第一九話

 ………時は若干遡る事になる。


 結界によって外部に今まさに轟く轟音も、ましてや粉塵も、灼熱の業火も漏れ出さない孤児院……その直ぐ外の戸口前にて二人の人物が相対していた。


「これはこれは彼の高名な北土が旧家鬼月家の、美貌と才能で名高い葵姫様でありましょうか?お初にお目にかかります」

「あらあら、詰まらない世辞を有り難う。此方こそ栄えある陰陽寮の次席にして深淵の知と名高い松重家の翁とお会い出来た事光栄の至りだわ」


 一人は雑然とした外街には似合わない豪奢な衣装に身を包み、扇を扇ぎつつ、今一人は周囲に縛呪の札で動きを封じた有象無象の化け狐共に囲まれながら互いを一瞥し。そして微笑む。


 何も知識もなければ悠然と、泰然と、無警戒で佇んでいるようにも見えただろうが、その実互いに霊力を放って相手を最大限に警戒していた。それはいつでも術を行使出来る状況である事を意味しており、退魔士にとっては臨戦態勢と言って良かった。


「して、此度は何用でこのような都の外れにお越しになられたのでありましょうや?都見物であれば余程姫君の興味の引く名所がありましょう。幾つかお教え致しましょうや?」

「御厚意感謝するわ。けれどお生憎様、私はそこらの俗物とは訳が違うの。そんないつでも見られるものよりずっと良い楽しみを先程まで見ていたわ」


 くすくすくす、と小鳥の囀ずりに似た笑い声……扇を広げてのそれは一見すると悠然としていたが……目の前の老人はその風貌に滲む僅かな焦りに気付いていた。


「ほぅ、ではかような風流もない薄汚い外街なぞ出向かずとも、その楽しみを鑑賞なさるが宜しいでしょうに。それとも、姫君にはその装束を土埃で汚してでも此処に急がねばならぬ理由でも御座いましたかな?」

「………ほざきなさい。老い耄れが」


 余りに小さな呟き……それと同時に周囲の空気がずしん、と明確に重みを増した。縛呪の術式で全身が動かない有象無象の狐共が鳴き声も上げずに震える。瞬間これまで隠行で隠れていた角の生えた大熊がその姿を現して庇うように翁の前に出た。……かなり萎縮していたが。


(これはこれは……その歳でこれ程の殺気を放つとはな)


 顔にこそ出さぬが翁は内心で深く瞠目していた。精々十も幾らか越えた程度の小娘、それがここまで膨大な霊力を見えない殺意として同じ人に向けようとは!


(確かに退魔士という存在は身内争いが多いとは言え……やはり北土の輩は怖いものだな)


 一部例外もあるが、都から見て西の地と南の地に居を構える退魔士達は比較的弱小な者が多いとされている。


 それは既に土地が切り開かれ開発が進み、それによって強き妖がおらず退魔士達も本業以外に手を出して俗化しているのも一因だが、最大の理由は大乱の時代にまで遡る。


 当時から既に開発が進み農工業が発展していたが故にこれらの土地を人間側の生産能力に打撃を与えるべく妖共が大軍で以って侵攻し、現地の退魔士達と激戦を繰り広げた結果、古い家々の多くが一族郎党根刮ぎ断絶したり、あるいは生き残ったとしても末端の者達ばかりとなったためだ。退魔の才能は代を重ねる程により太くなる事を思えば多くの有望な退魔士を失った西土や南土の家々が弱体化するのは当然の結果であろう。


 一方で大乱時代辺境であるが故に戦火が比較的及ばなかった北土や東土は大乱の時代こそ田舎者やら若輩者共と嘲られた退魔士一族が封じられた場所であったが、今となっては未だに多くの妖と相対する事で実戦経験の豊富な、大乱以前から続く一族が多くある地である。そして鬼月の一族はそんな北土の一族の中でも特に古い家、その直系ともなればさもありなん。尤も、一番の驚きは……。


