第八一話

その始まりは戌の五ツ半刻を過ぎた頃の事だった。


「沢山お出でなすったな………」


 肌寒さに耐えて、木陰からひたすら覗くように待ち構えていた俺は、漸くそいつらを目撃した。


 ひっそりと、隠れるようにして森の中に存在する洞窟、それは長い年月の中で劣化しているものの明らかに人工のものであった。そしてそこから漏れ出るのは吐き気がする程に濃厚な妖気。


 気配を察知してからそう時を経ずにして、妖気の元は姿を現す。多種多様な獣の造形をした、あるいはそれらの複合形とでも表すべき奇形の怪物共の群れ。もののけ、魑魅魍魎。百鬼夜行。


(獣の癖して鳴き声も足音も出さないか。良く調教されているな)


 俺はゲームの設定の一節を思い起こす。空亡が扶桑国に敗北した一因は配下の統制が不徹底であったためである。何れだけ緻密に計算して計画を立てようがそれを実行出来ねば意味がない。


 本能と衝動に生きる怪物共を末端まで管理する事は彼の大妖怪であろうとも困難を極め、時としてそれは局地的な敗北すらもたらした。そしてその欠点は大乱の終局、扶桑国の乾坤一擲の総反撃の際に致命的な失敗に繋がった。


 空亡は己が封印される直前に大乱の敗北を予期し、その理由について一部幹部に言付けしていた。そして残党たる救妖衆はその遺言を厳守した。ストーリー前半の捨て駒連中は兎も角、後半の本命共は雑魚も良く調教され、統制されていた。軍隊のように制御された化物の大群を相手とした官軍は無論、普段相手しているのと同じ烏合の衆として油断していた退魔士やその配下の隠行衆下人衆にも予想外の犠牲を強いる事になる。


「………何、ある意味好都合だな。この際だからな。一体でも多く道連れにしてやるよ」


 俺は笑う。どの道俺には未来がない。後の事は祈るしかない。ならばせめて冥土の土産である。少しでも救妖衆の奴らの戦力を削ってやる。少なくとも原作よりはマシになるだろう。と言うか、なって貰わないと困る。


「まぁ、そういう事だな。………さて、と」


 妖の群列がその場所を通り始めたのを確認した俺は眼前で指を立てる。そして念じた。火遁の爆符を発動するために、霊力を込める。


 直後、幾体かの妖が俺の術の発動に反応して駆け出した。一応は気配を隠したつもりだったのだがどうやら斥候として前衛には探知効力の高い個体を当てていたようだ。即座に此方の隠れる場所を探り当てて突貫する。恐ろしく迅速な行動、しかしそれは想定内であった。悪いが間に合わんよ。


「さぁて、パーティーの始まりだ」


 術を唱えた。次の瞬間、妖の軍列を襲うように、森中で次々と爆発音が鳴り響いた。


 開戦の、狼煙を上げた………。








ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「はぁ……はぁ………へへ、これはまた随分とまぁ賑わいの宜しい事だなぁ」


 一人の下人が戦いの火蓋を切ったのと時を同じくして彼女もまた其処へと辿り着いた。全身の激痛に耐えながら屋敷に近い小山を登った半妖は、眼前の景色を目に映すと苦笑する。無理をした、自虐と自嘲を含んだ笑いだった。


 夜中の郷は、しかし都会のように明るかった。篝火だけではない。村の住民の殆どが屋敷と社のある小山に通じる道に集まり、巫女を案内するためにその足下を照らすように提灯を掲げていた。使う油だけでも相当な値になるだろう。豪勢な事だ。


「さてさて巫女役は……アレだな。はっ、相変わらず似合わねぇこった」


 目を細めて見れば多くの女中や衛士役の行列に守られた巫女役が淑やかに社に向かう道を進んでいた。正に姫君そのものの姿、しかし普段の振る舞いを思えばいっそ滑稽にも見えた。少なくとも入鹿にとってはそう思えた。その傍らに控えるのは仏頂面の女中、余所者の癖に巫女役の側に侍るのは彼女の村での立ち位置を証明していた。


「はは…………ぐっ!?ぎっ゙!!?…ぃ゙っ゙!?はぁっ!!?」


 沈黙、仄かに心中に宿る感情に反応するようにして片腕を中心に激痛が入鹿を襲う。思わず蹲り、その激情を押さえつける。フゥーフゥーと獣のように唸り、衝動を落ち着かせる。


「はは、たくよぅ。やけに元気なこったな。えぇ?こちとらへとへとだってのによ……!!」


 己に縫い付けられた異形の腕を握り締め、押さえつけて、入鹿は吐き捨てるように嘯く。額に汗を流して、顔を青ざめさせて、強がる。その身体は明らかに全身から生える獣毛が増えていた。腕がピクピクと勝手に動く。鋭い爪を立てて指を蠢かす。その所作はまるで百足の足のようなおぞましさを感じさせた。


 入鹿は生まれながらの半妖ではない。蝦夷の一族に伝わる呪いと施術によって人為的に半妖とされた身の上だ。腕を切り落とされて、そこに妖の腕を移植された。


 謂わば妖としての側面は異物である。故にそれは彼女の身体を常に冒し、蝕み、侵食する。その力を行使すればするだけそれはより一層進行する。一時的であれその姿を怪物に変貌させれば言わずもがなであろう。それでも背に腹はかえられない。


「っ………!?始まったか!」


 遠方から連続して鳴り響く轟音に入鹿は振り向く。どうやらあの男がおっ始めたらしい。視線を戻せば村人達も轟音に気付いたのか何やら騒々しくなり始める。


「あっちも中々派手な事だな。………じゃあ、行くかな?」


 狼少年ならぬ狼少女。いや、あれは真実を言っても信じて貰えなかったのか。ならばある意味逆なのだろうか?そんなどうでも良い疑念が脳裏に過り、しかし直ぐに無駄な事を考えるのを止めて眼前の目的に神経を集中させる。そして、始める。


