第九四話

北土退魔士一族鬼月家、その分家筋であり若人衆に属する鬼月刀弥は眼前の光景に辟易していた。其ほどまでに彼の視界で行われている事態は醜悪で愚かしかったからだ。


「そも、此度の一件の落ち度は本を正せば花鳥院家と郡の怠惰ではないか!それを何故我らが尻拭いせねばならぬか!!」

「左様!いっそこの体たらくを弾劾し、撤収してしまえば良いのだ!事前と話が違い過ぎる、責を負わされる謂れはないわ!!」


 先日鬼月家に向けて送られた危急の案件について、長老組の幾人かがそのように宣言する。いや、罵倒する。その勇ましい物言いに更に数人が同意の言葉と共に賛意を示す。


「だが……そう簡単な話ではあるまい。朝廷の監査が入ればこれ迄の我が家の対応とて槍玉に挙げられよう。寧ろこれ幸いにと我らに圧を掛けかねぬ。その危険性を考慮するべきでは?」


 其処にもたらされる慎重論、しかしその内容はあくまで一族の保身のためのものである。


「よりにもよってあの赤穂家の姫君を送ってしまったしの。これは少々厄介だぞ?」


 別の鬼月の退魔士が深く嘆息する。西土の名門赤穂家と言えば面従腹背とは言わぬ迄も朝廷を内心で警戒している大多数の退魔士家からすればある意味異端であった。何処までも朝廷の命を素直に遵守して忠誠を誓うその姿勢を思えば……彼の姫君もその辺りの血は色濃く受け継いでいるようで、此方からの要請に容易に従うとは思えない。従ったとしても妙な痼が残りかねない。


「ではどうするのだ?此方から更に人手を送るのか?」

「馬鹿な。話によれば避難時のための物資が足りぬようではないか。これでは辺境の村ならば兎も角、郡都の住民を避難させるなぞ不可能だ。そうなれば……」

「戦うと?有り得ぬ。相手はあのなまはげだぞ!?」


 その名称が叫ばれれば、議場に出席する退魔士達の殆どが動揺する。動揺せざるを得なくなる。


 なまはげ、それは退魔の名門たる鬼月の一族でも相対するのは避けたい存在であった。ましてや戦闘になろうものならば……過去三度に渡る朝廷の討伐令に北土に居を構える鬼月家が動員されぬ訳がなかったし、その結果は今更語るまでもない。


 だからこそ、皆が二の足を踏むのだ。家業が家業である以上、決死の覚悟はあっても必死の覚悟なぞ持てる訳がない。鬼月家内の派閥の問題もある。誰だってこんな己の益にもならぬ貧乏籤を引きたくはない。


 そして、それが何時まで経っても議論が纏まらぬ原因であった。誰もが己の責を以て決断をする事も、その人員を指名する事も厭う。成る程、昨日の夕刻から休息と睡眠を挟んで三度目となるこの衆議においても何も決まらぬ訳である。


「詰まんねぇな」


 実りが少な過ぎる集い。しかも、己のような若僧の発言力なぞたかが知れているし意見なぞ求められてもいない事を刀弥は十分理解していた故に、欠伸と共に彼は小さくぼやく。ぼやきながら眼前の口論を他人事のように観賞する。酒の肴にもならぬ無為の時間だ、そろそろうんざりとしてくる。


「刀弥、どう思う?私としては取り敢えず人手だけでも送るべきだと思うけれど………私が志願しようかな?」


 そんな刀弥に、直ぐ隣に居合わせる同じ若人衆である銀髪の少女が声を掛ける。不安と焦燥を滲ませる彼女に刀弥は思わず胡乱な視線を向けてしまう。この生真面目な幼馴染みはこの馬鹿馬鹿しい衆議にまだ真剣に臨んでいるように見えたから。


「止せ止せ、お前が手を挙げても小娘が出しゃ張るなとでも言われるだけだぜ?」

「けどっ!このままだと時間ばかり流れるだけでしょ……!?」


 必死な表情で訴える綾香の発言に、寧ろそれが狙いの奴もいるだろうな、と冷淡に考える刀弥であった。とは言え、流石にそんな事は眼前の少女には言えない。


「まぁ、落ち着けよ。……何せ、鍵を握る真打ち方が誰も意見しないからなぁ」


 そう呟いて刀弥はチラリ、と視線を長い議場の最奥に、上座へと向ける。座布団の上に鎮座して腕を組み、無言で衆議を聞き続ける痩せた男の姿。


 あるいは彼の左右の席を占める娘二人……次期当主候補達もまた其々に正座のまま眼を閉じ、あるいは扇子で口元を隠して混沌とする衆議から距離を置いているのみであった。


 いや、正確には衆議が終わり次第当主候補達は直ぐ様群がる派閥の支持者達と何やら話をしているし、何なら屋敷の書斎やら廊下やらで人払いしての密談や、外部を含めた式神での文通のやり取りをしている事も刀弥は観察していた。


 その目的も、その内容も刀弥には窺い知れぬが裏で動いてはいるのだろう。それで沈黙しているという事は未だにそれが成らぬという事か。何にせよ、どんな陰謀謀略が蠢いているかも知れぬ現状で自分達が下手に前のめりになるのは避けたかった。避けるべきだった。


「だけど……」


 尚も何か言わんとしていた綾香は、しかし次の瞬間に口をつぐむ。そして視線をそちらへと向ける。その反応に一瞬疑念を抱き、しかし刀弥も直ぐにその理由を理解すると彼女の視線を追うように顔を向けていた。そして、それはこの場に集まったほぼ全ての出席者も同様であった。


