんな大役を務めあげたものだ。まるで他人のような感嘆の気持ちだ。
こんな所にはいられない。全部投げ出して逃げてしまおう。責任感の欠如はぼくの数多くある長所の一つなのだ。
しかし逃げ出すのも一苦労だ。あと三日でぼくは十七年間の基礎修行を終えて、大勢の前で『神』から『祝福』を受ける。この世に神託を授かり祝福を受けて本当の勇者になれる人は一人しかいない。たった一つの最終兵器だ。逃げたとて、必ず追いかけ回されるだろう。そんなうざったい環境は嫌だ。
だけど正直それ以外打つ手は思いつかない。本をひっくり返して勇者が祝福から逃れる方法を模索してもそんなものは見つからなかった。
それも当然、勇者は何百年も昔から魔族との戦争における人族の大きな戦力として考えられ、ありとあらゆる美辞麗句で持て囃され大衆に浸透している。
なった奴は英雄、見た奴は
こうなったら本格的に逃亡に向けて策を考えていこうか。寄親や祝福の儀式に訪れる司祭に事情を話して慈悲を請う、というのも一瞬考えたけど、彼らとぼくの今までの関係を考えるとあまりに成功率の低いやり方だ。追いかけまわされないようにぼくの行方をくらます方法を考えないと。こそこそ、見咎められないように手に入れた地図を自室に持ち帰る。
誰もいない部屋。開いた窓から差す陽光と爽やかな風。さて気分良く、とはいかないけれど調べ物だ。と、椅子に腰掛けようとした時気づいた。
風に揺れる黄色のカーテンに、ほっそりとした人の影が写っていた。
男なのか女なのか。大人なのか子供なのか、微妙な人影だった。
「すみません、どなたでしょうか?」
勝手に自室に居座られるほど仲良しの奴もいないしお手伝いさんの掃除の予定はある程度知っている。心当たりはなかった。
「——名前はない。ただ貴様の望みを叶える手段を持つ存在だと思ってくれればいい」
影の声はこれまた男とも女ともわからない不思議な声音だった。あえて言うなら幼子といった感じだ。
「それはどうも、ご親切にありがとうございます」
「親切で言っている訳ではない。契約だ。貴様からもあるものを貰いたい」
「はあ、契約ですか」
ゆらゆら揺れながら影はそう言った。
「ぼくが今何を望んでいるか、知ってるんですか?」
「さよう。祝福を賜る儀式を逃れたいとは随分珍しい望みだ。そんな望みは聞いたことがない。が、我輩にとってはひどく適役だ」
「なんで知ってるんですか?」
「そんなことを聞かれてもな。我輩と貴様とでは情報を得るための手段がそもそもまるで違うから、と言うのが容易い。生来盲目の者に弓を射るやり方を教える時、貴様は『目でしっかりと目標を見ること』と言うのか? 貴様のやり方は知らんが、我輩は違う」
少し嘲りを混ぜつつ影は答えた。
なんだか
過去を思い出して四日。ぼくは誰にもこの新しく生まれた本懐を告げていないし、気取られるような真似もしていない。静養中のぼくに近づく人はこの四日居なかったし、気配を隠してぼくを探ろうとしてもそんなものに今更騙されるぼくじゃあない。腐っても『人類最強の器』なのだ。
人間レベルでぼくを出し抜ける奴はいない。ならこの影は? 声音の割に偉そうで仰々しい話ぶり。契約、望みを叶える。一つ、思い当たるものがあった。
「もしかして、悪魔とかそういうのですか?」
「悪魔。そう呼ばれることが一番多い。そうだ。『悪魔とかそういうの』だ」
そうらしい。曖昧っぽいけどまあぼくも自信を持って自分を人間ですとは言えない。ぼくだって『人間とかそういうの』だ。
「話を戻すぞ。我輩と契約すれば貴様は祝福から逃れることができ、勇者としての資格を永劫失うだろう。その代わり、貴様は我輩に
オドの供給とな。そんなことできるんだろうか。いやそれより。
「でもオドって無くなると死にますよね? 殺したいんですか、ぼくのこと」
「いや、無くなるまで貰うことはない。ただこの世に存在し続けるために必要最低限貰うだけだ。そも、貴様のオドなど食い切れん」
「そうすか。じゃあぼくのメリットは祝福の回避で、デメリットはなんですか」
「魔法は、使えなくなる。貴様がこれまでちょこちょこと学んだ児戯のような魔法と、これから先祝福を受けて手に入れるはずだった、この世の全ての人間を凌駕する大いなる力への道は永劫に閉ざされる」
影は大仰に言った。そんなもんか。
「悪魔さんのメリットデメリットはなんなんすか?」
「……貴様のオドを貰い続けることでこの世に存在し、世を楽しむこと。デメリットは、貴様とずっと一緒にいなければならないことだ」
「ずっと一緒?」
「ああ。基本的に悪魔は人の『内』でしか存在できない。今こうしているのもやっとのことなのだ。方法は教えんぞ、先述の通り言ってもなんの意味もないからな。貴様と契約し、その影に留まることを許可されることで初めて安定した存在でいられるのだ」
影に留まるって、一体どんな感じなんだろう。わからないけど、郷里を出る際には口の悪い道連れが一人加わるらしい。