「ほほほ、余り老人を虐めないで欲しいのですがの。どうやら儂と姫君の目的は完全にとは言わぬまでも部分的には重なる様子。そう怖い顔をしなくても宜しいでしょう?」


 翁は微笑みながらこの場に鬼月の姫が来た理由、その核心を突く。


「私が一言口にすれば貴方は追われる身である事は承知よね?」

「勿論ですとも。しかしながらそれは有り得ぬ事でしょうな。……少なくとも当面の間は」

「そうね、当面の間はね」


 双方共に放出する霊力を抑え、虚飾にまみれた……というよりは殆ど形式しかない……友好的な笑みを浮かべる。そうだ、今はまだ敵対するべき時ではない。老人にとってはあの鬼に寵愛されてしまった男が碧鬼を殺し切るまでは、姫君にとっては唯一愛する人がより高みに昇るまでは、そしてこの相対を何処かで見ているだろう鬼からしてもそれは好都合なので何らの文句もなかった。


「さてさて。では姫君、御入場為されるが宜しい。あれにとってもこのような枯れた爺よりも絶世の美女が駆け付けた方が嬉しいでしょうからな」


 そう嘯いて杖をこんこん、と軽快に鳴らせば次の瞬間孤児院の戸口が開く。それは吾妻の張った結界を無理矢理抉じ開けた事を意味していた。


 翁の行いは本来ならば悪手である。ここまで無理矢理に結界を抉じ開ければ流石に張った者にも分かってしまうのだから。実際問題、この老人が態々寄贈した本に言霊の呪文を仕込んだ理由は奇襲的な意味合いもあるが結界を力づくで開く手間と、それにより吾妻本人に気取られた後の対応を惜しんだからだ。


 逆に言えば、翁の行動は最早その必要性が薄いからこその行いでもあった。既に結界の中では相当な騒動になっている。あの狸女も孤児院で何事かが生じている事に勘づいているだろう……というより実際に上空に飛ばした式神からそれは確認済みだ。このまま翁が院内での騒ぎに介入して彼女と出会せば余り愉快でない事態となろう。それよりは……。


「貴方のご要望は聞き入れたわ。……これからも良い関係でありたいものね」

「全くですな」


 老人の返答を待つ前に桃色の少女は土煙と共に消えていた。同時に老人の周囲で捕縛されていた化け狐共が一斉にその首を切り落とされて絶命する。


「……ふむ、やはり化物染みているな」


 髭を擦りながら瞬時に血の海と化した周囲を見て呆れ気味に老人はぼやく。膨大な霊力をどか食いしての所業は必ずしも効率的とは言えないが故にそれを力ずくで実現して見せる少女の力は老人をして驚嘆に値する代物であったのだ。


『………』

 

 ……そしてそんな驚き呆れる翁の背後を睨む影が一つ。隠行によって息を潜めて隠れていた生き残りの化狐であった。どうやら他の個体よりもとりわけ隠行が巧妙なようで、そのまま化け狐は仲間の死骸に紛れて翁に近付き……一撃の下に老人を食い殺そうと音もなく飛び掛かった。


 ……同時に正面に針状に展開された透明な結界に自ら口から跳び込み即死したが。

 

「少々詰めは甘そうだがの。……にしても、随分とまぁ御執心な事じゃて」


 結界を解除しながら翁は件の下人を思い返す。どちゃりと背後から地面に落ちる肉の塊の音が響くがそんなものは彼にとっては何の関心もない。あるのは自身が相当面倒な人物と関わってしまった事に関する嘆息のみである。


 鬼に気に入られるだけでも不幸中の不幸であるのに、その上あんな化物染みた娘にまで……あの幼さであれだけの力と殺気を放てる娘の人生がまともであろう筈もない。そしてそんな娘があれほどに執着するとなると……一体何があったのだか。


「鬼だけでも面倒なのだがな。この分だと下手したら他にも厄介事を抱え込んでいても可笑しくないの」


 不用意に扱えばどんな藪蛇をつつく事になるか分かったものではない。とは言え放置しても平和に事が進むとは言えない訳で……となれば結局話は最初に戻る事になろう。


「やれやれ、一体どのような星の下に生まれればあのような業を背負う事になるのだかな」


 老人の呟いた言葉は妙にその場で木霊していた……。






 颯爽と、まるで物語の主人公のように最高のタイミングで現れた桃色の少女を見た俺が最初に思い浮かんだ言葉は感謝……ではなく罵倒の言葉だった。


(こいつ……舞台袖で出待ちしていやがったな!!?)


 余りにも介入のタイミングが絶妙過ぎればそう考えるのは寧ろ必然であった。おい、まさかとは思うがずっと観賞でもしていたか?


