第一四話

 妖狐は焦燥しながら考える。何故こうなったと。


 全ては順調な筈だった。あの人間の皮を被った人外共に殺されかかった彼女は半分苦し紛れに分け身の妖術を行った。


 それは上位の妖狐を始めとした知能が高く、術式に明るく、何よりも強大な力を持つ妖のみが行える術であった。有象無象の雑魚では自身の魂を引き裂くなぞの技術も無かろうし、力を分ければ当然個々の妖としての格が衰えるから下手すれば存在そのものが失われてしまいかねない。自らの存在を分けるという行為は強大な力を有する凶妖であるからこそ可能な事だった。


 幾十もの分身に分かれた彼女らは人の中に紛れ、闇夜の中でそれを食らい力を取り戻そうと図る。どうやら幾つかの分身は殺されたようだが、所詮は格で劣る雑魚ばかり、全体としての被害は微々たるものだ。分身同士で再度融合もして少しずつ力を取り戻していった。幸運にもここは都、一般人の中にも微弱なれど霊力を持つ者はいた。いや寧ろ今の彼女らにとってはそれくらいが丁度良い。下手に戦える程の霊力のある者を相手どるのはリスクが高過ぎる。


 あるいは戦闘の経験も鍛練も不足しているモグリの呪い師共も彼女らにとっては絶好の餌であった。この手の者達は、少なくない数が元小作人や奉公人だ。微弱な力に驕り、同時に退魔士に使役される下人の過酷さを知るが故に、秘密裏に、そして非合法かつ独学で術式を扱う彼らは妖の恐ろしさも、その対処方法も知らない。実験台や術や呪いの材料欲しさを逆手に取り幼妖や小妖程度の分身を囮に使い引き寄せて、罠にかかった所で中妖の分身数体が襲えばまず彼らに対応のしようはない。実際この方法で十数人は食えた。


 ……幾人かの呪い師を食う中で命乞いをする一人からその商隊の情報を知れたのは幸運だった。荷物は彼女らにとっては好都合、それを運ぶ人足は無力、護衛は面倒ではあったが数で襲えば殺し尽くせよう。あの都の内裏に控える輩共に比べれば可愛いものだ。彼女は絶好の機会にほくそ笑んだ。当然ながらその呪い師は彼女の一番好きな方法で頂いた。


 そうだ、あの商隊を荷物ごと食い尽くせば相当力を回復出来た筈なのだ。そうすれば今頃は……それを!!


「おのれぇ、猿共がぁ………!!」

 

 都に程近く、その夜の明かりを一望出来る森から、四つの尻尾を伸ばした大狐は余りの怨念から半ば呪詛になりつつある言葉を呻きながら呟く。その周囲には十数体の大小の妖狐が集まる。どの個体も呻き声を上げるそれよりかは小さく、尻尾も一本、精々二本のものばかりであった。


「グウゥゥゥ………」


 苦しむように蹲る狐の化物。生来痛がりな彼女ではあったが、今回はとっておきだ。まさかこのような……。

 

「グウウウ……切り傷が治らん。それに……あの女が、良くも私の目を………!!!」


 あの能面を被った雑魚が短刀で切り付けた傷は浅いにもかかわらず未だに塞がらずに少しずつではあるものの血を流し続けている。丹念に丹念に霊力を注ぎ込まれ、幾重にも呪いをかけられていた対妖に特化した一品だったのだろう。忌々しい。


 そして、それよりも忌々しいのは彼女の頭蓋骨の右半分を砕いたあの一撃だ。筋力こそ強化されていただろうが、石そのものは霊力も込めていなかった。文字通り只の石……そんなものが彼女の右目を完全に潰していたのだ。此方は漸く血が止まったがそんなもの何の慰めにもならない。この瞬間も頭が打ち砕けそうな程の頭痛と吐き気が彼女を襲っていた。


「おのれ……おのれ……おのれ………良くも、良くもこのような屈辱を……許さん、許さんぞ……!!!その時がくれば奴らも同じように右の、いや両眼を石で潰してくれる……!!!!」  


