第二四話

 上下水道は都市にとってある種の生命線である。生活する上で水は必要なものであるし、大人口が一ヶ所で生活すれば当然廃棄される汚水の量は膨大だ。大量の汚水をただただ無計画に垂れ流せば疫病の元になるために如何にそれを都市部から離れた場所に浄化して捨てるかは現実の世界の都市でも重要視されていた。


 扶桑国の都はこの国で最も上下水道が整備されている。霊脈の恩恵もあって地下水と河川から安全な飲料水や生活用水を確保する事に成功している。それらは井戸や治水設備等の上水道によって都の全域によって供給され、都の内側に限定すれば銭湯が幾つも経営されていて庶民でも入浴出来る程に水資源は豊かだ。


 一方、廃棄する汚水については、此方の処理も意外にも進んでいる。都の地下には上水道とは別に鉛と石と煉瓦で造られた広大な下水道が整備されており、そこを伝って都からかなり離れた地に汚水は廃棄される。


 いや、それ垂れ流しでは?って突っ込みは無しだ。確かに部分的にかつ局所的には現代並みの技術があるにはあるがそれでも平均すればこの世界の、そしてこの国の技術レベルは精々が中近世レベルを越える事はない。高度な濾過・浄化技術は無い訳ではないが発展途上だ。正直ローマ並みの上下水道があるだけかなりマシと思うべきだろう。少なくとも歩いている時に上から汚水がぶちまけられる事はない。


 そしてそんな都の水道を管理するのはある種の利権でもある。


 井戸水の使用は街単位で税がかかり、銭湯もまた経営者と使用者双方に税がかけられる。というか公営の銭湯まである程だ。当然ながら公共の福祉のためではなく歳入にするためだ。水洗式の厠にかけられる厠税なんてものすらあり、この税収を増やすために朝廷は一時期都の厠全てを水洗式にしよう等という馬鹿げた計画を立てた程だ。水道管理は金の成る木だ。


 ……そして同時に広大過ぎる水道の管理は費用もまた膨大でもあった。


 現実の多くの中近世の非民主主義国家が夜警国家的な小さな政府であったように、扶桑国もまたどちらかと言えば小さな政府だ。というか国防や食料生産に予算ガン振りしないと化物共のせいで国が滅ぶ。民草の福祉なんて気にしてられないのだ………。


 橘商会は幾つかある都の水道利権を朝廷から賃借した団体の一つだ。他の公家や商会と共に人足や傭兵を雇い、水道の管理運営を担っていた。問題はここ数ヶ月の間に何度か清掃や補修のために下水道の奥へと足を踏み入れた人足が戻って来なくなった事だろう。その後二回程傭兵の一団を送り込んだが同じく連絡が途絶えた。


「管理を受け持ってる手前、朝廷に泣きつかず自分達で事態を解決したい……という所か」


 都の外れの河川、比較的汚染が少ない水を川に垂れ流す下水道の入口で俺は此度の依頼の裏話についてぼやいた。


 屋敷で宇右衛門やゴリラをもてなしていた会長は商人らしく機会を逃さなかったようだ。すかさず誼を結んだ鬼月家の力を利用してこの余り表に出したくない課題を片付けようとした。丁度鬼月家が逢見家の屋敷でちょっとした騒ぎを起こした事も白羽の矢が立った一因だったかも知れない。 


 ゴリラ様は自分達を利用しようとしている会長の下心に敢えて乗った。それとなく口にした地下水道での問題に敢えての解決に名乗りを上げ、宇右衛門は暫し逡巡した後、利権に食い込むためにこれに続いた。


(とは言え、流石に本人が乗り込んで来るとは思わなかっただろうな……)


 俺はちらりと少し離れた一角でそれを見やる。数名の雑用に護衛の下人を連れた少女が馬の上から不愉快そうな表情を浮かべていた。


「姫様、お止し下さいませ!赤穂家のご息女があのような穢らわしい場所に足を踏み入れるなぞ……!!話が知れれば御家族がお怒りになられます!!」

「くどい!もう決めた事よ、今更横から口を出さないで頂戴!!」


 中年の女中の慌てた言葉を身軽な服装に身を包んだ女剣士……赤穂紫はそう叱責して退ける。身分制度が厳格に存在するが故にこう強く叱責されてしまえば女中達もこれ以上は強く反対出来なかった。代わりに憎らしげに睨むのは俺である。


(いや、それ八つ当たりじゃね……?)


