第三六話

 ……時は暫し遡る事になる。大衆食堂での食事を終えた俺達は次いで軽い運動を兼ねて市場の探索を始めた。雑貨店や露店の商品を見て、冷やかしていた。そして、俺は運良く、あるいは運悪くとある原作ゲーム『闇夜の蛍』に登場するサブキャラクターに遭遇する事になった。


「わあぁ………伴部さん、これ見て下さい!どうです!?似合いますか?」


 露店の一つの前で止まった佳世が市女笠の隙間から俺にその蜂蜜色の髪を、正確にはその髪に簪を挿していて、くるりと回って見せびらかす。橘の甘い香りが周囲にふんわりと広がった。


 市女笠越しにも分かる愛らしさ、歳に似合わない魔性の魅力であるが……俺にとってはそれは今は問題ではなかった。それよりも、これはまた………。


「……そうですね。まずはその簪を外して店員に謝るとしましょうか?」

「?」


 俺の言葉に何を言ってるのか良く分からなそうに首を傾げる佳世。残念ながら店主に断りもなく並べてある簪を取って髪に挿すのは避けた方が良い。ましてや市女笠をして頭部を隠しているとなればな。


(盗みのプロであれば極自然な所作で商品をどさくさ紛れに盗む事も出来る状況だからな。自分から疑惑を作る必要もなかろうに)


 せめて一言店主に断りを入れるべきだろう。その辺りの意識が低いのはやはり御嬢様という事か。しかも………


(……よりによってあいつかよ。アクが強い奴を見つけてくれるものだな)


 俺は内心で突っ込みを入れる。佳世は唯の露天雑貨店とでも思ったかも知れないが、良く良く見ればその事実に気付く事も出来るだろう。そう、露天に陳列している商品の多くがただの装飾目的の物ではない事に……というか俺は一目で分かった。俺は実際に目にする前からこの露店商の事をある程度知っていた。


「失礼、連れが勝手に商品をつけたようで。他意はないのですが……何か問題はありますか?」

「ん?なぁに、問題はねぇよ兄ちゃん。流石に餓鬼が商品身につけてはしゃぐ程度で盗み扱いはしねぇさ」


 椅子に座る屈強そうな中年の露店商はにやにやとした笑みを浮かべて答える。


「いえ。貴方の方は兎も角、呪具の方はそこまで臨機応変ではないでしょう?」

「あ?……あぁ、てめぇ、そういう事か。見たところ……何処ぞの金持ちの護衛中って所か、あぁ?」


 低い声で紡がれる俺の発言に首を傾げ、次いで俺の顔……正確には外套によって認識が阻害された風貌に気付くと不愉快そうに顔を顰める中年商人。こいつが退魔士やその類いを出身としても、仕事柄としても毛嫌いしている事は知っていた。


「モグリの呪具師、ですか。まさか都の市場で白昼堂々と露店を開いているとは……検非違使共は何をしているのでしょうかね?」


 耳元で蜂鳥が失望交じりの呆れ声を漏らす。いやまぁ、こいつは確かにモグリだが、しかしそこらの低品質品を一山幾らで売り捌く輩とは微妙に違うのも事実だぞ?


 ゲーム内の一部のイベントと低い確率で各地にランダムで出現するこの行商人は先祖を貶められ、没落した退魔士の家だ。


 鱒鞍杜屋は設定上は良くいる旅の行商人をしながらも、副業的に裏では朝廷の認可も受けずに呪具の作成と販売を行っている霊力持ちの男であり、ゲーム内部においては所謂レアアイテムの類いを売ってくれる人物である。


 とは言え一部のルートを除けばランダムでの出現のために遭遇するのも困難であり、最初の内は攻略スレでもガセ情報扱いされていた程だ。どれくらい難しいかって某世界的人気を博するモンスター捕獲ゲームの幻な島を見つけるよりも十倍くらい難しい。尚、乱数調整なんて製作陣はとっくの昔に対策済みなので無駄だぞ?


 尤も、その遭遇率の低さに似合うように購入出来るアイテム類も値こそ張るが効果はかなりのものだ。実際、以前触れた妖母様をぶっ殺すためのレベルカンスト完全武装した上での地下水道殴り込み実験をしたプロゲーマーは主人公達に対してこいつから買った激レアアイテムを複数装備させていた。……まぁ、そんだけやっても無理だったんですけどね?

