第八三話

 血飛沫が舞う。人影が崩れ落ちる。死に体の怪物がほくそ笑む。俺はその全てを目撃した。


 無力にもその惨状を見ていた。


「っ!!このおぉぉぉぉっ!!」


 全てを理解した俺は、同時に鼬に向けて殴りかかっていた。怒りに身を任せて、襲い掛かる。


 しかし半ば衝動に駆られての殴打を、妖は半分炭化した肉体で尚もするりとすり抜ける。寧ろ、直情的な攻撃であったために避けやすかったまであった。


 それでも、妖を彼女達から引き離すという最低限の役割は果たしたのだが。


「環!!入鹿を連れて逃げ……糞、駄目か!?」


 俺はこの場に無謀にも現れた主人公様に向けて叫ぼうとするが、直ぐにそれを取り消す。


「えっ……あ……あうぁ………?」


 先ず明らかに動揺して混乱している環に俺の言葉なぞ届いていなかった。あわあわとただ己の盾となって倒れた友を抱き抱えるのみであった。自身の頬を垂れる赤い筋も、白衣に広がるドス黒い染みも気付いてはいまい。


 それに届いていたとしても俺の言葉を実行なんて出来なかっただろう。入鹿の腹からはモツが零れていた。彼女にそれを中に押し込むなぞ出来る訳ないし、素人がするのも危な過ぎた。


 ………そして、俺が彼女の元に向かう余裕もまた、なかった。


「ははっ、隙有りぃ!!」

「ちぃ、死に損ないがっ!!?」


 俺の意識が逸れていた所に獣のように四つん這いで駆けながらの鎌鼬の肉薄、全身炭化して片足を失って、何なら今だって燃えている最中だというのに信じられない速さだった。その襲撃は完全に相討ち狙いである。俺は腕でその鎌を受け止める。こういう手合いは厄介なんだがな……!!


「こ、の……!?もう終いだろうが!大人しく死んでおけよ!?」

「くくくっ………いやいや、一人で死出の旅は寂しくてねぇ!?旅は道連れ世は情け、だろう!!?」

「何が情けだ……!」


 罵倒に対して嘲りの言葉を互いに口にして、俺と鎌鼬は斬り合う。爪と鎌が交差して金切り音が森に鳴り響く。鼬の背後を見る。すっと手負いの狼が後退するのが見えた。対して周囲の残存する雑魚妖共は此方に迫る。


 狙いは分かった。どうせ近々退魔士共が来る。逃げ出そうにも一斉に逃げたら捕捉撃滅されるだけだ。囮と殿を郷に残して強力な権能持ちである『送り狼』だけでも逃がそうという判断か……!!


(畜生、攻め…切れねぇ………!?)


 俺の体力も限界に近くて、しかも環と入鹿の身も………俺は焦燥する。どうする?どうすれば良い!?俺はどうすれば………。


「えっ………?」


 刹那、俺はその不穏な気配を感じ取った。何処までも重苦しい気配が、のし掛かった。思わず息が止まる。額から汗が流れる。その感覚にこれ迄にも幾度か覚えがあった。それは妖退治でしばしば感じ取る感覚。そう、それは………己が肉として捕食される感覚。


「何……?」


 眼前の鼬妖怪もまたそれは同じだった。此方相手に不敵にニヤついていた鎌鼬は、しかしその気配に思わず首を向けていた。俺もまた同様で、釣られるようにして視線を移す。


 ………直後、眼前に闇が迫り来ていた。


「っ!?」


 思わずに身体を捻り上げて木の上にしがみついて闇に呑まれるのを回避する。鼬は違った。手負いなのもあって反応仕切れずに闇に呑まれる。押し流される。


「これは!?ははは、いやぁ本当に今日はたまげるなぁ!!まさか水蛭………」


 それが鎌鼬の最期の台詞だった。薄い布地のように引き伸ばされて広がる闇の帳、それに喰われるようにして呑み込まれた生焼けの鼬は最初は抵抗するように闇の内側からもがいて暴れるが、それも直ぐに静まる。膨らんだ闇は萎みながらゆっくりと地面に沈んでいく。まるで胃酸で溶かされるように………。


 それは鼬だけでなく、近付いて来ていた残る有象無象の妖怪共も同様だった。一部は逃れようとしたが無意味だった。薄く広がる闇が足下まで来るとそのまま魑魅魍魎を泥の中に引き摺りこむようにして呑み込んで行く。次々と妖共の狂乱の悲鳴が響き渡る。無駄だった。無意味だった。一体として逃れる事叶わずに闇に絡まれ、囚われ、そして呑まれていく………。


『これは、どういう事ですか………!?』


 樹上に掴まって、漆黒の泥が広がっていく地上の惨事を一瞥していると、傍らの枝木に着地した蜂鳥が呟いた。明らかに動揺して、混乱していた。


 一方で俺は牡丹に比べれば相対的に冷静であった。何せ俺は知っていたから。その力を、その能力を見た事があった。具体的にはコミカライズ版で。


(にしても、まさかこのタイミングでかよ………!!?)