 理不尽な敵意が俺を襲う!悲しいけどこれが身分制度のある封建社会の現実である。仕方ないね。


「あらあら、随分と騒がしいわね?紫、貴女自分の飼い犬の躾も出来ないのかしら?きゃんきゃんと吠えて五月蝿いわね」


 その鈴のような音色で響き渡る毒舌に、俺は背後をジト目で見やる。牛車の簾を下ろして少しだけ不敵な笑みを浮かべるゴリラ様がそこにいた。……取り敢えず火に油を注ぐ言い方止めような?何事も言い方ってものがあるからな?


 内心で頭を抱える俺の心配は兎も角、赤穂家の使用人達は葵の言葉にびくっと怯えて顔を青くする。そりゃあ、その気になれば数秒後には自分達を肉塊に変えてしまうような奴相手に犬扱いの挑発されたら怒る前に怖くなるのも残当である。


「……姫様、僭越ながら彼方の言葉にも一理あるのは事実で御座います。今からでも紫様に代理を立てて頂いた方が宜しいかと」


 俺は一応この世界の常識に基づいて具申する。元々はゴリラの意地悪から始まったトラブルはどんどんと大事になってきたきらいがある。退魔士と下人とを競わせるだけでも狂気染みた行為であるし、ましてや退魔士の名家のご令嬢が自ら地下水道に入ろう等と……朝廷から勅命で指名されたなら兎も角、こんな場面で赤穂紫本人が潜るなぞかなり異常な事態だった。

 

 俺個人としても、またゴリラ様の評判や紫本人の名誉のためにも此度の案件を取り消すのが一番であった。というか地下水道なんか入りたくないんですけど?ほら、どうせ最後は主人公が打ち倒してくれるのだからここで薮をつつかなくて良くない?


「いいからそろそろ潜る準備でもしなさいな。折角あの商人の悪巧みに乗ってあげた私の顔に泥を塗る積もり?」


 にこりと慈悲に満ち満ちた微笑を浮かべて無慈悲な宣告をする我らがゴリラ姫である。おう、テメーなんてゴリラだよ。ゴリラ・ゴリラ・ゴリラだよ!!


「伴部さん……その、お気をつけてください……!!」


 牛車の側でそう答えるのは白丁姿の白であった。尻尾と耳をしなしなとさせて心底心配そうに此方を見やる姿は演技には見えない。……演技だったら流石に少しショックだわ。


「……あぁ。分かっている。危険を感じたら情報だけ集めて戻る積もりだ。心配する事はない」


 本当は心配よりもゴリラ様を説得して欲しかったが流石にそれを詰る程俺も子供ではない。立場上絶対的な上下関係があるのは彼女も同様なのだ。その心配の言葉だけ素直に受け取り安心させる言葉を口にするのが年上の役目だろう。……いや、正確にはこの半妖の小娘の方が年上なのだろうけど。


 小さな溜め息をついて俺は正面に向き直る。馬から降りた赤穂紫もまた此方の視線に気付いて強い目付きで口を開く。


「従姉様が仰るには此度の依頼を達成した方が勝ちでしたか。まぁ、所詮地下の水道に隠れる妖共なぞ私の敵ではありませんが……もし危ないと思えば背後に隠れていても良いですよ?下人にとっては小妖相手でも手こずるようですから」


 ふん、と鼻で笑い此方を挑発する少女。尤も、言葉の辛辣さにしては然程嫌悪感も不快感も感じなかった。何処か言い様が不慣れなようにも見受けられた。恐らく日常的に人の悪口を言う事が少ないのだろう。何処か初初しさすら感じられた。子供が必死に背伸びをしているような感覚だろうか……?いや、実際こいつ一三歳だから子供ではあるのか。


