第四章 章末・前

皇紀の一四四〇年、あるいは清麗帝の御世の十年も年の瀬に入っていた頃の事である。逢見の屋敷にて複数の馬車と牛車が待機して人足が荷を積み上げていた。それは鬼月の一族が都を下り、その所領に帰還するための準備であった。


 朝廷はその支配下に収める地方の七七の大名家と一八三の退魔士家に対して幾つかの責務……奉公を定めているが、都の守備のための上洛はその一つであり、その期間は三年に一度、およそ半年間である。


 鬼月家が上洛を果たしたのがこの年の夏、水無月の中旬の事だ。そこから半年……つまりは師走の月になると鬼月の家の者は少数の残留組を除いて強制的にでも都から退出を言い渡される事になる。


 強制的、というのは適当な理由をつけて任期の切れた退魔士達が都に留まり、数を恃みに朝廷に反逆する事を警戒しての事である……というのはゲームの公式設定集での補足説明だ。実際、スピンオフのゲームにて過去に名門を含む退魔士の一部が下人程の霊力も持たぬ帝や上位公家に支配される事に反発して反逆しようとしたエピソードがあったりする。尚、この際には当時の右大臣の卑劣な策略で反逆は失敗、女子供含めて一族郎党斬首刑に処され幾つかの退魔士家がお取潰しになり、しかもそれすらも空亡の残党が暗躍した結果である事が読者にだけ分かるような内容になっている。あいつらマジどんだけ暗躍してんだよ………数百年単位で布石打ちやがって。


 まぁ、そういう事で正にこの日、鬼月家は都の守護の任を解かれ、都を退出しようとしていた訳である。訳であるが………。


「本当なのですか?本当に先日貴方は私に会っていないと?」

「真偽はどうあれ、私には否定する以外の選択肢はありませんよ」


 せくせくと鬼月家が都を下る際に序でとばかりに仕入れた各種の品を牛車(迷い家化済み)に詰め込む俺に対して、紫色の髪をした少女は追い掛け回すように追及してくる。


「本当に、本当に私のこの姿に見覚えはない、という事ですか!?」


 食い下がるように赤穂家の末妹は尋ねる。先日の一件で出会した時と同じ着飾ったその格好を見せつける紫に対して、しかし俺はそれを認める事はない。意地悪ではない。そう命じられているからだ。


 先日の一件については、橘家や鬼月家の名誉、朝廷の面子もあって、噂という形としては兎も角公的には事件そのものが隠匿されていた。無論、公的に公開しないだけで橘家も朝廷も裏では粛清と断罪と収賄の嵐であろうが………そういう訳で俺にもあの件に関しては箝口令が敷かれていた。故にあの場で、あの書店に俺がいた事も、橘家の令嬢がいた事も、二人揃って間抜けに捕まった事も認める事は許されない。


「………私なぞよりも、葵姫様なり、宇右衛門様に御尋ねしてはどうですか?その方が真偽の程は明らかでしょうに」


 仕事の邪魔になって辟易してきた事もあって、俺は少し投げやりにそう尋ねる。実際、その方が発言の信憑性は高かろう。下人の言葉なぞ真実であろうが鵜呑みにするのが間違っているのだ。というか、そもそも何でこんな事を聞いて来るのだろうか?


「そ、それは………!?」


 俺の質問に対してバツが悪そうにオロオロする紫である。狼狽えながら頭のアホ毛がゆさゆさと揺れる。


(そう言えばこいつも噂になってたな。夜中の街を泣きながら徘徊する迷子のご令嬢だったか?)


 明らかに育ちが良さそうな娘が夜遅くまで庶民らの街を涙目になって歩き回っていれば好奇の目にも晒されるものだ。ましてや赤穂の家は紫本人が自覚してないだけで普通にこの娘を溺愛している。下手しなくても手刀ですら大妖を殺せるような人外親兄弟が揃って殺気立ちながら街を捜索してくるなぞ、善良な民草からすれば失禁ものの良い迷惑だろう。というか実際かなり良い迷惑だったらしい。


「わ、態態貴方程度の者について、従姉様や宇右衛門様に尋ねる等無礼でしょう!たかが下人の事で主人に時間を取らせるなんて、随分と大きい態度ですね……!!?」


 紫は慌てた態度でそう吐き捨てる。吐き捨てた後に自身の言葉に顔を青くした。どうやら流石に言い過ぎだと思ったらしい。この娘はプライドが高くて失言も多く、何なら運も間も悪いが、本質的には善良で優しい娘なのだ。


 ……問題はその欠点のせいで作中で凄まじい死亡率を誇る事だが。プレイヤー達に抑止力に殺されていると言われるだけの事はある。何で態態本人の死亡シーンがないルートでも画面外で死んでますって公式が言う必要があるんですかね……?


「え、えっと………今のは……その………!」

「……いえ、お気になさることはありませんよ。仰る事は間違いではありませんから」


 言い過ぎたと思って弁明しようとする紫であるが、敢えて俺はそれを呑みこみ、肯定する。紫が言った物言いは一面ではこの国の、この世界では別に誤った内容ではない事もあるし、同時に彼女の良心を利用するためでもある。この善良な娘の事だ、こういってしまえば罪悪感からこれ以上追及しようとはすまい。


「あっ……う……別に私は………わ、分かりましたよ。貴方がそういうのでしたら、そういう事にしておきます」


 目を泳がして、苦い表情を浮かべて、最終的には紫は自身を納得させるようにそう口にした。何処か釈然としない態度であるがこれ以上の追及は場の空気を悪くしてしまうと思ったのだろう。


(まぁ、そう思ってくれるならさっさとこの場を去って欲しいんだけどな)


 ちらりと、横目に俺は此方を見て噂話する逢見家や鬼月家の雑人らを見て内心でぼやいた。


 原作主人公相手に恋愛感情を持つ程なので、地下水道での体験で俺のような下人に対しても友情くらいは抱いてくれそうなこの赤穂の娘であるが、俺からすればどちらかと言うと迷惑なのも事実だった。身分が違い過ぎる男女で余りに私的な会話をしているとこれまた噂にもなる。人というのは噂好きな生き物だ。それもゴシップ系のものを。ましてや娯楽の少ないこの世界ともなれば………尚、ヘイトは大体立場が弱い方に向くものとする。


(後で嫌味の一つでも言われそうだな……)


 下人の癖に生意気だとでも思われそうだ。そう言えば雑人から下人に落とされた時の虐めは割と酷かったなぁ。下手に雛に取り入っていた分気付かない間にヘイトを溜めていたようだ。周囲から見れば虎の威を借る狐に見えた事だろう。軽率だった頃の俺の黒歴史だ。