 

 俺は苦笑いしながら見やる。その力の根源を。源泉を。その闇の帳が広がるその中心点を。


 瀕死の入鹿を膝に乗せて打ちひしがれたように項垂れる巫女装束の少女………その足下から溢れ出すようにして漆黒は広がっていた。俺はそれを一目見て、そして脳裏にその記憶を思い出す。


 ………『闇夜の蛍』バッドエンドの一つ、ダース・タマキルートにおいて鬼月雛以下の敵対キャラを皆殺しにするとそのエンディングを拝見出来る。文字通りにありとあらゆるものを犠牲にして、そうして得た禁術を以てしても家族を取り戻せないと知ってしまった主人公は絶望に染まり切る。そして、誰も予期出来はしなかったそれが溢れ出す。


 通称『闇夜の帳』エンド。敵も味方も、人も獣も妖も、生きとし生けるものを区別なく全てを呑み込み闇に還そうとする主人公の内から溢れ出す未知の闇、眼前のそれに非常に酷似していた………。









ーーーーーーーーーーーーーー

 それが何なのか、元より原作主人公様の能力に謎が多く、しかも裏設定の開示が完全にされていないので分からない。


 但し、この謎の闇が溢れ出してバッドするのは多種多様なエンディングの中でも『闇夜の帳』エンドのみなのを考えれば大体の条件の予想はつく。


 火事場の馬鹿力という訳ではないが、呪いの類いがそうであるように、霊術や妖術は多分にそれを行使するものの魂の有り方………感情や性格、人格、価値観に影響を受けている。それは時として本来その者が備える異能の「変質」すらもたらす程だ。


『闇夜の帳』エンドにおける主人公が相当なストレスを受けていたのは想像に難しくない。そもそも他のルートを進めば分かるが生来は優しく温厚な性格なのだ。無難な選択肢を選んでいても退魔士という命の取り合いが当然の世界なぞ主人公の性分ではない。


 ましてやダース・タマキルートは目的のためとは言え他人を徹底的に裏切り利用し使い捨て、恩人や無関係な人間まで陥れ、貶める。作中では吹っ切れているように見えても内心の感情はぐちゃぐちゃだった事だろう。実際中盤以降は定期的に禁忌アイテム『元気になるお薬』のお世話にならないとステータスがだだ下がりする程だ。


 最終決戦において退魔士としての師であり、己を保護してくれた鬼月雛を、その異能が故であるが何度も苦しめ、貶め、殺した時点で主人公の精神は限界だった筈だ。そしてそんなギリギリの精神をどうにか支える『家族を取り戻す』という目的も………黒い帳の正体は環の有する異能が変質した結果であるというものがネット掲示板等における有力な考察であった。


(問題は、それが今この局面で変質しやがったって事だな……!!?)


 樹上に登った俺は視界に映る惨状を見やって苦虫を噛む。地上の状況は限りなく最悪に近かった。


 黒。そう、完全な黒であった。黒より黒い漆黒の暗黒だった。まるでベンタブラックだな。余りに黒過ぎて思わず距離感が分からなくなる。液体とも気体とも、霧とも泥とも言えぬ形容し難い『黒』が地上を塗り潰すようにしてゆっくりと広がっていた。


 それは命を食らっていた。妖共は先程真っ先にその犠牲となった。そして今は植物も………見渡せば周囲の木々が根元からゆっくりと腐っていき、葉が枯れていく。水分を失ったように次々と木々が崩れ落ちて、地上の闇に沈んでいく………。


『訳が分かりませんね。ここは一時撤退………とは行きませんか。貴方の場合は』


 蜂鳥がこの場から撤収するという退魔士として至極当然な提案をしようとして、止める。彼女も既に分かっていた。俺がこの場から逃げる訳には行かない事を。


 家族が直ぐ近くにいるのにあんな得体の知れないものを放置して逃げるなんて事は出来ない事を………。


「………妖共のくたばり方を見るに、触れて即死する訳ではないようです」


 牡丹の質問に対して、そう嘯いて俺は遠目に其処を見据える。闇の源泉を。入鹿を膝枕して項垂れる巫女を。


『無謀ですね。何か呪いでも掛けられるかも知れませんよ?そうでなくても即死しないだけであの闇に一度触れたら抜け出すのは難しいと思いますが?』

「寧ろ好都合でしょう?俺と蜘蛛、纏めて処分出来るかも知れませんよ?」


 鬼の暴走は怖いだろうが………此方も随分無茶して人間としての賞味期限が切れかけている。駄目ならばさっさと廃棄処理してしまうのも一手であろう。はは、我ながら随分と達観してきたな。


『本当に処分出来たら良いですがね。……妙な化学反応しないか心配です』


 そう宣って、暫し此方を見る蜂鳥は最終的に嘆息する。深く、呆れ果てるように嘆息する。そして環達の方を見やる。目を細める。観察する。


『………まぁ、私が止めてもやるのでしょう?仕方ありません。今、この式では貴方に何か出来る訳でもありませんから。実験の観測はさせて頂きますよ?』

「恩に着ますよ」


 牡丹は事態を正確に理解しているようで無意味な事に労力も時間も使わなかった。淡々と、実利的に、功利的にこの場の状況を最大限に活用する事を選択した。有難い事である。


「………もう、この木も限界ですね。お喋りする時間は無さそうだ」

『………一応、幸運を祈っておきましょう』


 俺は自身の登っている木がミシミシと音を立てて崩れ落ちているのを指してぼやけば蜂鳥も言い捨てて退避する。それを一瞥して、俺は環達を凝視する。そして表情をしかめる。


 ………さて、ああは言って見たものの、多分即死はしなくても触れるのは宜しくないよなぁ。けどやるしかねぇしなぁ。


「腹、括るか……!!」


 決意と共にそう宣言した俺は直後に脚部に力を込める。力ませた。筋肉を、膨張させる。余り真っ黒な地上を歩きたくなかった。一気に環達の元まで跳躍してやる腹積もりである。


(取り敢えずは闇堕ちしてトリップしていそうな主人公様の意識を此方に戻すとするかね………!!)