「皆様、お集まりの所失礼致します。御報告に参りました。宜しいでしょうか?」


 障子を開いて深々とした一礼と共に現れるのはこの衆議に姿を見せていなかった下人衆頭であった。


「うむ。申して見よ」


 そして此処に来て、これ迄碌に言葉も発せずに沈黙してきた幽牲が嗄れた声で短く呟いた。一瞬幾人かの出席者が思わず疑念に近い視線を向けていた。


 尤も、それも下人衆頭の報告が始まれば直ぐにそちらへと意識は移り変わったが。


「はっ。では御報告を。先ずは花鳥院家及び引き継ぎ役の科革家との交渉が終わりました。両家共に本件に対して全面的な協力と人員の派遣を約して頂けました。またそれ以外にも本任務に関わる各家も朝廷に対しての取り成しを誓う旨も承っております」


 恭しく頭を下げたままに下人衆頭鬼月思水が淡々と口にした言葉に議場がどよめく。


「思水殿、それは真か!?」

「失態を犯した花鳥院は兎も角、科革も人員を出すとは心強い」

「他の家も良く取り成しに協力してくれたものだ。しかも知らせが来たのはほんの数日前の事であろう?この短期間に良く…………」

「ふふふふふ!!」


 参列する一族が驚く中で一人、宇右衛門のみが髭を撫でながら我が物顔で不敵な……というよりかはあからさまに笑みを漏らす。そして皆が気付く。思水が各家から協力を得られた理由を。


「続けて、郡の方の怠慢にて欠乏していた物資についても調達の目処が付きました。橘家の商会より、白奥の蔵に保管しております商品が利用可能との事。河川を利用すれば三日程で必要な物資を郡まで移送出来ると申しております。…………葵姫、口添えの程有り難く思います」


 思水の発言に今度は桃色の姫君へと視線が集中する。当の本人は扇子で口元を隠して無言の内に微笑むのみであった。


「おお、これならばどうにかなるやも知れぬな」


 衆議の場が一瞬の内に楽観的な空気に変わった事を刀弥は肌で感じ取る。何なら傍らの弓使いの少女も安堵したのも分かった。同時に舌打ちする。彼女と違いこれで一件落着とは問屋が卸さぬ事を刀弥は理解していた。


「では、問題は現場にて指揮を執るものですな」

「科革家の者と面識がありますれば、ここは私が……」

「いやいや、ここは儂が動こう」

「待ちなされ。抜け駆けは感心しませんなぁ。このような時こそ皆の意見を聞くべきでは?」


 互いに責任を擦り付け合い、無為な議論に花を咲かせていた者達が打って代わって我先にと任務を拝命せんとする姿は先程以上に醜悪だった。思わず頬杖したままに呆れたように溜め息を吐く刀弥。隣の綾香も同様に困惑した表情を浮かべている。好い加減この一族がどういうものなのかを認識して欲しいものだった。そして場の議論は次第に白熱していき……。


「静まれ、皆の衆よ」


 その言葉は広い議場に奇妙な程に良く響いた。当主の発言に喧騒しつつあった室内は一気に沈黙する。 


「先ずは下人衆頭殿、交渉御苦労であった。隠行衆頭に葵も手助け助かるぞ」


 当主の労いの言葉に思水が静かに、そして宇右衛門が我が物顔で尊大に、葵は淡々と、三者三様に応じる。

 

「さて、皆の衆。このように状況が変わった以上、我ら一族が事態収拾のための人員を派遣せぬ選択肢はないと見るが、異論はあるかな?」


 幽牲の質問への議場の答えは沈黙であり、肯定であった。幽牲は小さく頷く。そして続ける。

 

「此度の案件、他家からも相応の人員が動員される事となろう。故に多人数の統率が求められような。……下人衆頭、卿であれば大人数の指揮も出来よう。交渉に出向いた本人でもあるしな。頼まれてくれるか?」


 その幽牲の命に議場に出席する幾人かは小さく驚いていた。幽牲と思水の関係を思えばまさかこのような場面でこのような命令を下すのは予想外であったから。そして皆の視線は思水に移る。思水の反応を緊張しながらに見極める。


「……慎んで、承りましょう」


 思水の声音には一切の動揺も、震えもなかった。淡々とした、静寂に包まれた水面のような冷静で冷淡な応答。


「うむ。では思水よ。我が一族からの代表を卿として、必要なものを申して見よ。人でも物でも、可能な限り応えるつもりだ」


 幽牲は、そんな思水の反応を気にするでもなく話を進めていく。思水に要望を求める。それは何も知らぬ者達からすれば特に問題のない、しかし事情を知る者達からすれば余りにも異様な光景であった。


 ……因みに若人衆の中で前者の代表が綾香で、後者の代表が刀弥である。親父から色々と昔の彼是の事情を聞いている刀弥は此処数ヶ月の様子からして、この当主が惚けているのか、化物が剥いだ皮でも被っているのか真剣に疑念を抱きそうになっていた。


「承知致しました。では遠慮なく…………」


 そして、刀弥のそんな心中なぞ知らぬとばかりに眼前の事態は次々と進む。思水は当主の言葉に応じて一つ、二つと要求を口にしていく。刀弥はそれを聞く議場の出席者らに視線を這わせて観察していく。


「それに若人衆より、刀弥殿も同行させたいと希望しております」

「………あ?」


 突然議場に響いた己の名に、刀弥は思わずそんな気の抜けた声を漏らしていた…………。







ーーーーーーーーーーー

 清麗帝の御世の一三年、師走の七日。先日迄の酷い吹雪が嘘のように空は快晴だった。


「よし、各員必要な荷は持ったな?忘れ物はないな?」

『(o≧▽゜)oナイワヨ!』

「お前には聞いていないからな?」


 というか脳内に語りかけるな。独り言言ってるみたいだろうが。


「何してんだ、てめぇ?」

「独り言だ、気にするな」


 彦六郎から怪訝な視線を向けられた俺は誤魔化すようにそう呟いてからその作業を行う。駅の母屋に向けて松明を放り込んだ。事前に油を撒いて、干し草を敷き詰めていた事もあって、母屋に移った火は一気に燃え広がる。