 外套を着ていて表情の認識が難しい筈なのにも拘わらず、姫様は俺の視線に気付くと不敵な微笑を浮かべる。ちっ、食えない上に何考えているのか分からない女な事だ。


「ぐおっ……お、オノレ……!!」

「さて……あら、今のじゃあ少し威力が不足したかしら?」


 土壁にめり込んだズタボロの化け狐……その姿は獣の姿に戻っていた……は尚も土壁から出ると身体中から大量の血液を垂れ流しながらも、しかし戦意は未だに残っているように思われた。しかし、それも次の瞬間に放たれた風の刃によって無に帰した。華奢な少女が離れた場所から振るう扇、それに連動して化け狐の全身を切り裂く不可視の刃。


「これで止め、かしら?」


 葵がそう言った次の瞬間、ひょいと扇を手にした腕を捻る。同時に化け狐の首がずるりと切り落とされた。地面にぼとりと落ちる獣の首、首と泣き別れした身体の断面からは思いの外血は吹き出さなかった。既に全身から多くの血が流れていたからだ。


「……さて、それにしても随分とまぁ無残で惨めな姿になったわねぇ?」

 

 先程までの一方的な蹂躙なぞなかったかのように鬼月葵は俺の方を見るとそう評した。


「このような姿で姫様の下にお目見えする事、お恥ずかしい限りで御座います」

「安心しなさいな。いつもの事だから慣れっこよ。それはそうと……お土産の見繕いは出来たかしら?」

「それは……」


 出来てる訳ねぇだろ!という内心の叫びを堪える。正直色々考えたが、そもこいつの要求が無茶ぶりの上に要求水準が高過ぎてどうも出来ないんだよ。糞、こいつ意地の悪い笑み浮かべやがって!


(ルート次第ではトラウマ突かれて化物共にプライドへし折りから分からさせプレイ、主人公の目の前でハイライトオフ異種姦プレイ公開させられる癖に……あ、そう言えばトラウマフラグへし折られてたわ)

「ねぇ、伴部。貴方今私について酷い事考えてなかったかしら?」

「滅相もないことです」


 俺の感情を込めぬ言葉に僅かに不愉快そうに目を細め、しかし直ぐに彼女は視線を別の方向に向ける。


「まぁ、良いわ。ならお土産は私の指定のもので良いわね?」


 ゴリラ姫の視線の方向に俺が顔を向ければそこには子供らが集まり介抱されている白狐の少女の姿があった。苦しそうに、しかし気丈に振る舞う少女は次の瞬間に俺達と視線を合わせる。同時にそのアイコンタクトだけで俺は彼女が何を考えているのかほんのりと察していた。


「まさかと思いますが……」

「あら?駄目かしら?」

「駄目というか何と言いますか……」


 土産……というには斜め上過ぎると思うんだが。いや、この世界だと一応人間も商品ではあるのだが。また面倒なものを注文してくれる事だな。


 俺はこれからの事を考え、内心で嘆息する。


 ……良く良く考えればここで油断するべきではなかった。妖という存在はどこまで言っても化物であり、その在り方は到底人間の常識で図れるものではなかったのだから。


「まだ終わらん……!!」


 その小さな独白は、しかし妙にその場に響いた。同時にグリッという気味の悪い音が響く。俺は音のした方向に咄嗟に視線を向けて同時に驚愕した。


 当然だろう。死んだと思っていた化け狐が『首だけ』で地面を凄まじい勢いで這いずっていたのだから。何と面妖な。


「なぁっ……!?」


 まるでゴキブリのようにザザザと地面を首だけとは思えぬ速度で進む狐。刹那、俺は化け狐の進む方向からその狙いが何かに気付いた。


「おい!逃げろっ!!早く……!!」

「えっ!?」


 狐の狙いは白の側に駆け寄っていた孤児院の子供達だった。ある意味当然と言えば当然の選択だろう。ゴリラ様は襲った所で反撃されるのが目に見えている。俺はゴリラ様の近くである上に霊力が枯渇しているために食った所で危険に対して見返りが少なすぎる。


 半妖の子供ならば力を回復させる上で唯人より遥かに効率良く、反撃もされにくい。子供らを食ってそのまま全力でゴリラ様から逃げようという魂胆なのだろう。


「やらせるかよ……!!」


 霊力は使い果たしたので最早身体強化で駆け付ける事は不可能、故に俺は短刀を投擲していた。素の身体能力のみで投げつけられた短刀は、しかし俺も転生してから死にたくないので暇があれば鍛えていた事もあってボロボロの身体で行ったとは思えぬ程に鋭く宙を裂いた。


 短刀は正確に首だけになった化け狐の頭頂部に突き刺さる。しかし……。


(止まらないか……!!)