「響けよっ!!」

 

 入鹿は吼えた。遠方からの爆音轟音に動揺する村人達の意識を己に向けさせるための咆哮。郷の一円に響き渡る文字通りの狼の遠吠え。


 刹那に小山の山頂に陣取る入鹿は無数の視線が一斉に己に向けられた事を悟る。その多くが驚愕して、あるいは動揺していた。先日お尋ね者として退魔士に捕らえられて連行された半妖が、裏切り者が突如として郷に現れたのだ。それも以前よりも一層異形と化した姿となって。当然の反応だった。その瞳に不安と恐怖が宿るのもまた同様……。


 入鹿は笑う。ニヤリ、と犬歯が覗くようにして口元を吊り上げる。


(人生、太く短くか。まぁ、後悔しても仕方ねぇよな)


 不条理も理不尽も慣れっこだった。後悔するのは悔しいし、腹立たしい。死んだ後にどう思われるかなぞ考えるだけ無意味だし、何よりも……それが友人のためになるのならば入鹿は納得出来た。


 最後に唖然として、あるいは驚愕するように己を見上げる友人達を見た。僅かに表情を緩ませて、そして入鹿は息を吸うと何処までも遠くに聴こえるように叫ぶ。

 

「良くもまぁ、呑気なものだなぁ人間共め!! あんな事があったばかりで、幾ら何でも危機感が無さ過ぎるってものじゃねぇのか、えぇ!?」


 月を背にして、正しく人間達に仇なす妖共の一員に相応しく、入鹿は何処までも悪どく村人達を詰り、嘲笑う。高笑いする。


 入鹿の、文字通り全てを賭けた一世一代の演技が始まる………。









ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 爆発させたクレイモア擬きは、ある意味においては本来の用途と同じ目的で活用された。


 いつぞやの地下水道で使ったダイナマイト擬きは、しかし見よう見真似で精製出来るニトログリセリンの品質と量の問題もあり、易々と使えるものではなかった。


 入手ルートを秘密にしたままに猿次郎に精製方法を伝えて生産して貰ってもそれは同様であり、しかしながら黒色火薬より遥かに破壊力で勝るそれは下人である俺にとっては貴重な武器であり、その効率的な活用法を練る事になった。その結果生まれたのがクレイモア擬きである。


 俺はミリタリーオタクではない。しかしながら前世でFPSをプレイしていた時に知り、その後、他の装備共々興味本位で大まかな原理については調べていた。


 完全に仕組みを理解している訳ではない。しかしここで大事なのは発想である。貴重なニトログリセリンを最大限有効活用する上で単純な爆発よりもその爆風を利用した散弾の方が遥かに効率的なのだ。


 オリジナルは最大半径が二百メートル、有効半径は五十メートル程。七〇〇余りの鉄弾が一気に飛び散るらしいが流石にそれは再現出来なかった。弾は鉄片に釘に礫を代用した。代わりに毒を塗りたくった。何度か試作品を爆破して、実際に捕らえた幼妖や小妖を的として使用して効果を確かめた。殺傷可能半径は精々オリジナルの三分の一と言った所か。


 構わなかった。本来は最初のイベントに介入する事にした際の装備で、妖猪の手下共を待ち伏せして吹き飛ばすのに使えないかと考えていた雑魚専の罠である。討伐隊の荷として運ぶ際には猿次郎の名義で実地試験用として借り受けていた。


 最初の爆発で起爆したのは計六基、隊列の左右で爆破した。前衛の妖共は百近くが被害を受けていた。半数が死に絶え、半数は手負いである。構わない。殺せなくても動けなく出来ればそれで良い。そして作戦は第二段階に移行する。


「さぁ、来やがれお前ら……!!」


 打ち鳴らす鈴は妖を引き寄せる低級の呪具である。常々陽動用に使うそれを盛大に鳴り響かせれば統制されていた妖共も興奮しているのか釣られるように此方に向かう。


「おら、お代わりだ!!」


 迫る妖共の眼前での爆発。鈴を打ち鳴らしていたのだ。当然罠も用意する。突撃してきた十数体が無数の釘や鉄片を正面から食らって挽き肉と化す。こりゃあどちらかと言えば地雷というよりも葡萄弾だな。ヴァンデミエールかよ。


『下人!中妖が三体出てきます!!』


 耳元から蜂鳥の連絡。俺が念じれば再び爆発。今度は黒色火薬のものであった。爆発したのは大木の幹。洞窟の入口の側のものである。予め幹に切れ込みを入れて爆弾を詰めていた。幹がへし折れた大木が二つ、崩れ落ちる。勿体ぶって出てきた中妖共は纏めて質量攻撃で潰れた。洞窟の入口を塞ぐのも目的だ。時間稼ぎにしかならないだろうが。


 孤立した残存の小妖共が迫り来る。閃光玉と臭い玉を放り投げて混乱させてからそれらを安物の刀で切り伏せていく。手負いの中妖が大木に潰されながらも頭を出してもがいていた。口に短槍を投擲して仕止める。尚、両方刃には毒を塗っている。


『下人、そろそろ下がりますよ。主力が来ます』


 十体目の小妖を切り伏せて刀を駄目にした所で牡丹の命令。洞窟の入口が爆散する。大木が粉々になって、現れるのは巨大な鹿の大妖だった。前衛芸術みたいな禍々しい角に人面をした異形の鹿。その後方からは有象無象共が次々と現れる。


「って、シシ神かよ!!」


 現れた大妖の造形に既視感を感じて思わず突っ込んだ。突っ込みながら切れ味の落ちた刀を投げつけ、予備を引き抜く。そしてそのまま閃光玉と臭い玉を投げつけてから全速力で後退する。鈴を鳴らすのは忘れない。