「あ、あの伴部さん!お取り込み中宜しいでしょうか!?」


 その言葉はある種助け船に思えた。その声の方向を振り向けばそこには俺と紫の様子を窺う白丁姿の白の姿があった。どうやら会話の邪魔にならないかタイミングを探していたようだった。


「……白か。何の用だ?」

「えっと、その……姫様からの命令で、荷物を牛車に載せるのですが重いものも多くて……私一人じゃ難しいと伝えたら伴部さんに手伝って貰うようにとの事で………」


 上目遣いで御願いする白。俺が視線を屋敷の方へと移せば障子を開いた先の一室で愉快そうにお茶を啜るゴリラ様の姿があった。どうやら文字通りの助け船らしい。


「……分かった。直ぐ行く。そういう事ですので紫様、非礼ながらお話はこれで」

「えっ……?あ、しかし………」

「私は姫様の下人ですので、その命令が優先されます事を御理解下さいませ」


 そう淡々と口にして俺は白と共にその場を立ち去る。多少罪悪感はあるが、仕方無い。このチョロくて直ぐに有情される少女はコネクションとしては安牌な方であろうが、同時にこれ以上悪目立ちはしたくないのだ。


「あ、あの……すみません。お邪魔でしたか………?」


 俺の背後から続く白が後ろ髪を引かれるような不安そうな顔でちらちらと紫を見てから俺に聞く。


「いや、寧ろ助かった。あの件は深掘りされたくないからな。それに、実際荷造りをさっさと終わらせないといけない。それよりも、孤児院の方はどうだ?もう挨拶は済んだか?」


 この白狐も北土に連れて行く以上、次に会えるのは数年は先の事で、故に別れの挨拶が必要だった。


「は、はい。そちらの方は昨日しました。定期的にお手紙を出してくれるそうです!」


 嬉しそうに笑う白。それは結構。さて………。


「姫様、只今参上しました。どちらの御荷物をお運びすれば?」


 屋敷の縁側の前に辿り着くとそこで俺は膝をつく。障子の奥で文を読みながら扇子を扇ぐゴリラ様はちらり、と遠く……恐らくは紫だろう……を一瞥すると優雅に宣う。


「えぇ、そうね。そこの荷を運んで頂戴。一応高い物だから、慎重にね?」

(げっ、これは………)


 扇子で指差す先にあるのは山のような調度品と雑貨の数々だった。しかもどれも真新しい新品である。


「貴方の失態の穴埋めのためにね、私が買って上げたのよ?感謝なさい?」


 何処までも尊大で、偉そうにゴリラ様が嘯く。どうやら先日の橘家の娘の護衛の件での醜態の謝罪の意味を込めて色々買わされたらしい。


「それはまた………」

「まぁ、どの道都を出る際に毎回山程買い込むし、都で流行のものばかりだから構わないのだけれどね。さっさと運んでしまいなさい?」

「はっ………」


 詰まらなそうに葵が命じるので、俺は深々と頭を下げて承諾する。確かに地方に所領のある鬼月の家にとって都は遠い。故に都での流行りの品々は貴重でこういう時に纏め買いするのだろうが………一つの商会から買い取るとなると値を吹っ掛けられたとしても可笑しくない訳で……あぁ、糞。ストレスで胃に穴が開きそう。


「あぁ、それ一五両したから汚さないようにね?」

「……了解致しました」


 取り敢えず最初に運び出そうとした鏡台を掴んだ途端、苛めのように値段を言われた。おう、俺の買い取り値の倍以上か………。


「そういえば………」


 ふと、自身の値段の話題で俺は思い出す。そう言えば、結局あの話は有耶無耶になってしまったな、と。


(まぁ、騒ぎが騒ぎなだけに仕方無いが………)


 脳裏に浮かぶのは魔性で、しかし子供っぽい蜂蜜色の髪の少女の姿だ。まぁ、まともに考えればあんな事があった後にもう一度娘を外で遊ばせるなぞ、ましてや失敗した下人を護衛にしてなぞあり得ないだろう。


(俺としても、どんな顔すれば良いのか分かんねぇしなぁ………)


 格好つけた直ぐ後にやられて、しかも記憶は曖昧だが一時的に化物になってたのだ。ゴリラ様が動いたお陰かその事についてあの娘は周囲に何も言ってないようだが………それでも気味悪がって顔も見たくないだろう。それで良い。そもそもこれまでの関わりが異常だったのだから………。


「伴部さん!?段差が……!」

「えっ……?うおっ!?危ねぇ!!?」


 ………白の指摘で我に返った俺は屋敷の縁側の段差に足を引っ掻けて盛大によろけるのだった。


 




「ふふ、随分と慌てて運ぶものね。可愛いこと」


 重い鏡台を必死に半妖の白丁と共に運び出す最愛の下人を見やりながらころころと鬼月葵は笑う。桜色の単で口元を隠しながら鈴の音色のような美しい声で笑う。


 素材が良い事もあってもし目撃者がいたならば恐らくは五人に四人までならば今の姿に見惚れた事であろう。美人画の題材にもなろう。尤も、葵自身にとってはそんな事はどうでも良い事ではある。目的の相手以外からの好意も称賛も、彼女にとっては一銭の価値もない。そう、正に手元で流し読みし、傍らに積まれている方々からの恋文同様に。


 少し若過ぎる所もあるし、先日の内裏での振る舞いもあれど、葵は家柄も、財産も、才能も、教養も、美貌も兼ね備えた優良物件である事に間違いはない。故に微笑み一つで大抵の貴公子の心は掴む事は出来るし、そうでなくても打算的に考えても彼女は婚姻を結ぶのに何の問題もない相手なのだ。


 だからこそ、都を出立するこの日に各々の目論見の元に恋文やそれに準じる内容の手紙が来る事も何ら可笑しい事ではないし、それが三十枚を越えていようが多過ぎるとは言えない。中には都でも有数の美男子もあるし、武家なり退魔士家の名家の生まれも、あるいは名門と言えないまでも才能豊かで将来栄達する事間違いない有望株の名前もある。あるが………。


「そんなのはどうでも良いのよねぇ………」


 はらり、と手元の文を塵か何かのように畳の上に放り捨てる葵。恐らくは一字一句に至るまで念入りに考えて紡がれた文は韻を含んでいて、美麗で、そこらの乙女ならばそれだけでうっとりとするような出来であったが当の葵にとっては少しも心踊らない詰まらない文字の羅列でしかない。その文の出来が理解出来ないからではない、ただ単に彼女にとっては有象無象の男の書いた文なぞ関心がないだけの事だ。


