第九六話
「はっ……?」
郡司より提供された宿舎の書斎で監視団の長としての執務を行っていた赤穂紫は何の前触れもなくその気配を感じ取ると先ず困惑する。唖然とする。有り得ない、気のせいではないか、どういう事なのか、と。
「そ、そんな馬鹿な……いえ、それよりも!」
しかしてそのような動揺を取り敢えず脇に置いて、紫は兎も角も父や兄に教えられた通りに己の次に為すべき事を行う。即ち式との視覚の共有であり、己の感じ取った疑念に対する真偽の確認であった。
そして郡都上空を徘徊させていた式神との感覚を繋げた彼女は、直後にその網膜に映し出された光景を認識すると一気に顔を青ざめさせ、直後に混乱しながらもその言葉を叫んでいた。
「敵襲です!!直ちに出陣の用意を!!」
彼女の宣言とともに陽菜を始めとした女中らが荷を手にして急いで室内へと馳せ参じる。そして彼女らは紫の眼前にて運ぶ唐櫃を開封する。取り出すのは具足であった。
「御召し物、失礼致します」
そういって彼女の着込む装束を解き、女中らは彼女専用に拵えた退魔用の甲冑一式を流れるような手捌きで着せて行く。
「環さんと白若丸さんを今すぐ呼び出して下さい!!それと郡司と軍団長にも妖共の来襲を報告を!!」
「湯漬け、お持ち致しました!!」
着替えをさせられながら部下に指示を出す紫の元に茶碗が差し出されられる。炊いた飯に白湯をかけて漬物を添えた湯漬けであった。
「早く寄越しなさい!」
そんな事を叫んで、紫は半ばふんだくるように茶碗を受けとると、よそわれた飯を文字通りにかっ込む。かっ込んで流し込み、空になった器を女中に押し付ける。腹拵えはこれで済んだ。
……尚、場合によっては女中とすり代わっていた妖に盛られた毒で悶え死んだり、慌てて漬物を喉に詰まらせて窒息したり、飯を流し込もうと頭を上げた瞬間に乱入してきた怪物によって頭部が刎ねられる事だって有り得たので、此処で無事に済んだのはある意味幸運であった。
「紫様、敵襲で御座います」
そして丁度腹拵えを終えた直後に紫の背後に馳せ参じる隠行衆の無邪。紫が敵を認識して百数えた頃合いの事であった。その事実に若干紫は顔をしかめる。
「隠行衆の分際で随分と遅い反応ですね!一体何をしているのですか!?職務怠慢ですよ!?」
「申し訳御座いません。式を飛ばして索敵を行っておりました。現状、四方にて妖魔共の気配は西のみで御座います。距離は二里、数は千はありませぬ。但し、奥地より不穏な気配が御座います」
実際の所、索敵だけでなく数日前より秘密裏に尾行と監視を行っていた下人共の行方が式を喪失して確認出来ぬ事態となって、そちらへの対応に手をこまねいていたのも、隠行衆が遅れた一因であった。尤も、それは今はどうでも良い事だ。問題は無邪が察知した気配である。
「……奥地から?」
「気配を察知した直後に式が破壊されたので視認は出来ませんでした。しかし、あの妖気の濃度は恐らくは凶妖級かと」
「……!?」
無邪の報告に紫も、側にて支度を整える女中らも息を呑む。まさか此処で凶妖が現れる事になろうとは……!!
「紫さん!!今到着しました!」
衝撃を受けている所に闖入するのは退魔士装束に身を包んで専属の女中を連れた蛍夜環であった。更にその背後から美貌の少年が続き、彼らの護衛をするように数人の黒装束の下人共が後ろで控える。
「えっ……」
咄嗟に般若面の下人を探した紫は、しかし此処で相談役として活用出来る探し人が存在し得ない事を思い出して衝撃を受けて顔を歪ませる。それでも周囲から向けられる怪訝な視線を自覚すれば一瞬停止していた思考を回して精一杯虚勢を張って宣言する。
「っ!?よ、良く集まりましたね、お二人共!!話は聞いているでしょう、妖の襲来です!!……さぁ、郡衙に行きますよ!先ずは郡司殿と軍団長殿と方針を練ります!」
「えっ!?今すぐ迎撃に向かわないのかい!?」
紫の発言に驚愕する環。そんな彼女に向けて紫は思わず険しい視線を向ける。
「考え無しに突っ込んで勝てるならば妖共なぞとっくの昔に根絶している事でしょうね!!」
紫のその敵意すら含んだ物言いは、環の反応を思わず非難されたように受け取ったからだった。言い返された環はその態度に動揺する。
「い、いや……そんな事は!?」
「良いから行きますよ!!どうやら群れの中には凶妖まで交ざっているとの事、考えも無しに正面からぶつかるなぞ愚か者の行動ですよ!!死にたくなければ私の命に従いなさい!」
「えっ!?ま、待って……!?」
そのように言い捨てて、急ぎ足で郡衙に向かう紫を、そしてその後に淡々と続く白若丸の行動に慌てて環は続く。続かざるを得ない。その心中に焦燥を抱きつつも。
……郡都の郊外に住まう人々の安否に不安を抱きつつも。
「っ……!?何なのですか、この緊張感の無さは!?」
一方で、環達を引き連れて郡衙に向かう紫もまた、その心中は不安と困惑に満ちていた。そしてその疑念は郡衙に向かう道中にどんどんと肥大化していく。
一目で分かった。その緊張感も緊迫感の無さも。既に伝令を出して妖共の襲来を彼方此方へと叫んでいるというのに、官吏共も、兵共も、誰も彼もがひたすら狼狽するばかりであった。その反応の鈍さに紫は思わず舌打ちする。下が此だとすれば、上の反応も期待出来ないであろう事は明白だった。
実際、郡衙に辿り着いた紫達は所在なさげに困惑している郡司と軍団長を見つけた。ほぼ同時に彼らもまた紫達の姿を認め、慌てて駆け寄る。
「紫殿、一体何事なのですか?急にこのような呼び出しなぞ……」
「伝令の話を聞いていないのですか!?妖です!妖共の群れが此処に迫っているんです!直ぐ其処に、半刻も掛からぬ場所より!」
半ば怒声に近い紫の説明に、しかしながら郡司達は互いに顔を見据えて更に動揺する。
「な、何故そのような事に!?」