 エンカウントと共に顔面に刀が突き刺さったシシ神様の出来損ないは更に閃光と悪臭に怒り狂って俺の元に向かう。明らかに怒り狂っているのに顔は気持ち悪いくらいに良い笑顔だった。その背後から雑魚共も駆け付ける。俺は必死に走る。脚力を身体強化してアスリートの全速力並みに疾走する。それでも追い付かれる。


『下人!今です!木上に!!』

「おうよ……!!」


 指示に従って俺は閃光玉を放ちながら木の上に跳ねる。そして勢い余って俺のいた所を通り過ぎたシシ神様はその足を四本ともスパッと綺麗に切断されて顔面から地面に突っ込んだ。その後続共も同様。閃光で眼前が見えずに次々と身体や足を切り落とされる。木の幹で結んだ蜘蛛糸によるワイヤートラップだった。


 漸く前を行く連中の状況を把握して幾体かの妖共が足を止める。だが、それも罠だった。更に隠していたクレイモア擬きを爆破した。ダース単位で吹き飛ぶ異形共。


「予想以上に上手く行ったな。このまま行けば………!!」

『っ!?右です!!武器を構えなさい!!』

「っ!?」


 何も見えないし、認識も出来なかった。しかし俺の身体は牡丹の警告に従い条件反射的に予備の刀を構えていた。敵の攻撃を受けられるように刀身を盾にして、身構える。そしてそれは正しい選択だった。


「っ……!?」

「へぇ」


 突如として打ち砕かれる刀、眼前に現れる小柄な人影。音が遅れてやって来る。空を切り裂く音。


「ちぃっ!?」


 次に取る行動もまたある意味条件反射であった。刀の柄を相手の顔面に投擲すると共に跳躍して樹上から離れる。地面に着地して予備の短槍を構える。此処まで殆ど思考していなかった。


 ……尤も、投擲した刀は普通に弾かれたが。襲撃者もまた俺と同じように樹上から着地する。


(来やがったな……!?)


 闇夜の中で、俺は襲撃者のご尊顔を拝見する。子供の背丈だった。茶髪の、何処にでも居そうな麻の子供服を着こんだ中性的な顔立ち。


 しかしてその頭頂には鼬のような獣耳が生えていて、尻尾を生やし、何よりもその手からは銀色の刃が生えていた。指の付け根より鎌のような刃、それが両腕で計八本。ニチャリと口元に笑みを浮かべて此方を見る。


 ………石榴のように毒々しい紅い眼光で俺を睨む。


(あの姿、あと特徴、鎌鼬か?どちらかと言うと貂熊、ウルヴァリンとでも呼びたくなるな!?……いや、一応あれもイタチ科か?)


 向けられる殺気を紛らわせるようにそんな下らない事を考えていると刹那、突風と共に傍らの木々が切り落とされた。バッサリと、切り裂かれる。幹を切断されて豪快に倒れる大木。

 

「おや、外れた?何かの呪具の効果かな?」

「マジかよ!?」


 俺は手首に巻き付けていた数珠が千切れたのを目撃する。地面に飛び散る。橘家の娘から渡された御守りの呪具、それがたった一回の攻撃を逸らしただけで使い物にならなくなった。


「じゃあ、もう一発!」

「………!!」


 そう嘯いた妖が再び当たりをつけるように腕を振るう。ほぼ同じタイミングで俺は上空に跳んだ。そして放つのは式神である。烏を模した簡易式が二体、突貫する。


「へぇ、避けるのかい!?けどそんなお遊びじゃあね……!?」


 突撃した式神が即座に切り裂かれる、と共にそれは発光する。閃光玉としての機能を与えていたのだから当然の事である。


「小癪な事をしてくれる!!」


 強い光で視覚を一時的に潰された鎌鼬は、しかし両腕を乱雑に振るっていく。風撃が辺り一面を切り裂き、八つ裂き、凪ぎ払う。しかしながらそこに俺はいない。いる筈がない。


(凶妖相手にまともに戦えるかよ………!!)


 俺は勾玉で姿を消すと物陰に隠れて凶妖を窺う。幾等か暴れた後に、漸く目が慣れたのか鎌鼬は周囲を見渡す。


「逃げた、いや隠れたのかな?困ったな。僕は余り人探しは得意じゃあないのだけれどね」


 悪臭と血の臭いで鼻も利かないね、と他人事のようにぼやく鼬。先程から臭い玉の悪臭とクレイモア擬きの火薬臭、そしてくたばった妖怪共の血肉で周囲の臭いは酷かった。俺は首を引っ込めると一休みの深呼吸をする。


「さしもの獣妖とは言え、そんな中で人間の臭いは区別出来ない、って所だな」

「そう思うかい?」

「っ!?」


 その言葉と共に俺は目を見開いて真横を振り向く。いつの間にか肉薄していた凶妖が嘲笑しながら見えない筈の俺を見ていた。


 そして突きつけられるのは両の手の鎌であった。八本の刃が俺に向けて一気に突貫してくる。


「………!!?」


 俺は迫り来るその刃を慌てて短槍の柄で受け止めた。鎌は柄に深く食い込み俺の鼻先寸前でどうにか止まる。残念ながらメインウェポンの方の槍は先日の猪との戦いでお亡くなりになっているので当然の結果だった。寧ろ安物・使い捨て・予備装備が前提の短槍で凶妖の攻撃をギリギリ受け止められたのは幸運だった。


「畜生!!」


 どうにか化物の突きの阻止に成功した俺は必死に反撃に出る。槍の柄を押し出して、そのまま下から膝蹴りを仕掛ける。


「おっと危ない?」


 器用な事に俺の膝を足場にそのまま跳躍する鼬。しなやかに足を伸ばしてくるくると体操選手宜しく空中回転しながら俺から距離を取る。その所作は鼬というよりも豹を思わせた。オリンピックに出れば体操金メダルは確実だろう。


「んんん?可笑しいな。気配も感触もあるのに姿は見えない?……何等かの呪具でも使っているのかな?けれど視覚だけを擬装しても僕達を騙しきれないのは分かっているだろう?姿を見せたらどうだい?顔も見せないなんて余りに失礼だろう?」