 駅に放火をしたのは別に気が狂った訳でないし、憂さ晴らしでもない。退魔の職務に就く者として至極当然の作業であった。


 妖の死骸は他の妖の餌となり得る。故に駅に足を踏み入れた際に遭遇した妖共の死骸をかき集めて油をぶちまけて、母屋諸とも焼き払うのは何ら可笑しな行いではなかった。


 因みに先日の戦闘で死亡した軍団兵は別途で埋葬している。幾らこの世界の人間ががめつくて現実主義的であろうとも禁忌というものがある。死んだ人間を妖共と一緒に処理するのはこの国においては最大級の侮辱であった。


「……では、行くか」


 駅の母屋が盛大に燃え盛って、中に詰め込んだ妖共を確実に炭化させてくれるのを確信すると、雪原で一際目立つ青毛馬の手綱を引き寄せて俺は宣言する。


「じゃあ、俺達は先に失礼するぜ」

「火長達も物好きなもんだ。化物の捜索に付き合うなんざ命が幾つあっても足りねぇてのに」


 事前の打ち合わせ通り、駅で出会した軍団兵らの内、郡都への帰還を選んだ二名は馬を引いて東へと向かう。彼らの出身はなまはげが通ると思われる経路ではない事もあって、残る同僚らの判断に肩を竦める。


 別動する二人を暫しの間見送った後、俺と白、入鹿の当初の三人に『( ^ω^)ヨニンヨ!!』……四名に彦六郎を含む四人の軍団兵は駅から北へと向かう進路を取った。連れる馬は当初の二頭に更に五頭。駅の蔵より拝借した物資を背負わせて雪道を進む。増えた目を活用して周囲を警戒しながらの進軍だった。


「周辺警戒、怠るなよ!戦闘になったら勝ち目はないんだ。向こうが見つける前に見付けろよ!!」

「はいっ!」


 俺の命令に素直に返答したのは白だけで、残りは「へいへい」とか「おいよ」等と適当な生返事であった。返事が適当なだけで周囲の警戒自体は行ってはいるのだが……何ともまぁ、締まらない事だ。『(´・ω・`)ネー』お前もだからな?


 行軍はそれから凡そ二刻余り続いた。東から頭を覗かせていた太陽が丁度頭のてっぺんに……つまり正午頃になった頃、俺は適当な森の入口で休憩を宣言する。


 馬を停めた後に雪の地面に敷物を敷いて、あるいは雪を払った岩の上に各々座り込む。荷から保存食の類いを取り出して竹や瓢箪の水筒片手にてきぱきと腹に入れて行く。


「んじゃ、俺達は行くぞ?」

「あぁ、程々に回ってくれれば良い。無理して遠くまで行くなよ?」


 入鹿ともう一人、軍団兵が馬に乗って駆ける。休憩中の周囲の巡回のためだ。休憩は半刻の予定なので途中で入鹿達は別の班と巡回を交代して貰う手筈だった。


「伴部さん……!!一緒に食べて良いですか!?」


 馬を繋いだ後、てくてくと白が駆け寄れば、若干遠慮がちにそんな事を申し出た。子供特有の、大人の反応を不安げに窺い、それでいて期待するような嘆願……。


「ふっ……」


 その反応に面の下で口元を緩めた俺は、近場にあった程よい大きさの岩の雪を払う事で応えてやる。


「!」


 ぱぁ、と白はあからさまに喜んだ表情を浮かべた。小走りで彼女は俺の元に来ると俺の腰掛けた岩の端にとてんと座りこむ。そして懐から何かを取り出して見せつける。


「えへへ。伴部さん、これ見て下さい!蔵の地下で見つけたんです!!」


 何処かはしゃいだように叫んで、白が見せつけるのは小さな竹の筒であった。そして蓋を開けば現れるのは……。


「羊羮か」


 受け取った竹筒のそれを右から左からと見て、その正体を俺は見抜く。接待用にでも仕入れていたのだろう。……ふむ、黴は生えてなそうだな。新品か。


「一人占めしないのは殊勝だが、入鹿の奴には言わなくて良いのか?」


 自分は分け前を貰えなかったと知れば後でブー垂れるのは確実だ。


「あの人は……多分等分にはなりませんし」


 白は目逸らししながらそんな事を宣う。否定出来んところが辛い所だな。羊羮は二本、あいつなら間違いなく自分だけで一本丸々素知らぬ顔で持って行きそうだ。


「くくっ、そうだな。じゃあ俺達で秘密にするとするか。ほれ、半分だ。あいつが戻る前にとっとと食べちまえ」


 竹筒を一つ受けとれば、もう片方を白へと差し出す。若干興奮するようにそれを受けとれば、白はくんくんと羊羮の薫りを楽しむ。尻から飛び出した狐尾がクルクルとくねるように揺れる。


「じゃあ、頂くか」

「はい!」


 竹筒から出して俺は噛み千切るように、白ははむっと咥えるように其々羊羮を咀嚼する。餡と砂糖の甘味が口の中に広がる。うん、旨い。『( ´・∀・`)パパワタシモゴハンー』無理です。『( ;∀;)ワタシハヒゲキノヒロイン……』