「契約内容の確認は済んだか?」
「まあ……でもなんか隠し事してるよね」
「貴様はしてないとでも?」
「してないよ。なんでも聞いてみ」
「ならば我輩にも聞いてみよ。もっとも、何がわからないか自分でわかっているのならな」
悪魔はどこまでも嘲笑的に笑う。こいつとの旅の道中の目的は、この余裕な態度を崩すことになりそうだ。
と、旅の道程を想像している時点でぼくの気持ちは固まっちまってる訳で。
「……そっか。わかった、じゃ契約しよっか。どうすんの?」
「待て。踏ん切りがつくのが早くないか? 今までの契約者だともっと深い内容まで詰めて質問してくるものだったが……」
「ぼく馬鹿だから複雑なものを考えるの苦手なんだよね。それに悪魔との契約とか面白そうだし……なんにせよ、祝福を受けずに勇者は辞められるんでしょ? だったら後はなんでもいいや」
「はあ……悪魔との契約なのだがな」
「悪魔って、契約の内容に嘘はつかないんでしょ?」
これは浅学なぼくの数少ない知識だった。人との契約で悪魔は嘘をつかない、とか実は悪魔より神の方が人を殺している、とか。まあキリスト教の知識がこの悪魔(悪魔?)にどれだけ通用するか知らんけど。
「ほう。その知識自体が、まるっきりの嘘かもしれないぞ。何せ今まで悪魔を研究してきた人間など指で数えるほどしかいない」
「それならそれでいいよ」
「何故? 貴様の命が目的かもしれないぞ」
「いいよ別に。こんな偉そうな態度しててガキみてえな約束の破り方したら、逆に面白いって思えるし」
「逆に面白い……?」
「理解しようとしなくてもいいよ。盲目の奴に弓の射方を教える気、ねえし」
結局ぼくはただのくだらねえ刹那主義者、ありふれた快楽主義者。『悪魔と契約するなんてちょっと面白いかも』って好奇心だけで人生を丸投げする馬鹿だ。
馬鹿だから自分で深く考えて結論を出すことに慣れていないし、自分より賢そうな奴の言うことに流されるのが楽だと思う流され体質の愚か者だ。理解できねえんならそのまんまでいい。する価値なんか一つもない。
悪魔はぼくの意趣返しにちょっとむっとしたよう。しばしの沈黙のち、
「なら契約をするぞ。貴様、我輩を受け入れろ」
「受け入れる? どやって?」
「上手くは説明できん。心を開いて、といったところだ。旧友に会うような気持ちで我輩に向き合うがいい。あるか? 人に心開いたこと」
「あるわ!」
少し心を閉ざしつつカーテンに写る揺れる影に近づく。近くで見ると、影の向こうにあるはずの人の姿が見つからない。今更過ぎる発見だった。
心を開く。月夜の橋を渡るような、ほんとに恋をした時のような、楽しい気分で影と向き合う。すると、明らかに自分の精神に何かが干渉してくる感じがして、反射的に心を閉ざしかける。思い直して、再度心を開いてみる。うう、なんかむずむずする。
ややあって、いつの間にか閉じてた目を開けてみる。いつも通りの朝の自室。カーテンには影なんてなかった。
『——契約は結ばれた。これで貴様は悪魔の契約者だ』
その声はどこからと言うべきか。まるで自分が心の声で喋るときみたく、あの幼子の声がした。
『言ったろう。悪魔は人の内にしか存在できん』
「……言ってたね。びっくりしたわ。自分の声こんなに可愛かったけなって思っちゃった」
『そうらしいな。全く緊張感のない心だ』
「わかんの? 何考えてるか」
『表層部分はな』
すごいもんだ、会話の必要がない。ぼくは卑猥な妄想をしてその真偽を確かめようかなと考えたが、こんなガキみてえな声の奴にそんな悪戯するのはな……と思いとどまった。悪魔はただ鼻を鳴らした。真偽は証明されたような気がする。
「で、ほんとに祝福は回避できんの?」
『ああ。黙って三日後を待っていろ』
「なら良かった」
『……一つ訊きたい』
黙れっつった舌の根も乾かねえうちに質問とはね。
と、思わないこともなかったけどあまりに大人気無いいちゃもんだから言わないことにした。
それにしても、質問?
『貴様はどうも本気で勇者になる気は無いらしい。それは心の中にいるから我輩が貴様の次によく知っている……だが何故だ? 勇者だぞ? 全ての人族を超える力を、貴様はたった今捨てたのだ。なのに何故そんなにも後悔せずにいられる』
「なんちゅうか……それ、弓の射り方のくだり以外で説明しなきゃなんねえこと?」
『…………』
気まずいのか悪魔は黙ってしまった。こうされるとぼくもガキに構うみたいに目線を合わせたくなってしまう。
「……すげえシンプルだけど、いい?」
『……ああ』
ぼくは言う。
「勇者って、めんどくさそうだから。ぼく、自由に飯食って酒飲んでセックスしたいんだよ」
これ以上なくシンプルにこれ以外無い気持ちを伝えた。
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