 首が半分勢いに乗っている事もあるだろうが、恐らくは投擲の際の力が弱かったのだろう。頭蓋骨で刀身が止まり化け狐の脳にまで刃が届かなかったらしかった。化け狐の瞳には未だに明瞭な意思の存在が垣間見えた。


「やばっ……」


 俺は自身の打つ手が無くなった事を理解した。目の前に映る子供らは襲いかかってくる化物の牙に対してただ驚愕するしかない。歳に加えて碌に戦闘の教練もしてなければ当然だろう。しかしだからと言って化物が手加減してくれる訳もない。つまり……。


「糞っ……!!」


 一瞬、傍らにいるゴリラ様を見る、が彼女は事態を認識していても尚何らの行動を起こす素振りもなかった。子供らに対して興味すらないような態度。説得の時間もない。となればやれる事は一つだけだった。


 俺は激痛に耐えながら走り出す……がその動きは普段に比べて遥かに緩慢で、到底間に合うとは思えなかった。そしてまさに化け狐の首が飛び上がり子供らの真上に覆い被さろうとした瞬間……。


「『護法結界第三等・亀甲紋』」


 流暢な口調が場に響いた。同時に化け狐の牙は空中で止まる。


 ……否、違う。良く見れば化け狐は子供らを覆うように展開された水晶のように透き通る結界に噛み付いていた。化け狐と子供達が互いに唖然とする。


「『縛法結界第四等・重ね箱』、そして……『破法結界第六等・無間炎獄』」


 化け狐はこれから起こる事を察して何かをしようとした。しかし次の瞬間には化け狐は三重の結界に閉じ込められ、次いで火遁の属性が付与されたそれは真っ赤に染まる。いや、それは地獄の炎が結界の中で渦巻いていたのだろう。

 

 事は一瞬であった。焼死どころではない。死骸すら残らなかった。結界が解除された時そこにあったのは僅かな灰と化け狐の頭に突き刺さっていた小刀だけであり、灰はすぐに風に飛ばされ、小刀はカラン、と地面に落ちて印象的に鳴り響いた。


 足音がした。静かな足音は、しかし圧倒的な存在感を放っていた。濃厚な、そして妖力の混じった霊力が不可視の刃となって俺と傍らのゴリラ姫に向けられる。


「騒ぎに急いで来てみれば……済まぬが貴公ら、事の顛末を聞いても良いかな?」


 子供らを庇うように現れた人影……鋭い眼光で此方を見据える吾妻雲雀は、市井の民と変わらぬ服装でありながら、陰陽寮頭の地位に相応しい、堂々とした態度でそう俺達を追及したのだった。





「成る程、貴女の言い分は理解した。だが……」


 戦闘で随分荒れ果てた孤児院、その庭先で相対する吾妻雲雀はゴリラ姫の言い分に対して歯切れの悪い表情を浮かべていた。


 都に上洛した退魔士の義務として化け狐の討伐に動き、その上で分身に引き寄せられた孤児院を襲っていた所を救出に来た……端的にゴリラ姫が口にしたのはそういう内容だ。しかしその説明に吾妻雲雀は納得し切れずにいた。


 当然だろう。確かに嘘は言っていない。しかしそれだけだ。吾妻は嘘を見抜く力がある。その力が困惑させているのだ。嘘は言っていない。言っていないが……それが完全に事実であるとは言い切れない事を。


「あら、此方の言い分を信じないの?彼の元陰陽寮頭も下衆に交じっているせいで何事でも勘繰るようになったのかしら?証人ならばそこの童共に尋ねれば良いでしょうに」


 何処か嘲るように姫様は嘯く。明確な挑発だった。うんゴリラ、話をややこしくしようとしないで。


「お前達、どうなんだ?」


 伊達に歳は食ってないようで、吾妻は自身からすれば赤子同然の姫様の挑発に乗る事はない。此方を警戒しつつも子供達に対して同じ視線にまで身を屈めてから優しく尋ねる。尤も、聞かれた子供らの返答は少々困ったものだったが。