 相も変わらず、見えていない筈の俺と視線を合わせながらの凶妖の提案、いや警告。あるいは脅迫。と言うかさっきの鍔迫り合い、見えない癖にやってたのか。僅かの気配だけで此方の場所を当てたのか?堪んねぇな。………さて、どうするか。


「……牡丹殿、影から隠れて下さい」


 一瞬の沈黙の後、俺は囁くような声で頼りになるアシスタント様の名を呼んだ。応えるように蜂鳥はぎろりと此方に視線を向ける。その視線はあからさまに怪訝そうだった。


『正気ですか?』

「どの道隠れ続けられませんよ。それに無視されたらそれが一番困ります」


 こいつらには時間が来るまで俺に付き合って貰わなければならない。俺を放置して村まで向かわれたら困る。特に眼前の凶妖には。


『………相手はお喋りのようです。適当に付き合って誤魔化して下さい』


 その助言と共に蜂鳥が俺の肩から退散する。同時に俺が勾玉の効果を止める。化物は一瞬だけ驚いて、しかしニンマリと笑みを浮かべて不躾に俺を観察し始める。


「ほぅ。其処にいたのかい?にしてもその外套の下の服装……もしかして、君は下人なのかな?」

「………」


 ブラブラと両手を子供のように振り回し弄びながら鎌鼬は問い掛けた。俺は答えない。答える余裕がなかった。短時間の、しかし激しい運動に息が上がる。呼吸を整えるので精一杯だった。鎌鼬はそんな俺の無言を気にせずに続ける。


「いやぁ、これは吃驚仰天だよ。完全に奇襲を仕掛けたつもりだったのだけどね。まさか読まれていたかい?しかし奇妙なものだね、先日立ち去った退魔士の手の者だとするならば何故この場に君一人なのかな?」


 此方を見据えて、見透かすように観察しながら、怪物はベラベラと早口で言葉を宣う。手の甲を顎に添えて、首を小さく傾げて捲し立てる。衣服の採寸が合ってないので自然と掌が袖に隠れていた。


「囮……というのもその実力からすると妙だねぇ?僕相手に抵抗出来る下人をたかが捨て駒というのは割に合わないな。もし組織的に僕らを襲うなら君が奇襲に使った小道具は数が少な過ぎるね。地下道を塞いだのも不自然だ。僕達が全員出てきた所で数を揃えて爆破、然る後に残敵掃討が妥当だ。まさか昔みたいに慢性的に戦力不足している訳でもないだろう?そも、その肩に乗っかっているのは隷属の呪いじゃあないかい?しかも絶賛発動中と来た。………その外套のお陰で誤魔化せているようだけどね?」


 俺の行動や様子を一つ一つを分析し、解釈し、問題点を、疑問点を見出だす。それは妖らしからぬ知性だった。軽薄でお喋り過ぎるが。


「つまりはだ。君にはこの企てを敢えて行う必要があった訳だね。組織的な作戦であれば到底行う必要もないこんな戦い方をね?まぁ、あれだよ。…………余り僕達をなめてくれるなよ?」


 何時しか、俺は周囲を魑魅魍魎共にぐるりと囲まれていた。包囲されていた。


 再開通した地下道から続々と御入場された化物共が俺を一斉に睨む。忌々しげに睨み付ける。俺が眼前の怪物の御口上を長々と聞いていたのは何の事はない。単に逃げられなかっただけの事であった。いつの間にか逃げ道を塞がれていた。


「……実に御立派な研究発表会だな、感激するよ。妖の癖して随分と頭が回るじゃあないか?」

「誉めて貰えるのは嬉しいな。猿が、上から目線で良く喋る」


 殺気を滲ませたその言葉に呼応するように妖共の包囲網が一歩縮まる。しかしまだ襲っては来ない。………統制、いや調教されてるな。


「下人が独断で、しかもこの準備、そも僕達の存在を把握した事もそうだ。実に興味深いね。そして奇妙だ。一人でこんな事をしても悪足掻きくらいしか出来ないのは分かるだろうに…………取引をしないかい?」 

「取引?」


 妖の言葉に俺は反芻するようにその単語を口にする。その反応に鎌鼬は口元を綻ばせる。本能的に不快感を与える笑みだった。


「あぁ。悪い取引じゃあないさ。ここで洗いざらい事の顛末について説明して欲しいだけさ。尤も、僕も大変でね。取引に応じて貰えなければ気が立っている彼らの要望に応えなければならないのだけれど」


 と、鎌鼬の言葉と共に更に一歩、包囲網は縮まる。妖共は皆口元から涎をダラダラと溢して小さく唸り続ける。


「ははは。……してその取引、応じた場合の此方の利益は?」

「痛みを感じないように優しく丁寧に絞めて上げるよ」 


 手から生えた鎌を見せつけて化物は即答する。憎らしいくらいに無邪気な笑顔で、嘯く。成る程ね。


「おや?浮かない顔だね。僕としては決して悪い取引ではないと思うのだけれど?君だって生きたままゆっくりと食われていくのは嫌だろう?君達の間でも楽に死ねる刑罰は優しさで出来ていると聞いているのだけれどね」

「良くご存知なことで」

「博識だろう?」


 嫌な意味でな。………優しさって何なんだろうな?