「これが彼のなら何度でも読み返してあげるのだけれど………あら、これは………」


 と、ふと葵は文の山の中からそれを見つけ出す。そして差出人の名前を一瞥する。


「あら、あの娘からね。どれどれ………へぇ、これはまた。存外上手くやるものよね」


 その文面を読み進めながら葵は文の送り主を誉める。やれやれ、あんな事をした後にこれまた実に面の皮の厚い事をしてくれるものだ。しかも、此方があからさまに反発出来ぬように言い訳付きである。狡猾な事だ。


「……まぁ、良いわ。彼と私の役に立つのならばそれに越した事はないものね」


 鬼月の二の姫は文を寄越した相手のある種の健気さを誉める。誉めてやる。それは鬼月葵という人間の性格から考えると破格の慈悲であった。


 ……そうだ、慈悲をくれてやろう。少なくともあれは彼の、そして私の役に立とうというのだから。少なくともその思慮があるだけ今も遠目で物欲しげな表情を顔に浮かべるあの目障りで無自覚にあざとい従妹よりもよっぽど可愛げがあろうというものだ。


「ふふ、そうね。本当に可愛いげのある子だったわね」


 葵は笑う。嘲るように、憐れむように、愛おしむように、笑う。何処か冷たく、嗜虐的で、蠱惑的な微笑みだった。


 そして桜色の姫君は先日の会席の事を思い返した………。





ーーーーーーーーーーー

 夜も深まり、深夜……燭台の光だけが光源となるそこで、会談の準備は執り行われていた。


「これはこれは……橘の商会長が直々に御訪問頂けるとは。非礼ながら何分急な事ですので……十分な歓待も出来ず心苦しいばかりで………」

「いえいえ、たかが商人に対してそこまで分不相応な持て成しなぞ不要で御座いますよ。どうぞ、お気になさらず」


 逢見家の屋敷に設けられた応接間にて逢見家の当主逢見嘉一が若干引きつった笑みを浮かべていた。一方、彼が応対する相手はと言えば座布団に座ったまま憮然とした、硬く険しい表情のままにただただその相手を待っている。


 扶桑国有数の豪商たる橘景季の明らかに不機嫌な態度に嘉一は動揺する。常に社交辞令の笑みを絶やさぬ商人という人種がこれ程あからさまな態度を、しかもそれが我が子を溺愛する事で有名な景季であり、案件もまたその娘に関わるともなれば相手が内心でどれ程怒り狂っている事か判ろうものだ。


「はは、は……そちらの御嬢さんはどうですかな?このような場所にいても詰まらぬでしょう?別室で暇を潰せるように取り計らいましょうか?菓子もありますし、遊戯もありますが………」


 嘉一は攻め手を変えた。目の前の豪商の傍らに控える少女に狙いをつけたのだ。より正確に言えば彼女の機嫌を取り、おもねろうとした。しかし………。


「たかが商人の娘への御厚意に感謝致しますわ、玄蕃寮頭様。しかしこの程度の事問題御座いません。私も商家の子です。多少待つくらいでしたら何らの問題も御座いません」


 しかし、その小賢しい企みは儚くも砕け散る。気分屋でお転婆な事で知られている件の娘は、菓子や玩具の誘惑に一切関心を示さずにこりと社交辞令染みた笑みを浮かべて応対して見せた。嘉一はそんな少女に苦い笑みで応える以外なかった。そして、その物言いの微妙な言い回しに内心で頭を抱える。


 身分制の厳しい扶桑国では当然公家は商人よりも身分は上である。あるが……同時に社会において金銭というものは最も普遍的な価値を持つものなのだ。


 ましてや橘商会は国内有数の豪商であり、橘家自体元は没落したとは言え公家であり当然人脈もある。何よりも嘉一の就く役職において橘商会の取り扱う商品は欠かせない。


 治部省玄蕃寮は国外の使節や地方の大名なり有力者を持て成すための饗宴を取り仕切る立場である。ともなれば舶来の名品珍品も当然必要で、その点でこれまでも橘商会とは幾度も取引をしてきた間柄である。もしここで不興を買えばその販路を失いかねず、そうなれば彼の仕事もまた十全に果たす事は困難となりかねなかった。

 

 橘佳世が態態玄蕃寮頭と呼んだのはあからさまな警告だったように思える。別に呼称は誤ってはいないが多くの場合は今一つの役職たる治部大輔と呼ばれる事が多いのだ。それを態態今一つの役職名で答えた……その意味が分からぬ程に逢見の当主は馬鹿ではない。


 正直、嘉一は今回鬼月の家を迎え入れた事に対して後悔し始めていた。これまで何度も迎えて甘い汁を吸って来たので薄情で身勝手な事であるが、そんな事は本人には関係ない。今年の鬼月家は……特にあの二の姫は余りに厄介過ぎた。


「さて、それはそうとして中々時間がかかるものですな、此方にお住まいしている鬼月の御家は………あぁ、漸く来ましたか」


 そして、景季が僅かに嫌味っぽい口調で此度の用のために出向いた相手が何時までも姿を現さない事を婉曲的に批判しようとしてそれに気付く。障子越しに縁側を進む二つの影は応接間の前で足を止めると、一礼をした後にその障子を開く。


「いやぁ、これはこれはお待たせして申し訳ない。何分にも急な事ですからな。非礼のないように身支度をしていたら時間がかかりましてな」


 ふくよかな顔に最大限愛想を貼り付けた男……鬼月宇右衛門が景季に挨拶する。しかしながら見る者が見ればその姿に疲労の様子がある事を見抜けたであろう。


「これはこれは、橘の御家ね。ご機嫌よぅ」


 続いて桜か桃を思わせる鮮やかで艶やかな髪をたなびかせる少女が現れる。鬼月葵は扇子を手にして人当たりの良さそうな笑みを浮かべた。空虚で、何処か心の籠らない笑みを。そして………。


「………ふふ」

「っ………!」


 二人の姫の視線が交差する。同時に葵は小さな嗤い声を漏らし、佳世は若干下を向いて奥歯を噛み締める。


「さて、商人の方々は時間を大切にするのでしたね?では待たせた身としてここはそちらの流儀に沿うと致しましょうか?………改めて御聞きしましょう。このような時節に、一体どのような御用件なので?」


 座布団に優美に座りこむと、追及を受ける立場でありながら、鬼月の二の姫は口は丁寧に、しかし何処か不遜に、何処か尊大な物言いでそう嘯いた。





「………どのような御用件、ですか。それこそ今更口にするまでもない事だと思いますがね」


 葵の言葉に橘景季はあからさまに苛立ちと不快感を露にした態度で腰を据える。その傍らにはちょこんと座る橘佳世が緊張の面持ちで沈黙する。


「無論、此方とて身内の不始末でもありますからな。一方的に詰る事は出来ますまい。だが……それでもですぞ?千両、千両です。僅か一日の、都での護衛の依頼に対しては破格の依頼金でしょう。違いますかな?」