 前世の同じ頃合いの子供よりも年上に見えるのはやはり厳しい家の鍛練やこの世そのものシビアな価値観が影響しているのだろうか……?ふとそんなどうでも良い事を考えていると案内役の人足達が声を荒げる。


「準備はできましたかね?そろそろ出発しますが後悔はありませんか?」


 細く、しかし肉体労働をしていて相応に引き締まった身体が薄着の上からでも分かった。顔や身体の一部に傷痕もある到底ただの一般人とは思えない地下水道の案内役は計三名、脇差しを腰に備えて手には各々提灯を手にしている。明らかに堅気ではない。


「私はいつでも構いません。そちらは?」


 堂々と、しかし少しだけ険のある口調で赤穂紫は宣う。俺は背後の主君に視線を向ける。扇子で口を隠しながらにこりと微笑まれた。処刑宣言である。つまりは………。


「……あぁ。問題ない。いつでも潜れるさ」


 問題しかない状況で、俺はそう半ば諦めながら応じた。







 下水道の中は想定よりも存外に広かった。煉瓦造りの半円状、あるいはアーチ状の通路、その中心部に生活排水が流れ、通路の両端にはそれぞれ人が三人並んでも余裕がある程度の足場が続いていた。流石に灯りはないようで、数名の案内役の雑用が提灯を手にして前方天井、背後……隙や物影の出来ないように周囲を照らす。

 

「存外に臭わないのだな?」


 赤穂紫は先行する案内役に尋ねる。どうやら下水道という事でもっと酷い臭いを想定したらしい。


「あー、ここの排水は風呂とかのが中心でね。それにここに来る前に消毒薬をぶちまけられてますからね。まだまだこの辺りは言う程汚くはありませんよ」


 皮肉げに語る先頭の案内役。続くように他の者らが冷笑する。つまりはここから奥は更に酷い場所だ、と言っているに等しかった。その態度に紫は不快げな表情を浮かべ、小さく呟いた。


「たかが賤民の分際で……!」


 曲がりなりにも退魔の名家の生まれでありながら、いやだからこそナチュラルに階級制度の枠外にあぶれた者達に対して『常識として』一段見下げている赤穂紫からしてみれば案内役達の自身をからかう態度はかなり神経を逆撫でしたらしかった。無論、だからといってその場で切り捨てご免しないのは理性的ではあるが。


(まぁ、彼らからすれば冷笑もするか)


 同行する俺は脳裏に設定集から来る原作知識を思い起こす。


 自分達を帝家や公家達と共に神話の時代の神々の子孫と称する退魔士一族の多くは、しかしその実は被差別階級がその源流である事は秘密である。


 考えてみれば簡単に導き出せる答えだ。俺もそうだが初期の霊力持ちは霊力があるとしても微弱であり、小妖相手ですら油断したら殺される程度の力しかない。いや、この原作の時代ならば妖相手の戦い方や鍛練のノウハウが豊富に残っている事を思えば、そんなものがなく、ましてや技術レベルの低さから武器の質も一層粗悪だった当時はそれ以上に絶望的だった事だろう。


 下手に霊力があるせいで化物共を呼び寄せる霊力持ちが、まだ国という概念がなく精々が村や里単位……人口にして数十から数千人……のコミュニティしかない古代においては災いを呼び寄せる、あるいは化物に魅いられた穢れた存在として差別され、排斥される存在として扱われたのもある意味道理であろう。


 彼らの扱いは悲惨を極めた。生まれた瞬間に殺されるのは当然として、家族ごとコミュニティを追放されたり、あるいは知性ある凶妖に屈服した村や里では生け贄として育てた霊力持ちの子供を定期的に差し出したりなんて例すらあったらしい。というかゲーム発売から五年もしてから発行された扶桑国建国の裏側を舞台としたスピンオフ小説でその辺りについてはかなり詳細に設定が明かされた。