「そうです!可笑しい、紫殿は式にて周辺の警戒は万全と仰っていたではないですか!?それが何故このような近場に!?一体どういう事ですか!?」
「っ!?そ、それは……!?」
二人の困惑と糾弾の言葉に紫は苛立ちと共に苦虫を噛む。
式の監視を潜り抜けられる疑惑のあるなまはげ相手ならば兎も角、有象無象の妖共相手であればある程度の距離から式の上空監視によって早期発見は可能な筈だったし、日々しつこい程に状況報告を求める郡司達に対して紫はそのように伝えて事態解決の催促をするのを宥めていたのだ。それがこの事態である。紫は己の責任に胃に穴が開きそうな気分になっていた。
「そのような責任の所在の追及は後回しで良いでしょう?それとも此処で無駄話をして化物共がこの役場に押し寄せるのを待つつもりでしょうか?」
郡司達との会話が長引かなかったのは白若丸のその冷たい指摘であった。郡司はその言葉に忌々しげに顔を歪める。軍団長はそれに比べればまだマシであった。狼狽えつつも此方は白若丸の突き付けた現実を受け入れて、紫を見る。そして尋ねる。
「……紫殿、我々はこれからどのようにすれば良いのでしょうか?どうぞ助言を御願い致します」
「っ!?あ、……へ、兵を!兵を集めて下さい!!今すぐに!郡都の門にて、奴らを迎え撃ちます!!」
話を振られた赤穂紫は一瞬の動揺の後、しかし退魔士としての己の職責を思い出せば精一杯の虚勢を張って指示を発していた……。
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それからの動きは、少なくとも緩慢ではなかった。郡都に住まう者達には急ぎ都の中央に集まるように指示が出された。動員されていた軍団兵は民衆の避難と城柵の防衛に振り向けられる。門は固く閉ざされ補強された。郊外から郡都へと逃げ込む者には別門に向かうように命じるか、綱を垂らして直接城柵をよじ登らせる。
尤も……。
「戦力が、足らない……!!」
急ぎ迎撃の準備を整えていく中で、西門の二階建門櫓の露台から全体の状況を見渡す紫は思わず苦渋の言葉を吐いていた。
郡都に現在駐留する軍団兵は百にも満たない。民衆の避難には官吏や雑用を使う事で割かねばならぬ兵を最低限に抑えたがそもそもが絶対数が足りな過ぎたのだ。数日前には朝廷の軍法によって樵や猟師を、更には今になって郡都在住の頑健な男を半ば強制的に動員していたが前者は兎も角後者は何処まで役に立つものやら……そしてそれらを動員しても尚、兵数は五百に届かぬものであった。西の城柵だけに全員を配置する訳にも行かない。圧倒的に人手不足の戦力不足だった。
(郡司が勝手な事をしなければ……!)
付け加えるならば、郡司が紫に相談もせずに一部の兵を郡各地の駅や村に派遣したのだからそれも災いしていた。傑作なのは未だにどの兵も帰還していないどころか、呼び掛けに応じた兵も到着していない点であろう。
……あるいは双方共、化物の腹の中という可能性もあるか。
「城柵の高さは……精々一丈といった所ですか」
「はい、残念ながらあれでは登るのはそう労しないでしょう」
嫌な想像を振り払い、郡都を囲む柵を一瞥して紫が呟けば無邪が補足するように答える。地面に打ち込み、先端を鋭く切った丸太を並べて造られた城柵、その内には台座があって高所から飛び道具を射ち込める城壁となっている。しかしながらその高さは僅かの一丈に過ぎない。
そう、一丈である。横幅とて台座含めても人二人が並べる程度の厚さしかなかった。人間相手ならばこれでもある程度役に立つであろうが相手が魑魅魍魎ともなれば何とも心許ない。中妖ならば確実に乗り越えて来るであろうし、小妖でも物によっては一跳びで越えて来かねなかった。凶妖に至ってはこんな木製の柵なぞ紙切れに等しい。霊脈から供給される霊気を活用した結界が郡都を囲むように張られているが、何処まで持つ事やら……中妖以上であれば焼け爛れながらも突貫しかねない。
「紫さん、やっぱり僕達が前に出ましょう!?こんな、僕だって分かります!このままだと……」
「お黙りなさい!!……要らない事を口にするんじゃありません!!」
環の、自分達退魔士が打って出て先手を打とうという提案を、紫は切り捨てる。そして周囲を見渡した後に小さな声で警告する。軍団兵らの体たらくぶりを見ての提案であろうが、紫からすれば論外だった。
実の所これが閉所であれば、あるいは凶妖がいないならば紫もそれが一番犠牲が出ない戦い方であるとは分かっていた。彼女とて赤穂家の一員である。戦いの道理は理解している。理解しているからこそ環の言葉を否定する。
閉所であれば良かった。いつぞやの地下下水道での戦いのように紫の渾身の一撃は一度に千の怪物すら吹き飛ばせるのだ。だがあの大技は一度の消耗が大き過ぎる。しかもこのような開けた場所では散開する妖共に何れだけ効果があるものか。
しかも妖群の中には凶妖がいるという。唯人ではまず幾ら集まろうとも肉の壁にもなるまい。此度の任に同行している環や白若丸に大きく期待するのも有り得ぬ話だ。何時何処から襲って来るか分からぬ凶妖に対応するには己が最前線で戦う訳には行かない。雑魚共の相手は寄せ集めた兵共に当たらせるしかない。例え、何れ程犠牲を払う事になろうとも。
紫が声を低くして警告したのは軍団兵らに無駄な期待をさせたくなかったからだ。彼らからすれば紫達が打って出て化物共を凪ぎ払ってくれたら拍手喝采物であろう。それは出来ない。だからこそ環に要らぬ事をこれ以上口にさせたくなかった。
「っ……!?」
そして紫の鋭い剣幕に環は思わず怖じ気づいて一歩下がって尻込みする。どうやら紫から此処まで怒気を向けられるとは思ってなかったようだった。
「ふん、この程度で怯えていては到底実戦には出せませんね。貴女はここで控えていなさい。其処の女中、主人が勝手な事をして死なないように見ておく事、良いですね?」