 おぞましい口調で恨み辛みを吐き出す妖狐であるが、しかし同時に彼女はそれが敗者の負け惜しみに過ぎぬ事だとも理解していた。妖狐は賢いのだ、怒りのみに支配される有象無象の怪異共とは異なり、彼女は目撃した敵と自身の力量差を冷静に把握する事が出来た。だからこそ彼女は分裂した後に直ぐに都の城壁を抜けて内裏を襲おうとせず、こうして新街や周囲の街道でちまちまと人を襲い、力を蓄える選択を選べるのだ。


 ……尤も、狐は過去の事を忘れない粘着質な性格の者が多い事で知られているが。


「宮中の臆病者共ならば城壁の外で多少暴れようが我が身可愛さに手を出さぬと読んだのだが……くっ、こうなれば仕方あるまい。もう少し力を取り戻してからやりたかったがこのまま消耗するならば今のうちに収穫するべきか……!!」


 そして大狐は、次の瞬間立ち上がる……と共に目の前にいた同胞の一体を頭から食いついた。暴れようとしたそれを牙を突き刺し呷るように数口で飲み込む大狐。踊るように抵抗した狐はしかし完全に食われるまで十秒もなかった。


 一瞬唖然とする同胞。一方で当の味方食いをした大狐はその陥没していた顔の右側の傷が蒸発するように少しずつ復元していく。同時に尻尾が一本生え始め、その本数は五本に増えようとしていた。


「何を驚愕する必要がある?我らは皆元は一つ、まして本体に最も近いのが私だ。であるならば一刻も早く傷を癒し、力を取り戻すためこのように手っ取り早く吸収するのも惜しくはあるまい?」


 当然のように口を開く妖狐。同時に五本に増えた尻尾が振るわれる。彼女の傍にいた三体の同胞の首が飛べば残る同胞はキャイン!と鳴き声を上げて、耳と尻尾を垂れ下げてプルプルと震えながら平伏す。


 ボリボリ、ガリガリ、ゴリゴリと肉と骨が砕かれる音が森に響き渡る。三体の同胞の血肉を貪り、その尾を更に一本増やす妖狐。


「……さて、腹拵えは済んだな」


 幸運にも吸収されずに済んだ同胞達はその鈴の音のような美しくも残酷な声に頭を上げる。そこにいたのは和装に身を包んだ銀髪に長身の少女だった。口元に赤い汚れをつけているのを白い指で掬い、ぺろりと舐める。


「じゃあそろそろ迎えに行こうかの?我らが仲間を、核を、一番古い記憶を。……心底忌々しく、不愉快な事ではあるが………」


 そこまで口にして雌狐は口元を口が裂けているのでないかと思える程に吊り上げて笑みを浮かべる。


「たとえ我らが落ちこぼれの忌み子でも、な?」


 自分達のルーツに当たる最弱の分け身について残酷に、冷酷に、残虐に、何よりも侮蔑するように化物はそう嘯いた……。






 半妖とは文字通り人間と妖の特徴双方を引き継いだ存在である。これまでの研究の結果、その存在の誕生には大きく分けて三系統の経路があると考察されている。


 一番分かりやすいのは人間と妖の男女の間に生まれる場合だ。これは男が人間で女が妖の場合、その逆に男が妖で女が人間の場合の双方が有り得る。とは言え一番多い事例は人間の女が妖に犯されて産む場合であろう。


 明確に性別が雌の妖は珍しいし、数少ない雌の妖も、当然ながら人間を蔑み見下すものだ。女郎蜘蛛等一部例外を除いて人間の男と関係を持ちたがる雌の妖は珍しい。あるいは人間が妖を無理矢理捕まえて犯される場合もあるだろうが妖の腕力を思えば事例としては多くは無かろう。翻れば人間の女は捕まえやすいし、特に霊力のある女は妖達にとって力を得る上で絶好の餌なので此方の場合の方が圧倒的に発生率は高い。


 ……本当に極少数ながら人間と妖の間で両者同意の下の関係もあるが余りに事例が少ないのでこれは例外中の例外だろう。


 第二の経路としては特に人間同士の間で生まれた胎児が母胎の腹の中で半妖化する状況だ。


 これは特に妖気を浴びた影響とされており、例えば妖気の濃い地域に妊娠中に滞在する、あるいは妖の襲撃によって負傷してその際に人体内部に妖気を取り込む、酷い例では妊娠中に妖に強姦されて妖気を胎児に注がれる場合などの事例もあった。