「やっぱり芋とは訳が違うな。全部食べきるのが勿体なく思っちまう」


 脳内で響く戯言は無視するとして、そんな事を口にした俺はふとこの先の事を思い出す。


「そう言えば……春先頃には上洛だな。お前も同行するつもりか?」


 それは吾妻の、あの狸の元陰陽寮頭を念頭に置いた上での質問であった。恐らく、先方は白の様子をみるためにも上洛への同行を求めるだろう。そして、それは半ば必然的に俺も……。


「は、はい。姫様が色々と便宜を図れるように試しているそうですが……その、迷惑です……よね?」


 俺の問い掛けに白は慌てて答えて、直後に恐縮するように上目遣いを見せる。いやはや、何とも反応に困る表情だ。


「いや、約束だからな。そも、お前を預かる判断を下したのは姫様だからな。気紛れとしても、それに手間を掛けるのは姫様の当然の責務だ。俺は下人だ、仕事となれば従うだけの事さ」

 

 取り敢えず励ますのと同時に姫様に全ての責任を押し付けて置く。まぁ、姫様も田舎の北土より華やかな都の方が好みだから大丈夫だろう。……多分。


「すみません……」

「だから気にするなよ。彼方に行ったらまた芋羊羮でも土産にしようぜ?……流石に普通の奴は俺の財布が厳しいけどな」

「あはは……」


 俺が羊羮を一口齧りながらそんな事を宣えば、白は複雑そうに、しかし確かに面白そうに苦笑を浮かべた。それで良い。五月蝿過ぎる餓鬼は困るが気落ちしているよりは明るい方が良いものだ。


「さて、羊羮だけじゃあ足りないだろ?ほれ、これでも……」


 余りの美味しさのせいか、先に羊羮を食べきってしまった白に向けて、携帯していた食糧から干肉を手渡す。成長期には蛋白質は大事だ。それを味わうように咥えるのを見てから、俺は手元の羊羮を平らげる作業に意識を向けんとするが……直後に此方に近付く人影にそれを止める。

 

「何の用かな?」

「用が無けりゃあ来ちゃならねぇ決まりでもあるのか?」


 此方にズシズシと雪を踏み潰しながらやって来るのは火長であった。俺はその言葉に肩を竦める事で応じる。一方で、慌てて俺の背後に隠れて彦六郎の様子を警戒するようにを窺う白。鼻を鳴らしてその反応に彦六郎は不愉快そうな表情を見せる。


「はっ、相変わらず他人の後ろに隠れるのが得意なこったな。狐の化物はこれだから油断出来ねぇ。小狡い奴だぜ」

「おい止めろ。……折角の協力関係だ、内心で其方がどう思っていようが構わんがせめて眼前でいうのは控えて欲しいものだな?」


 俺は怯える白の頭を撫でて慰めつつ彦六郎に忠告する。そしてそれに応えるように白もまた俺の足にしがみ付く。彼の立場やこの世界の常識からして彼の発言も理解は出来るが、それでもこの白狐には俺も助けられた経験がある。吾妻との約束もある以上荒波を引き起こさない程度に俺も異議を唱えざるを得なかった。


 尤も、俺の発言に対して彦六郎の受けた認識は甚だ不本意なものであったが。


「たく。てめぇも頭イカれてんな。半妖相手にそんな甘やかしてくれやがって。白狐か、てめぇまさかと思うがそういう趣味じゃねぇだろうな?」


 冗談とも本気ともつかぬ物言いで彦六郎は酷い嫌疑を俺に掛ける。その言葉の意味を理解すれば、あからさまに俺は顔を顰める。顰めざるを得ない。不名誉極まりなかった。俺は急ぎ反論する。


「おい、流石に洒落にならん事を言ってくれるなよ。悪いが俺は肉付きが良い方が趣味なんだぜ?」

「ぇ……?」


 加えるならばお淑やかで優しくて、大人しい性格が好みだ。我が強かったり気性が荒いのはヤンデレそうで怖い。……何か背後から何とも言えない視線を感じるのは気にしないでおく。子供というものは潔癖なものだ。仕方ない。ロリコン疑惑を持たれるよりはマシだ。


「女の趣味が合いそうなのは認めるぜ。じゃあなんだ?その白い餓鬼んちょは妹か何かなのかよ?」


 求めてもないのに自分の性癖をカミングアウトしてから、俺の白への接し方に彦六郎は首を傾けてそんな事を宣……『(`・∀・´)ワタシハムスメヨ!』黙らんかい。


「妹だぁ?藪から棒に何だそりゃあ?」

「あぁ?違うのかよ?」

「寧ろいきなりそんな台詞が出てきた事に驚いたぞ。兄妹なら少し位顔が似ていても……って、俺の顔を知らねぇか」


 ほぼ常時鬼面を装着しているのでさもありなんである。まさかそのせいか……?


「んな訳ねぇだろうが。俺もそんな馬鹿じゃねぇ」

「うちの火長代理殿も妹持ちだからなぁ。扱いがダブるんだろうぜ」

「こいつ、こんなあくどい顔の癖に妹には甘いんだよなぁ」

「甘いだけなら良い方さ。でれでれの甘々と来てらぁ。誕生祝いの髪飾りのために訓練の後の酒を白湯で我慢する所なんて感動して涙が出てくるね」

「てめぇら全員斬り捨てて雪ん中に埋めるぞ。糞っ垂れが!」


 話を勝手に聞いていた他の軍団兵らが茶化すように嘯けば彦六郎は腰の刀を抜いて怒り散らす。慌てて茶化した同僚達はその場から逃走し、それを一瞥して憮然として刀を戻す。


「妹がいるのか」

「何だよ。悪いか?」

「いや。少し親近感が湧いただけだ。俺にも妹がいたからな」

「そりゃあ……いや、てめぇら霊力持ちも一応人間の股の下から生まれるんだったな。にしても……過去形か?」


 僅かに眉間に皺を寄せて此方を見つめる彦六郎。


「いや、別にもう生きていないってお涙頂戴な話じゃあねぇよ。今だってピンピンとして生きてるだろうさ。唯……もう兄妹として顔を合わせる事は二度とないだろうけどな」


 仕事柄面識のある下人と女中……その関係で俺は十分だった。あいつには平和に長生きして欲しい。面倒ごとに巻き込むつもりは毛頭ない。『( ^ω^)ワタシハオトシダマホシイワ!』……絶対に巻き込みたくねぇ。