 考察の結論を考えるにそれくらいしか手がない。ぶっちゃけ一人死にかけているだけで闇堕ちするのとか原作に比べてメンタル弱くね?とは思ったがそれは脇に置いておく。無駄な事を考えている時間はない。


「よし、行くぞ………!!『ケプッ(。・ω・。)』はい?」


 跳び跳ねる刹那に耳元に響いたのはゲップの音で、同時に俺の身体に激痛が走った。しかして既に勢いは殺せず、何が何だか分からぬままに俺は跳ね終えていていた。中途半端に、姿勢を崩して木から飛び降りていた。


 まぁ、あれだ。つまり何が言いたいかと言えば………。


「グゥ゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ッ゙!!?」


 突然の激痛に俺は受け身も何も出来ずに『黒』の中に突っ込んでいた。同時に俺は『黒』の中で獣のように悶え苦しむ。


 直に触れた『黒』は氷……いや、ドライアイスのように冷たかった。冷たくて、その癖にまるで熱湯のように熱かった。泥のように粘り強く、しかし霧のように掴み所がない。固体とも液体とも気体とも言えぬ感触。ただ、分かるのは触れるだけで痛くて、それでいて生気を、陽の感情を吸いとられるような何とも言えぬ実感。


 痛くて痛くて痛くて、そしてそれを凌ぐ程に倦怠感と脱力感が襲いかかり無気力になりそうになり………尤も、それもある意味今の俺の怒りの前では細事ではあったのだが。


「て、てめぇ!?良くもこんな大事な時にににににっ!!?」


『黒』の中で蜘蛛を罵倒しながらのたうち回る俺。全身が変質する。陰気になりそうな感覚が、しかし幸か不幸か怒りが補っていた。嬉しくはなかったけどな!


 そんな中、ちゃっかりと白蜘蛛は泥を避けるために俺の頭の上に避難していた。満腹満腹( ^ω^ )とかいう表情で腹をすりすり擦っている。いや、お前何顔文字使ってんだ、ふざけんじゃねぇぞおぉぉぉぉぉ!!?


「ちっ、くしょう!!こんな所で、こんな馬鹿な理由で終われるかぁ!!」


 妖化と呪いと『黒』の三重の激痛に涙目で耐えながら俺は起き上がる。起き上がって粘り気と抵抗の強い黒い泥?の中を下半身を浸しながら力尽くで進む。無理矢理進めば進む程に『黒』はどんどんと俺にこびりついて来ていて、俺の動きを妨害する。何ならスライムみたいに俺の身体に登って来る。霧のように包み込んで来る。そして俺から何かを吸い出している感触がした。


 咀嚼するように、吸収していた。


「ちぃぃっ!!キモいんだよっ!!」


 登ってへばりついて来るものを払って、吐き捨てて、俺はただ進む。知るものか。時間が無いんだよ此方はよ……!!


 何れ程時間を経ただろうか?痛みと怒りで気力を補って俺は漸く其処に辿り着く。


 周囲が真っ黒に染め上げられているだけにその色は周囲から線を引かれたように乖離していた。純白に赤く滲んで汚れた巫女装束、それを着こんだ少女はただただその場に座り込んで、項垂れて、顔を青くしていた。瀕死の入鹿を見下ろして何やらぶつぶつと呟いている。


 一方、その入鹿は抱き抱えられている身体の下半分が『黒』に漬かっていて、獣毛がジリジリと腐食しているのが覗く。環はそれに気付いているようには見えない。あー、これは完全にトリップしてますわな。


「姫様!?環様!?聞こえていますか!?」


 先ずは名前を呼び掛ける。当然のように反応はなかった。続いて肩を揺する。揺すりながら耳元で叫ぶ。やはり反応無し。ただひたすらに独り言を呟くのみだった。


「おい!目を覚ませ!!入鹿がくたばっても良いのか!?」


 俺は激しく主人公様を揺さぶる。耳元で大声を叫ぶ。怒鳴って、次いで泣き落とし、彼女の家族や郷について言及してみるが効果がない。脅迫も無意味だった。分かっているが単純に自分の世界に浸っているという訳ではないなこれは。


「畜生、こいつらへばりついて来て………!!?」


 湧き出る源泉の直ぐ側にいる事もあって、『黒』は俺に纏わりついて呑み込もうと登ってくる。腕で払うが払う以上の『黒』が登ってくる。切りがない。


 俺は舌打ちする。舌打ちして焦燥して、考える。どうする?どうするべきだ?何か、何か無いか?俺は覚えている原作のシナリオや設定を脳内で必死に掘り返していく。引っ張り出していく。


 そして、一つ思い付く。この危機的状況においてある意味場違いな案を。空気が読めないような御門違いのような案を。しかし既に俺の身体の半分以上は闇に覆われていて、自身の身体が徒労感と倦怠感に急速に重くなっていくのを感じていて………選択肢は決して多くはなかった。


 ならば………!!


「どうせ死ぬなら同じかっ!!」


 そして俺は後の事を気にするのを投げ出して決断する。行動は即座であった。そして次の瞬間には俺の腕は彼女の………。


 





ーーーーーーーーーーーーーー

 蛍夜環は、幼い頃よりその夢を良く見ていた。


 それは少年の自分の夢だ。退魔士の少年である自分が色々な場所に旅をする夢だった。生き生きとした表情で、時に危ない目に遭うものの色々な人々と共に冒険して、時に妖退治をして、時には人助けをする夢である。


 冒険自体は生来の気質から嫌いという訳ではない。少年ぽいと言われるのは慣れていたし、実際に自身が好奇心旺盛でやんちゃなのは理解していた。寧ろ夢の中の自分を少し羨ましいと思ったくらいである。環には夢の中の自分程に自由はない。


 ………尤も、退治に失敗したりして妖共に食われる夢を見る時は流石に嫌だったが。


 残念ながら夢である以上、具体的な内容は目覚めと共に急速に忘却してしまう。しかしながらそれが外れの夢である事とそれがとても恐ろしい内容だという事は覚えていた。幼い頃はそれが怖くて怖くて仕方無く、良く両親の寝所に向かって泣きながら走っていたものだ。今だって目覚めた時には全身が汗でびっしょりになってしまう。