 千両、その数字を景季は強調する。千両ともなれば相当の大金だ。一両は庶民であれば普通に一月食べていけるだけの金額である。それが千両、たった一日、いや実質一日もない護衛の依頼に千両である。相手がこの国有数の豪商の一人娘である事を差し引いても仰天ものの依頼金である。故に、景季は一層怒る。


「退魔士の御家にはまた別の考えがあるのかも知れませんがね、我々商人の世界では依頼金には相応の責任を持つのが常識でしてね。いい加減とは申しませんがここまで無責任な扱いを受けるとは流石に思いもしませんでしたよ!!」


 そうだ、幾ら何でもこれは酷すぎる。事態の収拾後に集められた情報を整理した所では尾行していた隠行衆は碌に抵抗すら出来ずに無力化され、しかも鬼月の家がそれに気付いたのは何刻も後の事だというではないか。


「大事にならなかったから良かったものの、このようないい加減な様では此方としても相応の対処が必要となりましょうな……!」


 それは実質的な脅しであった。愛娘の受けた仕打ちに景季は相手が公家や退魔士家相手であろうとも一切躊躇する気もなさそうであった。これは恐らく同じように娘に対して危害を加えようとする者らへの見せしめも兼ねているように思われた。


 一応箝口令は敷かれていても、先日佳世が巻き込まれた一件は真偽不明の噂という形で尾びれがついて市中でも囁かれていた。


 無論、人の噂も七十五日ともいうからそのうちに大多数からは忘れ去られるであろうが……それでも景季としては面子と娘の名誉のために多少無茶してでも強気に出る必要があった。事実、既に彼は商会内で苛烈な粛清を行っているし、捕らえられた倉吉一味についてはその首魁が尊族だというのに斬首どころか打ち首獄門を朝廷に要求していた程だった。尤もそちらの方は………。


「いやはや、その件については此方の落ち度ではありますが………」

「あらあら、これは妙な事。此方がそう一方的に責め立てられる謂われもないのではないかしら?」


 烈火の如く怒り狂う商会長に対して宇右衛門は宥めるように場を収めようとして……鬼月の二の姫はそんな目論見をぶち壊すように売り言葉に買い言葉をして見せた。


「っ……!葵!」

「そのような物言いは……」

「落ち着いて下さいな叔父上。逢見の御当主も。たかが商人相手にそこまで下手に出るなんて、家の名前が廃りません事?」


 事前の相談でのらりくらりと宥めすかして、依頼金の返金で誤魔化そうという予定を御破算にした葵に対して逢見の当主と彼女の叔父が咎めるが、当の葵はどこ吹く風といった態度で商人の親子を一瞥する。


「それに、どうせその程度の小細工、商人には容易に見抜かれますわ。ならば適当に宥めて誤魔化そうと思うよりも、はっきりと言われた方がそちらも宜しいでしょう?」

「…………」


 葵の言に景季は黙る。不機嫌そうなその姿に宇右衛門や嘉一は相手の不興を買うのではと冷や汗をかくものの、葵だけはそれが寧ろ相手の話を真剣に聞こうとしているがための態度なのだと気付いていた。


「そもそもがそちらの身内の暴走を止められなかったのが原因でしょう?ましてや此方とてそちらに幾つもの借りがあるのは理解している筈。まさか商人ともあろうものが過去の事を知らぬ存ぜぬという訳でもないでしょう?」


 白狐から助けた件は無論、先日の地下水道での案件、そして此度の事例も、此方に落ち度こそあれ橘家側も完全に白ではないのだ。


「それを一方的に責められても困るわ。私達はそちらに仕えている訳でもないのに。立場は対等の筈よ、違うかしら?」

「…………」

「葵、頼むからそれ以上は………」


 尚も沈黙する景季に、宇右衛門は葵を宥めようとする。が、それも葵の鋭い眼光によって一蹴される。


 尤も、これが宇右衛門が臆病風に吹かれているというのは意地の悪い見方であろう。宇右衛門は鬼月の資産管理を請け負う立場であり、公家や大名、商人との繋がりも強くその分橘商会の影響を受けやすい。葵とは立場が違う。ある意味では葵の言い様こそ危険を度外視した無謀な物言いとも取れるのだから。


「それがそちらの答えかな?仕方無い事だと開き直って、我が家に対して、佳世に対しての謝罪の言葉一つない、と?」

「最低限、仕事はこなしたわ。ちゃんとその子も無事だったでしょう?多少の怪我くらいは大目に見て欲しいわね?それとも………何か我が家に制裁でも致しますか?ならば此方も橘の御家は恩を仇で返すような守銭奴共とでも諳んじて見せましょうか?きっと面白い噂が立つでしょうね?」

「……………」


 明らかに剣呑な景季の態度に対して葵はそれでも怖じ気る事なくはっきりと答えた。挑発する。嘯く。吐き捨てる。重苦しい沈黙が場を支配する。そして…………。


「……お父様、その程度でもう良いと思います」


 此度の件の被害者たる橘佳世が父を諌めるようにそう口を開いた。


「しかし、佳世。私は………」

「お父様が私の事を心配しての事だとは分かります。しかし、ここで鬼月や逢見を敵に回しても何の益もないでしょう?」


 唯でさえ身内の不祥事の後なのだ。押さえた倉吉の隠し財産の大部分を自主的に朝廷の要人に献上する事で商会と一族全員への連座を回避して、寧ろ朝廷に食い込む手段にして見せたのは景季の手腕とも言えるが、流石に無傷という訳でもない。


 苛烈な粛清によって商会も一時的に混乱している。そんな中で逢見や鬼月相手に高圧的に振る舞い過ぎるのは最善とは言えなかった。公家も退魔士も血縁を結んでいるのだ。芋蔓式に他の家にも飛び火しかねず、他の豪商達に付け狙われる事にもなりかねない。


「しかしな、佳世。お前の体面を思うとな………」


 事情はどうあれ、可愛い娘がぞんざいな目にあった事は景季にとっては許しがたい話であった。こればかりは理屈ではない。感情の問題だ。しかし、佳世はそれを否定する。


「優秀な商人たるお父様らしくない言い様ですね?お父様ならば感情よりも理性を優先出来る筈です。……とは言え、橘の商会の名誉の問題である事は承知しております。ですので、逢見の御当主様」