「成程な。兄妹仲が良かったのは喜ばしい事だぜ。……他に家族は?」


 俺達同様に蔵から拝借したのだろう、干芋を食い千切りながら彦六郎は尋ねる。俺は脳内の妄言を意識するのを止めて口を開く。


「弟が二人な。両親は……健在とは言えねぇか。親父は足食われて不具になっちまってな」

「そこに霊力持ちの餓鬼か。まぁ、ありそうな話ではあるな。身売りなんざ珍しくもねぇか」

「あぁ。一家離散なり全滅よりはずっとマシさ」


 奴婢に堕ちるか、遊郭なり鉱山に流れるか、あるいは凍死に餓死、病死……どれもこの世界では珍しくもなんともない。何処ぞのビーグル犬も人生は配られた手札で勝負するしかないって言っている。餓鬼一人売って雪音の口にした通りの結果ならば幸運ですらあろう。


 いやまぁ、俺もあの時は原作に関わってチートしようとか甘過ぎる見通しでしたしね。もしや、俺の境遇は半ば自滅なのでは……?『(*´∀`)ソシテワタシトパパハデアッタノヨ!』……おう、滅茶苦茶後悔してきたわ。


「そうか。……俺ん所もある意味似たようなもんだ」

「?稼ぎ柱がいなくなったのか?」

「そんな所だな。……うちの場合は両方野菜を町に売りに行ったきりでな。街道を巡回していた連中が検分して言うにはまぁ、多分途中で喰われたんだろうって話だ。そんなこんなで仕方無く婆さん所に妹と転がり込んでな」


 ただ元々祖母一人の家に食べ盛りの餓鬼が二人ともなれば食い扶持が足りなくなり、どうしようもなく自身は安月給でも衣食住は保障される軍団に志願したのだとか。


 中国では「良い鉄は釘にならない」と言う諺があるらしいが、扶桑国でも軍はその危険度に対しての薄給から就職先としての人気は御世辞にも高くない。その分下っぱ兵士ならば就職は難しくはないし、軍団兵を出す戸では税が若干軽くなる優遇措置もある。それを期待しての就職であるとか。


「そうか。そちらも大変だな」

「けっ、別に不幸自慢はしてねぇよ。……糞、何でこんな話してるんだかな」


 飯が不味くなる、と愚痴りながら裂いた干芋をひとつ、口の中に放り込むと碌に味わう事もなく水筒を呷って胃に流し込む彦六郎。俺も手元の竹筒に入った羊羮を口元に運ぼうとして……傍らで不満げに此方を見上げる白狐の存在に気付く。


「なんだ、そんなじっと見て?何かあったか?」

「……いえ、何もありません」


 俺が尋ねるが、白は何処かむすっとしたままに干肉に齧りつくだけだった。犬歯でぶちぶちと筋繊維を引き千切りクチャクチャと噛み締める。その所作は何処か獰猛な肉食獣を思わせた。やはり腐っても獣妖の血を引いているのだと特に意味もなく思って、ぺろりと脂の付着した唇を舐める動きにはあの残虐で妖艶な狐璃白綺の面影が浮かび上がる。


 何を考えているのだか……半分程呆れるように俺は嘆息し、三度目の正直として食事を再開しようとして……立ち上がる。

 

「ん?どうした?」

「伴部さん……?」


 俺が突然立ち上がった事に彦六郎と白が反応。そして俺が睨み付けるのと同じ方向に視線を向ける。そして表情を険しくする。


 雪原の向こうから迫るのは騎乗した人影で、それは暫し前に周囲の巡回に向かった入鹿達だった。


 問題はまだ巡回の交代時間が来ていないという事だ。まさか、仕事が面倒になって早めに切り上げた訳でもあるまい。そんな呑気でふざけた事が出来る程に俺達を取り巻く状況は安穏としたものではない。


「……飯は一旦切り上げだな。出立準備をしよう」


 嫌な予感と共に、俺は周囲の者達に対して指示を出していた……。







ーーーーーーーーーーー

 作井駅から見て北方、荒木岳と無縁岳の山間の街道にある似依村は原作「闇夜の蛍」においても直接の描写はなくともなまはげによって壊滅した村々の一つとしてその名が挙がっている存在だ。郡戸籍帳における人口は一六〇人余り。それが……壊滅していた。


「こりゃ酷ぇな」

「皆殺しかよ。容赦ねぇな……」


 周辺を巡回していた入鹿達が地平線の先から薄っすらと上がる黒煙に気付き馬を走らせ、村の惨状を確認してとんぼ返りして戻って来たのが半刻程前の事である。


「恐らく壊滅して数日って所か………」


 彼方此方に散乱した村人の死体を確認して俺は呟く。何れも此れも大きな顎で噛み千切られたような惨状で、中には上半身が無くなっているものまであった。酷い有り様だ。


「それだけじゃねぇな。他の化物共に食われた形跡もありやがる。食い残しのおこぼれでも貰っていた連中がいるようだな」

「作井駅の奴らがそれだった……というのは希望的な観測だな。まだ辺りに隠れている可能性もありそうだ」


 同じく仏様を検分していた彦六郎の感想に俺は周囲を警戒しながらその事を指摘する。それに顔を青くしながら傍らで馬を引いていた白が怯えながら周囲をキョロキョロ見渡す。この面子の中で一番弱く、その癖一番妖共にとって御馳走であるのが彼女だったから、それは当然の行動だった。俺は一歩、白に近付いて村の探索を続ける…………。