 スピンオフ小説でも触れられたがコミュニティを追放された霊力持ちの者達は仲間同士で集まり、襲いかかる妖相手に自衛し、仲間同士で子孫を残した。それによって急速に力を強め、そして何時しか里や村相手に妖退治の依頼を受ける傭兵紛いの仕事をこなす様になると差別され、同時に畏怖される流浪の一族と化した。これが最初期の退魔士一族であるとされている。


 一四〇〇年余り前、何処からともなく現れたある男が、今では央土と呼ばれる凶妖共――それどころかその先の存在である神格的な存在すら複数跋扈して霊地を奪い合う地獄のような地方で、各所に隠れるように点在する里や村の長達をその口で束ね、最も強力な霊脈が流れる地を人外の化物共から奪い取り街を建設して国を立てた。それが半ば神話的な存在である初代帝であり、帝を支える公家衆の始祖であり、都であり、扶桑国である。


 当時圧倒的な戦力差があった扶桑国と妖……それでありながら霊脈を扶桑国が奪取出来たのは初代帝の圧倒的なカリスマもあるし、初代右大臣とその傘下にある隠行衆の命懸けの暗躍による情報操作とそれによる有力な妖共の潰し合い、あるいは人間に育てられた善良な天狗の少女の活躍もあるが、一番の決め手は扶桑国が差別されて行き場もなくさ迷っていた各地の妖退治の一族達の引き抜きをした事にある。


 彼らを支配者側に組み込み、妖達との戦いにかつてない規模で動員する事で扶桑国は辛うじて都を、その下に流れる霊脈を妖共から奪い取る事に成功し、退魔士達は土地と身分と名誉を手に入れて支配者の側へと組み込まれた。


 そして扶桑国の安定期に入るとその権威の維持――被差別階級に譲歩して権力を与えたなぞ口が裂けても言えない――のために情報統制によって極一部を除いて退魔士達が元々迫害された集団であった知識は抹消された。それこそ退魔士自身ですら殆どの一族はその事実を忘れ去っているし、公家衆も正三位以上の、建国以来の名家中の名家以外はその事を忘れてしまい下層の新参の家では退魔士の血統と婚姻を結んでいる家すら珍しくない程だ。


 数少ない真実を知る者達が同じ被差別階級に属する者達である。


 より正確には彼らも殆どが伝承で聞いているだけであり、殆どは半信半疑で確証を持っている者は極一部である。ただ、差別されている立場としては鼻持ちならない退魔士共が実は自分達同様の排斥される存在であったと言う『真実』は実に都合が良く、愉快で、故に彼らはその伝承を心の奥底で『信じて』いた。そして職業選択の自由がなく偏見と差別が当然の時代において地下下水道の案内役を担う手合いと言えば………。


(確か原作だとそこら辺の人間の醜い感情を利用されるんだよなぁ)


 人妖大乱の時もそうだが、妖共は卑怯で卑劣で、狡猾だ。人間に対して素の力で上回る癖に人間の心の隙間に潜り込んで罠にかけることを好む。


 そして大乱時代に比べてかなり平和呆けした原作の時間軸ではそれが大いに力を発揮して、大乱時代の妖共の残党たる救妖衆は昔に比べて遥かに戦力的に弱体化しているにもかかわらずルート次第では扶桑国を崩壊させる事にすら成功するのだ。


 ……というかそれすら全て大乱の中盤に敗北の可能性に気付いた空亡が事前に計画していた策というのがね。いや、自分が封印される事すら想定してその後の指示や対策してるとかあいつマジ頭可笑しいわ。


「例の行方不明者が出たのもこの更に奥か?」

「……あぁ。この先は道がかなり入り組むからな。はぐれたら地上に出られる保証はない。俺らからはぐれねぇ事だ」

「成る程」


 俺は面の下から目を細めて先導役らの言葉の裏の意味を察する。つまり彼らがくたばった場合も地上に戻れなくなるので全力で守れ、という事だ。保身もばっちりか。まぁ、そうでなければこんな危険な役目を引き受けないか……。