「………さて、どうだい?返答は如何に?」


 そして妖怪は返答を俺に迫る。軽い口調で、しかしそれは明確に要求であり、命令だった。妖は知っていたのだ。既に俺の手持ちの武器が極僅かな事に。メインウェポンに至っては安物の槍が使い物にならなくなったので先程放り捨てて短刀を引き抜いていた。  


 このまま行けば俺は確かに食い殺されよう。全身の皮を剥がされて、筋肉を千切られて、それでも致命傷にはならずに少しずつ食い殺されていく事だろう。想像するだけでおぞましい。恐ろしい。その点で言えば即死させてくれるという報酬は確かに魅力を帯びていた。だからか、だから……………。

 

「そうだな。………獣の分際でべちゃくちゃ話すんじゃない。言葉に対する冒涜ってものだぜ?」


 全てを理解して、一拍置いて、俺は有難い申し出に対して敬意と礼節を以て誠心誠意返答してやった。濁った紅瞳で此方に微笑む化物。俺も笑顔を向ける。


「こいつの四肢を食い散らかせ」


 満面の笑みで宣った鼬の命と共に周囲の怪物共は一斉に、我先にと俺に向かって飛び掛かった。歯を食い縛る。覚悟を決める。そして………俺は口元をニヤつかせた。計画の成功を確信して。


 瞬間、土砂の渦が周囲の怪物共を纏めて呑み込んだ。


「っ!?」

「来たな……!!」


 凶妖の驚愕、翻って俺は喜色を浮かべていた。ずっとこの時を待っていた。見計らっていた。ベストタイミングであった。


 それは土遁に属する簡易式と思われた。原理自体は単純で、呪符を以て核を為し、周囲の岩に土に礫、何なら一緒に木々をも巻き込んで集めて凝縮してその身を創る。


 そうして授肉した出で立ちは一見すると醜い蛇のようにも芋虫のように思えた。召喚する際の被害と出で立ちから取られたその名は『崩山濁竜』、ノベル版・漫画版において鬼月胡蝶が使役していた「本道式に匹敵する簡易式」である。


「不本意な事だな。御意見番様より御借りした式をよもやこのような事に使う事になろうとは」

 

 毒づきながら上空より着地してくる人影を俺は見た。烏帽子に錫杖を構えた典型的な陰陽装束。呪いに特化した退魔士の出で立ち。


「家人殿………」

「気安く口を利くな、下人め。宇右衛門殿の命がなければ貴様も喰わせていた所だぞ?」


 俺の呼び掛けに鬼月家家人、吉備萩影は忌々しげにそう吐き捨てた。







ーーーーーーーーーーーー

 それは萩影からすれば不本意でしかなかった。


 簡易式『崩山濁竜』は術士の器量に合わせて使役出来る使い勝手の良い式である。開発者にして師でもある御意見番であれば一町程度の大竜を拵えて見せる一方で、やろうと思えばそれこそ一尺の体躯も無かろうが下人でも式として召喚する事も出来よう。


 多くの本道式簡易式が使役と稼働に必要な最低霊力が定まっている中において『崩山濁竜』は確かにその意味では術士にとって無理のない使い易い式神である。


 同時に濁竜の知能は簡易式である故に高くない。ましてやその攻撃手段がその躰を使った質量攻撃、あるいは呑み込んだ上で内部の岩に土砂で捲き込んで押し潰して磨り潰すという単純なものである以上味方も巻き添えにしやすい性質のものであった。事実、萩影は事後報告の中において師が土蜘蛛の眷属と戦っていた際にこれを使わなかったのは乱戦状態であったからと知っている。


 御意見番程に式の操作が上手くない萩影にとっては下人だけを巻き込まずに周囲の怪物共を呑み込むのは相応に集中力を必要とした事であった。ましてやそれが逃亡者を助けるためともなれば………。


(師に対して申し訳が立たんな)


 土蜘蛛の一件で心情の変化があったのか、御意見番の一族や弟子、部下に対しての接し方が柔らかくなった事を家人も認識していた。此度の討伐においても四方に向かう各隊に対して己の式を貸し出す等、彼ら彼女らの安全に気を使っていた程だ。


 萩影も濁竜を受け取った際に深々と謝意を示し、隠行衆頭らの守護を固く誓った。その事を思えばこのような事に受け取った式を使うのは正に不本意そのものであった。


 とは言え、任務は任務。無下には出来ない。


「貴様は其処に留まる事だ。逃げ出すなよ?手荒に捕らえるとなると五体無事にとは行かんからな。………さて」


 手負いの下人に警告する。乱暴に捕らえて死なせる可能性もあったし、まだ始末出来ていない有象無象の妖に食い殺される可能性もあった。目の届く場所にいてもらわなければ困る。それ故に警告。それに対して下人が頭を下げて肯定する。


(ふん、態度は慇懃だな。厚かましい)


 呪いが発動していない理由を確認して萩影は鼻を鳴らして苦虫を噛む。恭しい態度をしているが随分と計画的な事だと思った。態とらしいものだ。二の姫に取り入っている事も含めて油断出来ない。



 そして家人は眼前の怪物を一瞥する。


「此方の話題が終わるまで待っていてくれたとは慇懃な事だな、化物め」

「いやぁ、当然さ。僕が襲う瞬間にその隠している式が逆撃する手筈だったのだろう?あからさまな罠に飛び込む程に僕も無謀じゃあないよ」

「………」


 鎌鼬の飄々とした物言いに、萩影は警戒を強める。足下が盛り上がり、それは現れる。周囲の有象無象共相手に暴れ狂い、そして喰らう式と同様の、しかし一回り小さい『崩山濁竜』………鎌鼬の言う通りにそれは逆撃用に隠していたのだが、気付かれたのならば最早隠匿する必要性はない。


「調子に乗るなよ、化物め」

「調子に乗るなよ、猿が」


 萩影と妖が互いに淡々と、しかし確かな蔑みと憎しみを込めて罵倒する。そして……両者は動き出す。


「………っ!!」


 鎌鼬が腕を振るえば両腕八本から放たれる風撃。鉄板を容易に切断する無形の刃には、しかし直後に横から盾になるように二体目の『崩山濁竜』が潜り込む。その躰を構成する岩や土砂が豪快に吹き飛ぶ。しかしながら式は核と霊力さえあれば幾らでもその躰を再生させる事が出来た。