「玄助の野郎、間抜けにくたばりやがったと思っていたが……こりゃあ、ある意味幸運だったかもな」

「……どういう事だ?」


 暫く調査をしている内に、軍団兵の一人がぼそっとそんな事を呟いた。俺は面越しに怪訝な表情を浮かべてその意味を問い掛ける。


「どうもこうもねぇよ。こんな酷い光景見ないで死ねたんだからさ」

「あぁ。お前さんは知らねぇだろうさな。あいつ、この村が故郷だったんだ。ほれ、あの襤褸小屋があいつん家だ」


 そういって指差す先を見やれば、半壊して半ば程焼け焦げた小屋が見て取れる。恐らくは炊事でもしている時に襲撃されて、囲炉裏なり竈から中途半端に出火したのだろう。


「確か年寄りの両親が住んでるとか言ってたな」

「……中は見たのか?」

「見る必要があると思うか?」

「…………」


 軍団兵の淡々とした即答に、しかし俺は反論出来なかった。足腰が悪かろう年寄りの両親が、この騒ぎで逃げ切れたとは到底思えない。


「…………」


 彦六郎は無言で村小屋を見て回っていく。その表情は明らかに焦燥していた。此処から何里か進めば彼の家族の住まう村に辿り着くのだ。そして今、この瞬間にもなまはげが己の村に来訪しないとは限らなかった。焦るのはある意味道理であった。


「おい、お前らこれを見ろ!!」


 そんな時に入鹿が村全体に響きそうな大声を上げた。俺達はその声に従って急いで声の主の元へと走り出す。


 村の郊外、降り頻った雪で出来た小丘を越えた先に入鹿はいた。膝を突く彼女の側にまで来た俺は直ぐ様それを視界に収める。 


「こいつは……足跡か」


 雪を押し潰して純白の大地に刻まれたのは人間と同じ五本指の足跡であった。問題はそもそもこんな冷えきった雪道を人間は裸足では歩けない事、そしてその大きさであった。


「一尺二寸……いや、下手したら三寸はありそうだな」

「まぁ、明らかに人間ではねぇわな」


 俺と入鹿は互いにそんな事を宣い足跡の続く方向に視線を向ける。地平線の先まで伸びる足跡は東に向かっていた。つまりは………。


「郡都の方角か。行くと思うか?」

「さてな。だけど可能性は排除出来ないだろうよ?」

「確かにな」


 少なくともこれで村が二つだ。とっくに規程のルーチンから外れたルートを進むなまはげからすれば、人口密集地帯に向かわない理由はない。しかし……。


(何だ、この違和感は?)


 何かが俺の中で引っ掛かった。先日から感じる言い様のない違和感。何か忘れているような、何かを見過ごしているような、何か決定的な過ちを犯しているような……畜生、思い浮かばねぇ。


「よし、じゃあ追うか」

「……そうだな」


 淡々と提案する入鹿に対して、一瞬迷った俺は、しかしその方針に賛同する。何にせよ、なまはげらしき足跡を発見した以上、これを追わぬ訳には行かなかった。


 俺は伝令用に式神を放つ。向かう先は監視隊の代表である紫の元、似依村の壊滅とその近郊においてなまはげらしき足跡を発見した事を文にしたためて飛ばす。


「死体はどうするんだ?」

「悪いが埋葬してやる時間はないな。この寒さだ、大半が凍って腐らないとは思うが……」


 俺が式神を飛ばした直後、俺と入鹿のやり取りを聞いて駆け寄って来た彦六郎が村の処遇について尋ねたので、答える。本来ならば野良妖共の餌になりかねないので処理するべきなのだろうが……事態は危急である。悠長に穴を掘れるだけの時間的余裕はない。退魔を生業とする身としては村を急いで後にするしかなかった。作井駅が無事だったら其処の連中に埋葬を要請出来たのだが。

 

「そうか」

「不満か?」

「いや、理解は出来るぜ。駅の時もそうだがこりゃあ放置出来ねぇものな。……仏さんらには悪いが生きてるのが優先だわな。足跡は東だってか?」

「あぁ」


 壊滅した村を一望して彦六郎が問い掛ける。短く俺が応じれば、彦六郎は「そうか」と小さく呟いて壊滅した村を無言で一望する……。


「俺も他人の事は言えねぇな。正直、少し安心してるんだよ。……北じゃなくて東なんだよな?」


 その確認の言葉に彦六郎が言わんとする内容の意味を理解する。自分の家族の住む北方の村が襲われぬであろう事に、彼は安堵していたのだ。


「自分よがりな考えだと思うか?」

「自虐は止せよ。人間なんてそんなものだろう?」


 彦六郎が苦笑いして尋ねるので、切り捨てるように答えてやる。誰だって自分や身内は大切なものだ。俺だってその点では何も言えない。究極的には俺だって今回の任務は主人公様達が無事ならば幾つか村が壊滅しても仕方ないと覚悟していたのだ。寧ろ此方の方が悪質だった。


「どうする?お前さんのお宅には向かわんそうだが、帰るか?」

「馬鹿言え。此処ではいそうですかなんて言って帰れるかよ。流石に其処まで屑じゃねぇ。……命を賭けるつもりはないがな」


 舌打ちしながらそんな事を宣う彦六郎に俺は苦笑いしつつ肩を竦めた。


「安心しろよ。俺だってそんなつもりはないさ。……よし、各員集まれ!!欠員はいないな?これより追跡を始めるぞ。気を付けろ、気取られたら全員死ぬぞ!!?」


 俺はそんな警告と共に皆を呼び集める。内心の何とも言えぬ感覚を無視して、眼前の任務に集中する。


 …………後に考えればそれは失敗だった。俺はもっと注意深く取り巻く状況について考えるべきであったのだ。俺は後にこの時の事を何度も、何度も後悔する事になる。その末路を、結末を思ってひたすらに悔やむ。悔やむしかなかった。