 

(いや、まさかこんなタイミングでこいつと出会すとは思わなかったな。これがゲームならば大喜びだが……今の俺が会っても仕方ねぇしなぁ)


 彼が自作して販売するアイテム……呪具の性能こそゲーム終盤でも十分通用する代物であるが、値段も相応のもので、実際ゲーム序盤の手持ち金がない状態でこいつに出会したプレイヤーは逆に運気を使い果たしたと御通夜状態になるあり様だった。しかも、設定が設定のお陰で退魔士の下人なんて立場の俺なんて然程友好的な関係は期待出来まい。それこそ主人公くらいの表裏なく人間的に魅力的な奴でなければな。


 ……何にせよ、割と人間不信なこの男が商品に、それも呪具の類いに防犯上の何ものも仕込んでいないとは思えない。下手に勘違いされる事をすれば所有者は手酷く呪われかねなかった。というか実際外伝の短編SSでそのネタがあった。故に尋ねたのだが……。


「安心しろよ、俺だって商品の安全性くらいは考えてるわな。流石に商品を無断でつける程度で呪いはしねぇよ。それに、こいつは買い取り手の防犯対策にもなるんだぜ?」

「朝廷も陰陽寮も、呪具の流通に規制を掛けている事は理解していると思いますが?」

「……てめぇ、チクる積もりか?あぁ?」

「此方も見て見ぬ振りというのも難しい立場ですので……」


 せめて見えない所でやってくれって話だよ。俺だって佳世が商品に触れなければ関わらなかったさ。難易度が高いとは言え主人公のレアアイテム入手ルートを潰したくはない。


 しかしどうせ何処かに監視がいるのだ。佳世がいるのでこの場で騒ぐ事はないが……検非違使共が来る前に商品を畳んでトンズラして欲しいのが本音の所だった。


「え、えっと伴……権兵衛さん?」


 俺と行商人の間に流れる何処か剣呑な空気に気付いたのだろう、佳世が何処か不安そうでバツの悪そうな表情を浮かべて俺に呼び掛ける。しかしながら俺はそれに容易に反応する訳にも行かぬ訳で……。


「……あー、へいへい。そんな剣呑な態度してくれるなよ、兄ちゃん?御互い仕事でやってんだ。上手くやっていこうや。な?」


 暫しの沈黙の後、行商人は降参するような態度でそう呼び掛ける。呼び掛けながら周囲を警戒するように見渡してそう俺を宥める。彼もまた此方の事情にある程度気付いたらしい。何せ先祖が元退魔士で、今でも呪具をモグリ共に売ってる身だ。その方面の事情くらいは理解している筈である。


 その上で御上のため態態争う事なぞ馬鹿馬鹿しいと彼は主張しているようだった。生きるために働くのであって、そのための労働で互いに不必要に損するどころか傷つき、命を危険に晒すなぞ馬鹿馬鹿しい、と。まぁ、その主張はある意味では真理ではあるが……。


「ほれ、その嬢ちゃんの髪飾りはまけてやるからよ?お口チャックで頼むよ、な?何ならほれ、お前さんにも一つくれてやるよ。……ほれ、これなんてどうだ?」


 そうやってにかっと笑うと揃えられている商品から適当なものを一つ定め、そのまま押し付け気味に俺の手の内に差し出す鱒鞍杜屋。ようは口止め料である。トンズラするから今すぐここで検非違使なり警羅共に通報してくれるな、という訳だ。


「……質は悪くは無さそうですね。しかし、この出来ならば内匠寮なり陰陽寮なりに仕事の口はありそうですが?態態こんな場所で危険を犯してまで露店売り等と……」


 手の内に押し付けられたそれ………腕珠を品定めして俺は尋ねた。恐らくは賄賂として見つかりにくいものをという事で隠しやすいそれは流石に露店でバラ売りしているだけあってゲーム中で主人公達に売っている激レアアイテムに比べれば遥かに質では劣る。しかし、それでも其処らのモグリが安かろう悪かろうで同業者や民草相手に大量生産している呪具よりかは遥かに良質であるのが分かった。これだけの質が良ければ朝廷でも働き口があっても可笑しくはないのだが……というか、良く考えたら行商人してるよりもその方が原作ゲームのストーリー的にも都合良くない?朝廷陣営強化してくれよ。


「あ?冗談は止してくれよ。宮仕えなんざ懲り懲りだね。あんな息苦しくて面倒な所で働くなら豚箱行きの方がマシさな」


 しかしながら、俺の提案に対して最大限嫌悪感を滲ませて鱒鞍はそう答えた。……いやまぁ、お前さんの場合御先祖様が痛い目にあってるからな。余り期待はしてなかったさ。さて、それは兎も角として………。


「………金は払いますよ。こういうのは教育に悪いですからね。それに、賄賂扱いされたくはない」


 実際、金を払った方が良かろう。傍らの佳世に対する教育上の観点からしても、後々の追及に対しての言い訳としても。


 朝廷がいくら規制していても、モグリ共の作った御守りや護札の類いは市井のその需要の大きさと公的機関からの供給不足もあって税が掛けられていない非合法品が大量に出回り、実質摘発は不可能な状態だ。故に正直な所、それを買い取るだけあれば然程の罪にはならない。そんなので一々捕まえていては牢屋が満杯になる。精々が罰金程度であろう。