「えっとね、助けた人がね。がばって破れて中からおっきなきつねがでてきたの」

「そこのね、お顔みえないおにいちゃんがね。こわいきつねさんとねすっごいはやさでたたかってたの」

「うえぇぇ、はたけやけちゃったぁ……」

「あのきれいなおねえちゃんとってもつよかったよ!!」


 わいのわいの、先程化物に殺されかけていて、大泣きしていた筈の童達は吾妻の足下に集まっては次々と脈絡なく言葉を口にしていく。子供らからすれば母親代わりの吾妻に必死に説明している積もりなのだろうが……やはり子供となればその言葉は要領を得ず、あるいは説明不足で、あるいは余りに脚色が加えられ過ぎていた。


「あぁ、そうそう。今回の騒ぎ、随分と迷惑をかけたようね?家の修理なりなんなりは任せてくれて宜しくてよ?後で修理費について遣いを送るから。それに、何ならこれからは私個人として孤児院に寄付しても宜しくてよ?」


 必死に子供らの話を聞いて要点だけを密かに分析して纏めていた吾妻に対してゴリラ姫は狙ったように申し出る。


「それは助かるが……いや待て。何が狙いだ?」

 

 咄嗟にゴリラ姫の言葉に噛みつく吾妻であるが既に遅い。というよりも元より結果は明らかであったのかも知れない。


「狙いだなんて失敬な。寧ろ、厄介事を代わりに受け入れて上げようというのに。……ねぇ、そこの狐?」


 扇を広げて、勝ち誇ったように少女は語りかける。吾妻は目を見開き、序でに彼女の足下に群がっていた子供らも一斉にその方向を見る。即ち、彼ら彼女らから距離を取るように一人佇んでいた白い狐の少女をである。


「白、お前………」

「吾妻先生、わたし……」


 その複雑そうで沈痛な表情を一目見て吾妻は全てを察した。


「貴様、何をこの子に吹き込んだ……!?」


 幾ら自身が嘲笑されようとも意に介さなかった元陰陽寮頭は、この瞬間明確に鬼月家の姫に殺意を向けた。傍らにいる俺は息を呑む。直接向けられた訳でもないのに全身が緊張で硬直していた。もし俺の体調が万全であったらこの瞬間俺は全力でその場から退避していた事だろう。


(以前にも向けられたが相変わらずの圧力だな。霊力やら妖力なんてものがあるからこの世界の殺気は洒落にならねぇ)


 霊力なり妖力なりというものは場合によるが身体が慣れなかったり濃厚過ぎれば下手したら浴びるだけで体調を崩す代物だ。殺意を乗せた霊力を向けただけで人を殺す事も簡単ではないにしろ不可能ではないのである。


「あらあら、そんなに怖い顔しないで欲しいわね。子供達が怖がるじゃないの?それに……別に私は脅した訳ではないわよ?」

「何をぬけぬけと……!!」


 側の子供達が一瞬ビクついたのを見て殺気を霧散させる吾妻、しかしながらゴリラ様の言葉については敵意を隠さない。当然であろう。寄付や修繕の話の後にそんな事を口にして信用する筈もない。


「ち、違うの先生……!!わたしは……自分できめたの!本当です!わたしは……あの人たちの所にお世話になります……!!」


 僅かに緊張しつつも、しかし覚悟を決めたように白狐の少女は自身の選択を口にする。


「お話はおききしたでしょう?わたしの出自は……」

「あぁ。しかしお前はあの邪悪で残酷な妖の根源であってもそのものではない、そうだろう……?」


 辛い表情を浮かべる少女に吾妻は答える。成る程、確かに凶妖の魂の一部ではあるだろう。根源ではあるだろう。しかしながらだからと言って少女と化物は別物だ。


 魂の有り様とその罪の言及について、この世界では幾らでも前例がある。人間であれば生き霊の存在があるし、妖であろうとも調伏して、その魂を洗浄して霊獣の地位にまで格上げする事も、その逆の行いもある。それらの実例に合わせれば元々の魂の内邪悪な部分のみを切り捨て、その後何らの罪も犯していない彼女が罰を受ける事は有り得ない。……通常であれば。