 どれ程進んだだろうか?次第に地下水道はその暗さを増していき、提灯で照らしても十歩も見えないくらいにほの暗い闇が広がっていた。粘度の高い水の流れる音が、時たま鼠か虫であろう鳴き声と這いずる音が微かに響く。


 次第に強くなる何とも言えない臭い……銭湯の排水が多く含まれている事も原因だろう、次第に空気中の湿度が高くなり場は重苦しくなる。言葉数が少なくなり、遂には誰も話さなくなる。


 無言のままに俺達は進む。するとふと先導役が足を止めた。ほぼ同時に俺や紫も足を止めていた。暗闇にその姿が見えなくても気配には全員気付いていたからだ。


 ちゅちゅ、と鼠の鳴き声が響く。俺は狭い地下水道での戦闘のために用意した短槍……その穂先は片鎌だ……を構える。恐らくは他の者達も各々の武器を引き抜いている事だろう。


 気配の音は次第に大きくなる。そして……提灯の灯りに照らされてその醜い姿が露になる。


『ちゅ……ちゅ………!!』


 思わず俺ですらその見た目に顔をしかめた。それは大柄な溝鼠だった。大型の猫程の大きさはあろう、全身ヘドロにまみれた赤目の鼠は、しかしその顎は四つに裂けていた。二本の舌が蚯蚓のようにのたうち、身体にはギョロギョロと数個の目玉が生えて蠢いていた。明らかにまともな生物ではなかった。


「っ……!!」


 次の瞬間発生する鎌鼬の前に幼妖の溝鼠は体を真っ二つにして下水の中に突っ込んだ。ピクピクと蠢く化物はしかし数秒後にはズブズブと汚水の中に沈みこむ……。 


「…………」 


 俺はふと首を背後に向ける。そこには刀を手にしてはぁはぁと緊張に強張った少女の姿があった。狭い通路に応じて妖刀ではなく予備の短めの刀の方を使い咄嗟に斬撃を放ったらしい。


 俺の視線に気付いてか、退魔士の少女は一瞬顔をひきつらせながらも不敵な笑みを浮かべる。


「あ、妖を実際に仕留めるのは初めてでしたが……存外簡単なものですね?」


 無理して強気の言葉を吐く紫。その姿に俺は無言で応じる。腹が立ったからではない。ただ今の台詞に嫌な思い出があったからだ。


 ……おい、死亡フラグを立てるな。


 ゲームのほぼ全期間、全イベントで死亡ルートがある彼女の、その台詞は幾つかある地下水道クエストでの死亡ルートでの発言であった。そういえばあのルートでもこの地下水道クエストが初陣だったな。(そして彼女にとって最初で最後の妖退治となる) 


「っ……!!おい、案内役!妖は退治したわよ!早く進みなさい!!」


 俺がそんな事を考えているのと対照的に、紫は顔をしかめて不満そうな表情を浮かべた。無言を貫く俺の態度が自身を馬鹿にしているとでも思ったのかも知れない。そのまま案内役達に強い口調で命令する。


「へ、へい……!!」


 一方、先程まで彼女を侮っていた男達は急に弱気になって命令に従う。先程の斬撃で彼女がどれだけの実力者なのかを察したからだろう。急に下手に出て前に進み始める。


「さぁ、何をしているのですか!貴方もさっさと進みなさい!!置いてけぼりにでもされたいのですか!?それとも妖相手に足がすくみましたか……!?」


 嘲るように、しかし何処か無理に強気な態度を取っているようにも見える言い様で赤穂紫は俺に向けてそう言い放った。


「……いえ、姫様。申し訳ありません。私も進ませて頂きましょう」


 俺は恭しく礼をして足を進ませる。同時に彼女に向けてこう伝えた。


「先程の斬撃、誠に見事でありました。あの大きさの妖に、短い刀で狙い澄まして斬撃を放てるとは……正直、感服致しました。流石紫様で御座います」


 恐らくはこの先の地下水道で起こるその事態を思い、俺はその布石として彼女の性格から逆算した称賛の言葉を吐いた。ふと、鳩が豆鉄砲を食ったかのように目を軽く見開いて驚く紫。そのまま少し動揺気味に視線を逸らして「あ、あぁ……」と賛辞を受け入れる少女。彼女らしい根は優しく素直そうな反応だった。