 そして一体目がその躰を捩りながら鼬の背後より迫る。かなり無理矢理なその軌道は本質が無機質で出来ているからこそ可能なものであった。


「甘いねぇ!!」


 クルリ、と足をバネのようにして悠々と後ろ向きに回転すると、そのまま丸呑みしようとする濁竜の突貫を避けて見せる凶妖。そして同時にその刃が式に突き刺さる。そのまま濁竜の動きに合わせてその躰が割かれていく。鰻の背開きを思わせた。地面に倒れる濁竜。無論、直ぐに再生は始まる。始まるが……それは即座に完了するものではない。

  

「はははっ!!ほらほらぁ!!君も三枚下ろしにして上げるよ!!」

「この程度で!!」


 乱れ打ちとばかりに凶妖より放たれる風の刃を、萩影は使役する二体目の濁竜で防ぐ。しかしそれも限度があった。二十近い斬撃を食らった式は一時的に行動不能となる。その直前に跳躍する萩影。そして放つ式符は三つ。発火したそれらは燃え盛る鳥の姿を象り一斉に妖に襲いかかる。


「なめるなよ猿が!」


 妖の尻尾が膨張すると共に瞬時に鋭利な刃へと変貌した。鎌というよりは鉈と言うべき造形……そしてそのまま身体を捻れば臀部ごと刃物と化した尾を振り回す。これ迄よりも遥かに強い突風が式を纏めて切り裂いた。そして、消し飛ぶ火鳥の中より踊り出るのは刀や槍を構えた黒子!!


「なっ!?」


 式神の内に式神を仕込む事での二段構え。式神術に精通している鬼月胡蝶の弟子でもある萩影にとってそれは簡単な手品であった。斬りかかる黒子共。その斬撃をくるりと回避して、腕の鎌でその首をスパッと切り落とす鎌鼬。……しかし黒子共は消えずに更に襲いかかる!


「ほぅ、やるねぇ!!合式かい!?」


 黒子はそれ自体が一つの式に見せて実は複数の簡易式を付き合わせて拵えていたものであった。探知用の首に戦闘の胴体、移動の脚部。操作が煩雑で霊力の消費は増えるが相手の虚を突ける利点もある。尤も所詮は簡易式なので種が分かった途端に今度は微塵切りにされるが。


 尤も、そんな事は想定内。その隙に復活した濁竜が襲いかかる。巻き付くようにして二体の式が鼬を包み込み、即座に爆ぜた。悪名高い南蛮における鰻の煮凝りを連想させる乱暴なぶつ切りである。


 爆散する濁竜、その粉塵の中から現れるのは正に刃の塊だった。両手に尻尾、両足から伸びる銀色の鎌は計一七本。踊り子のように身体を回転させて式を八つ裂きにした鎌鼬は、そのまま勝ち誇った表情で跳ねる。音を置き去りにした跳躍。萩影の眼前にまで一挙に迫る。


 鼬枷の頭に向けて放たれるのは錫杖であった。萩影の即座に反応しての錫杖の突きの反撃である。錫杖は相応の呪具でもあり、触れた妖魔共は例え凶妖であろうとも無傷では済まない。……命中すればの話であるが。


「おっと危ない!」

「糞っ!!すばしっこい」


 萩影の錫杖の突きを首をずらして回避した鼬枷。そこに今度は真横から槍の穂先が投擲される。尻尾で弾かれる。ちらりと妖怪は攻撃の方向を見た。下人を見た。冷笑する。


 眼前の男の体が幾つもの刃で貫かれた。腹が抉られた。家人への肉薄からここまで僅かに数瞬の出来事であった。


「がっ!?」

「家人殿!?」


 家人から響く悲鳴、叫ぶ下人。それらに釣られて口元を吊り上げる妖。しかし……鼬の嘲笑は違和感の前に直ぐに消え去る。


 妖が気付いたのと同時の事だった。家人の人形は無数の式符へと変わる。式符が凶妖に向けて一斉に襲いかかる。


「式神か……っ!?」

「ふん、妖に対して肉薄する術師がいるものか」


 驚愕する鼬。そして大木の陰から現れる萩影。最初から彼は代わり身をしていた上で隠行しその姿を欺いていた。錫杖は偽装である。本物の呪具を式に持たせる事で妖を欺瞞していた。卑劣さでは退魔士も妖には負けない。


「ちぃ!!猪口才なっ!!」


 迫り来る数千の式符を次々と切り刻んでいく鎌鼬であるが、手数が足りな過ぎた。十数という単位で切り裂かれる式符の隙間からそれに倍する式符が潜り抜け、鎌鼬に貼り付く。封符である。萩影は凶妖を生け捕りにしようとしていた。それは己の力では払い切れぬためでもあり、同時に尋問のためでもあった。


「っ!?悪足掻きか……!!」


 木乃伊のように全身が札で囚われていく鎌鼬が最後っ屁のように風撃を放っていく。地面に落ちていた錫杖を引き寄せて、悠々とそれらを打ち払っていく萩影。術士とは言え武術が使えない訳ではない。既に勝敗は決まっていた。


 そう、その筈であった。


「なっ!?」


 突如として萩影は姿勢を崩した。想定外の事態に殆ど反射的に足下に視線を移す。そして目撃する。己の片足が切断されている事に。 


「馬鹿、な……!?」


 いつ切られた?何故痛みがない?風撃は全て避けるか打ち払った筈だ。そんな疑念が家人の脳裏に過る。判断が遅れる。それはこの場において致命的過ぎた。


 口元を歪めた妖怪が囁く。周囲に響き渡るように、その名を呟いた。


「さぁ、出番だよ。狼夜」


 それは前触れもなく、直前まで気配も見せず、まるで最初から其処にいたようにして現れた。家人の背後より巨大な影が出現する。


 狼が、萩影を見下す。


「何っ……!?」


 前方の鎌鼬に意識を向けていた萩影は一瞬反応が遅れる。振り向くと共に驚愕に眼を見開く。迫る怪物のあぎと、それが彼の見た最期の光景だった。











ーーーーーーーーーーーー

 吉備萩影という退魔士は決して弱くはなかった。無論家人と鬼月家血統の退魔士との実力には差がある。とは言え、それでも下人何ぞとは格が違う。事実、先程まで後続の到着までの凶妖の足止めに成功していたのがその何よりの証明であろう。