 自身が姫君らしくないと言われつつも武術を積極的に身につけていたのはそんな夢の恐怖が一因かも知れない。無論、生来の気質もあるだろうが………。


 そんな事もあって元より身内に対する情の厚い環にとって、入鹿は波長が合ったし、ある意味羨望の対象であった。深くは語らずとも外の世界で生きていて、しかも女ながらに逞しくて男勝り、何よりも自分と違って背負うものはなかった。


 そうだ、自分は自由ではない。自分は郷を治める蛍夜の一族の娘である。今こそ父から目溢しされているが何時かは何処ぞの家に嫁ぐ身の上だ。それは仕方のない事であるとは分かっていても、感情で納得する事は出来ない。


 直ぐ側に自由奔放な友人がいれば、尚更に。


 生まれて初めて命の危機を感じて、件の友人が連行されたその日の夜にその夢を見た。久し振りの件の夢。もう一人の自身の夢。


 これ迄の中でも最悪の夢だった。昼間に妖に襲われたからだろうか?よりにもよって豊穣祭の日に郷が妖に襲われていた。巫女役を鈴音がしている等、幾つか現実と差異はあったが、そんな事なぞ問題ではない。嫌な程鮮明な夢だった。知ってる顔が沢山あって、その誰も彼もが………思い出すだけで吐き気がした。


 直ぐに頭を振ってその記憶を忘れるように努める。そうだ、夢だ。所詮は泡沫の夢に過ぎない。何を心配する事があろうか?そう思った矢先に聞いたのは郷に程近い宿場街が妖に襲われたという知らせ。友人の事は心配であったが、それと同じくらいに環は不安だった。


 そう言えば、今朝の夢にあの友人の姿は無かったな………普段ならば直ぐにぼやける夢の記憶が今日に限って明瞭で、そして彼女に言い知れぬ不安を与えていた。


 轟音と獣声が鳴り響き、同時に獣染みた友人が現れた時、環は思わず彼女を恐れていた。頭の中での疑念は、しかし友人の叫びの前に明確な悪夢に変わって、しかしその絶望は直ぐに違和感を覚えて………友人として短くない時を過ごしていたから分かる。その自由な姿を羨んでいたから分かる。その態度の隅隅にある芝居がかった所作を。


 場の混乱に紛れて追い掛けていたのは、途中から軽挙な行動だと自覚していたが、今更止められなかった。不安だったのだ。本当に友が裏切ったのか。それとも………己が多少の武術の心得があった事もこの愚行を後押ししてしまっていた。本当に危険になれば引き返せば良いと思っていたのだ。


 ある意味で状況は最悪だった。思わず木陰から友を見つけて、その怪我だらけの身体を見て思わず駆け出していた。角度の問題から友の周囲の状況を確認出来ずにその癖そのまま不用意に口を開いていた。


 己の過失を悟り、同時にその身を庇われた瞬間、環は己の愚かさを理解した。全てが愚かだった。己の行動もだし、友を信じられなかった事も。そしてその全てが取り返しがつかぬ事も分かってしまっていて………元々あった精神の疲弊がそこで頂点を迎えてしまった。


 それは仮に彼女が『少年』であれば起こりえなかったかも知れない。己の将来の不安も、羨望もずっと小さかっただろう。思春期で、その上に女性特有の不安定な期間に重なっていた事も理由だろう。明確に己の失敗である事も衝撃は大きい筈だ。何にせよ、それらの負荷の積み重ねが彼女の内に眠るその力を一気に闇に突き落とした。


「違う……僕はただ……けど……そんなつもりじゃ………違う、違うんだ。僕は悪くない!いや、そうじゃない………僕は………こんな事………」


 譫言を呟いて己の行いを否定して擁護して分析して顧みる。しかしてそれらは要領を得ず、狂ったように論はグルリグルリと回っていた。堂々巡りの上に有意な内容でもなかった。気が触れたように囁き続ける彼女の瞳に光はない。


 彼女の脳裏にあるのはひたすらの後悔であり、ひたすらの言い訳であった。絶望の衝撃は彼女から理性を奪い去り、冷静にさせる機会すらも与えない。周囲の状況なぞ今の彼女には目に映らない。唯本能のみが忠実だった。己の世界に沈みこんだ環の願いを叶えるように、その足元から広がった闇が辺りに向けて広がる。


 大切な人を助けたくて、目覚めたばかりの力はその直後には主人の望みに最適化するように変質していた。


 ひたすらに周囲の生命を搾り取って、貪っていくその闇は、同時に環の心と感情を抑制して閉じ込める。本能が無意識にそうしたのだ。行為を止めぬために。その心を守るために。


 そうして無慈悲となった吸魂の黒影は猛威を振るう。己の望みのために、周囲の命を奪い去る。丁度先程美味しい獲物が『黒』に絡め獲られた所だ。獲物は無理矢理に『黒』を掻き分けて迫っているが、知った事ではない。ただただ莫大な力を『黒』は呑み込んで行く。


 環の耳元に何か声が響く。今の彼女には聞こえない。身体を揺すられる。今の心を閉ざした彼女には感じられない。感じたくなかった。


 怖かった。己の過ちを、愚行を責められるのが恐ろしかった。誰の声も聞きたくない、何も知りたくもない。己の心を守るために、固い殻に身を守る。心を守る。そう、それで良い。逃げる。隠れる。逃避する。それで、それで………。


 モミッ!!