 それでも無料で、というのは流石に宜しくない。善意の第三者として非合法品と知らぬままに買った、という事にしておくのが丁度良い落とし所か。


「……まぁ、良いさね。たく、小銭稼ぎに市場に来たと思えばよりによってこんな訳ありな奴らに引っ掛かるとはなぁ。運がねぇな俺も」


 品物の材質は兎も角、術式的な意味での質に比べればお買い得と言える代金を受け取った行商人は深く嘆息するとトンズラするために露店の商品をかき集め始める。


「さて、さっき会ったばかりの俺が言うのも何だがお前さんも頑張るこったな。何やら大変そうだが……精々上手く世渡りしろよ?」

「………?それはどういう……」


 商品を傍らに止めていた馬に載せこみながら呆れ半分、同情半分に嘯く行商人。その言い様のニュアンスに何とも言えぬ違和を感じつつも、それを尋ねる暇は無かった。彼に声をかける前に直ぐ側にまで来ていた少女が不満げな表情で俺の服の袖を掴んでいたからだ。


「……伴部さん」

「権兵衛です」

「呼んでも無視されたので」


 心底不機嫌そうな態度の佳世は答える。……そう言えば何か俺を何度も呼んでたなぁ。一人だけ蚊帳の外にされて拗ねたと言った所か。


「……申し訳御座いません、柚」

「佳世です」

「……はい、佳世様。申しわ」

「『佳世』です」

「……佳世、申し訳御座いません」


 恭しく答える俺に対して、しかし佳世は更に不機嫌な表情を浮かべる。いや、流石に俺にもこれ以上は何が不満なのか分からんわ。


「良く思い出して見て下さい。あの行商人と話す前に、その少女は何を言っていましたか?」


 耳元で嘆息するように助言が授けられる、が残念ながら俺は直前に彼女に何を言われていたか度忘れしていたがためにそこから答えを導き出す事は叶わなかった。


 俺の困惑を察してか、佳世は拗ねた表情を見せつつも何やら考えて、溜め息を吐き、次いで渋々と言った態度で俺にそれを突き出した。


「これは?」

「見て分かりませんか?先程権兵衛さんが買った簪です」

「はい、それが……?」

「実はもう一つ良さそうなものもあったんですよ?」


 ……成る程、多分だが不機嫌の理由が分かってきた。


 思えば最初に佳世は俺に見せびらかして来ていた。恐らくは気に入ったものが数点あって、実際に着けてみて第三者としての俺の意見を聞いてから商品を買おうとしたのだろう。それを似合うかどうかの質問を無視されて、名前を何度も呼んでも無視されて、挙げ句に勝手に買われたら不愉快になるものなのかも知れない。