 油断はなかった。驕りもなかった。周囲だって警戒していた筈だ。


 だからこそ、これはある意味では避けられぬ運命であった。


 退魔士が妖に殺される一番の要因は単純な実力ではない。彼ら彼女らが命を落とす最大の原因、それは相性と初見殺しなのだから。


「は?」


 眼前の人影の上半分が食い千切られた瞬間に俺が発していたのはそんな間抜けな声であった。ガブリ、と狼が顎を持ち上げると共に赤い飛沫が飛び散って俺の頬を汚した。


 数瞬の唖然。驚愕。愕然。しかしそれらの感情を押し退けて理性が事態を認識すると共に俺は身構える。そして認識する。事態の深刻性を。


(馬鹿な、欠片も気配を感じ取れなかった!?)


 死骸を貪る眼前の狼の出現を、その凶行の瞬間まで俺は気付く事すらも出来なかった。それは俺の怠慢であり、失態でもある。同時に己が油断していなかった事もまた事実である。いや、それどころか………。


(刺し違える事すらも出来なかったか!?)


 俺はその瞬間を目撃していた。家人が食い殺される寸前に錫杖を振るっていた事を。退魔士としてはある意味当然の、己の死が避けられぬ際の相討ち狙いの攻撃。


 だがそれは敵わなかった。萩影が無能だったからではない。錫杖は確かに狼に向けて振るわれていた。問題は、狼の身体を錫杖が通り抜けていた事で………。


「条件付きの権能、か?」


 其処まで推理するが、そんな事に意味はない。取り巻く状況は一気に急転直下しているのだから。


『ギェ……ギェ……エェェ………』

「っ!?まぁ、そうなるよな……!」


 萩影からの霊力の供給が失われた瞬間に、式神もまたその力を喪失していた。復活した二体の濁竜は直後にその身体を震わせるとガラガラと音を立てて崩れていく。それはまるで溶けていく角砂糖のような印象を見る者に与えた。


 それは同時に、俺が孤立無援と化した事を意味していた。眼前には凶妖が二体、それ以外にも濁竜が取り零した雑魚が幾分かじりじりと警戒しながらにじり寄る。……言うまでもなく状況は最低最悪だった。


『グルルルルルルルッッ………!!!!』


 俺が焦燥と絶望に駆られる中で、突然参戦してきた狼はその食事を終える。残された下半身の断面に顔面を突っ込んで血と臓物を啜り終えた狼は、その直後に身体をブルリと激しく震わせて変質させる。身体を、縮こまさせる。その動作と変貌を、俺は見た事があった。

 

(人形に変化している……?)


 身体を縮小させて、全身の獣毛もまた縮んでいく様は入鹿が狼から人の姿に戻ろうとしていた時の変化に非常に近似していた。


 ……尤も、彼方に比べれば眼前の凶妖は大分妖怪寄りであった。今の姿も最大限に甘く見ても満月を見た狼人間である。全身の毛はそのままで、頭だって明らかに人間の骨格ではない。そして困ったように四つん這いで唸り続けていた。唸りながら、今尚身体を震わせ続ける。


「おやおや、お前は相変わらず変化が下手だねぇ。……悪いね、この子は新人でね。人妖への変化の行き来が苦手なんだよ。さっき御馳走を食べたばかりで興奮しているみたいだしね」


 己の身体にぴったりと貼り付き、しかし最早何らの力もない式符を次々と毟って破り捨てる鎌鼬は俺が狼に向ける視線に反応するかのようにそう嘯いた。その口調は苦戦する同胞を労るようにも、しかし嘲笑しているようにも感じ取れた。濁った赤い瞳が狼を一瞥し、次いでその冷たい視線を俺へと移し変える。


「畜生………」


 その殺気に舌打ちして、俺は短刀を構え、暗器の手車も密かにかつ極自然な所作で投擲準備を整える。


 突如現れた狼の凶妖が何物なのかは分からない。分かるのは恐らく奴が街道で回収された抜け毛の持ち主だろうと言う事、そして変化に悪戦苦闘している以上、今すぐに参戦する事はないだろうという事。完全に均衡が傾いた中でそれは数少ない希望であった。………余りにも心細い希望であるが。


「さてさて。困ったものだ。随分と手下共の数も減ってしまったね。計算外だ、これじゃあ上司に怒られちゃうよ。……後続の猿共も来るだろうし、これは早々に切り上げないと不味いね」


 寂しくなった周囲を見渡してあからさまに落ち込む鎌鼬。そして頭を上げると、悪意と憎悪に満ちた眼が俺を射抜く。その圧迫感に、思わず俺は一歩下がっていた。


「けどその前に宿題は片付けないと、ね?」

「あっ?」


 俺が眉間に皺を寄せたのと同時だった。俺は真正面から風斬の旋風を叩きつけられる。予備動作はなかった。気付いたら食らっていた。気付いたら、切り裂かれていた。


「がっ!?」


 全身に刻まれる切り傷は深くはなかったが、同時に浅くもなかった。鮮血が豪快に周囲に飛び散る。


(こいつ、今まで遊んでいたのか……!!?)


 その事実に崩れながらに愕然とする俺。そしてそれ以上に問題だったのは、風撃によって纏っていた外套が一瞬にして、そして完全に切り刻まれたそのものであった。


「あ゙?あ゙ア゙ア゙アッ゙ア゙アア゙ア゙ッ゙ッ゙………っ!!!?」


 外套の認識阻害の効果が喪失した瞬間、肩に巻きついていた呪いの蛇が俺に絡みついてきた。そして俺の全身を締め付ける。締め上げる。


「ぐぶっ゙!!?」


 その場に倒れこみ、俺は息を荒げる。ピキピキピキ、と全身から軋み上げるような嫌な音が響く。筋肉と骨が悲鳴を上げていた。肺が圧迫されて、呼吸が出来なくなる。


(これがっ………!?成る程、確かに反乱鎮圧にはうってつけな訳だな糞!!)