 この時の俺は、何もかもを根本から誤認していたのだ…………。







『…………』

ーーーーーーーーーーー

 下人らが足跡の追跡を始めていた頃彼らと分離して郡都方面へと進んでいた軍団兵二名は途中、新柿村に寄る形で郡都へと向かっていた。


「あの下人、一度寄ったそうだが……新柿の連中慌てるだろうな」

「そりゃあ近場の駅が壊滅していたら説得力が違うわな」


 騎乗して周囲を警戒しながら二人は、五助と弥八郎は互いに雑談に興じる。興じつつ片手に持つ瓢箪を呷り、中の酒を飲む。凍える程の北土の冬の寒さを紛らわすためだ。


 別に仲間と道を別ける事自体に二人は何らの後ろめたさも後悔もなかった。別に任務ではないのだ。ましてや凶妖を捜索するなぞ冷静に考えなくても自殺行為に等しい。


 彦六郎ら同行組は北に出身の村がある故であって、五助は名雲、弥八郎は東川の村の出であり、幸いにもなまはげの向かうだろう先には家も家族も存在しなかった。同行する理由がない。彦六郎らもその事は承知しているので彼らを非難する事はなかった。筋違いですらあった。


 だからこそ二人はこうして悠然と、しかし周囲への警戒は怠らずに新柿の村へ、そして郡都へと進み続ける。一面白の純白で白銀の大地を雑談の音だけ響かせながら進み続ける。


 だから……刹那に五助の騎乗する馬の頭が爆散したのは、何も前触れもなき事であった。


「なっ……!?」


 顔に馬の脳漿と血を浴びた五助は、何が起きたのか分からなかった。殆ど条件反射的に慌てて手綱を引くが、その命令を認識する思考能力を馬は最早有していなかった。失われた頭部からの刺激の信号に身体を痙攣させて、狂った機械のように暴れてた首なし馬はそのまま、いっそ滑稽な姿勢で転倒する。五助はそのまま馬から放り捨てられる。


「ちいっ!?」


 弥八郎は即座に馬を走らせていた。仲間を見捨てての逃亡そのものであるその行為は、しかし必ずしも彼が卑しく卑劣である故の事ではなかった。


 仲間の馬が殺されたのだ。相手が此方の足を奪いに来たのは自明の理であり、五助を回収しての生還は限りなく困難であった。弥八郎の己だけでも脱出しての報告の選択肢は誤りではない。……成功すればの話だが。


 直後、影が差す。上空を見上げる。日光を遮るようにして黒い影が迫る。急速に迫り来る。


「嘘だろ……!!?」


 瓢箪を捨てて、半ば自棄になって腰から刀を取り出して振り上げる。せめて一刀でも叩き込まんとする。


 次の瞬間には弥八郎は馬共々それに踏み潰されていた。


「畜生!?貧乏籤を引いたか!?」


 遠方に逃げた仲間が潰されたのを五助は認める。認めながら痙攣してのたうつ馬から身体を這い出すと急いで弩に矢を装填する。バネを回転させて矢を張る。倒れ伏した馬の陰から狙う。頭を狙う。引き金を引く。


 殆ど無音で機械仕掛けの矢が放たれた。空を切る音と共に迫り来る矢。それは遠方の影の、その頭部らしき所に吸い込まれて行き…………影が消えた。


「あっ!?」


 何処に行った?一瞬そんな事を考えた五助は、しかし直ぐに全てを理解する。影は何処かに隠れた訳ではない事を。ただ跳躍して己に迫り、通り抜けて背後で急停止した事を。振り向くと同時に雪が盛大に吹き飛ぶのを見る。遅れて鳴り響く爆発音のような音は高速の移動によって空気が圧縮された事によるものだった。そして五助はその襲撃者の全貌を目撃する。


 眼前に映りこむそれは雑に人の形を真似た獣であった。異様に巨大な頭は全体に深い皺が刻まれていて、黒ずんでいた。巨大な鼻、よれた白髪が乱雑に伸びていて細い瞼が線のように顔に引かれていた。その隙間から覗くのは妖しく輝く一対の黄色い眼球。厚い唇に黄ばんだ鋭い牙の列。


 そのおぞましい姿に唖然として、愕然として、慄然として、軍団兵は思わず息を止めて肉薄していた怪物を見上げる。


 怪物は嗤っていた。皺だらけの顔で、口元を裂けそうな程に歪ませて。目をつり上げて、嘲っていた。


「あっ……」


 グチャ、という骨肉を噛み千切る音と共に彼の、五助の意識は永久に失われた。どさり、と雪原を赤く染める肉の塊。それを醜悪な怪物は飛び掛かるようにして貪る。


「あーあー、またこれだ。毎回毎回本当に摘まみ食いばかりで困ったものだね」


 何時しか其処にいた人影が何処までも呆れたように深く嘆息する。一体これで何度目か、此度のように行き先行く先で出会した人間を旅人や行商人ならば兎も角、役人に兵士まで見境なく襲っては食らうのだ。最初の内は隠匿していたがそろそろ諦めの極地に達していた。これだけ散々暴れてしまっては最早誤魔化しは利かぬだろう。