 ……そして、何処までも想定通りの反応だった。


「…………」


 道を進みながら俺は煉瓦造りの地下水道の壁を見つめる。表面に出来た削り取ったような斬撃の跡、それは先程の溝鼠を仕止めた斬撃で出来たもので、その威力の強さを表していた。そして………。


(その無意味な威力の過剰具合も、な)


 この調子だと予想より早く霊力がガス欠してしまいそうだな………その辛辣な評価は胸の内にだけに仕舞っておく。この任務で彼女と無駄な軋轢を作る必要はない。いや、そんな余裕なぞない。彼女自身のためにも不必要な争いは避けるべきだ。


 俺は知っている。この案件の原因を。そしてその危険性を。それこそこの地下水道で行われているのはバッドエンド中のバッドエンドに関わる事案なのだから。


 原作のゲーム『闇夜の蛍』の都ルートにて、真っ先に参加可能な初期クエストでありながら、その実受けたら確実にゲームオーバーとなる確殺クエスト……それがこの地下水道の調査任務である。


 そして同時に………この任務は人妖大乱において最も悪名を馳せた化物の一体である『妖母』が直接その姿を現す数少ないイベントであり、赤穂紫にとって最も残酷なバッドエンドの一つである「妖化された上で家族に斬り殺される」という末路を迎えるルートでもあった……。

 




 その空間は何処までもほの暗く、漆黒だった。一歩先すら黒に塗り潰されたかのように暗く、それはこの空間に一切の『光』が存在しない事を意味していた。


 かといってそれは『虚無』とはまた違った。妙に生暖かい空気で満たされ、ちょろちょろと水の流れる音も響く。カサカサと、あるいはドクドクとナニカが這いずり、ナニカが蠢き、ナニカが鼓動する気配もまた、耳を澄ませば聞こえてこよう。


 ……そう、耳を澄ませば。


(糞っ……!!)


 気配に気取られぬように音も立てずに呼吸をするその男は恐怖に絶望するのを振り払うように内心で毒を吐く。


 男は警戒のために静かに周囲を見渡す。やはり何も見えやしない。ただ不気味で気味の悪い音ばかりが増える。


 灯りが欲しいと本能が訴える。しかし男はその願望を抑えつける。それこそ奴らに見つけてくれと言っているようなものだからだ。


 最早同行した仲間達は何処にいるのか、そもそも生きているのかすらも分からない。隊列が物影から襲撃され、灯りを失い、仲間や化物共の悲鳴と何かがひしゃげる音が鳴り響く中、方角を見失った男は煉瓦の壁をつたい必死にその場から逃げた。そして、どれだけ時間が経ったのか分からない程この闇の中を音を殺して潜み、移動していた。


(糞、糞、糞っ垂れ!こんな仕事引き受けるんじゃなかった!!)


 男の表情を見る事が出来ればきっとこの世の全てに絶望した悲惨な表情を見る事が出来ただろう。尚武の気風が強く、弱肉強食に下克上の価値観も強い南土出身の男はモグリの退魔士であった。


 貧しい小作人の家に生まれ、自身に霊力がある事に気付けば家族を捨て、地主から逃げて自分を鍛えた。山や森で妖共と殺し合いを演じて身体で戦い方を覚え、公家や大名と違って正規の退魔士を雇うのが難しい地主や商人の用心棒を渡り歩いた。そして流れ着いたのが都のとある有力な商人の傭兵である。危険な仕事もあるにはあったが給金は悪くないし、何よりも都住みは大変な魅力である。故に今回の仕事もまた都から日帰りで帰れるからと受けたが……まさかこんな事になるとは。


(畜生…畜生……畜生!!こんな所で死ねるか……!!絶対に生き残ってやる!!こんな、こんな糞っ垂れな場所で終われるか……!!)