「ふぇっ!?」


 間抜けな声と共に環はその意識は一気に現実へと還った。己のまだ育ち盛りで敏感な部位に突如感じたその感触、自分自身でも触れる事が稀なその場所に感じた硬い感触にむず痒さ、そして極僅な快楽は今の彼女の心理にとっては不意討ちに近く、下手な言葉なんかよりも余程衝撃的であったのだ。


 そして我に返ったままに彼女は見る。正面の男を、見る。


「ん!?今反応があったかっ!!?おい、返事しろ!!どうだ!?俺の言っている事分かる……「きゃああああああっ!!!???」あべしっ!?」


 己の胸を乱暴に、そして激しく揉みしだきながら声をかける男に向けて、環は悲鳴を上げながら殆ど反射的に顔面に拳を叩き込んでいた。


『黒』が、霧散した。








ーーーーーーーーーーーーーー

「わあああぁぁぁ!!?あああああぁぁぁ!!?最低っ!変態!!変質者ぁ!!女の敵!!死ね!!死ね死ね死んじゃえぇぇぇ!!」

「いぎっ!?えげっ!?ひでぶ!?」


 周囲の『黒』が幻のように消え去ったと同時に、涙目で叫びながら一心不乱に感謝の顔面正拳突きを連続で仕掛けて来る主人公様であった。当然のように絞められる瞬間の鶏のような俺の悲鳴は無視される。ちょっ、待っ………こいつっ、女の癖に割と一発一発が重い!?此方は半ば妖化してるのににに…?!!?


『いや、それ以前に貴方はこんな状況で何やっているのですか?』


 そんな俺に向けた耳元から聞こえる淡々とした冷たい声。しかしそこには普段にはない若干蔑みを含んでいた。違います、至極合理的に行動しただけなんです。ちゃんと効果あっただろ………?


 明らかにアヘ顔ダブルピースな暗黒面堕ちしていた環を此方に引き戻した手段は、別に下心あってのものではない。一応俺なりに考えがあっての行動ではあった。


 この事態の打開に、脳内における原作とその関連媒体の記憶を総動員した。そしてふと思い出した内容の一つがコミカライズ版のオマケ四コマ漫画のネタである。


 完全にギャグに振っているオマケ漫画ではあるが、同時にその内容に設定解説を兼ねている回もまた存在していて、俺の行為もそれを参考にしていた。


 術式や異能の発動には意識の集中が求められる。故に相手の術式を発動直前に封じる手段として半ばネタとしてこの不意討ち胸揉み戦法があった。羞恥心を煽るだけでなく元来神経が過敏な部位でもあって、実の所効果は確かにあったりするらしい。四コマ内では赤穂家の末娘や白が犠牲となっていた。


 ………いやまぁ、ぶっちゃけ実戦なら其処まで肉薄出来たんならそのまま胸貫いて殺害しちゃうんですけどね?


(一か八か、やって正解だったな!!)


 正直、他に方法が見つからなかったのもこの方法を使った理由だ。というかこれで駄目だったら割とお手上げだった。期待してはいなかったが………しかし本当にこれで行けるとは、まるでエロゲー……エロゲーだったわ、この世界。


 まぁ、それは兎も角………。


「姫様!環姫様!そろそろ殴るのはお止め下さいませ、今はそれどころではありません!!」

「五月蝿い!五月蝿い!今回は許さないからねっ!?変態!この………えっ?何?ここって………君も、どうして此処に?あれ?その姿は?えっ?えっ?うわっ!?蛇っ!?」


 俺の制止に怒り心頭で、しかし直後に漸く主人公様は周囲の状況を理解する。そして唖然とする。続いて俺の異形、俺を縛る蛇の呪いに気付くと……何か呪いの方は『よぅ!』な態度で環に舌を伸ばしていた……尻餅をついて驚愕し放心する。


 ……このまま回復するのを待つ訳にはいかないので、俺はそんな彼女の両肩を掴み、詰問する。


「姫様、直前の事は覚えていますか?」

「う、うん?えっと…確かお祭りで入鹿が現れて……それで僕は追い掛けていて……そ、そうだ!入鹿は!?入鹿……!!?」


 俺の問い掛けに環は記憶を思い返して、そして膝に乗せていた友人を認識する。認識して顔を青ざめさせる。………さっきの『黒』については記憶に無いようだった。


「入鹿っ!?そんな!!?お、お腹が………!!?」 

「駄目です!不用意に触れないで下さい!!」


 慌てて入鹿に触れようとする環を俺は制する。あからさまにモツが零れていた。素人が扱って良い訳がない。


「こいつは俺が助けます。どうぞ御心配なきように」


 というか助けないとまた君闇堕ちするもんね?それは此方としても困る。


 俺は先ず、環から受け取った入鹿の姿勢を変えた。仰向けにして入鹿の負担を減らしつつその怪我の具合が分かりやすいようにする。衣服を捲り腹部を晒し出す。これは………。


「っ……!」

『かなりザックリといってますね。出血も酷い。半妖とは言えそう長くは持ちませんよ?』


 牡丹の何処か他人事のような、しかして的確な言葉。実際近くで見た傷は一層酷かった。これは縫うだけでも駄目だろうな、ならば………!!


「ひっ!?な、何をするんだい!!?」


 俺が短刀で腕を突き刺した事に環は怯える。そりゃあそうだろう。突然の自傷行為である。しかしながら、別に俺も気が狂った訳ではない。


『まさか、正気ですか?』


 俺の狙いに気付くと共に冷たい言葉をかける蜂鳥。文面通りに正気を疑う物言い。だが俺は止めない。俺の手持ちの手段の中で他に入鹿を延命させる手段は見出だせなかったから。賭けに近いがやるしかない。……何、どうせ俺もこいつも後々長くはねぇんだ。大目に見てくれよな?