「ぬ?な、何でありましょうか?」


 突然佳世に話を振られた事で少し困惑気味に嘉一は応じる。


「これは御提案なのですが、今年の朝廷での新年の祝宴祭、各種の物産の仕入れはまだ続いておりますか?」

「そ、それはまぁ………」

「でしたらどうでしょう?此方が抱える東土の産物、此度の不祥事で買い手がつかず持て余しておりまして、もしそちらでご利用頂けるのであれば無料で御提供致しますが?」

「っ!?そ、それはまた………」


 逢見の当主は佳世の提案に目の色を変える。毛皮に干物、砂金に木材等、倉吉が密貿易で購入したのとは別に正規の販路で購入した東土の物産もまた、差し押さえこそされなかったが事が事だけに買い手がつかない事態に陥っていた。このままでは信頼を取り戻すまで何年も倉庫に眠らせる事になる。かといって倉庫管理するのも無料ではないし、倉庫の一部が使えないままでは他の商売にも差し支える。ならばいっそ在庫処分も兼ねて逢見家にやってしまおうというのだ。朝廷の祝宴に使わせる事で市場の信頼を回復するための宣伝効果も期待出来る。


「同じく、宇右衛門様。大名家や御公家様向けの調度品も同じく此度の件のせいで買い手が宙に浮いている品が幾つもありまして。もし少しでも責任があると思って頂けるのでしたら此方、相場から相応に値引いて販売致しますが、どうでしょう?」


 続いて佳世は宇右衛門に対しても提案する。此方も同じく高価な調度品を買い手がつかず、職人らへの報酬を少しでも払う為に何処ぞの商人に足下を見られて売らされるならば、先に此方から動こうという訳であった。一度足下を見られたという前例が出来れば卑しい商人ならば何度でも足下を見るものだ。それでは商会がなめられる。


「え、えぇと……それは…………」

「あぁ、序でに都を立つ際の物入りの品も此方に発注して下されば幸いです。此方は流石に相場の値段で支払って頂きますが。………それで手打ち、でどうでしょうか。お父様?」


 にこり、と父に向けて微笑む少女。


「どう、と言ってもなぁ………」

「此方はそれで納得して頂けるのあれば歓迎致しますがの。何でしたら同じように都を立ち去る他の家を紹介しても構いません」

「こ、此方も同様です。朝廷に対して献上して頂けるのでしたらこれ程光栄な事はありますまい。私より公家の方々に口添え致しても良いでしょう」


 佳世の提案に景季は困惑し、逆に宇右衛門と嘉一は賛同する。彼ら二人にとっては損がない話で、これで此度の騒動を決着出来るのであれば安いものだった。


「……佳世、本当に良いのかね?家や店の事を考えて我慢しなくても………」


 父の言葉に際して静かに佳世は首を横に振る。


「いえ、お父様。私は我慢なんてしていません。ただただこれが最善の手であると考えての事です」

「そうは言うがな………」


 尚も渋るような景季に対して、佳世は語る。


「お父様こそ、お考え下さいませ。この時節に私一人のためにそのような無理をすれば周囲にどのように思われる事か。余計に付け入られる隙を与えるだけの事ですよ」


 そして、ふぅ……と深呼吸してから佳世は続ける。


「先日の一件で、寧ろ目が覚めました。これまではお父様やお母様に甘えて来ましたが、これからはただ子供のように甘えるのではなくて、商会を継ぐ者として接して下さいませ」


 その宣言は重要な意味合いがあった。それ即ち、橘商会の将来的な会長の席の要求であったからだ。


 株式会社の制度がないこの国において、商家の仕事は当然ながら一族経営となる。暖簾分けや優秀な人材を養子や婿に迎える事例は珍しくないが一族が経営の実権を握る事は変わらない。


 橘佳世は、特に父親から可愛がられ、甘やかされて、この年まで商人としての教育というものは殆んど身につけていなかったといって良い。故に世間では優秀な商会の若手を婿にでも取るのだろうと噂されていたのだが………。


「佳世、それはつまり………」


 娘の発言を信じられないとばかりに目を見開いて唖然とする景季。一方、座布団でちょこんと正座する佳世は顔をあげて背筋を伸ばして堂々と胸を張る。


「御心配は分かります。ですが……それでもどうかお願い致します。私もこれ以上家や商会の方々に軽視されたくありません。お父様の後継として、娘として、励みたいと存じます」


 ですから、と佳世は強調する。


「どうか、此度はこれにて手打ちにして下さいませ。私の商人の道の、その始まりとするために」


 父の目を見て、佳世は宣言する。これが、この一件こそが自身の初めて手掛ける案件であると。ここから、自分は父の道を、椅子を継ぐのだと。商会の女主人となるのだと。


「佳世………!」


 景季は娘の言葉に感動に打ち震える。可愛い娘の立派な成長を見られた事に、愛しい娘が自身の道を継いでくれる事に………若干大袈裟な所はあるものの、それは景季にとってこの上ない福音のように思えた。


「い、いやはや……実に目出度い事ですなぁ!」

「ははは、左様で。でしたら我々も微力なりとて御協力しようと言うものですな」

 

 そしてそこに鬼月の代表と逢見の当主が若干困惑しつつも乗っかった。実際、豪商の代替わりは重要な出来事だ。世代交代とともに方針が変わったり疎遠となったりという事例は珍しくない。逆説的に豪商の次期当主となる子供に早くから近付けるのはそれだけで益である。


 だからこそ二人は乗っかる。そして、景季もまた商人としては有能でも、それ以上に父親として分別が足りぬ人物であり、この煽てに乗ってしまう。


 鬼月の代表と逢見の当主が佳世の支援者としての協力を約束した途端、三人の仲は異様な程に急速に改善していた。その会話は次第に快活なものとなり、笑い声が交ざり始める。お互い胸に一物も二物も隠しているであろうが、兎も角も場の空気は剣呑なそれが払拭されていく。


「ははは、どうですかな?後日改めて祝宴は設けますが、今日細やかながらも祝いの席でも?」

「それは善き事ですな。折角のご厚意、無下には出来ませんなぁ」

「お父様方は先にお行き下さいませ。私は姫様と少しお話がありますので」


 宇右衛門の提案に景季が賛同し、佳世は席を移ろうとする父らにそう伝える。


「佳世?」

「直ぐに終わります。姫様とは以前お話をしまして親しくなりましたもので。少しだけ作法を崩した個人的なお喋りがしたくなりまして……」

「どうぞ先にお行き下さいな。少しお話が終われば私がお嬢さんを案内致しますので」


 席に座ったままの佳世に父が尋ねれば少女二人が賑やかな笑みでそのように嘯く。


「葵……分かっておるとは思うが、余り無礼な真似は………」

「承知しているわ、叔父様。女子同士で話したい事もあるものよ。余り男が首を突っ込むのは不粋というものよ?」

「お気になさらないで下さいませ。どうぞ、先にお父様と談笑でもしていて下さいませ」


 気が強く、尊大で毒舌な姪に注意しようとする宇右衛門。それに対して葵と佳世は丁寧に、しかしあしらうように応じた。


「う、うむ………」


 葵だけならば兎も角、佳世までそう言うのであれば余りしつこく注意も出来ない。宇右衛門は逢見の当主と共に橘の商会長を歓待のための部屋に案内しにいった。男達が去り、障子が閉じられ、場に残るのは少女二人………。