そんな環の反応に鼻を鳴らして紫はこの門櫓での待機を命じる。傍らにいた鈴音にも警告する。素人に好き勝手に動かれては敵わない。彼女は此度の監視団の代表として、環と白若丸を無事に鬼月の屋敷まで帰還させる義務があった。念のために班長の矢萩以下、下人二名にも門櫓の守りを兼ねて環の護衛を命じる。
「紫様、話によれば怪異共はこの西門に殺到するとの事。でしたら事前に式を忍ばせても宜しいでしょうか?」
怖じ気づく環を尻目に、淡々と意見したのは陰陽装束を着込んだ無愛想な美少年である。義務的な礼と共に彼は予め式神を西門周辺に隠しておく事を求める。
「事前に……罠という事ですか?効果は期待出来るのですか?」
「私の師は御意見番の胡蝶様であります」
式神使いは事前に用意している式を使い切ったら手駒がない。それ故の紫の懸念に対して、しかし少年は無感動にそう返答する。黒蝶婦とも称される鬼月一族随一の式神使いの名を出す事で婉曲的に問い掛けに肯定する。
「……宜しいでしょう。任せます」
「はっ」
形式だけ恭しく頭を下げた式神使いは直後に袖口を振るう。幾枚かの式符が放たれたかと思えばそれらは柵城の外ですっと消えた。式の隠行であった。その所作だけで、紫は眼前の少年が当初の想定よりもずっと使えるのではないかと評価を改める。
「紫様、あれを!!」
白若丸の戦力評価を上方修正していた紫は、下人衆からの呼び掛けにそちらに視線を向ける。一瞬遅れて環や白若丸、そして柵の上に陣取っていた兵士達もそれに気が付いて一斉に視線を向ける。
雪が積り白く染まった田畑をそれらは進む。白を黒く染めるようにして蠢き、広まり、侵食するように迫り来る。数は千はあろうか?小さきものは子猫程、大きなものは家屋程の巨躰はある。城柵に詰める者らは皆が皆、思わずその光景を無言で見つめる。見つめてしまう。
そしてそれらが柵から凡そ千歩程の距離にまで近付いた時、漸く黒く揺れぼやける輪郭が定まっていき……遂にその造形が判別出来た。
蠢くそれらは、虫だった。
否、違う。それは蟻であった。それは百足であった。それは飛蝗であった。それは蚯蚓であった。それは蜘蛛であった。
蟷螂であった。蟋蟀であった。螻蛄であった。竈馬であった。蚰蜒であった。亀虫であった。蜻蛉であった。紙魚であった。日除虫であった。腕虫であった。
馬陸、蛞蝓、蛆、蛭、髪切虫、金亀子、竹節虫、浮塵子、筬虫、沙蚕、蠍、埋葬虫、尺取虫、斑猫、鼠姑、蝸牛被、隠翅虫、刺虫…………虫、虫、蟲の大群。
余りにも醜悪な、妖蟲の大軍勢。
「ひぃっ!?」
その正体を理解した軍団兵の一人が思わず小さな悲鳴を上げる。地平線から無数に疾走してくる毒々しい色彩の蟲共の大群、それは見る者の嫌悪感と恐怖を煽るのに十分過ぎた。紫をも含めたその場にいた殆どの者が思わず鳥肌を立たせる。足を竦める。愕然としてその場で凍り付く。
「っ!と、止まるんじゃありません!!皆、持ち場に就きなさい!!」
紫が比較的早期に我に返ったのは退魔士としての責任感と矜持もあるが、同時に経験の賜物でもあった。何年か前に地下水道の暗闇の中で視界を埋め尽くす程の妖の洪水を目撃した経験が此処で役に立った。それがなければ今少し彼女は馬鹿みたいに口を開いて立ち尽くしていた事だろう。
いや、実際彼女とて第三者の目が無ければ今すぐにでも逃げ出したい位のおぞましさではあったのだが。
「蟲毒するには丁度良いのだろうけど、それだけだね。外見だけの小物ばかりだ」
「はい。見る限りは九割方は小妖幼妖、唯人でも無力化は難しくはありません。その意味では僥倖です」
紫が虚勢を張る一方で、側の白若丸は淡々と宣い、次いで無邪が頷いて答える。半ば演技している紫と違い、彼らは共に本当に大した事は無さそうな物言いだった。
その口調に思わず紫は称賛の視線を元稚子の少年に向けていた。隠行衆として修羅場を潜っているだろう無邪は兎も角、まだまだ経験の浅い白若丸すらもあれだけの蟲相手に動じる素振りがないとは。男子だからであろうか?等と場にそぐわぬ事を思わず考える。
無論、そんな事はない。実際同じく男子たる兵士達の大半は紫の叱責があって尚もその光景に怖気付いていたし、郡司に至っては完全に硬直していた。愕然としていた。心ここにあらずといった風であった。
「郡司殿、見ての通り妖共の群れが迫っています。これより籠城戦となりますが宜しいですね!?」
紫はそんな呆然としている郡司の側に駆け寄ると鋭い語調で確認する。
文官優位の朝廷の法では退魔士は妖に対する籠城に際して現地の郡司や邦司、城主の認可を受けその指揮下に入る必要があった。勝手に退魔士が籠城をして民草を巻き添えには出来ない。それ故に確認である。
「ん、あ……あぁ。ほ、本当に籠城するのですか?あ、あの数相手に守り切れるのですか!?」
「あれら自体は打ち払うのは困難な事ではありません。時間さえあれば十分可能でしょう」
何ならば紫一人でも出来るかも知れない。
「だ、だったら籠城しなくても……!!」
「ですが凶妖の存在が確認されております。我々でも一筋縄では行かぬでしょう。此処の兵であれば尚更です。私達が雑魚を相手している間にこの町の者が皆殺しになっても良いのでしたら前に出ますが?」
此処に向かう道中で何度も説明した内容を紫は再び郡司に伝える。環に対してもだが何度説明させるつもりかと次第に腹が立っていた。
「わ、分かりました。籠城を認めましょう……」
そして幾度目かの説明に郡司は顔を青くして頷く。これもまた何度も繰り返した行為であった。
「では郡司殿、大将としてどうぞ此処に御留まり下さいませ」
「留まるだって!?何故!!?私は荒事なんて……!!?」
紫の言葉に仰天する郡司。これもまた何度も説明した話なので紫は顔をしかめる。しかめながらも説明する。
「籠城なのですよ!?郡司殿が大将として督戦するのが道理でしょう!?実際の戦闘は我々と軍団長が取り仕切ります。郡司殿は必要に応じて認可をして頂くだけで良いのです。護衛も付けますし、身の安全は保証しますから!」