「落ち着いて下さい。半妖には半妖の治療の仕方というものがありますから」


 俺は不安そうに此方を見つめる環にそう嘯いた。半分事実であるが、半分は嘘だった。確かに妖にとっては生き血はそれだけで御馳走だが、この場合重要なのは血そのものよりも俺の血に含まれる『因子』であったから。


(俺と違って直接ではないが……!!)


 後々の事を思うと不安は拭い切れない。しかしながら………入鹿には悪いが、俺にとっては眼前の主人公様の即堕ち闇堕ち回避が最優先であった。


 少なくとも今ここで入鹿に死なれて貰う訳にはいかなかった。どうせ互いに後で打ち首獄門だろうが、取り敢えず『今は』生きてもらわねばなるまい。


「姫様の御要望だ、文句は言ってくれるなよ?」


 俺が問い掛ければ入鹿は此方をぼんやりと見る。返事はなかった。ただ荒い息をするだけだ。口を利く余裕もないのだろう。時間は無さそうだった。


 俺は入鹿の零れる内臓を腹に押し込むとその腹の傷を無理矢理閉じた。同時にその間に掌に溜めていた己の血を入鹿の口の中に流し込む………!!


(腐っても地母神、生命の神格!俺の身体だって………頼まれてくれよ!?)


 普段人を苦しめまくっているのだ、せめてこういう時くらい役立って貰わねば困る。


 祈りが通じたのかは分からない。しかし腹の傷を見た。明らかに無理矢理閉じた切り傷からの出血が遅くなっていた。よし、効果はある……!!


「ならばっ……!!」


 俺は手首の傷口を短刀で抉って更に広げた。そうしなければ直ぐに傷は閉じてしまうからだった。閉じそうになる傷口をその度に広げる。痛いが………背に腹はかえられなかった。


 兎も角も、上手く行きそうだ………そう思ったのは油断だった。次の瞬間、咆哮が響き渡る。


(っ……!?不味い、妖化がっ!!?)

 

 入鹿が悶えた。傷だらけの半妖は全身からゴキゴキとゾッとするような音が鳴り響く。全身の獣毛が伸びる。明らかな妖化の悪化。糞、賭けに負けたか!?


『いえ、違います。これは………呪いですか!?』


 しかし牡丹の答えは違った。同時に彼女は入鹿の状態を見て思わず驚く。俺も驚く。それは余りにも想定外の事態であった。呪い、だと………!?


「誰が!?あの妖共が……!?」

『いいえ、それとはまた性質が違いますね。人為的な………朝廷の定式でも、退魔士家のものでもありませんね。どちらにせよ、放置したら危険です!!』


 そういうや早く、蜂鳥が吐き出すのは数枚の封符であった。それらは恐らく、いざという時に俺を封じるためのものであった。それを躊躇なく使おうとした時点で彼女の焦りが見てとれる。


 尤も、符はその効果を発動する前に狼の爪に切り裂かれたが。


「っ………!?」

「入鹿っ!?」


 同時に半ば獣化した入鹿は俺に飛びかかっていた。俺は受け身を取るが、咄嗟の事で反応が遅れる。


「ガっ!?」


 首筋に噛み付き、鋭い犬歯が首筋を突き刺す。こ、いつ………!?


「入鹿っ!?どうして……!!?止めてよ!そんな事……!?」


 後ろから入鹿を俺から引き剥がそうとする環。しかし所詮は箱入り娘の彼女の腕力では半妖の腕力の前にはどうにもならない。それどころか逆効果だった。


「グルルルルルル………!!」

「不味い……!?」


 環に注意が逸れた入鹿は、そのまま彼女に襲い掛かろうとして……俺が彼女の首を締め上げて阻止する。後ろから羽交い締めにして、拘束する。


「糞っ!?」


 俺は入鹿の横腹を見る。血が滲んでいた。駄目だ、まだ治癒仕切っていない……!


 俺は入鹿の前に腕を回す。当然のように入鹿は俺の腕に噛みついた。幸い、同じように半ば妖化していた俺の腕に歯は余り深く刺さらなかった。血は流れるが………生身の人の腕ならばそのまま持って行かれていただろう。


「そ、んな………どうして、入鹿………?」


 そしてそんな入鹿を見て、衝撃を受ける環。目元を潤ませて怯える。恐怖する。絶望する。おい、止めろ。何か嫌な気配がして来たぞ………?


『それだけならば、いっそ殺してしまった方が呪いも処理出来て楽なのですが、どうやらそうも行かないみたいですね』


 俺と同じ懸念を抱く牡丹。とは言え、この状態をどうすれば良いのかと言えば………糞、俺だって全身変異と呪いできついんだぞ!?あの蜘蛛餓鬼のせいで………ん?そういやあいつ何処に………。


『あ』


 俺がそんな疑問を抱いていると、ふと牡丹の気づいたような声。それに反応して、俺もまた彼女の視線の先を見ていた。


 いつの間にか俺の頭の上から移動していた白蜘蛛。悶える入鹿の眼前まで膨らんだ腹で移動する。移動を終えると共にフゥー、と一息つく。そして次の瞬間には……踊り出していた。


「はい?」


 まるで阿波踊りでもするように間抜けに踊る白蜘蛛。その姿に俺も牡丹も暫しの間思考停止する。と、先にその変化に気付いた牡丹が『え、嘘でしょう?』と呟いていた。


 遅れて俺も気付いた。入鹿に掛けられている呪いが、その力を鈍らせている事を。白蜘蛛の間抜けな踊りに連動するように呪いは僅かずつに霧散していく。

 

『っ……!そういう事ですか!下人、その目の前の巫女に蜘蛛に祈らせなさい!!』

「えっ……!?あ、あぁ!!」


 先に我に返った牡丹の命に従い、俺は環に向けて叫ぶ。


「姫様、祈りを……巫女としてこの蜘蛛に祈りを捧げて下さいませ!」

「えっ……!?く、蜘蛛!?」


 突然の申し出に環は動揺する。そして白蜘蛛の姿を見つけると更に動揺した。そりゃあタランチュ並みの蜘蛛がムーンウォークしてるの見たらビビるわな!