「かも、ではありません。間違いなくそうなります。誰だって自身が蔑ろにされるのは不快でしょうからね。ましてや今回の場合は」


 チクチク、と見えないように俺の耳をつつく蜂鳥。うん、痛いから止めて。


「権兵衛さん、いいましたよね?私を満足いくまで楽しませてくれるって」


 そこまで断言はしていない、と言うと怒るだろうなぁ……。取り敢えずここは謝罪の一手だな。言いたい事があろうとも、言い訳せずに素直に下手に出るのが一番良い事もある。


「……申し訳御座いません。今後挽回しますのでどうぞ寛大な処置を御願い致します」

「伴部さん、謝ったら許して貰えると思ってませんか?」

「滅相も御座いません」


 ごめんで済めば警察はいらないからな。とは言え、今回は警察呼ぶ案件でもないけど。


「むぅ………、張り合いがありませんね。そんなに素直に、それも淡々と謝られたらやりにくいじゃないですか!」


 そう言って頬を膨らませて少女は拗ねる。


「貴女と喧嘩をする訳にはいきませんし、したいとも思いませんので。柚は違うのですか?」


「それは……違いますけどぅ。……分かりましたよ。じゃあ、これから減った私の好感度を挽回して下さいね?」


 若干不満げにしつつも佳世はそう私に命じる。そして同時に先程買った髪飾りを差し出した。


「これは?」

「どうせですから着けて下さい。嫌ですか?」

「いえ……」


 折角此方の誠意に応えてくれるのだ、ここで拒否して空気を悪くするのも宜しくない。俺は命令に従って受け取った髪飾りを彼女の黄金色の髪に添えるように飾る。


「えへへ、似合いますか?」

「はい。色合いの組み合わせは悪くはありませんよ」


 黄色と青色の組み合わせは元々色彩的に互いを映えさせる。彼女の髪の色に花を象った水宝玉は良く似合う。


「それは良かったです。では!」


 当然のようにガシッ、と佳世は俺の手を引っ張る。そして宣うのだ。


「では今度は、私が行き先を指定しますね!一度行って見たかった所があるんです。……良いですよね?」


 首を傾げて可愛らしく、態とらしく、そして有無を言わせぬ雰囲気で少女は尋ねた。無論、元より選択肢はないし、先程の件を思えば尚更の事、故に……。


「……貴女のお気に召すままに」


 見よう見真似で西方の騎士宜しく、恭しくそうお姫様の御言葉を快諾する以外の道は無さそうであった……。





「……で、その行って見たかった場所がここか」


 商家のお嬢様に手を引っ張られて連れ込まれたのは書店だった。都の一角に構える一軒の有り触れた書店……しかし俺は原作のゲームでも舞台の一つとしてこの場所を見知っていた。


 確か好感度やゲームの進行具合によって幾つかのキャラクターとここで出会して本編とは余り関係ない小イベントが発生する場所であった筈だ。表は普通の書店で、裏では御忍びの貴人も足を運ぶ頭悪い意味で訳ありな書籍を売ったり貸したりしている店である。


「それで?どうしてこのような場所に?」

「女中達が前に立ち話してたのを小耳に挟みまして、御父様や鶴は余り自由に本を読ませてくれないんです。ですから……」


 決して大きくはない両手を合わせてニコニコと笑顔を向ける佳世。あざとい御願いのポーズである。


「幾つか読んで見たかった物語があるんです。一緒に探してくれませんか?」

「……私は責任は持てませんよ?」

「あ、文字読めるんですね?」

「……ある程度は」

「ふふふ、それは良かったです」


 佳世の言葉に俺は墓穴を掘った事に気付いた。これまで基本的に無学で戦闘以外の技能に乏しい下人としての立場をアピールしていたが、書籍の題名が読める程度には文字の読み書きが出来る事に気付かれたようだった。実に面倒な………。


 江戸時代宜しくこの世界にも寺子屋があるにしろ、人口の大多数は農民で、寺子屋自体無料ではない。ましてや農村では子供だって貴重な労働力である。識字率は高いとは言えない。男女合わせても半分あれば良い方だろう。ましてや俺のような下人なんていう消耗品は本来………。


 幸いこの扶桑国で使われる文字は崩し字が多く、言葉の使い回しが古めかしいものの日本語である事には相違ない。故に多少苦労しつつも前世の知識のお陰で俺は村にいた時から読み書きは出来たし、雛の雑用として雇われた時には貴人用の文法や書体の聞き齧り程度には手解きも受けた事があった。


「……柚」

「分かっていますよ。安心して下さい。ちゃんと紙に題名は書きました。これなら御父様達に言い訳出来ますよね?」


 にっこりと笑顔でそう宣い、万年筆で題名の書かれた紙の切れ端を差し出される。用意が良い事で。


 鬼月家は兎も角、橘家に俺が曲がりなりにも文字が読める事はバレたくなかった。今回のように余り彼方側の教育方針に反する書籍を探すとなると題名が読めるとバレたら恨まれる。表向きは題名の「文字の形」で探したという事にしたい。本の題名の意味が分からなければ中身も分かりっこないのだから。


「感謝致します。……ではお探しの本を探すとしましょうか?」


 俺は恭しく感謝の意を伝え、そのまま彼女と手分けして目的の本の捜索を開始した。


「にしてもこの面子は……未来に行き過ぎだろ」


 淡々と本棚を見ながら、そこに並ぶ書籍の題名を内心で読みながら俺は突っ込みを入れる。いや、確かに現実の文学でも身分差物は当然として、百合も男色物も相当な昔からジャンルとしてはあるが……TSに異種姦、年の差、おねショタ、催眠物まであるとは業が深い。道徳観念と貞操観念に全力で喧嘩を売ってやがる。


「匿名での朝廷批判や過激な風刺画付きの瓦版や献策書もあるようですが……大半は取るに足らない娯楽本ですね。呆れた事です。貴重な紙をこんな下らぬものに使うなぞ……」

「はは、いやはや……人の欲望に際限はねぇな」


 肩に乗った蜂鳥の軽蔑を含んだ声に俺は苦笑いで応じる。棚にみっちり、それどころか棚の上にまで崩れそうな程載せられた書籍……その半分は明らかに不健全な内容の代物だ……の山を見つつ俺は呆れる。確かに前世と違って簡単に書物を廃棄出来る程に安い訳ではないがなぁ………。