実際、紫からすればこの郡司に其れほど期待はしていなかったし、精々兵らの士気の鼓舞でもしてくれれば良いと考えていた。どうせだ、環でも押し付けて共に門櫓の奥に詰めさせよう。
「そ、そんな………」
紫の要求に対して、郡司は絶望したように言葉を溢す。そんな郡司の意思に関係なく、事態は進む。迫り来る化物共の姿に半信半疑だった軍団兵達はだらけた態度を一変させて必死に防衛戦の準備に入る。急いで配置に就く。
「どうにか、兵らの用意が整ったようです」
「そうですか。……郡司殿、号令を」
軍団長の報告に紫が平静を装い頷く。そして話を振られた郡司は困惑して周囲を見る。ちらりちらりと此方を窺う軍団兵ら。明らかに彼らは動揺していた。
「え、えっと……ご、号令?」
周囲からの視線に郡司は狼狽える。紫はその態度に苛立ちながらも説明する。
「兵達は怯えています。何でも良いので号令して彼らを奮い立たせて下さい。その上で攻撃準備を命じるのです」
「そ、そんな事……」
郡司は再度周囲を見る。不安げに此方を見る兵士達。そして視線を移す。地平線の先から津波のようになって迫り来る魑魅魍魎共を。
「ひっ……」
額に汗を流して再度兵士らを見る。何か言おうと思って、しかし掛けるべき言葉も見つからない。不安と居心地の悪さに再び地平線に視線を移す。先程よりも化物共が近付いていて、その輪郭が、その造形がより一層はっきりと見えた。
何を考えているかも知れぬ、無数の無機質な眼球が己を凝視している事に気が付いた。
「う、うわあぁぁぁぁぁっ!!?」
直後、狂乱したような悲鳴と共に一目散に郡司は門櫓の階段を駆け下りた。そしてそのまま城柵までも降りて、町の中心にある郡衙まで走り出した。逃げ出した。全力疾走で、逃亡した。脇目も気にせずに。いっそ滑稽な程の必死さで。
「はあっ!?」
突然に司としての責任を放棄して、部下を見捨てて、矜持も何もかもを一切合切捨てて逃げ出す郡司の姿に思わず唖然としてその背中を見送る紫。それは環も同様で、何ならば近場にいた見捨てられた当事者達である兵士らもであった。
いや、唯一白若丸のみが冷めた目でその光景を見つめていた。まるで予想出来ていたかのように詰まらなそうな失笑した態度……しかし郡司の行いがその場にいた大多数に衝撃と失望を与えたのは事実で、暫しその場を重苦しい沈黙が支配する。
「……っ!紫殿、師卒軍令に基づき指揮権の代行を御願い申し上げます!!」
真っ先に事態を呑み込んだ軍団長が紫に対して叫ぶようにして申し出た。
軍団長の言葉は決して無責任なものではなかった。
現在扶桑国にて施行されている陽穣律令の師卒軍令六六カ条第七条において、邦司・郡司が指揮権を執れぬ場合、それが対妖戦である場合に軍団長は己の軍団の指揮権を朝廷の認可する正規退魔士に委ねる事が出来た。
そして軍団長は盗賊を始めとした対人戦や少数の妖相手であれば兎も角、妖の軍勢に対する見識は少なく、それ故の判断であった。少なくともそういう体裁をとって合法的に軍団長は指揮官としての責任を紫に押し付ける。
「えっ……あ、はい!!各自、弓矢構え!!私の命令があるまで射ってはなりませんよ!!?」
「指揮官代行の命である、各自弓矢構え!!」
軍団長の発言に、一瞬遅れてその内容と意味を理解した紫は直ぐ様指揮官が逃亡して動揺する軍団兵らに向けて命令する。軍団兵らは自分達よりも年下の小娘の命令に困惑するが、紫の命令を、音量を十倍にして軍団長が反芻するように怒声で叫べば条件反射的に射撃の態勢をとる。
「紫様、危のう御座います。兜を……」
「構いません、此処で臆病者等と言われる訳には行きません!」
傍らに付き添いの女中たる陽菜がこっそりと側に来て兜を手にして勧めるが、紫はそれを拒絶する。此処で余り重々しく重防備しては兵士らを動揺させるだけだと分かっていた。紫は腰の刀を引き抜く。
「逃げる者は!斬ります!!戦いなさい!!お前達が逃げたら蹂躙されるのは背後の町、民草ですよ!!」
少女は内心の緊張と恐怖を圧し殺して叫ぶ。堂々と督戦を宣言する。
「畜生、畜生……!」
「やってやる。糞、やりゃあいいんだろ!?」
紫の宣告に、自分達よりも年の低い小娘の命令に、兵士達は毒づく。毒づくが逃げようとはしない。焼けっぱちになりながらも身構える。
兵士達も分かっていた。何はともあれ彼らには戦う事それ以外の選択肢なぞない事を。中央から派遣された赴任地への思い入れのない郡司とは違い、兵士達は大半が稗田郡の、稗田町出身である。己が逃げ出す事の意味を紫に指摘されずとも理解していた。
だから構える。弓を、弩を、その鏃を並べて弦を引き、狙い定める。既に距離は三百歩まで迫っていた。
「まだか!?まだ射れないのか!!?」
「早く、早く命令してくれ……!!」
身の毛もよだつおぞましい怪物の軍勢が雪崩となって向かって来る中で、それを直視して、目を離さずに狙い続けて待機するのは中々にそれを行う者の精神に緊張を敷くものであった。己の、家族や仲間の生き死にを左右するだけでなく、相手が人外のそれであるのだから尚更だ。刀で斬られて、弓矢で射ぬかれて死ぬのとは訳が違う。兵士達は懇願するように呟く。次に来るだろうその命令を。
そして距離二百歩に差し迫った所で、遂に彼らの求めるその言葉が鳴り響く。
「今です!放てぇ!!」
「放て!!」
紫の号令、それを反芻するように軍団長はより一層大きな声で叫ぶ。直後、雨のような数の矢玉が空を切る音と共に和弓や弩から放たれる。
和弓は訓練しなければ誰でも扱える代物ではなく、弩は高価で機構が複雑故に数を揃えるのに難がある。故にかき集められた兵の内弓兵に類するのは三分の一程度であり、射出された矢は各々合わせて百と少し、といった所であった。更にその内に何割かはあらぬ方向に飛び、あるいは妖の厚い甲殻や皮膚に弾かれる。それでも前方を進んでいた十数程の怪異共が急所に矢を食らい、あるいは複数本の矢を受けて打ち倒される。