「わっ!?な、何これ……!?」

「神様ですよ、ポンコツですがね……!!」

『( ≧∀≦)ノ』


 俺の説明に応じるように手を上げる白蜘蛛。おい、さっきもだが変な顔文字使うんじゃねぇ!!というか俺の言葉理解してるのか出来てないのかどっちだよ!?


「良いから!姫様!巫女としてそいつに祈って下さい!!入鹿がどうなっても良いんですか……!?」

「ひっ……わ、分かったよ!!」


 俺の鬼気迫る叫びの前に、環は怯えながらも巫女として祈り始めた。蜘蛛の御前に座り込み、両手を重ねて恭しく己の願いを申し出る。


『腐ってもその蜘蛛は神格です。貴方の血のお陰で腹は満たされています。供物は十分、ならば巫女の祈りさえあれば………』


 溢れ出し、満ちようとする力を見渡しながら牡丹は説明する。そして漸く俺も彼女が何を狙っているのかを理解した。成る程、下拵えは完璧だった。


 後は神格のもたらす力に方向性を与える肝心の巫女であるが………同時にそれが問題であった。


「だ、駄目だよ!?な、何も……何も反応がないよっ!!?」


 暫しして、しかし何も起こる事はなかった。殆ど泣き叫ぶように環が狂騒し、慟哭する。当の白蜘蛛はと言えば環を見て『(; ̄Д ̄)?』という表情を浮かべていた。てめぇ、この野郎……!!?


(いや待て。違う、これはもしや………!?)


 一瞬、糞蜘蛛を怒鳴りつけようとして、しかし直ぐに別の可能性に俺は思い至る。そして環を見て、俺はそれを確信した。


「姫様!もう一度祈って下さい!今度は真面目に、集中して………」

「なっ!?僕はちゃんとやってるよ……!!」


 俺の言葉に環は過剰な程に反発した。表情を震わせて、怒り狂う。


「姫様、落ち着いて下さい」

「落ちつける訳ないじゃないかっ!!」


 環は叫ぶ。その表情は歪んでいて、目元からは大量の涙が流れていた。


「訳分からないよ………さっきから何が何なんだか訳分からないよぅ」


 環は泣く。嗚咽を漏らす。子供のように泣きじゃくる。


「嫌だよぅ………そんなの無理だよぅ。僕は本物の巫女なんかじゃないんだよ?そんな事言われても………出来ないよぅ」


 大泣きする環。良い年して………とは言えないな。箱入り娘がこんな状況に巻き込まれて、何もかも分からないままで、パニックになるなというのが酷な話なのだろう。


 しかし、残念ながら俺も泣き言に延々と付き合える余裕はなかった。


「どうしてこんな……僕はただ………」

「姫様」

「嫌だ!聞きたくない!!何も聞きたく……」

「良いから人の話を聞け!!」


 身体を蝕む呪いと妖化が俺の精神を蝕んでいて、それが俺の怒鳴り声に繋がっていた。そして碌に叱られた経験もないのだろう、環の声は止まる。びくり、と此方を見て怯える。恐れる。恐れ戦く。俺は内心で失敗したと舌打ちする。


 しかし、それはある意味では杞憂であったかも知れない。何せ怯えていた直後には彼女の視線は俺の腕に移っていたからだ。そう、入鹿に噛みつかれて出血する腕に…………。


(おいおい。こいつ、まさか心配してやがるのか………?)


 其処で彼女の、原作の主人公の性格を思い出して俺は苦笑する。そう言えば祠でもそうだったな。全く、こいつはこの世界生まれの癖に………。


 何だかんだ言ってもこの主人公様は優しい。それを再認識して罪悪感を覚えて……しかし、それでも俺は口を開いていた。


「姫様、恐れを恥じる事はありません」


 俺は可能な限り穏やかに環に向けて語りかける。ひくひくと嗚咽を漏らして、それでいて怯える環は何も答えない。構わない。俺は可能な限り優しい口調で続ける。


「過ちも恐れる事はありません。怖いのも失敗するのも、皆がする事なのですから」


 俺は頭をフル回転させる。そして今彼女を苛むストレスの原因に当たりをつける。そして指摘する。可能な限り寄り添い、そして励ますように声をかける。


 味方の素振りをして、声をかける。


「姫様は今怖がっているのですね?友を失う事を、友に憎まれる事を恐れているのですね?分かりますよ、それはとても恐ろしい事です」


 幾ら白蜘蛛が阿呆の糞餓鬼とは言え、自主的にその権能を、神格の力を行使していたのだ。まさか何も状況を理解せずに阿波踊りしていた訳でもあるまい。となれば、祈りが通じなかった理由は一つ、環の祈りの内容が誤っているのだ。


 いや、それには語弊があるだろう。彼女自身の中で、祈りが纏まり切れなかったのだ。それも、潜在的に。


 恐らく環は友が傷ついた事を己のせいだと思っている筈だ。己のせいだと責めて、そしてそれを認める事に葛藤している筈だ。それが、彼女の祈りの内容を混乱させた。複数の思いが混線していて、しかも祈る事自体すら恐れているのだ。


 全てが終わった後、入鹿に怒りをぶつけられるのを恐れているのだ。


 ……だからこそ、俺はそこに寄り添う振りをする。甘く、悪魔のように無責任に囁く。


「ですが、それは恐れる必要はありませんよ」

「ど、どうしてさ……?」


 俺の言葉に漸く弱々しく環は反応した。涙声で、震える声で、しかし俺の言葉に耳を傾ける。流石主人公様、素直で助かる。下手したらまだ泣き喚いていても可笑しくないのだがな。好都合だった。


「彼女が、入鹿が此処に来たのは決して悪意や敵意のためじゃあないからです。……ぐっ!?姫様がこいつを追って来たのも違和感でも覚えたのでしょう?」


 俺は途中で妖化する身体の痛みに苦悶して、しかし言い切った。


 そうだ、環は恐らくは村人に警告するための入鹿の狼少年宣言に疑念を抱いたのだろう。だから真偽を知るために此処まで追いかけたのだ。幾ら何でも殺人予告を受けてからそれを鵜呑みにしてるのに無防備に追いかけたりはしまい。……しないよね?