 芋虫のように地面でのたうち回りながら、俺はこの呪いの開発者を皮肉交じりに称賛していた。絶妙に死なない程度の激痛の責め苦であった。いっそ死んだ方が楽なのではないか、そう思える程の苦しみである。


「いやはや、人間は怖いよねぇ。同族相手にこんな惨い呪いを平気で使えるんだからさ」


 地面で苦しみもがく俺の元に一歩、また一歩と迫り来る鎌鼬。これは、不味い……!!?


「ぐっ……!?がぁ!!?」


 隠していた手車を投擲する前に掌を鎌が貫通した。鎌鼬の手の甲から生える四本の鎌、その一つが俺の手に深々と突き刺さり、そのまま地面にまで達していた。何が痛いって全身がのたうつくらいに痛いのに手に刃が突き刺さっているせいでそれすらも出来ない事だった。


「ふふふふ、痛いかい?痛いだろう?人間の身体は脆いからねぇ」


 ニタニタと化物は嗤う。濁った紅玉色の瞳を細めながら俺を見下す。その眼差しはまるで子供が解体した虫を見るかのように酷薄だった。


「いっそ憐れみすら覚えるよ。どうして君達はそんなに弱々しい肉体で知性と理性があるのだろうね?だから無駄に恐怖に怯えるし苦しむというのに。無意味にもがいて無意味に抗って、無力に死していくんだ。いや全く同情せざるを得ないよ君達には。いっそ地を這う蛞蝓みたいに無知蒙昧に生きていれば楽だろうにさ」


 そしてグイッと手首を捻る。突き刺さった銀色の刃が俺の掌の傷口を抉り広げた。思わず俺は絶叫する。


「ぐっ……ゔぐ……ぐ………!!」

「苦しそうだね。辛そうだね?僕だって辛いさ。たかが下人に計画をズタズタにされたんだから。胸が張り裂けそうなくらいに苦しいよ。だからこれで僕達の関係はお相子さ。僕は博愛主義だからね」


 胸元に手をやって大袈裟に宣う妖。そしてニコリと微笑んで俺を一瞥する。


「さぁ。邪魔者も消えたし、改めての質問だ。君はどうやって此度の僕達の計画を察知したんだい?そしてどうして君一人でこのような大それた事をしでかしたんだい?どうか教えてくれないかな?そうすれば………」

「あぎっ……!?」


 更に一捻りして俺の掌を抉り削る凶妖。俺の悲鳴に恍惚にも似た微笑を称え、唇をペロリと舐め上げる。


「時間も余り無いんだ。答えてくれるかな?世の中、長い物には巻かれて楽な方に流れるのが賢明な選択だよ?」


 諭すように、優しげに怪物は宣う。脅迫する。俺は目元に涙を溢しながらそれを見上げる。卑屈に笑う。媚びるように笑う。それに応じて鎌鼬もまた嗤う。そして、震えながら俺は口を開き………その足に思いっきり唾を吐き捨てた。


 直後に風を切る音と共に片耳を切り落とされた。

 

「ぎゃっ……!?」


 突き刺されていない方の腕で耳の断面を押さえる。だらだらと勢い良く滴り流れる血。呻く俺の頭を鎌鼬の足が踏みつける。地面に叩きつけられた額が石で切れる。悲しいかな、頭が爆散していないだけ手加減されていた。


「他人の足に唾なんて、礼儀がなってないねぇ?最近の下人は最低限の礼儀も弁えていないと見えるね。いやはや人財教育がどうなっているのか心配で仕方無いよ」


 軽そうな文面に比して、その口調は殺気立っていた。明らかに強められる物言いは怒り心頭とでも言うべきか。いつの間にか手にしている俺の耳を弄びながら、俺を見下す。


「けど僕は寛容だからね。この程度じゃあ怒ったりしないさ。誰にだって失敗や過ちはあるものだからね。無知故の増長も、ね?」


 そしてすっと、化物は俺の眼前に足を見せつける。鎌を引っ込めた線の細い白い素足を土を踏みつけて晒し出す。土で汚す。


「舐めろよ。犬みたいに舐めしゃぶって、誠心誠意心を込めて掃除しろ。泣いて謝罪して洗いざらい吐きやがれよ、猿。………これは最後の警告だよ?」


 最後の言葉と共にスッと頬を何かが掠めた。生温かく鈍い刺激が頬に走る。目を合わせる。向けられるのは何処までも残忍な微笑み…………流石にこれ以上は駄目、か


「……」


 俺はゆっくりと口を開く。そして眼前の素足に向けて舌を突き出す。化物が嘲りの笑みを浮かべる。それを無視して俺は素足に向けて顔を近付けて、近付けて……そして…………。


「丸焼きにでもなれや、化物め」

「っ!?」


 刹那、俺が放った業火は残念ながら鎌鼬には届かなかった。蒼白い火炎が呑み込むその寸前に背後で蹲っていた半人半獣が同僚の襟首を掴んで引っ張ったためだ。鎌鼬を抱いて俺から距離を取る。黒い長髪で隠れた眼光が俺を睨み付けて、獣の唸り声を上げて威嚇する。


 尤も、鎌鼬の方はそれに礼を述べる事はしない。もう一方の怪異の眼は大きく見開かれ、その表情はあからさまに驚愕していたからだ。

 

「おいおい、これは本当に驚いたな。この気配、その姿。………冗談だろう?君、本当に下人なのかい?」


 そう問い掛ける鎌鼬の瞳に映し出されるのは、全身に蒼い炎を纏う、怪物の出来損ないのような俺自身の醜い姿であった………。



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