……千近い妖の群れからすれば余りにも細やかな数であった。
「次弾装填急げ!!各自矢玉あり次第射続けよ!!」
「礫の用意!!」
紫が、そして軍団長が叫んだ。命じた。それに応じて城柵の射手達は手持ちの弓と弩でひたすら矢を射ち始めた。
「礫を投げろ!!」
城柵との距離百を切った所で、軍団長が城柵の後方にいた兵士達に向けて叫んだ。百人余りの兵士達が投石器で次々と石を放り投げる。遠心力を以て投擲された赤子の拳程の石はそのまま重力に引かれて落下する。
『ギッ!?』
『シャッ!!?』
たかが石と侮る勿れ。高速度で落下する礫は甲殻が柔らかい小妖であれば一撃で殺せはしなくても負傷させる事は出来る。当たり所によっては手足まで引き裂いた。
それでも、化物共の進撃を止めるのは容易ではなかったが。蟲の津波は打ち倒される同胞を平然と踏み潰し、当然のように乗り越えながら町へと迫る。
「今だ。『突き刺せ』」
白若丸が小さく呟いたと同時にそれは土の中から飛び出した。無数の針が最前列で疾走する蟲共の眼前に向けられる。蟲共は己の勢いを止めきれずに針の莚に飛び込んで、そのまま串刺しになって息の根を止めた。
針鼠であった。地面に潜んでいた牛程の体躯の針鼠の簡易式神が一斉に城柵手前の地面から躍り出て背負い込んだ剣山をもって待ち構える。現れた針の山は二十を超えよう。不意に現れた伏兵の前にその後ろから迫る妖共も、同胞の死骸と鋭い針山によって進撃が鈍る。足が止まる。隙が出来る。
「今です!!」
紫の掛け声と共に何十の矢が放たれた。足を止めた妖共は瞬く間に矢の雨によって打ち倒されていく。
『キギッ……!!』
『キキキッ!!』
全ての妖を塞き止めるのは不可能だった。小柄で素早い一部の妖が同胞と式の隙間を擦り付けて城柵へと迫り来る。何人かの軍団兵が慌てて矢を射るが、その足の速さ故に当たらない。そして潜り抜けた蟲共は城柵へ肉薄して……見えない壁に激突すると消し炭となった。
「小さな雑魚は無視しなさい!!あの程度の小物ならば結界で祓えます!!」
紫が活を入れる。腐っても郡都、霊脈の真上に位置する稗田町は微弱ながらも町を囲む退魔の結界が結ばれている。下位の小妖程度ならば態態手を下すまでもない。大物を狙えと紫は叫ぶ。
「おおっ!!」
「あれだ!!あのデカイ百足をやれ!!」
兵士達もまた、初めて目撃する稗田郡の結界の効力に顔を明るくする。理屈では理解していても、実際に結界の力を見たのは初めてだったのだ。自分達が守られているのだと分かり、士気が上がり、落ち着いて射撃を行えるようになり命中する矢が増える。結界によって行く手を遮られ、甲殻が焼け爛れる百足の中妖に攻撃が集中する。
紫の活は確かに有効であった。しかし……それが兵共を一時的にでも安心させるための虚言に過ぎない事もまた、彼女は理解していた。
何十もの矢を受けて、悲鳴を上げる百足妖怪。青い血を流しながら、身体をくねらせて遂に倒れ伏す。大物を射止めた軍団兵らは一斉に歓喜の声を上げる。
「やったぞ!!ははは、化物め!ざまぁ見……」
弩を掲げて高笑いするその軍団兵の言葉は、しかし最後まで続かなかった。直後に彼は高速で跳んで来た「それ」によって頭が引き千切られたからだ。首の断面から血を噴き出して兵士の体がどさりと崩れる。
「ひっ!?」
「何が……!?」
驚愕して視線を向けた兵士達はそれを見た。仲間の首を引き裂いて持っていったその影を視線で追う。そして見つける。蚤を。
「は?」
兵士達は思わず唖然とする。それは全身を焼け爛れさせた蹴鞠程の大きさの蚤であった。ピクピクと足を震わせて頭から地面にめり込む瀕死の蚤の妖。
「馬鹿な。蚤だと!?そんなのが結界を越えて来たのかよ!?しかも何だよ今のは!!?」
たかが矮小な蚤の小妖が結界を越えて仲間を殺した事に対して信じられないとばかりに鳴り響く声。しかしある意味ではそれは何の不思議でもなかったかも知れない。
蚤の己の身体に比しての跳躍力は凄まじい。最大で己の身体の六十倍にも及ぶ。蚤妖怪は身を丸めまるで砲弾と見まごうばかりの速度で突貫する事で結界を強行突破して進路上の兵士を打ち砕いたのだ。
無論、蚤もまた所詮は小妖であり無事では済まない片道切符の特攻であったが、そこは碌な知恵もない下等な虫である。己の本能に任せたままに、其処には迷いは欠片もない。
……そして、蚤妖怪は一体ではない。
「うおっ、また来る!?」
「何だ、ありゃあ!?デカイ奴らの身体にくっついてやがる!!」
「野郎共、まさか仲間の身体に寄生してんのかよ!!?」
大型の妖の身体に吸血しながらへばりついて移動し、柵城に接近次第に次々と突貫を仕掛ける蚤妖怪共。柵さえあれば蚤の無謀な突貫は十分に受け止めきれよう。そもそも命中率は良くなく、人に当たるよりも遥かに多くが柵に突っ込み、あるいは大きく柵を越えて地面にめり込み何も成す事なく自滅する。
しかし身を乗り出せば鎧を着込んでも身体が真っ二つに千切れてしまうのもまた事実であった。そして、兵士達は己の命に頓着しない蚤共とは違う。
結果として兵士達は堪らずに身を柵の影に隠して応射は途切れ途切れとなってしまった。そしてそれを狙っていたかのように、他の怪異共が結界に突撃する。濁流となって幾つかの点に殺到する。何十という妖共が結界によって死滅し……しかしその中から結界の一瞬の綻びを縫って、幾体もの蟲がその内に入り込む。
その身体を現在進行形で焼きながらも、次々と柵を登って行く。
「うわぁっ!!?」
「ひっ!?来た!!?」
混乱して碌に反撃も出来ぬ兵達の隙を突いて、半ば炭化した飛蝗妖怪が柵を登り切る。怒れる形相で顎をガチガチを鳴らすその姿に兵士達は狼狽えて思わず一歩下がる。