「だとしても危険視されるでしょうね。妖としての側面と性質を殆ど切り捨てたと言ってもそもそもあれの根源、いつまた何かの拍子に魑魅魍魎共の側に魂の天秤が傾くか知れたものではない筈よ。まして、朝廷の者らがそれを放置すると思って?」


 幾千年も昔から人間を食らう妖共が跋扈するこの世にて、扶桑国が尚も続いて来た理由は朝廷が冷酷で卑劣であるが故だ。


 大多数の人間は化物よりも遥かに弱い。故に人は寄り集まり国を作ったし、そしてその維持のためにはどのような手段も使い、危険の芽はこれを摘む。都を襲った四凶に対して右大臣はその身を張って罠を仕掛けたし、大乱の際には全体のために一部の民草を生け贄にし、囮にも使った。


 ましてや半妖の子供一人、都を襲った化け狐の復活を完全に封じるためにこれを処す事に何の抵抗があるだろうか?


「それは……」

「抗議でもする?陰陽寮頭の頃ならば兎も角、今の貴女は孤児院を開くただの半妖でしょう?朝廷に助けを求めるだけの伝がおあり?却って悪い意味で注目されてしまうだろう事は貴女なら分かるでしょう?」


 吾妻は元より半妖という事で公家衆からの受けは良くはなかった。少なくとも殊更親しくはない。しかも宮仕えを辞して歳月が経ってしまえば……その上で半妖ばかり集めた孤児院を経営している事が広まれば下手すれば他の子らにまで危害が加えられかねない。


「しろおねーちゃんどこかいっちゃうの?」


 舌足らずの口でそう呟いたのは甘えん坊の茜だった。そのまま駆け出して白の所まで来ると不安そうに抱きつく。次いで次々と子供達が同じように近付いて来てわいのわいのと騒ぎ出す。


「どうしていっちゃうの?」

「そうだよいっしょにいよーよ!」

「そうだよ。どこかいっちゃうなんてだめだよ!!」

「ぼくたちのこときらいになっちゃった?」


 皆が皆、心底心配そうに話し出して、白は困惑し、困り果てる。それを止めたのは彼ら彼女らの母親代わりである吾妻だ。


「こら、お前達。白が困っているだろう?……気持ちは変わらないのか?」

「………先生、ここはとてもよい場所でした。みんなといっしょに過ごせたのは短かったけれど……幸せでした。だけど……」


 そしてまず地面に倒れたもう一人の自分の首なしの躯を見やり、次いで桃色髪の少女とその従者を一瞥する。

 

「迷惑になると思っているのか?」

「否定はできません。だけど……先生はゆるしてくれるかもしれませんが、わたしは……」


 白狐は吾妻の言葉を否定はしない。人は霞を食べて生きてはいけない。衣食住がなければ生きていけないし、生きるだけでも楽ではないこの世界で他者の善意だけを頼れない。


 ましてや半妖を引き取る孤児院なぞ助けてくれる変わり者は少ないだろう。勿論それも理由だ。だが、それだけではない。それだけが理由ではないのだ。


 たとえ、邪悪で残虐な妖としての側面を切り捨てたと言っても、本人からすればそれだけで割り切れるものではないし、自責の念を捨てる事も出来やしないのだから。


「それに……あの人達についていきたい理由もあるんです。ですから……」

「白………」

「そろそろ立ち話は終わりにしてくれないかしら?私もいつまでもこんな殺風景で小汚い場所に長居したくないのよ」


 二人の会話を心底興味無さそうに横入りするゴリラ姫様。


「姫様……」

「何か文句あるのかしら?それとも今すぐこの場で代わりの土産でもこさえてくれるの?」


 俺が宥めるように口を開こうとすれば、不満げにそうぼやく姫。出来もしない事を言ってくれるものだ。


「それにこれは貴方の尻拭いでもある事。教養がなくても阿呆ではない貴方なら理解出来ると思うけど?」

「……承知しております」


 何よりもその言葉が止めとなる。確かに事が面倒になったのは俺のせいだ。恐らく四六時中とは言わぬまでも此方を観察していた彼女ならその事を理解しているだろう。


 俺がさっさと少女を始末していればこの事態は起こり得なかったのかも知れないのだ。ましてや、孤児院やら何やらの修理費に姫様が自分自身でここまで来て手を煩わせた手間費……下人程度がこれだけの迷惑をかけたとなれば最悪物理的に首が落とされたとしても文句は言えない。それをたかが半妖の子供一人で済ましてやるというのはこの世界では温情過ぎるのだろう。とは言え……。