 暫しの間室内は沈黙する。何とも言い様のない重苦しさが張りつめたような静けさ……それを破ったのは葵からであった。


「………さて、また会いましょうとは言ったけれど、思いの外早かったわね?」


 そう嘯いた鬼月葵は嗤う。その社交辞令的な微笑を消して、肉食獣のように獰猛に嗤う。それは一種の威嚇であった。


「っ……!商家の人間にとって時は金なり、ですから」


 その迫力に気圧されそうになった蜂蜜色の髪の令嬢は、しかし気を奮い立たせて淀みなく答えて見せる。良くも悪くも既に死にかねないような経験をしてきたのだ、今更こんな脅し目的の牽制なぞ微風……とは言えないが言葉に詰まる程に怯えるものではない。故に佳世は葵の顔を直視する。健気に、直視して見せる。


「……ふふふ、良い面構えな事。少なくともあんな甘甘な砂糖菓子みたいで、小生意気な態度よりかは好感は持てるわね」


 そして葵はそんな佳世を貶しつつも褒めて見せる。寛容に、誉めて見せる。


「それに良い手だったわよ?あのまま話が紛糾してたらもう彼と会う事が出来ないくらい家の関係が険悪になったでしょうしね。此方も謝罪の一環として現場責任者を自害させてたかも知れないし」

「っ………!?」


 葵は面白可笑しく囁いた。しかしながらその瞳だけは冷たかった。まぁ、前者の場合は置いておいて、後者の場合は全身全霊を賭けて阻止する積もりではあるのだが。一方で、佳世は葵の言葉に唯でさえ白い顔を更に青ざめさせる。流石商家の娘というべきか表情を変えるのは我慢出来ても血の気まではどうにも出来ないらしい。

 

「………それで?態態嫌味や追及のためにここに来た訳でもないのでしょう?まだまだ安静にしないといけないけれど、彼の所に見舞いにでも行く?案内するわよ?」

「…………いえ、それは別の機会にします。私も状況くらいは理解しています。今私が訪問したのが漏れたら彼の立場が悪くなるだけですよ」


 葵の形式的な誘いを丁重に断る佳世。葵はその選択に内心で合格、と呟いた。

 

「………今日ここに来た本当の目的は………貴女でしたらお分かりですよね?」

「さぁ、どうでしょうね?貴女が私の期待通りだと嬉しいのだけれど」


 硬い表情の佳世に対して葵は悠々と嘯く。微笑みながら扇子を広げて口元を隠す。


「………葵さん。貴女は彼を、伴部さんの事が御好きなのですか?」

「愛しているわよ?それ以外の他のもの全てよりも、自分の全てを捧げてでも」


 即答だった。当然のように、当たり前の事を言うように、悠然と、答える。


「っ………!」


 同時に佳世は苦虫を噛む。噛みながら猛烈な敗北感に苛まれる。自身は今の言葉を問うだけでも緊張したというのに、目の前の女がそれよりも遥かに重い言葉を平然と、しかし明確な覚悟をもって答えた事それ自体にどうしようもない格の差を思い知らされたからだ。


「確認しても良いですかね?」

「私と彼との馴れ初めについて?」

「挑発するのは止めて下さい。………お慕いしているのは承知しました。ですが疑問もあります」


 そうだ、目の前の女の想いの強さは分かった。しかし……だからこそ疑問も感じるのだ。彼女が調べた限りにおいて確かに目の前の女はあの人の事を気に入っていて、側に置いているのは分かる。だが同時にその扱いは見聞きする限りにおいて嗜虐的で、到底先程のような情念を抱いているとは思えない話ばかりなのもまた事実なのだ。この齟齬は一体………?


「………ふふ、まぁこうやって直接疑問をぶつけられるだけあの女よりはマシね」


 そうだ、こそこそと盗み聞きして盗み見して、遠くから睨み付けてくる癖に目の前で堂々と本音を口にしないような女よりかは。


「………?」

「ふふふ、灯りに誘き寄せられる羽虫は私や貴女だけじゃないって話よ」


 発言の意味を理解しかねて首を傾げた佳世に、葵はくすくすくすと嘲りながら補足説明をしてやる。その意味を理解すると共に佳世は表情を強張らせる。


「それは………」

「焦ったら駄目よ?それよりも、先ずは彼の周囲の状況について教えましょうか?そうすれば貴女にも事態の深刻さが分かるでしょうね?」


 そして葵は語る。彼女が知る限りにおいての愛しい人の今日までの境遇を。自身との出会いを、彼の立場がどれだけ危ういのか、彼の周囲にどれ程愚かで異常で危険な者共が蠢いていて、偏執を、悪意を、殺意を向けられているのかを。そして目下の課題として彼の身体を蝕むそれについて………。


「そ、そんな……嘘、そんな事…………」


 おおよその状況を聞き終えた佳世はこれまでにないくらいに顔を白くして、絶望に近い表情を浮かべる。目の前の女の偏愛と仕打ちの異様な落差から、あの夜のあの人の予期せぬ変貌から何か尋常ではない事情があるとは思っていたが………事態は彼女の思うそれよりもずっと悪かった。悪過ぎた。


「言っておくけれど、彼を買うのは止めなさい。私は兎も角、手段を選ばないような気狂い共は何を仕出かすか分かったものじゃないわよ?それに、幾ら貴女の家でも彼に薬を与え続けるのは難しいでしょう?」


 訳の分からないこだわりを持つ鬼は何処が逆鱗か知れたものではない。あの血を分けた不寛容な女の妄執はおぞましい。そしてあの男………あの忌々しく粘着質な男は一番警戒しなければなるまい。寧ろ自身の手元から離れてしまった方が命を狙われよう。そして薬……化物共の母を称するあの存在の血を抑えるには其処らの退魔士の心の臓なぞでは困難で、そんな二流三流の退魔士の臓物すら定期的に手に入れるのは至難だ。