 妖気は妖の力の根源である。それが胎児に影響を与える訳であるが……特に妊娠の初期であるほど影響を受けやすいとされており、また母胎からしても内部から直に妖気を浴びれば身体に負担がかかる。最悪は出産時に半妖の赤子が母胎の腹を突き破って産まれた事例もあり、朝廷では積極的に半妖の赤子は堕胎の対象として、医者に対してその場合の無償での処置を厳命している。


 三番目の経路は部分的に第二の経路と似通ったものである。即ち誕生後に後天的理由で半妖となった場合だ。


 これも幾つか状況があるが、特に多いのが妖の血肉を食した場合や妖によってつけられた傷口から体液や妖気が流入した場合、あるいは呪い等によって妖力を蓄積して肉体が変質していく事例等が報告されている。尤も、この経路で妖になる者は然程多くはない。


 妖の血肉なぞ簡単に手に入るものではないし一度や二度では簡単には妖に変化はしない。怪我も同様、掠り傷程度であれば肉体が変質するような事はほぼほぼなく、大きな怪我であれば十中八九妖になる前に出血で死ぬ。無論、独自の異能を使ったり、あるいは人間の妖化を目的として敢えて出会した人間に死なない程度に深い怪我を与えて逃がす妖も過去にいなかった事はないがそれはそれで珍しい事例ではある。


 どの経路を辿って生まれたにしろ、朝廷は一部例外を除き基本的に半妖という存在を認めていない。


 元より朝廷にとっては霊力という唯人の大半が持ち得ぬ力すらも潜在的な脅威と認識しており、それ故に退魔士や武士の力を削ぐために妖との対峙する最前線である地方に封じて参勤交代等の諸制度で縛ってもいるし、彼らが霊力持ちや異能持ちが反旗を翻した際のカウンターパワーとして唯人のみで構成された石火矢衆や棒火矢衆等の火薬兵器を中核とした軍勢や薬物等による暗殺を目的とした集団が朝廷の直轄の戦力として編成されていた。


 ましてや妖、そして妖の力を半分であれ有する半妖なぞ許容出来る訳もない。今でこそ大乱を始めとした戦乱の記憶が薄まっているので目撃されたとしても即刻その場で殺されるなんて事は『それほどは』ないが、これが百年二百年前ならば民草によって自主的かつ積極的に半妖狩りが行われていた。一部の地域では半妖の公開処刑が娯楽になっていた程だ。


 当然ながら半妖の家族からしてみればそんな危険な存在が身内にいる事それ自体が恥であり、下手すれば自分達まで差別される理由になりかねない。多くの半妖が家族や親戚によって秘密裏に殺害されたと思われ、またその存在そのものが特異であるが故に在野の呪術師達によって人身売買の標的になる事、挙げ句には一流の退魔士の一族からすら実験の材料や手駒として「購入」される事例もある。


 故にその半妖が五〇〇年に渡り生き残って来たのも、陰陽寮の頭に就任していた事も、共にかなり例外的な事例であったと言える。


 大乱時代に妖達によって滅ぼされた小国の難民であった少女はそのまま身寄りがないがために人買いによって誘拐されて国に購入された。そしてそのまま当時朝廷が研究していた禁術の実験台として使用された。妖気によって後天的に妖化する事実を逆用した半妖の兵士を量産する計画はしかし当時多く進められた実験の中ではかなり穏当な部類だっただろう。


 半妖の兵士の大半は大乱の中で使い潰され、生き残った者達の中でも妖化が激しく、人としての理性が崩壊しつつあった個体は殺処分された。彼女が理性を残していたのは妖化の比率が低かった事、彼女に注がれた妖気が比較的妖の中でも闘争本能が低く知能が高い化け狸のサンプルが使用されていたためである。故に大乱後も理性と知性を維持していた彼女は朝廷の駒として生存を許された。


 そして時代は流れ……幾ら退魔士という存在が唯人に比べて長命とは言え定命の存在であり、彼女は気付けば陰陽寮において最も年長であり、尚且つ深い知識を持ち、何よりも大乱の生き残りとして寮内において一目置かれる存在となっていた。