「くたばり損ないめ」
誰もが尻込みする飛蝗の首を横合いから飛び込んで切り落としたのは面を被った黒装束だった。軍団兵が怖気付く中で、予備戦力として控えていた鬼月家下人衆に属する黒装束達は積極的に前に出ては柵を乗り越えようとした化物共を斬り殺し、突き殺し、叩き殺しては柵の外へと蹴り落とす。何ならば飛び込んで来た蚤を打ち返す者もいた。其処には動揺もなく、手慣れた所作で妖共を淡々と駆除していく。
実際、彼らの普段の仕事からすればそれは大したものではなかった。相手は殆ど幼妖小妖、軍団兵の放つ弓矢と結界で弱りきった所を一体一体襲うとなれば彼らにとっては容易な部類の職務ですらあったのだ。
そして彼らを率いる紫もまた、ただただ尊大に命令を下すだけではない。
「思いの外、早くに登られましたね。致し方ありません。……『塵払い』!」
予想以上の軍団兵らの劣勢に苦虫を噛み、直後に紫は刀を振るった。横一文字にさっと一度の素振り。それだけである。
それだけで、無数の同胞を犠牲にして柵を登っていた妖怪共が纏めて暴風に巻き込まれた。そしてそのまま高速で地面に斜め様に叩きつけられて潰れた血肉の塊と果てる。その数は優に五十は越えよう。その光景を見た軍団兵らは思わず畏敬の念と共に瞠目する。
赤穂流基礎九九技法の一つ『塵払い』は文字通りに有象無象の雑魚を纏めて処理するだけの詰まらぬ技であるし、紫からしても大した技能とは思ってはいない。それでも唯人からすれば紫の放った技は驚嘆に値する代物であった。
「落ち着きなさい!!この程度の妖魔共が如何程のものですか!!飛び込んでくる蚤にさえ気を付ければ後は半死半生の虫ばかり、押し進んで討ち果たしなさい!!それとも貴方方は無駄飯食いの意気地なしですか!」
自身に飛び込んできた蚤を刀で叩き戻して紫は動揺する軍団兵に向けて発破を掛ける。
その行動自体は父や兄からの受け売りであるが、ある意味で真似た元ネタよりも効果的だったかも知れない。自分達よりも幼い少女にこうも言われてしまえば男が廃る。軍団兵達は刀や槍を手に攀じ登る虫共を地面に突き落として行く。戦線が恐慌で崩壊するという最悪の事態は一先ず回避した。
……しかしながら状況が悪化しつつある事は拭いようのない事実であった。
「この辺りで限界かな。……『打ち出せ』」
己の放った針鼠達が蟲の海に呑み込まれつつある事を認め、白若丸は口元で人差し指を立てて囁く。それと同時の事であった。針鼠の背負う針が一斉に射出されて周囲の妖共を貫いた。突然の事に頭や腹に針が突き刺さった蟲妖怪共が苦悶の悲鳴を上げる。白若丸はその光景に口元を嗜虐的に歪ませる。効果は上々のようだ。ならば此処は駄目押しで……。
「ふふっ、『爆ろ』」
術士のその命令の直後、蟲の海に飛び込んだ針無大鼠共は風船のように一気に膨らみ、刹那に爆発する。爆風と共に己の内に仕込んだ無数の礫が周囲に四散する。二十余りの簡易式の一斉自爆。先程の針の射出も併せて最低でも百以上の妖共がその犠牲となった。
「大戦果、とは行かないか」
ある種残酷にすら思える自爆攻撃を仕掛けた当の本人の感想は非常に淡泊だった。
実際、その攻撃で死に絶えたのは殆どが小妖以下の雑魚に過ぎない。一瞬だけ蟲共の雪崩を押し止めても、碌な知性もない蟲共は直ぐに進撃を再開する。
「まだ来るんだ。仕方ないな。『式兵』」
白若丸は舌打ちして新手の式神を放つ。刀や槍を手にした人形であった。一撃食らえば紙切れに戻る張り子ではあるがそれも使い方次第、今は少しでも戦力が欲しかった。少年は式によじ登る蟲の迎撃を命じる。
「っ!!?『土弄』!!」
その気配を感じ取った紫が慌てて技を放つ。地上での戦いの最中、土中より静かに柵の側まで迫っていた妖共はその土中の敵を『衝撃』で破砕するその技を前に地上へ跳び出す前に挽き肉と化した。
残念ながら全てを殺しきる事は出来なかった。
『ヌオオオオォォォォ!!』
全身に傷を受けた数体の蚯蚓と百足が柵の手前の地面から躍り出た。一瞬驚愕する軍団兵達は、しかし直ぐに矢を放って一体を仕留める。更に紫が剣撃を放って二体を輪切りにする。
反撃を生き残った唯一の大蚯蚓が城柵にその身体を乗り上げる。近場の軍団兵らが矢を射ち、槍を投げる。
死にかけの大蚯蚓はその命潰える直前に己の頭を八つに裂いた。そして吐き出す。有象無象の蟲の雨を。
「うわああぁぁぁ!?」
攻撃のために肉薄していた兵士が頭から蟲の群れを被って悲鳴を上げる。肉に食いつかれ、血を吸われ、身体の穴という穴に入り込もうとする。近場の仲間がそれらを引き離し、地面に叩きつけて、踏み潰していく。
「大丈夫か!?」
「痛てぇ、痛てぇ!?糞、気持ち悪ぃ!!」
粘液を被り、身体中を噛みつかれて肉を千切られた兵士が泣き叫ぶ。仲間がそんな彼を後方に連れて行こうとするがそんな彼らに直後に翳る影。
咄嗟に見上げた彼らは悲鳴を上げる暇すらなかった。それが何か理解するより先に羽化仕立ての蝉が彼らを踏み潰した。大蚯蚓の掘った穴から現れた蝉の蛹が直後に羽化して、飛翔すると同時に柵に乗り上げたのだ。
「く、次から次へと……!!」
直ぐにその場に参上した紫は、その刺突の一撃でもって牛並みの巨体の蝉を吹き飛ばした。そのまま蝉は己が通った穴に舞い戻り後続の蟲共を下敷きにして息絶える。
「紫様、後続から新手です!」
「っ!!?数は!?」
道中で数体の小妖を仕留めながら隠行衆の無邪が紫の元に辿り着き報告する。紫は目を見開き問いかける。
「……凡そ千程。内訳は第一陣同様ほぼ低級の虫妖怪です」
「雑魚の分際で忌々しい!!凶妖さえいなければこのような事……!!」
無邪の知らせに紫は表情を歪ませる。凶妖さえ控えていなければ己が先鋒となってこのような蟲共、皆殺しに出来ようというに。こんな連中相手に軍団兵らを無駄死にさせる事もなかった……!!