 環が小さく肯定するように頷くのを見て、俺は内心で安堵する。そして俺は痛みに耐えながら更に説明する。


「貴女を憎んでいるなら、こいつは此処まで来やしませんよ。それに、さっきの行動もそうです」

「さっきの……?」

「貴女の事を憎んでいるなら、俺よりも先に姫様を襲っていましたよ」


 それは半分程出任せであった。実際の所、妖の行動なんて獣染みているので判断しかねる。俺と環、先に俺を狙った理由は恐らく偶然だろう。しかし………いや、どの道今は主人公様を騙せれば十分だな。


「入鹿は貴女を恨んだりしませんよ。だから、恐れる必要はありません」

「だ、だけど………」

「それでも怖いなら私も一緒に入鹿に謝りましょう。私も彼女には借りがあります。それに………一人より二人で謝る方が気楽でしょう?」

「一緒に……?」

「えぇ、一緒にです」


 最後に渋い表情を浮かべる環に向けて俺はそう付け加えると、主人公様は此方を窺うようにして見た。少しだけ表情が和らいだのは俺の見間違いではないだろう。


 シナリオライターがファンブックで言ってたから間違いない。蛍夜環という人間は心が強く、そして同時に弱い人間だ。


 何かのために、誰かのためには健気に、時として道を誤り残酷にもなれる。その逆にそうしてでも守りたかったものを失ったら………彼は優しくて、ひたむきで、純粋で、それでいて臆病だ。多くを無理して抱え込み、その負担の前に無垢な心がへし折れたら後は何処までも堕ちる。堕ちてしまう。そんな人間だ。


 だから鼓舞する。大丈夫なのだと、安心させる。安心させて……道を指し示す。誘導する。助けてやるからと恩着せがましく宣って、無理矢理に立たせる。乗り越えさせる。


(そうさ、悪いが此処でお前さんを闇堕ちはさせねぇよ。そんな楽な道には行かせねぇ……!!)


 幸か不幸か異能が、それもバッドエンド級のそれがこの局面で覚醒したのだ。此処で友人を見殺しにするなんていうトラウマを作ったら今後どうなるか知れたものではない。この国は兎も角、家族までバッドエンドされるのはご免だ。


 だから慰める。激励する。お前には立ち上がって貰う。この場を切り抜けて貰う。自身でも酷い行いだと思うがね。それでも……やって見せろよ、主人公様なんだからよ!!


「謝る……一緒に、入鹿に………」


 俺が内心で自嘲する一方、緊張するように呟き続ける環は、一度入鹿を見る。唸って自身を睨み付ける半妖に、しかし環は目を逸らさなかった。素直に、ありのままに友を見つめる。


 そして彼女は一度深呼吸する。己を落ち着かせる。そのまま何かを深く考え込んで………数瞬後に俺を見た。先程までとは違い力強く、見る。


「その言葉、嘘じゃないよね……?」

「……流石に確約は出来ませんがね?」

「……締まらないなぁ」


 俺の情けない物言いに環は苦笑する。そして彼女は俺が羽交い締めする入鹿に触れる。その狼化した頭を撫でる。入鹿が唸っても、彼女は恐れない。もう、怯えない。


「蜘蛛様、申し訳御座いません。今一度、巫女たる僕の願いを聞き届けて下さいませ」


 恭しく環は足下の白蜘蛛に向けて頭を下げた。阿呆蜘蛛はと言えば『(*´∇`)ノ』といった反応をする。良いよー、とでも言っていそうな態度だった。明らかにそこには低級とは言え神格としての威厳はない。


 そして、今度の環はそんな蜘蛛の態度を見て僅かに笑っていた。笑う余裕があった。そのまま直ぐに姿勢を正して、両手を重ねた。祈りを、重ねた。


 先程とは違い異変は直ぐに生じた。一度目では感じ取れなかった謎の重い圧迫感。しかし恐怖よりもそこにあったのは畏敬の念であった。何か偉大で強大なものが其処にあるように思われた。


「これ、は………」


 入鹿はいつの間に唸るのを止めていた。俺もまた息を呑む。これから起こる事、それは確かに奇跡に類する類いの事である事を俺は本能的に理解した。


『其ほどに大層なものではありませんよ。高位の霊術妖術と同じです。限定的な概念の改変です。ただ、神力はその力の『質』の面で世界にとっては純粋なので霊力妖力よりも優先される、それだけの事ですよ』


 詰まらなそうに蜂鳥が嘯いた。学術的に奇跡の類いを、神格の秘跡を淡々とその事実を説明する。しかしそれを理解しても尚、眼前の事象に俺は瞠目せざるを得なかった。


 何処からともなく風が舞っていた。環達を中心に風が舞い上がる。しかし環は何も気付いていないようにただただ祈りを捧げ続けていて、それに応えるかのようにして眼前で馬鹿踊りをしていた白蜘蛛が光を放ち出していた。光は次第に強まっていく。


 そしてその直後、白い輝きはその場一帯を呑み込むように広がっていた………。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る