(まぁ、誰だって娯楽は必要だからな)


 方向性は兎も角、仕事ばかりでは精神が摩耗するものだ。内容は内容ではあるが、賭博なり酒や女で身持ちを崩すよりかはマシだと思うべきであろう。そんな事を思いながら俺は棚から佳世のお探しの本を捜索するのを再開する。


 ……そんな風に余所見をしていたのが悪いのかも知れない。


「それにしても目的の本は何処だ?ん?えっ……?うおっ!?」


 故に俺は次の瞬間棚を曲がった所にいた床に座り込みながら本を読んでいたその人影に直前まで気付く事が出来なかった………。






 まず擁護するならば、彼女は本来この場に……この都の一角に構えられた然程大きい訳でもない書店に来る予定はなかったのだ。ましてや女物の羽織を着込み、髪飾りを備えてめかし込んでなぞ……それこそ必要でなければ自発的にやる筈もなかった。


 故に、それは仕方無くなのだと紫はこの日の朝自身に言い聞かせていた。そう、そう言い聞かせていたのだ。


 ……地下水道での一件で謹慎を言い渡されていた彼女がそれを解かれたのはほんの昨日の事で、その後に彼女は自宅に引き籠っている間常々考えていた事を直ぐ様に実行しようとした。


 謹慎を終えた直後に彼女は女中共に命じて身支度を整えた。以前父や兄らに与えられた羽織を着込んで、髪飾りをつけて、薄く化粧したのは断じて彼が理由ではない。確かに鬼月の家に直々に足を向けて文句を言いに行く序でに見舞いに一目くらい見に行っても良いとは考えていたが、それとこれとは無関係なのだ。一切、合切、全く関係なぞありやしないのだ。


 そう自問自答して答えを出して悠々と鬼月の従姉らの宿泊する逢見の屋敷に訪ねようとして、女中の一人から従姉らが宮城の園遊会に招かれて留守にしていると聞いたのは屋敷を出る直前の事だった。


 そして仕方無くあの男の見舞いだけしてやろうとそのまま女中らの声を無視して逢見の屋敷まで行き、あの男まで仕事でいないと何故か鬼月で働いている地下水道の案内役に聞いたのは凡そ二刻程前の事である。………流石に茫然とした。


 暫く上の空になりながら都の通りをとぼとぼと当てもなくさ迷って、続いて仲睦まじそうに街を歩く若い男女らを見ると急に腹が立って、苛立ってきて、悔しくなって、何故か寂しくなった。そしてそのまま屋敷に戻ろうかとでも考えて、ふと謹慎中にお喋りな女中の話していた話題を思い出したのだ。


 謹慎中になって急に放置していた髪飾りや衣装の棚を漁るようになった彼女に女中らがあれこれと化粧や流行について話すようになったのだが、そんな中である女中がその貸本屋について語っていたのだ。


 一見すれば都に幾つかある何の変哲もない庶民向けの貸本屋であるのだが……その実、裏手では普段庶民が読み耽るような俗物的な本を立場ある人が手にするための店であり、身分を隠した高貴な者達も足を運ぶ事もあるとか。


 そんな話を突然思い出した紫は気付けば何となしにふらりと足を運んでいた。そして貸本屋の裏手から話に聞いた通りに入店し、ある種の衝撃を受けた。


 普段、公家なり大名、あるいは退魔の家……何にしろ立場ある者らの読む書物と言えばそれ相応の内容のものだ。ましてや父兄らのような退魔士を目指していた彼女は所謂普段姫君が読むような物語なぞ殆んど読んだ事がないし、面白いとも思わなかった。強いて言えば従姉との話題作りのために読んだ事はあるが……肝心の従姉が適当な返答しかしないし、自身も無理して読んでいるだけのために内容なんて直ぐに忘れてしまう。だが………。


「あ、これ、題名が……」


 ふと棚に詰め込まれた数ある本の内の一冊を紫は引き抜き頁を開いていた。それは所謂恋愛小説とでも言うべきものだった。内容は高貴な女性とその従者が添い遂げるというものだ。


 正直、この国の常識と道徳からすれば身分差のある自由恋愛というだけで余り誉められた内容ではなかった。ましてや男の身分の方が低いとなると……執筆者はどうやら平民のようだった。


 その設定と作者の時点で下賤な下下の者らが執筆した韻も作法もない駄文とでも評すべき代物であろう。身分ある者であれば読む前からそう判断する。この国において文物は高貴で教養ある者が風流で形式に沿って書き記したものこそ尊ばれ、それを外れたものはどれ程の内容であろうが評価されぬのだ。……少なくとも表向きは。