 無論、それでも尚半妖を陰陽寮の頭に任じるなぞ本来ならばあり得ぬ事ではあったが……百年前の玉楼帝の御世において帝より直々に任命されれば誰も異議を唱える事も出来ない。


 ましてや玉楼帝は当時弛緩していた朝廷の風紀を締め直し、節制と減税に努め、実力本位で人材を登用した歴代の帝の中では名君に分類出来る人物である。そんな帝から直々の命、それ即ち彼女の才と経験が陰陽寮の頂点に相応しいと認められた事を意味する。固辞するなぞ論外だ。


 多少のやっかみこそあれ、最終的に帝の推薦を拝命して陰陽寮の頭目となること八〇年余り、小事件こそ幾度かあったものの全体として見た場合彼女が寮頭を勤めた間は太平が続いていたといって良い。それは本人の能力もあるだろうし、そもそも乱が起きる程に世の中が乱れる原因がなかった事もある。


 因みに女である事は殆ど問題ではなかった。代を重ねて血が濃くなる程に霊力が増す特性がある以上、退魔の一族においては性別よりも霊力の多寡や異能の強弱が重視されるがために歴代の陰陽寮頭に就任した先例は幾らでもあったからだ。


 ……そんな中で彼女が陰陽寮の頭目の地位を失ったのは先代の陽穣帝が没してまだ幼い清麗帝が即位した直後の事だ。朝廷の内部監査を司る弾正台によって陰陽寮理究院の博士達が禁術の研究と実験を密かに行っていた事が発覚したからだ。


 主犯は陰陽寮において第二の地位にある陰陽寮斎宮助兼理究院長、道硯翁。松重家第二八代当主松重道硯……彼とそれ以外にも禁術の究明に関わっていた十数名の退魔士が逃亡した事件は当然ながらその上司である彼女の責でもあった。彼女が投獄されなかったのはこれまでの功績と長年朝廷に仕えた事による温情である。


 そこに元々半妖を疎んでいた公家、長命であるが故に長らく陰陽寮頭に就任出来ず不満を燻らせていた一部の部下、出自は兎も角その実力と人脈からして単純に処断も追放も出来ずに対応に困っていた大臣達、各々の事情が渦巻き、最終的には新帝の即位に伴う恩赦を口実に官位の剥奪と内京からの追放、そして定期的な監査という妥協的な沙汰が下される事となった。


 そして朝廷においてその立場を失った半妖は自身の嫌疑の潔白を証明するために雲隠れする事もなく監視のしやすい都の新街の一角、そこに打ち捨てられていた住宅を改装して居を構えた。……禁術の実験台として理究院の地下牢で封じられていた数名の半妖の子供と共に。


 そして……新街にて乞食をしていた半妖の子も拾い上げて孤児院の院長と寺子屋の教師を営んでいるのが彼女、吾妻雲雀という人物の今日までの人生だった……。





「ほら、お前達。西瓜を切ったから手を洗いなさい」


 瓶に貯めていた井戸水で冷やしていた西瓜を切った吾妻は庭先で追いかけっこして遊んでいた子供達にそう呼び掛ける。


「はぁい!」


 子供達は彼女の呼び掛けに心底楽しそうにそう答えた。時は八つ時である。つまり昼過ぎだ。子供にとってはそろそろ小腹が空いて来る頃である。


 それに殆ど木造建築で構成されていてコンクリートジャングルなぞ存在しない新街ではあるが、それでも夏が暑いことに変わりはない。遊んでいる間に汗をかいて水分が欲しくなるだろう。そこに水分をたっぷりと含んで冷えた西瓜があればはしゃぐのも無理はない。


 小ぶりで水気が多く、甘味が少ない西瓜は質が悪く相場の半値程度のものではあったがそれでも庶民にとっては御馳走で子供達は我先に皿の上の西瓜を手にとって頬張っていく。


「こら、頂きますの挨拶をしなさい。後、種はちゃんと吐き出すんだぞ?」


 元気良く西瓜にかぶりつく子供達に微笑みながらもそう注意する吾妻。と、ふと彼女は西瓜に群がる子供達を少し離れた所から遠慮がちに見つめる狐耳と狐尾を生やした少女を視界に収めた。