「やれやれ、此方の苦労も知らずに良くお食べになられる事だ。どうせならもっと美人の付き添いなら良かったのに。よりにもよってこんな……」


 突然に人影の言葉が止まったのは、会話を止めたからではなく物理的に声帯を失ったからだ。不用意に近付いた人影はそれの乱雑に振り回した腕の一撃で上半身を四散させて倒れ込んでいた。……直ぐに血肉は黒い霧となって寄り集まり、瞬く間に元の造形を取り戻していたが。


「……いやはや、手も早くて本当に困るよねぇ」


 人影は、男は何事もなかったように復活すると直ぐに呆れたように嘆息する。尤も、それの方も不満げに男の姿を見ると首を傾げて唸る。不機嫌そうにヴーヴーと唸り続け、しかし暫くすれば悩むのにも飽きたように捕らえた獲物の食事を再開する。


 それはバキバキと骨ごと処か鎧ごとに肉を食らう。大きく顎を開いてその大きく太く、鋭い黄ばんだ歯で擂り潰すように食い散らかす。行儀も何もない、いっそ獣の方が上品ではないかと思えるような汚い食事であった。男は見てられないとばかりに思わず首を振る。


「悪食の大食の暴食って所かねぇ?それと……」


 ちらりと、今更のように男は化物の皺だらけの太い腕を一瞥して気が付いた。其処に非常に薄い切り傷があるのを。馬に乗って逃走しようとした方の軍団兵が刺し違える形で刻み付けた刀傷である。


 ……それは、己の命と引き換えにして少しでも化物に傷をつけようとしたそれはある意味英雄的行為であろう。尤も、残念ながら此度の場合は無意味処か悪手であったが。


「オマケに子沢山と来てやがる。嫁にはしたくねぇな。養い切れねぇよ」


 刻み付けられた傷口から泡が噴き出して、続けざまに二体程現れるのは虫のような造形の幼妖であった。全身を卵から孵った直後のように粘液を纏わせて、ギィギィと得体の知れない鳴き声をあげる。それを産み出した当の化物はと言えば子を産んだ事にも、それによって傷口が塞がれた事にも無頓着に思えた。その光景を観察して男は……神威は再度首を振る。


「ん、お前さんらはまだ出番は先だ。少し仕舞われていろ」


 ギィギィピイピイと鳴きながら此方にゆっくりと迫る生まれたてホヤホヤの怪物共をそんな事を嘯きながら神威は闇の中に沈める。


「さて、と。……おい、そろそろ飯は終わりにして行こうぜ?目的地はまだ先なんだからよ。道草されちゃあ困るんだよ」

『ミチクサ!ミチクサ!』


 相も変わらずに人肉を摘まむ化物に向けて神威が呼び掛ける。同時に頭の上に着地した鸚鵡が声真似するように吠えた。神威は思わず舌打ちする。


「おい、てめぇ。せめて肩に止まれよ。頭が重いだろうが?何度言えば分かるんだ?」

『オイテメエ!オイテメエ!』

「この糞鳥頭め」


 上司から伝令として預かるその妖に向けて神威が詰るが、当の鸚鵡はそれが仕事かのように鸚鵡返しをするばかりである。彼の妖母が専用として誕生させたためにそれなりに人語が理解出来る程には知能は高い筈なのだが……やはり素材が悪かったのだろうか?


『…………』


 そうこうしている内に漸く一通りの食事を終えて、それは立ち上がった。それを見計らったように神威もまた撒き餌として式神を放つ。事前にとある下人の血を濃縮した薬品に浸している式符が烏の形を取って郡都方面へと飛び立てば、化物は満面の笑みを浮かべてはしゃいだように疾走し始めた。あの因子を含んだあの下人の血なぞ凶妖からすれば御馳走に他ならないのだ。


「流石に彼の妖母の因子が混ざっているだけあるな。反応は良いな」

『ボウヤ!ボウヤ!ワタシノカワイイボウヤ!メニイレテモイタクナイ!タベチャイタイクライ!!』

「へいへい。そうだなそうだな」


 もう何度聞いたかも分からぬ台詞に辟易するように神威は応じる。


『オニイチャン!オニイチャン!』

「え?もしかしてお前ん中だとそういう認識なの?」


 突然鼻息を荒くして羽を激しくバタつかせながら放たれる新しい単語に思わず問い掛ける神威。いや、確かにそう解釈出来ぬ事もないが……残念ながら鸚鵡が返すのは何時も通りの繋がりの良く分からぬ単語の羅列であった。


「糞、また鳥頭に戻りやがった。やってられないね。暇潰しのお喋りすら碌に出来んとは……」


 冷笑するように肩を竦める神威は、しかしその己の言葉に思い出したかのように北の方角を見つめる。そしてスッと目を細める。


「……にしても、まさかあいつと連んでいたのには驚きだな。やれやれ、世間とは実に狭いもんだよなぁ。あるいはこの業界の広さを思えば必然なのか?」


 何にせよ、神威のやるべき事は変わらない。寧ろ、好都合だった。


 救妖衆の幹部として、そして一研究者として神威の上司は彼にこの任を命じた。その上であの狼が企んでいるだろう小細工は、本人は露知らぬであろうが上司の期待に合致していたのだ。さて、いつ頃気付くか、そして全てが白日の下に晒された時の研究対象の反応は如何様か……上司の性格の悪さには神威も引いてしまう。


 ……尤も、非常に楽しめるのも事実であるが。


「あるいはこの巡り合わせもあの人の趣味かね?だとすればぞっとするね。怖い怖い」


 実際、有り得そうで神威は笑った。笑えないが笑っていた。雪原に反響する嘲笑……何時しか彼の姿は消えていて、唯一存在を示していた笑い声もまた次第に久遠の先へと遠ざかっていく………。


 後に残るのは、白い平原に残る二つの赤い染みの跡だけであった………。

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