 そうだ、こんな所で終われるか。それなら何のためにあの惨めで貧しい小作人としての立場を捨て、家族を捨て、故郷を捨てたのか。小作人として雑穀ばかり食って重労働に酷使されるのも、下人として鼻持ちならない退魔の名家共に使い捨てにされるのも拒否したのは何故か?それは必ずやこの腕っぷしでのしあがるためだ。


 故にこんな所では終われない。まだまだだ。まだ昇るべき階段は高く続いている。漸く都の大商人にも雇われるだけ実力と名を得たのだ。これからだ。これからなのだ。だから………『うふふふ、あらぁ。何処にいく積もりなのかしらぁ?』


 その声に男は額を汗を流しながら瞬時に手に携える武器……刀を構える。そして、絶望の余りそれを落とす。


 闇夜の中でそれはいた。周囲は真っ黒な癖に青白くすら見えそうな程その肌は白く周囲に浮かび上がっていた。長く、少し粘りけのある長い緑髪を垂らしたそれは美女だった。目元が弛んだ、妖艶で母性に満ちた優しげな笑みを浮かべる美女。上半身は何も着ていないのだろうか?魅惑的で大きな胸を隠すのは湿った豊かな髪だけだった。その一方で下半身は暗闇によってか一切何も見えない。


 その姿を目視した男は……全てを諦めた。感じ取ってしまったのだ。それからは逃げられないと。その強大な力を直接目の前で見てしまい、その圧倒的な力量差を理解させられてしまったのだ。そう、全てお仕舞いだ……。


『あらあら、まだこんな所に人間の方がおられたのですね?』


 優しく、囁くような、それでいて妙に反響した声だった。耳の中に入り込み、脳を麻痺させるような甘ったるく、柔らかな声。フラりフラりと女は男に近付く。そして、がしりとその頭を掴む。


『うふふ、怖がらなくて良いのですよ?大丈夫、大丈夫……さぁ、貴方も今日から私の愛しくて大切な家族、可愛い子供よ?さぁ、よしよし………』


 元より一目で戦意をへし折られていた所に殆ど暴力に近い強力な言霊の力が叩きつけられたモグリの退魔士は既に一切の抵抗と思考を封じられていた。その頭を豊かで柔らかい胸元に愛情一杯に抱き抱えられて頭を撫でられても、男は最早何も抵抗も、反応も出来なかった。  


「か……ぞく………?」

『はい。そうよ?貴方もこれから家族になるのよぅ?そうすれば怖くないわぁ。安心して、皆家族だから怖いものなんてないわよ?何かあればお母さんがどうにかしてあげるわ。だから何も心配しなくて良いのよ?』

「かあ……さ、ん……?」


 男の能裏によぎるのは昔の記憶、逞しく、それでいて優しく、面倒見の良かった母の姿。そう言えば最後に母を見たのはいつだったか?あぁ、母さん。会いたい……会いたいよ………!!


『大丈夫よ?皆会えるわ。直ぐに会えるようになるわぁ。皆家族になるのだから、何も恐れる事も、怖がる事もないのよ?』

「みんな……?」

『えぇ、そうよ。皆、皆、今度こそは。だから……』


 優しく包容する美女は口元を吊り上げる。そして心底優しく囁いた。


『だから、貴方も私が産み直して上げるわね?』


 むしゃむしゃ、もぐもぐ、ぐちゃぐちゃと。むしゃむしゃ、もぐもぐ、ぐちゃぐちゃと。むしゃむしゃ、もぐもぐ、ぐちゃぐちゃと。むしゃむしゃ、もぐもぐ、ぐちゃぐちゃと。むしゃむしゃ、もぐもぐ、ぐちゃぐちゃと。むしゃむしゃ、もぐもぐ、ぐちゃぐちゃと………。


 日の光も届かない地下深くでそんな咀嚼音が、暫しの間静かに鳴り響いていた………。

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