「白、どうした?お前は食べないのか?」


 吾妻は西瓜に手を出さない少女に向けて優しく尋ねる。一方、呼ばれた少女……白はそんな吾妻の顔を見てあうぅ……と俯きながらもじもじと体を動かして、恐る恐る口を開く。


「えっと……その、みんなたべてるから私取りにくいなって思って………」


 吾妻は少女の表情と言葉で全てを察した。彼女は本当に遠慮していたのだ。


 ほんのこの前ぼろぼろの所を拾い上げて治療したこの半妖の少女は記憶が殆どなく、帰る場所もない故にこの孤児院の新たな住民となった。なったのだが……白と名乗る彼女は記憶がないためか気が弱く、控えめで、自己主張が少なかった。常に周囲を観察して、他の子達に譲り、自身の要望を口にする事はない。


 それはある意味で世話のかからない「良い子」ではあったが、同時に痛ましさも感じさせるものでもあった。吾妻はこれまでの経験から少女がこの孤児院から追い出されるのを恐れている事に気付いていた。


「お前も汗をかいて疲れただろう?ちゃんと食べなさい。無理をすると倒れるぞ?」

「おねーちゃんもいっしょにたべよ?」


 吾妻が優しく諭せば、それに続くように孤児院全員の妹である茜が口の周りを西瓜の汁で汚しながら狐の少女の下に来る。そして、笑みを浮かべて両手で西瓜を差し出す。


「……うん、一緒に食べるね」


 一瞬惚けつつも、直ぐに穏やかな笑みを浮かべて狐の少女は蜥蜴の少女から西瓜を受けとる。そしてしゃき、という音と共に西瓜を頬張った。そしてそのまま西瓜を食べつつ茜や他の子供達とお喋りを始める。


 吾妻はその光景を和やかに一瞥する。そして……障子の隙間から外の様子を見つめながら、子供達に見られないように不安な表情を浮かべた。


「……結界の強度を上げておくべきかな」


 吾妻の脳裏に過るのは先日聞いた話題である。都に繋がる街道で商隊が妖の群れに襲撃されたらしい。


 これは極めて重大な事件である。都とその周辺で大規模な商隊が襲われるなぞ滅多にある事ではない。少なくとも彼女が陰陽寮頭の時には似たような事例は一、二度しかなかっただろう。


「どうにか殆ど犠牲もなく撃退したそうではあるが……。それはそれで街の住民が安心し過ぎて困るな」


 あくまで撃退した、に過ぎない。取り逃がした妖も複数いた事だろう。にもかかわらず既に新街の住民の多くは問題が解決したとばかりに緊張が緩んでいた。ここ暫く続いていた行方不明者の増加……恐らくは妖に食われた……が途絶えた事もあり、住民達の間で行われていた外出を控え、戸締まりをして、御守りを常に携えておくという自衛策も止め始めている。彼女の寺子屋での仕事もここ数日は生徒の安全のために休止されていたが明日からは再開する予定となっていた。


 寧ろこういう時こそ油断してはならないというのに……妖が狡猾で卑怯で卑劣な存在である事を彼女は良く理解していた。本来ならばもう暫くは子供達と一緒にいたいのだが……。


「おかーさんもすいかたべよ!」


 我が子同然に可愛がっている子供らの一人がそう彼女に呼び掛けて彼女は我に返った。前を見れば幼い少年が西瓜を差し出して屈託のない笑みを浮かべている。


「……あぁ、そうだな。美味しそうだな、頂こう」


 その純粋無垢な表情に癒され、彼女は柔らかい笑みを浮かべて西瓜を受け取る。一口、しゃきという小気味の良い音と共に仄かな甘味が口の中に広がり、水気が喉を癒した。


 子供達に笑顔を見せて安心させてから、吾妻は誰にも気付かれる事なく横目に先程の白い少女を見つめる。


(妖狐、か……)


 半妖の妖狐……噂によれば商隊を襲撃した化物共もまた妖狐であったと聞く。この時期に、と考えると穿った考えが脳裏に過るが……しかしそれだけで判断するのは余りに安直過ぎる。