 当然大衆はより俗的であり、形式や韻や風流なぞより純粋に面白く、あるいは奇抜な内容のものを好むし、身分ある者らとて全員が全員心の底から形式主義の極致のような文物を好む訳でもない。民衆らの娯楽として楽しむ俗話な文物に密かに興味を持つ者も少なくない。


 ましてや貴人ら向けの形式的な恋愛小説すら殆んど読まず、関心のなかった紫にこの手の文物に耐性があったかと言えば……一度読み始めた紫は興味本位の流し読みをする積もりがいつしか完全にのめり込み、読み耽っていた。


 あっという間に一冊丸々読み切ると紫は若干紅潮した表情で深く嘆息して、そしてその視線は自然と棚の他の本に向き、その白く華奢な手を伸ばし、その細い指はみっしりと棚に並ぶ表題をなぞる。


 ………問題があるとすれば紫の家庭環境と彼女自身のこれ迄の嗜好だっただろう。彼女が月の物になっても女中が申し出るまで家族が皆が皆それだと気付けないような男家族に囲まれて生まれて来た紫である。


 ましてや数少ない恋愛小説を読んだ経験も貴人向けのもののそれしかない彼女は平民の女性向けの娯楽本なぞその一般的な内容がどういうものなのか基準が分かろう筈もなかった。何なら彼女自身少し気にしているが友人は多くないのでお喋りの議題に上がる事もなかった。


 つまり、何が言いたいのかと言えば………読書に熱中しているうちにいつの間にか成人男性向けのそれの区域に移動していても気付かないし、ましてやその内容がその手のものであろうとも紫にはそれが男性向けなのか女性向けなのかが紫は判断出来なかったし、というか気づけなかったという事である。


「えっ……!?嘘、そんな事まで……!!?」


 六冊目の本を読み始めた紫は顔を真っ赤にして口元をわなわなと震わせて、しかしその瞳は本の文章と挿絵を凝視し続ける。もしこの場に誰かいれば彼女が一般女性向け恋愛小説と思って見ているそれが所謂男性向けの春画や艶本の類いである事を教えてくれたであろう。残念ながらそれを指摘してくれる人物はいない。


「あ、あぅぅ……えっ、どうしてそんな……えぇ!!?」


 周囲にはひた隠しにした身分違いの恋人二人が誤って飲み干した酒のせいもあって、ついに互いの思いを我慢出来ずに逢瀬に及んだ……俗に濡れ場と呼ばれる場面に入ると文字通り紫は茹で蛸のようになっていた。

 

「はうぅぅ……そ、そんな破廉恥な事まで。こ、これを庶民の娘が見ているというのですかっ!?し、信じられません!何と低俗なっ………!?」


 そんな風に民草の読む文物を罵倒しつつも、そういう紫自身食い入るような目付きで手元の本を睨み続けている事を誰かが指摘すれば、彼女は恐らく悲鳴を上げて動転していた事であろう。現実にはそんな人物はおらず、彼女は息を荒くしながら本の頁を繰り続ける。繰りながらごくりと息を呑み、登場人物達の次の行動を読み進め続ける。


「えっ!?えっ!?ええぇぇ………!?そんな口で……嘘、そんな所までするの!?あ、あうぅぅぅ……そ、そ、そそそんな激しく………?」


 一々口で呟きながら紫は自身の想像力、あるいは妄想力と空想力を総動員して物語の場面を脳裏に思い描いていた。そしていつの間にか脳裏に描かれる少女の姿は自分ものとなっていた。対してその御相手は………。


「べ、別にた、他意なんてありませんよ!?そ、そうですよ!!流石に家族を使うなんて有り得ませんからね!?その代わりですよ!ええ、それだけです!それだけに決まっています……!!」


 自分自身を言い聞かせるように、それでいていもしない誰かへの言い訳のように紫は早口で語る。誤魔化すように叫ぶ。そして、改めて紫は物語に登場する二人の「逢瀬」に思考が、あるいは妄想が及ぶと彼女の興奮は一層高まる。


 身分が下である少年に寝床に押し倒されると普段は気が強く、男勝りな所もある主人がしおらしくなる。何時もは恭しく穏やかな彼の視線は、しかし暗い室内の中で獲物を狙う獣のように妖しく光り、少女は思わず身をすくませる。しかし……抵抗はない。


 そのまま乱雑に衣服を引き剥がされて半裸にされる少女は顔を赤く染め上げる。明らかにそれは酒によるものだけではなかった。為すがままの少女は上目遣いで庇護欲を誘うように怯え、しかし同時に媚びるような視線を向けていた。


 同じく酒精に酔いしれる少年は普段見せる事のない冷酷な薄笑いを浮かべると彼女の向ける感情の後半の方に応じた。そのまま少女の髪を掴むと布団に頭を押し込めて四つん這いの姿勢を強いる。