「まぁ、最後に関しては私の責任も大きいから文句も罵倒も許して上げるわ。けれど、先程の時も言ったけど元はと言えば貴女の父親の提案だった事も覚えていなさいね?」


 序でにそういって葵は自身の責任を他人に押し付ける。いや、話自体は事実であるが、狡猾に印象を操作する。そこには目の前の商家の令嬢に罪悪感を植え付けて分を弁えさせようという葵の狭量な計算もあった。


「それは………」

「まぁ、今更貴女にそれを追及するつもりはないし、その権利も私にはないわ。責めて欲しければ全て終わった後に彼に言って貰いなさいな」


 そして一方的に佳世が苦悩するのを終わらせる。目の前の少女の自己陶酔的な自責なぞ葵は興味がなかった。それよりもずっと語るべき事がある。


「それよりも、どうかしら?随分と悩んだでしょうけれど……貴女の決心に変わりはないのかしら?」

「っ………!そ、それは…………」


 前置きもなく、葵は佳世が胸の内にしまい温めていたその選択について触れる。そこまでお見通しとは………自分が何処までも目の前の女の掌の上で踊っている感覚に襲われてしまう。


「言っておくけれど、漁夫の利を狙うのは止めておきなさい。誇るつもりはないけれど、私と違って他の奴らは狭量だし、独占欲も強いわよ?」

「…………」


 葵の駄目押しの指摘に佳世は黙る。黙って、苦悩して、思慮して、そして……苦渋の決断をする。それが最も勝算が高いと信じて。


 自分一人なんかではこの戦いに到底勝てないのは分かりきっていたから。


「葵姫様………どうか、どうか御願いしたく存じ上げます」


 佳世は心底悔しそうに声を紡ぐ。絞り出すように、屈辱と苦痛に耐えるように声を上げる。そして、申し出る。


「あの人の……伴部さんの傍らは、貴女に差し上げます。ですから……ですから………御願い致します。そして、葵姫様があの人の傍らに座る事に私が全力で助力する代わりに……代わりにぃ………」


 次第に佳世の声音は涙声になっていた。商人は打算的な生き物であるが、それでも彼女にとって、女にとってその提案は自尊心を完全にへし折られるような屈辱的なものであったから。しかし、同時に彼女にとってそれ以外の選択肢は無くて………。


「ですから……っ、その暁にはわ、私にも……私にもどうかお情けを、下さい……ませ!!」


 頭を畳に触れる程下げて、佳世はどうにか言い切った。煮え湯を飲むように、汚辱を受け入れるように、媚びるように、卑しく、言い切る。申し出る。そも、彼女が父に後継ぎとなる事を申し出たのはこのためですらあった。自身の価値を、利用価値を最大限高めるため………己の惨めさの余り目からボタボタと大粒の涙が溢れ出てくる。


 ………そして、何よりも悔しいのはそれでも尚、この選択を後悔していない事なのだ。其ほどまでに、彼女は既に自身が敗北者だという事を散々分からせられていた。分からせられてしまっていた。


 暫しの沈黙……佳世にはそれが永遠のようにも思われた。この沈黙の一時が彼女にとっては何処までも恐ろしかった。自身の誇りを全て捨て去るような宣言、しかしそれでも………それでも佳世は諦められなかった。諦めたくなかった。其ほどまでに既に佳世は執着していて、其ほどまでにその想いを強くしてしまったからだ。


 ようは、未練がましい女なのだ………佳世は自身をそう思った。嫌悪感すら抱いて、そう思った。


 そして、目の前の女の返答を待ち、待ち、ひたすらに待ち続け、そして…………。


「ねぇ、橘のお嬢さん」

「……何で、しょうか」

「貴女は、彼のために何が出来るのかしら?」


 淡々と、葵が尋ねる。そして、佳世は一瞬どう返答するべきか困惑して、しかし………次の瞬間には呆気ないくらいに簡単に答えを口にしていた。


「あの人のためならば、何でも」


 具体的な内容なんかではなくて、例外なんてなくて、しかしあの人がどうせ我慢するし、無理するし、自分で本当に望む事を口にする事なんてないだろうと何となく分かってしまって……だから佳世は極極自然にそう答えていた。彼の言う事ではなくて、彼のためになる事を、一切合切その全てを。


 ………そう、全てを。


「………」


 再びの沈黙が部屋を支配する。しかし、その沈黙は最初のそれよりも短い時間で終わった。


「頭をお上げなさいな」


 その言葉は妙に部屋に良く響いた。佳世はその意味を理解するのに暫し時間を要した。


「あっ………?」

「早くなさい。頭をあげなさいな」


 その催促に、佳世は慌てて伏せていた頭を上げる。同時に彼女は見た。目の前の優しげに微笑む桜色の姫君の姿を。……悔しいくらい美しかった。恋する乙女の顔だった。


「あぅ…………」


 思わず溜め息を漏らす佳世。同時に彼女は自身の嘆願が受け入れられた事を悟った。目の前の桃色の女は何処までも友好的な雰囲気を浮かべていた。そして嘯く。


「ふふふ、佳世さん。私達、良い友人になれそうね?………今度御茶会でもしません事?」


 佳世の側に寄って葵はにこりと笑った。……嗤った。何処までも友好的に、しかし不気味に、淀んだ瞳で、嗤った。その笑顔には明らかに情欲と愛欲と執着と執念と狂喜に満ちていて………。


 




ーーーーーーーーーーーーーーー

「羨ましい…………」

「御嬢様?」

「……何でもないわ。ただの独り言」


 牛車の中で正座する佳世は、牛車のすぐ傍らに控える女中……鶴の声にそう答える。そして、再び物思いに耽る。


「………今更時を戻すなんて出来ないのは分かっていますけど。ははっ、これならばいっそ知らぬ方が良かったのかも知れないですね」


 佳世は何とも言えない複雑な表情で力なく笑う。全く、どうしてこんな拗れて、擦れた考えになってしまったのかと佳世は思わず自身を自嘲する。


 母は恋愛婚だった。故に佳世も恋愛に憧れて、当の母親もまたそんな娘に対して同情していたのだ。その哀れで不自由な人生が見えていたから。


 母は所詮は一売り子であった。故に自由恋愛が出来た。父もまた商才があり、男であったが故にある種傍若無人な振る舞いが許された。では佳世は……?残念ながら両親程に彼女は自由ではない。


 南蛮の血を引いているだけでも奇異の目で見られるのは勿論の事である。それだけでなく将来をどうするか?女主人となるには血統だけでは足りない。当然ながら厳しい経験と勉学そして実績が不可欠、仕事に関わらずただの商家の令嬢として生きるとすれば当然のように政略結婚する以外にあり得なかった。どちらにしろ相当に息苦しい事は間違いない。橘家の直系は彼女だけなのだから。さもありなんである。せめて兄か弟がいれば良かったのだが………それが父が彼女を溺愛し、母が御忍びの逢い引きを許す一因でもあった。