 彼女は白い少女が邪悪な妖であるなぞ本当に考えてはいなかった。妖であるならば当然妖力を纏うものである。その逆に霊力なぞ一切持たないものだ。


 少女は半妖の常として妖力と霊力をほぼ等分に纏っていた。それは即ち彼女が妖ではない事を意味する。


 そも、彼女の目も節穴ではない。相手が嘘をついているか、力を隠しているか程度ならば時間に長短あれ察する程度の事は出来る。半妖狐の少女はその点で警戒するべき点はなかった。口にしている事は全て事実であり、その性格は演技ではなく、その力は潜在力は兎も角現状では限りなく無力だ。半分化け狸の彼女が自信を持って言えるのだ。間違いない。


 となれば彼女をここから追い出す理由なぞ無かった。外に追い出せば同じ妖狐の血であるがために真っ先に食われてしまうだろう。あるいは街のヤクザ者に誘拐されたりモグリの呪術師辺りに実験台にされる可能性もある。いや、ここ暫く妖の被害があった事から町人の不満の矛先にされて暴行されて殺されるかも知れない。


(それに奴も注意しなければならんしな……)


 狐の少女を拾った時に傍らにいた槍を携えた人物。化け狸である自身すら直ぐには判別出来ないような認識阻害の外套を着ていた人物である。 


 認識阻害の外套をあの場で着込んでいた時点で一般人ではあるまい。ましてや此方が殺気を放って戦闘態勢に入った途端にその場から撤収した事から見てそこらのモグリではないだろう。少なくとも我流ではなく一定の戦闘訓練、そして実戦経験を経ている人物であると思われた。


(白……この子の怪我は酷かったけれど……)


 半妖が死ににくいとしても、あの見境ない怪我はあの人物が行ったとしては不自然だ。あの程度の実力がある人物にしては雑過ぎる。殺そうと思えばあんないたぶるやり方はするまい。逆に捕まえる積もりならば、あんな生傷が多く出来るやり方はしまい。


「………」


 不幸な少女を疑う積もりはない。しかし、同時に不自然が多いのも確かだった。故にか吾妻は漠然とした不安に苛まれる。そして、幾ら悩もうが今手持ちの情報では答えにはありつけず、だからと言って寺子屋の仕事をほっぽり捨てる訳にもいかなかった。


「条件付けでもしておくか……」


 陰陽寮を追放された彼女には高価で貴重な道具の類いを合法的に手に入れるのは難しく、また金銭も潤沢ではない。手持ちの道具で構築出来る結界も式神も、幾ら彼女とは言え程度は知れている。そも、化け狸の半妖である以上、彼女は直接的な戦闘向きの退魔士ではなかった。ともなれば、限られた資源で警備を強めるには条件付けが一番であろう。結界等の発動条件に条件と制約を設ける事で対象を限定に相手にする際に必要な霊力等を集中させる事が出来た。


「そうだな、条件は………あの子達が招き入れる相手のみ、といった所かな?」


 知らない人に付いていかず、家にも入れないように子供達には言い聞かせていた。後は言い付けを守るように念押ししておこう、と吾妻は留守中の子供達を守るための対策を考え続ける。


 無論、化け狐ならば変化の術も使うだろうし、そもそも妖は嘘吐きだ。しかし、彼女もそれくらいは想定している。孤児院の結界には相手が嘘をつけば直ぐにでも分かるように、更に言えば幻術等を阻害する術式を仕込んでいた。隙はない。


 そもそも半妖の子は差別され、同時に金になる存在だ。単なる妖嫌いだけでなく、人身売買を目論むヤクザ者にモグリの呪い師だって子供達を欲しがる。実際にそれで襲撃を受けた事すらあった。子供達もその点については良く自覚している。不用意に誰かを招く事なぞなかろう。それ故に彼女はこの条件を加えた。


 彼女は、吾妻は本当に我が子の身を守るためのように真剣で、真摯だった。


 しかし……彼女もある意味では長い太平が続く中で平和呆けしていたのかも知れない。


 そう、妖という存在は何処までも卑怯で、卑劣で、下劣な存在だという事を彼女は思い出すべきだったのだ。そうであれば、きっとあのような油断なぞする事も、抜け道も許しはしなかった筈だったのに……。


 ……悲劇と惨劇に至る舞台はこうして整えられたのだった。

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