 ………余りに乱暴な扱いに潤む眼で少女は彼を見つめた。しかし非難の言葉はなく、ただただ沈黙するのみだった。


 何時しか少女は人体の構造の関係から極々自然に臀部を突き出す姿勢となっていた。彼女の下半身は既に彼によって足だけでなく、太股も、その上まではだけて、日に焼けていない白く柔らかな肌を惜しみ無く晒け出していた。少年は主人である筈の少女の耳元で何かを囁く。少女は目を見開き、しかし小さくこくりと頷いた。そして、それを確認した少年は加虐的な視線を彼女に向けると当然の如くその細くも引き締まった腕を伸ばして……。


「はぅ……はぁ……はぁ……ゴクリ………」


 最早行儀や世間体なぞ完全に抜け落ちて、本棚の端っこに凭れるように小さく女座りになって夢中になって紫は事の始まりを読み進める。読み進めながらそのまま瞳を潤ませた彼女は甘く、深い吐息を吐く。


 妄想を脳裏に思い浮かべるとともに身体の奥底から疼きを感じた。そして紫は誰に教えられた訳でもなく、明確な知識も意思もあった訳でもなく、ただただ本能に従い自らの内股にその指を伸ばした。そして………。


「……は何処だ?ん?えっ……?うおっ!?」

「ふぇっ!?」


 次の瞬間、紫は本棚を曲がってきた人影にぶつかって床に伏せるように倒れた。ドカッ!ドスン!という音がなる。


「不味い!?」


 同時に響くのは青年のような声だった。何となしに何処かで聞いた事があるような声に思えて一瞬紫はその事に気を取られた。しかし……直ぐにそんな事を気にしている余裕はなくなった。二人がぶつかった事による衝撃で本棚の上に乱雑に載せられていた書籍が雪崩のように落ちて来たのだから。


「きゃっ……!?」


 これが鍛練中や妖退治であれば兎も角、都の中で先程まで読書(と妄想)に集中していた彼女には反応が出来なかった。慌てて頭を手で守り、やって来るだろう痛み目を瞑り耐える。


「……はい?」


 何時まで経ってもやって来ない痛みに恐る恐ると目を開く紫。そこにいたのは此方に覆い被さる姿勢で乗り掛かる人影の姿で……。


「痛たた……ついてねぇな。失礼、怪我はありませ…ん……か?」


 恐らく視線が交差した筈であった。しかし……認識阻害の外套のせいで声質や風貌は良く認識出来なかった事にその時の紫は気付かなかった。ましてや自身の顔を確認した目の前の人物が明確に動揺していた事もである。唯一つ、彼女に分かる事は………。


 ……ゴボッ。


「………ふぇ?」


 取り敢えず唯一つ紫に分かる事は、目の前の人物に出会したその瞬間に生じた一月ぶりのそれによって、自身の下着が一枚駄目になった事だけであった……。







 場に沈黙が走っていた。一方は偶然出会した人物と面識があり尚且つこのような場所での邂逅であったが故に、今一方は出会した誰かを認識したとともに生じた身体の変調に困惑した事によって。


 重苦しさすら感じる沈黙……最初に動いたのは床に倒れていた夜光貝色の髪の少女だった。しかし、それは決して冷静な思考からのものではなく、寧ろ混乱の極地からのものであった。


「~~~っ!!?」


 殆ど言語化も出来ないような小さな悲鳴が上がったが、それは決して目の前に覆い被さる人物に恐怖したからではない。確かに紫は小柄な少女であるが、その霊力と武術の器量は親兄弟にこそ劣るものの大概の男性ならば最悪殴り殺す事すら不可能ではないだけのものを持っていた。


 故に彼女が悲鳴を上げた理由は相手への恐怖ではなく、寧ろ自らに向けてのものであった。


「し、失礼!?い、今どきますので……!?」


 とは言え、相手にそれに気付けという方が無理というものだ。顔を真っ赤にして、目元に涙の粒まで作って悲鳴を上げた紫から慌てて外套を着こんだ人物は飛び起きるように退く。しかし今の紫にはそんな言葉なぞ聞こえない。彼女の思考は完全に混乱し、混沌としていた。次いで言えば絶望していた。


 ……そう、紫は絶望していた。自らの浅ましさと嫌らしさと淫蕩さに恥じ入り、それ以上に自らの身体が彼以外の、それも今しがた出会したばかりの何処の馬の骨とも知れぬ男に発情した兎のように反応した事にまず驚愕し、次いで困惑し、最後は申し訳ないという罪悪感に内心が満たされていた。


「ふぇっ!?わ、わわわ、私は、何を………!!?」


 そこまで考えて紫はその感情が生じた理由に思考が及び、一層混乱する。確かに見ず知らずの男相手に発情した自分自身を恥じるのは当然だ。しかし何故罪悪感を?それも誰に対して………?