「せめて言いようをお考え下さいませ。言い方次第で受け取り手の印象は大きく変わります」


 俺の申し出に暫し此方を見ていた姫様はこれまた心底面倒臭そうに溜め息を吐き出して、次いで若干ジト目になりつつ命じた。


「じゃあ貴方に任せるわ。その無駄に達者な口でさっさと言いくるめて来なさいな」

「感謝致します」


 深々と一礼してから俺はぼろぼろの身体を無理矢理動かして前に出る。此方に気付いて子供らを背後に隠す吾妻に対して礼を表し、まず俺は落ちていた短刀を拾いこれを懐に戻し、次いでゆっくりと近付きながら敵意が無いことを表明し、俺は口を開いた。


「以前お会いした際は挨拶もなくその場を去り大変失礼致しました。私は姫様……鬼月家の姫君にお仕えする身の者です。覚えはありませんか?」

「……白を拾った際に側にいた者だな?」

「あの節には御無礼を。余りの殺気でありましたもので。ですが誤解しないで頂きたい。私はあの時、決してそこの者に危害を加えていた訳ではありません」


 俺の言葉の真贋を見定め、次いで確かめるように白狐の少女の方を見る吾妻。少女はそれに対して首を縦に振って肯定した。


「……らしいな。その言葉は信じよう」

「感謝致します。此度の事に関しては様々な疑念もありましょう。ですが……一つ信じて頂きたいのは決して貴女方に対して害意もなければ悪意もないという事です」


 彼女……吾妻からしてみれば一番の不安は子供らの安全だろう。故に俺はそこを攻める。彼女とて世間の厳しさは知っている。ならば此度の申し出も決して心の底から反対している筈もない。


「心配と懸念は理解致します。しかしながら此度の弁償、それに姫様自らが足を運んだ事実、それを思えば決してそこの者を無下に扱う事はありません。この都に滞在する間は定期に顔見せもさせましょう。姫様共々領に戻ってからは文も送らせましょう。如何でしょうか?」

「………」


 俺の言葉に暫し沈黙していた吾妻は、しかし俺を観察すると一つ質問をした。


「あの狐と対峙している際、この子らに隠れるように言ったのはお前だな?妖退治は綺麗事ではない。ましてや貴様のような下人にとってはな。必要ならば囮だって使うだろう。少なくともあの姫の目的である白以外は隠れさせる理由はない筈。危険も理解していて何故だ?」

「年上としては、子供を敢えて見殺しにするのもみっともないものですから。無論、実力差を甘く見ていただけとも言えますがね」


 半分程格好つけた俺の即答にそうか、とそれだけ口にして再び吾妻は押し黙る。そして、静かに白に目配せした。周囲の子供らに二、三言言葉を交えてから白い狐は若干緊張気味に前に出て此方を見上げる。

 

「分かった。その言葉信じよう。だが……約束しろ。私はこの子の、この子に限らず世話する子供達皆の幸せを願っている。そして彼女がより良い人生を歩めるようにあの娘に差し出すのだ。だから……説得に来た貴様がこの子が悲しい思いをしないように責任を持て」


 それは半ば脅迫であった。しかしながら理不尽とは言えないだろう。俺もまた彼女から見れば大切な子供を奪いに来た立ち場なのだから。


「……承知致しました。吾妻様」


 当てられる殺気に緊張しつつも俺はその言葉を受け入れる。受け入れなければ納得しまい。


「……そうか。白」

「は、はい!」


 吾妻の言葉に慌てて少女は答える。そして此方を見据えて言った。


「そ、その……えっと……白と申しまひゅ!ふ、ふつつか者ではありますが……どうかよろしくお願いします!!」


 モジモジと、子供らしく緊張しながら叫んで頭を下げる子狐。その子供らしい初初しい様子に、俺は外套越しに苦笑すると、出来るだけ優しい口調でこう言ったのだった。


 その言葉は私ではなく姫様に申し上げなさい、と。


 この日以来、鬼月葵の小間使いに一人の半妖の子供の姿が見えるようになった。それが今後の、そして原作ゲームのストーリーにどう影響を与えるのか、この時点では俺には判断し切れなかった………。

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