「情けない事ですね、退魔の士が唯人共を戦わせなければならないとは……!」
退魔士は妖共から帝と民草を守護するべき存在、それが軍団兵とは言え霊力の欠片も持たぬ唯人を戦わせねばならぬ事に紫は無力感に苛まれる。
情けなかった。軍団兵にあのように詰ったが、これでは己こそが無駄飯食いではないか。本来ならば己が誰よりも前に出て戦わねばならぬというのに。
……あの下人のように己の身を省みずにでも唯人を助けなければならぬというのに。
其処まで思って、当の下人を外に派遣した己の判断に紫は腹を立て、しかしてそんな事を思う事自体が無駄だと認めて改めて刀の柄を強く握り締め、己の為すべき事を為さんと正面を見据えた。
皺だらけの老婆が此方に笑みを向けていた。
「っ……!!?」
咄嗟に目を見開いて、刀を構える紫。一瞬遅れて側に控えていた無邪が、そして近場の軍団兵らがそれに気が付いて武器を構える。それと同時の事だった。巨大な老婆がその腕を振り上げたのは。
城柵の一角が、兵士や妖ごと轟音と共に吹き飛ばされた……。
ーーーーーーーーーーー
「なっ!?」
赤穂紫の命によって門櫓で目前の戦局をひたすらに座視していた蛍夜環は、窓から城柵の一角が粉塵を上げて爆散した光景を目撃して驚愕する。確か、先程紫があの辺りに救援に向かっていた筈だ。
「姫様!!?」
傍らで響く悲鳴。紫の女中である陽菜のものであった。信じられないとばかり顔を歪める彼女は主人の元に向かおうと下階の扉に向かい……しかし階段の途上で足を止める。
『キキキッ!!』
『キギッ!!』
喉を鳴らすような気味の悪い声と共に門櫓の内に入り込んで来たのは大の大人程の体躯はあろう髪切虫に犬程の大きさの数体の竈馬であった。良く見れば彼らの足下には首を噛み切られた軍団兵の骸が倒れている。
「あっ、う………」
思わず身体を硬直させてしまう陽菜。赤穂家の女中として、此処まで同行した彼女は別に呑気ではない。仕事柄妖と相対する可能性も覚悟していた。覚悟した上でここまで主人である紫の世話のために同行していたし、それは此度の任以前からの事である。
尤も、紫のこれ迄の任には大概父や兄が同行していたし、その意味で絶対的な安全が確約されていた。此度程に死が眼前に迫るような事はなかった。彼女が怯えこむのはある意味やむを得なかった。何ならば一番先に反応しなければならぬ環だって動けなかったのだから非難しようもない。
「環様、上の階にお逃げを!!」
そんな中で陽菜を押し退けて階段を駆け下りたのは下人衆班長の矢萩だった。短槍を投擲して髪切虫の頭を突き刺して一歩退かせ、そのまま脇差しを引き抜いて周囲の竈馬を切り払う。
「ま、まだ……!?」
「ちぃ!!」
環の悲鳴にその存在に気付いた矢萩は、入口に入り込んで来る後続の虫共に向けて袖口に隠していた弩を射ち込んだ。七発の短矢を一束にして一斉に放つ暗器の弩。勢い良く放たれた矢玉は躍りこんで来た蜘蛛と尺取虫を瞬時に串刺しにして仕止める。
「環様、早く!!家具で階段を塞いで下さい!!」
いつの間にか背後から迫って来た蚤妖怪に振り向き様に矢を射ち尽くした暗器弩で殴り付ける。弩を放り捨てて直後に反撃に出た髪切虫の突貫を身を翻して回避して叫ぶ矢萩。班長は上司たる允職からの、そして紫のから護衛の命令を守らんとする。
「で、でも……!?」
「環様、早くお引きを!!」
尚も動かぬ環を、矢萩同様に護衛として控えていた下人の常盤が護衛対象の腕を無理矢理引っ張る。その乱暴な所作に環は思わず鈍い痛みすら感じるが、常盤の方はそんな事は細事とばかりに気にしない。
「其処の女も!早く!!」
「え、えっと……」
「陽菜さん、今は引きましょう!!」
声を荒げて叫ばれて陽菜は怖気付く。其処に駆け寄るのは環の女中として同行していた鈴音で、階段の半ばで足を竦めていた彼女を連れ戻す。
「糞が、来やがった!!」
それを確認して常盤は二階に設けられていた棚や机を階段を登ろうとして来た大蛭に向けて蹴り落とす。グチャリと嫌な音がした。構わずに彼は近場の物を手当たり次第に投げ落として簡易な防壁を作り上げる。
「環様、窓の側には立たないで下さい!!く、武器は……女中!!此でいざと言う時には環様を御守り申し上げろ!!」
門櫓の二階を探し回り、棚の中にあった短刀を見つけると一本ずつ鈴音と陽菜に押し付ける常盤。退魔士に仕えて同行するともなれば護身と自裁用に短刀の一本や二本持参しているものであるが、一々それを聞いている余裕もなかったし、忘れている可能性もあっての措置だった。
悲鳴が鳴り響く。常盤が振り向く。櫓の物見から弓を射ていた軍団兵らが蟲共に襲われる。一人がよじ登って来た蟷螂に腹から串刺しにされて頭を噛られる。今一人がそれを止めようと刀に手をかけるが直後に眼前に飛び込んで来た蜻蛉に突っ込まれて櫓の内に叩き込まれる。
「く!!?」