「だ、大丈夫ですか………?」

「ひゃ゙い゙ぃ゙ぃ゙!!!??」


 頭を抱えてあうあうと唸る紫。そこに声をかける青年に対して紫は慌てて返事をした事で悲鳴に近いものとなった。


「え、えっと……一体……ん?これは………」

「ひ?ひ、ひや゙あ゙あ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙!!?」


 困惑を深める青年は、次の瞬間それに、紫の手の内にあるその書籍の存在に気が付く。


 紫は先程まで食い入るようにして読んでいた本が手元にあるのを相手に見られて今度は奇声染みた悲鳴を上げた。よりによって如何わしい色つき挿し絵の頁である。


 見ず知らずの相手に発情して、しかもその相手に自身の読んでいた本の内容を知られた事で、紫の矜持はこの短期間の間に襤褸切れの如くズタボロになっていた。


「あ、うあぁぁぁ……ひぐっ……うぐっ……うえぇぇぇ…っ!!?」


 紫は目元に涙の粒を浮かべる。というか半分泣いていた。誇りも何もない。手元に刀があれば衝動的に切腹していただろう。其れくらい自身の情けなさと惨めさと浅ましさに恥じ入っていた。


「え、えっと……!?え、嘘?何で!?このイベントがどうしてこのタイミングで………」


 一方、相手側も混乱の極致にあるようで、床に座り込み泣きじゃくり始める紫の姿におどおどとしながら何かを口走っていた。彼にはどうして紫がこの場にいるのかが何処までも疑問のようであった。まるでそれは本来ならば有り得ない事だと確信しているかのようで……しかし、彼にはそれ以上目の前の少女に時間と思考を割く時間はなかった。何故なら……。


「………伴部さん、何をしていらっしゃるのですか?」


 刹那、何処までも冷たく、何処までも剣呑で、そして怒りに震えたような声が部屋に響いた。


「………」


 決して大きくもなく、しかし嫌な程に印象に残るその声の方向に俺は顔を引きつらせながら振り向く。


 ………冷めきって、失望仕切った視線を向ける少女がそこにいた。


「……柚、これは違います。取り敢えず違います」

「返答が可笑しいですよ?これ迄の伴部さんならもっと落ち着いてご返答してくれますよね?」


 にこり、と市女笠の少女は小さく首を傾げて疑問を口にする。丁寧な口調であるが瞳も表情も冷たかった。


「何もありません。何も後ろ指を指される行いはしていません」

「けどそこの方に覆い被さってましたよね?」

「………事故です」

「ではどうして泣いているのですか?」

「…………」

「………もう良いです」

「佳世様っ……!?」


 怒りに声を震わせて、市女笠の少女は踵を返した。大股で、足音を激しく鳴らしながら少女はその場を去るように歩き出す。そして、慌てたように外套を着こんだ人物はその後を追った。二人の姿は本棚の曲がり角で消える。


「………え?伴部、さん?えっ!?嘘っ、ま、まさかっ!!?あれ、下人……そんなっっ!!?」


 そして、同時に金髪の少女の放った言葉を紫は遅れて認識する。同時に朧気ながらに今の状況を理解して、顔を青くして立ち上がる。先程の少女の発した単語に聞き捨てならない固有名詞の存在を彼女は気が付いてしまった。そして少ない情報から即座に彼女は最悪にして限りなく事実に近い答えを導き出す。尤も、この場においてはあるいは気付かない方が良かったかも知れないが……。


「ち、ちちち違います!!違うんです!!そうじゃなくて、誤解でっ!!有り得なくて!!そ、そもそもあ、あの子って誰なんですか!!?」


 紫は後を追おうとして、しかし追った後何を言うべきか分からずそのままその場であたふたと独り言を叫ぶ。しかし、それは結果的には誤りであった。何故なら………。


「ちょっ……お待ち下さい!!」

「知りませんよ!!止めて下さいっ!!見損ないました!!付いて来ないで下さ…えっ……?きゃあっ!!?」

「っ……!?佳世っ!?ぎっ゙!!?」


 突如、本棚の陰から二人の悲鳴が上がった。


「げ、下人っ……!?」


 その悲鳴から何かが起きた事を察した紫は目を見開き、慌てて二人の後を追う。そして二人が消えた本棚の角を曲がる。すると……。


「えっ……?これって…………」


 そこで紫が見たのは書店の床に落ちて転がる市女笠と、そして本棚に飛び散った血痕だけであった……。

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