 流石に本気になられては困るが、遊びとしてくらいならば母は他の子供を産めなかった罪悪感もあって佳世の願いを最大限聞き届けようとしていたし、佳世もその事は分かっていた。………問題は遊びの筈がその相手に本気の本気で入れ込んでしまった事であり、そして同時にそれに敗れ、尚も未練と執着を残して、その余りにあの夜にあんな秘密の約束をしてしまった事だ。


「……本当、羨ましいですよね?」


 ふと、佳世は懐に忍ばせていた巾着を取り出す。そしてぎゅっ、と両手で握り締める。握り締めて、胸に抱く。


 ……あぁ、そうだ。全く、悔しいくらい羨ましかった。


 彼を連れ去られた時もそうだし、あんな他人が見れば呆れるような約束を結んだ時もそうだ。葵、あの女のその表情を見た時、佳世は心底思ってしまったのだ。恋のために、いや愛のために彼処まで狂えるなんて、其ほど夢中になれるなんて、と。きっとあの退魔士の女の心中は何処までも甘く、荒々しく、暗い激情が渦巻いているのだろう。文字通り狂うような思いに耽り、苦しみ、溺れているのだろう。


 佳世には、初恋を知ったとともにそれを奪われた彼女にとって、それは何処までも羨ましく、輝かしく、悔しくて、疎ましく、妬ましかった。しかもあの女はあの人をずっと手元に置けるし、ずっと長く触れ合っているともなれば……!!


(狡い……と思っても仕方無いのですよね。どの道勝てないのですから)


 だから彼女に出来る事は媚びを売る事だけであり、協力する事だけであり、その褒美を受け取る事だけなのだ。悔しくてもそれが厳然たる事実であり、覆しようのない現実なのだ。


 唯一、あの女に勝てるものがあるとすれば………。

  

「御嬢様、どうやら来たようです」

「えっ……?えっと、あれですね?」


 鶴の言葉に佳世は一瞬呆けて、しかしその意味に気付いて少し慌てて物見窓から顔を覗かせる。


 物見窓から見える都の大通りを、幾台もの馬車や牛車、あるいは騎馬や人足が隊伍を為して進んでいた。都の城門に向けて向かうそれは都の守護の任を解かれた武士団や退魔士達が自領への帰路に就くためのものであった。逆に上洛する隊列を含めれば都では一年を通してこのような光景がほぼ毎日見る事が出来る。


 そしてその中の一列に佳世は視線を向ける。牛車に描かれた家紋から見て、恐らくそれで間違いない。


「御者、彼処へ」


 鶴の言葉に佳世の乗っている牛車が進み始める。そして目標の相手の車の側に並走し始める。


「な、何だ!?って、この家紋は………」


 ふと、突如見知らぬ牛車が並走してきた事に鬼月の車の側で槍を手にして控えていた人影が呟く。そして、その声に佳世は思わずびくりと内心で緊張する。そして同時に胸が急速に高鳴る感覚も自覚した。そのありふれた、凡庸な声を佳世は良く知っていたし、あの一件以来ずっと聴きたくて聴きたくて仕方無かった。


 無論、あからさまに表情には出さないが。………少なくとも今のところは。


「そのお声は………伴部さんですか?」


 物見窓から平静を取り繕った顔を出して佳世は宣う。努めていつも通りの口調を装って、宣う。


「そのお声、橘の御嬢様で……?」


 そう答えた黒塗りの衣装に仮面を備えた人影。恐らく何とも言えない表情を浮かべているだろう事がその言い方からも容易に想像出来た。そして佳世は今更ながらに既に自分がその面の下の顔付きを知っているのだと気付く。そう思うと何とも言えない全能感と優越感に満たされた。何なら仄かに漂ってくる体臭が鼻腔を掠めると先日の事を思い出して少し背筋がぞくりとした。流石に顔には出さないが。


「はい。お久し振りですね?御体の方は問題ありませんか?」

「………はい。お陰様で特に問題はありません。お気遣い有難う御座います」


 その言葉とは裏腹に、目の前の青年の警戒心が強まった事を佳世は自覚した。そして失敗しちゃったな、と内心で反省する。佳世からすれば本当に心配していただけなのだが……確かに警戒されても仕方無い。


「それは良かったです」

「それよりも、また何用でしょうか?生憎、我々は今日中に都から立ち退きせねばならぬ身。今は隊列が込み合っておりますのでこのように立ち話が出来ますが……御用でしたら急ぎ姫様か宇右衛門様に取り次ぎましょうか?」


 そう申し出る下人。しかしながら佳世は首を振ってその提案を丁重に拒絶する。


「いえ、それについては御心配なさらずに構いませんよ?連絡でしたら既に下男を宇右衛門様の下に走らせておりますので」

「それはそれは結構な事ですね」

「はい。今日から凡そ二十日程の道程、宜しくお願い致しますね?」

「はい。承知しました。これより…………はい!?」


 佳世の言葉に乗りそうになって、下人は一瞬それに乗せられるように動きかけた。慌てて足を止めてその場で硬直する。そして彼は今更のように佳世の乗る牛車について来る数台の馬車と数十人程の人の隊列に気付く。無言で、目の前の下人は佳世の方に視線を戻す………。


(きっと面の下で唖然とか、茫然とした表情を浮かべていそうですね)


 佳世は思わず内心で彼のそんな可愛らしい表情を思い浮かべた。そして、言葉を続ける。


「あら?お聞きになっていませんか?そちらの主人には既に文をお出しした筈ですが。………お父様の後継ぎとして、北土の支店に勤める予定でして。確か鬼月の御屋敷からも一、二日程で着きますので近いですよ?なので序でに護衛もしてもらう事にしたんです!」


 佳世はにっこりと笑みを浮かべて答えた。とびきりの笑顔で。尤も建前……それこそ父の後継ぎになる事すらそのための手段に過ぎない事を知っているのは彼女と、目の前の彼の主人くらいだろう。


「あぁ、そうでした。向こうに着いたらお暇な時にでもこの前の埋め合わせ御願いしますね?私、北土の地は初めてですから。御案内してもらえたら嬉しいです!」


 そして目の前の下人の守る牛車からの逆鱗に触れないギリギリのギリギリを攻めるように最大限、極々自然な態度を装って宣って見せた。そう、その手元の大切な御守りを握り締めて。


 ……笑みを浮かべたその瞳の奥底にどろりとした暗く、激しい感情の光がある事をひた隠しにして。

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