常盤の判断は正確だった。腰元の予備の短刀を投擲して蟷螂の頭を刎ねる。食事中に首を失った蟷螂は痙攣しながら櫓から落下する。続いて櫓の内に飛び込んで軍団兵の喉元に食いついていた蜻蛉の頭を蹴り飛ばす。身体の脆い蜻蛉はそれだけで首を蹴鞠のように飛び散らせた。急ぎ倒れる軍団兵の容態を見る。既に事切れていた。舌打ちして瞼を閉ざす。
「環様、お気をつけを!!奴らは霊力に寄って来ます!!御身を第一にして油断為されぬよ……」
「それは君自身もだよ?」
「っ……!?」
突如鳴り響いた声に、殆ど即座に下人は刀を払っていた。背後に現れた影に、刃が食い込む。そして、まるで霧のように刃が通り抜ける。
「なっ……」
「恨みはないけど任務だからね」
唯の物理的攻撃が無意味と理解した常盤は術式を使おうとするが遅かった。闇が常盤の頭と両の手を覆い尽くした直後、闇と共に彼の頭と手首から上が消失していた。綺麗な断面から血を噴き出して倒れ伏す。
「ひっ!?」
環が思わず悲鳴を漏らした。既にこの一連の籠城戦で嫌という程に人が死ぬ光景を見て、己の無力を痛感させられていた環は、しかしながら此処に来て今更己の身の危険を実感したのかも知れない。全身がぼやけたような闇で構成される闖入者、神威と相対する。
「ひ、姫様。御下がり下さい……!!」
鈴音が、そして陽菜が短刀を抜いて怖気付きつつも神威に向ける。先程倒れた下人が自分達よりも遥かに戦闘慣れしている存在だと分かっていた。そんな下人が秒殺されたのだ、自分達の運命なぞ分かりきっていた。それでも戦わぬ選択肢はあり得なかった。
「健気な努力だね。感動しちゃいそうだな」
そんな女中らの決死の行動に、神威は賛辞の言葉を贈る。文面だけで、口調は失笑していた。そして、直後に二人の眼前まで迫って短刀の刀身を半ばから綺麗に消失させる。まるでその空間だけを切り取るように。先程下人の命を刈り取った時のように。
「なっ……きゃっ!?」
「陽菜さん!?」
目を見開いて驚く陽菜は、直後に壁際に叩き付けられて倒れ伏す。鈴音は陽菜の名を叫び、しかし直ぐに眼前の敵の存在を思い出して恐怖に身を竦める。
「安心してくれて良いよ、気を失っただけさ。此でも俺は美人には出来るだけ優しくするのが信条でね。ただ……それはそれとして仕事はちゃんと果たさないと行けないからね」
「えっ……?」
嘘臭い位に薄っぺらい微笑と共に、神威は環の目と鼻の先に肉薄する。あっという間に迫られた環は慌てて刀を抜く。無意味だった。
「おっとっと、危ないなぁ」
直ぐ様に柄に叩きつけられた手刀によってそれを床に落とす。悠然として無力化される。そのまま尻込みする環は眼前の男に乱暴に手首を握られる。凄まじい握力で握り締められる。
「ぐっ!?」
「姫様!!何を……きゃあ!?」
腕に走る痛みに苦悶の声を漏らす環。そんな主人を慌てて助けだそうとした鈴音の頬を、神威は勢い良く叩いた。鋭く乾いた音と共に床に倒れて呻き声を上げる鈴音。
「鈴音ぇ!!?」
「余り騒がないでくれないか、耳に障るじゃないか?」
環の悲鳴は、神威の冷たい言葉に掻き消される。同時に腕を握る力が増して、その痛みに思わず環は膝を突いてしまう。明らかに人間の出せる腕力ではなかった。
「う、ぐぅ……!!?」
骨を砕かれそうな痛みに目に涙を滲ませる環。それに必死に耐え、そして睨み付けるようにして見上げる。文字通り己の生殺与奪の権を握る男に。
その冷たい視線に見下ろされている事に、彼女は気付く。
「っ……!?」
人の形をしているが、その眼は人のものではなくて、その存在自体も逸脱している事を直感的に環は理解させられる。同時に身体の力が抜けていく。抵抗する気力が失われていく。訳が分からなかった。
それがある種の瞳術によるものだとその時の環は気付けなかった。彼女に出来る事はただ怯えて震え上がる事それだけだった。神威は冷笑する。冷笑して、空いているもう片方の手を上げる。環に向けて伸ばす。
「い、いや……」
差し迫る命の危機に、そして己の無力感に環は涙目になる。泣きながらどうにか抵抗しようとするが、どうにもならない。そして神威の腕が環の頭を掴み上げる。
何をされるのかも分からず、しかしそれが決して良くない事である事だけは分かりきっていて、環は思わず目を閉じる。目を閉じて、その時を待つ。身構える。覚悟する。怯えて縮こまる。待ち続ける。
……………待ち続けた。そして、何も来なかった。
「………?」
何時まで経っても何も起こらない不自然さに、恐る恐ると環はその眼を開いて行く。そして、眼前の光景に思わず呆気に取られる。
「……ははは。おい、そいつは少し反則じゃあないか?」
口元から一筋の鮮血を流して、神威は苦笑いを浮かべていた。そして彼は苦笑いを浮かべて、ゆっくりと振り向く。環もまたそれは同様だった。神威の背後に立つその影に気が付いて視線を神威からその人影へと移す。そして、思わず息を呑む。驚きと混乱と、そして歓喜を含んだ表情を浮かべる。
鮮やかな桜の刻まれた短刀を神威の背中に突き立てた、黒装束の般若面が其処にいた……。
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