第一〇話

『人妖大乱』……それは少なくとも東方の国々にとって大陸王朝が崩壊したのと並ぶ悪夢とも言うべき動乱であった。


 数百、数千の群れを率いるのは、ある程度の力を得た大妖や凶妖ならば不思議ではない。


 だがそれが十数万、いや数十万となればどうか?ましてやそれが人間の軍勢の如く指揮序列を持ち、統制され、明確な戦略の下に攻め寄せてくればどうか?


 ましてや「空亡」は高い知能を有しており、人間の社会について、その生態について深い理解を持っていた。


 「空亡」はその力を以て空を隠し、配下の妖達に命じて農村を荒らし、街道を襲撃する事で人間達の食糧生産・物流を妨害して食糧不足とそれによる夥しい量の餓死を引き起こした。


 一方で霊力のある者、技能のある者は四肢を切り捨て、幻術で思考能力を奪い悪名高い「人間牧場」の資源とする一方で、力も技能も持たぬ人間は難民として敢えて放置し、その難民の中に人形に変化した妖、あるいは寄生型の妖を埋め込んだ捕虜を紛れさせて厳重に守られ尚且つ物資の逼迫する都市へと送り込んだ。

 

 また鉱山や工業地帯はどんな小さなものであろうと焼き払い、鉱夫や職人を食い殺す事で人間の兵士達が纏う鎧や武器の生産を妨害した。


 そうして追い込み抜いた後、こう宣うのだ。『さぁ人間達よ、全てを差し出すが良い。さすれば我が名において君達に子々孫々飢えの苦しみも、労働の苦痛も、死に怯える恐怖もなく、全てが幸福の内に始まり、そして終わる生を、素晴らしい世界を授ける事を約束しよう』と。そして、その言葉はある意味においては事実であった。………人間の尊厳全てを奪い去る事と引き換えではあったが。


 そして救えないのはそんな「空亡」の提案すら獰猛な妖達の中ではかなり「穏健」な内容であった事である。


 ……おおよそ残虐の限り、そして冷徹かつ合理的な戦略を以て物心両面で人間達を恐怖させ、絶望させ、その一方で悪魔的な甘言をもって「降伏」に追い込もうとした「空亡」の策は幾つかの小国を滅ぼし、あるいは実際に降伏に追い込んだが、逆に大陸王朝が亡き今東方で最大の勢力を築いていた扶桑国に対しては徹底抗戦の意志を固めさせた。多くの妖達はその選択を嘲笑した。直ぐにそんなものは消え失せたが。


 ……化物は人間の悪意と敵意を過小評価していた。扶桑国もまた妖同様に冷酷な戦略をもって、また捕虜とした妖の頭を生きたまま切り開いてその研究を重ね、志願した、あるいは犯罪者や身寄りのない難民や孤児を禁術の生け贄や囮爆弾、人体実験の材料にして新兵器や術式の開発を重ねる事で妖の攻勢に対抗した。


 最終的には人間は妖達を超える悪意と敵意によって膨大な犠牲と紙一重の差で大乱に勝利した。


 大乱における扶桑国の、そして人間側の(薄氷の上での)勝利はこの東方における人間と妖の勢力バランスを逆転させた。「空亡」自身強大な力を持つ怪異であったし、それに服属していた古く、悪名高い多くの「凶妖」や「大妖」も討伐された。


 無論、未だに扶桑国にとって生き残った化物達への対処は国家的な課題であり、容易に手を出せない存在ではあるが……同時に甚大な損害を負った化け物達も容易に人間を襲撃する事が出来なくなったのもまた事実だった。今でも街道の人間を襲ったり、森に分け入る樵や猟師を食い殺すのも、あるいは地方の山村を丸々一つ食い潰すのも珍しくはない。人類の勢力圏は地図上では面であるが実際は一部の地域を除けば限りなく点と線でしかない。それでも一定以上の規模の人里を、街を襲う気概があるのは余程の勢いのある妖か、あるいは身の程知らずの愚か者程度である。


 多くの人々……特に都市部において妖がその姿を現さなくなってから、あるいは侵入する前に撃退されるようになってから五百年……それは特に都において妖の恐ろしさの希薄化を促した。そして朝廷は妖を敵視し続けた。結果、都を始めとした都市部において妖に対する敵意は別の存在に向けられる事になった。


 それが人と妖の戦乱と生存競争の中で生じた異端児、双方の世界から拒絶された存在……半妖と呼ばれる者達であった。






 電気がない時代においては蝋燭や提灯、篝火があるとしても人は基本的に日の光と共に目覚め、そしてそれが沈むと共に眠りについていた。


 長い茶髪に黄土色の瞳をした若い女性……少なくとも外面は……吾妻雲雀が目覚めたのは寅の四つ時……午前の五時過ぎの事であった。木綿の布団から起き上がれば外から響き渡る烏や鶏の鳴き声が次第に寝ぼけから目覚めた耳元に届いて来た。そのまま朝仕度のために起き上がろうとして彼女はそれに気付く。


「ん?……やれやれ、寝相が悪い奴らだな。ほら、服を離しなさい」


 そう言って彼女は優しく布団に潜り込んで彼女の服を掴んでいる子供達をあやす。年は皆十歳にはなっていないだろう。決して大きくない部屋の空間を有効活用するために横にも上にも下にも布団を敷いていたのだが……こんなに皆で集まっても狭苦しいだろうに。ましてや今は夏だ。


「汗をかいてもいいのか?ほら、皆それぞれの布団で寝なさい」


 そう言って彼女は「角」が生えていたり、「羽」が生えていたり、あるいは「獣耳」があったりする寝惚けた幼い子供達を窘めて、それぞれの場所へと寝かし直させる。


「いや……おかあさんもいっしょ……ねんねしよ?」


 特に駄々を捏ねる幼い子が嫌々と眠たそうにしながら彼女の衣服を掴み、すがり付くように抱き着く。吾妻雲雀はそんな子供に慈愛の笑みを浮かべつつも困ったように言い含める。


「よしよし、可愛い子だな。けど私はこれからご飯を作らないといけないんだ。だからな?今日の夜寝る時は添い寝してやるから今は一人で寝られるだろう?」


 頭を撫でてあやして、どうにか言いくるめると彼女は漸く朝仕度に入る事が出来る。まず最初に行うのは神棚の水を差し替えて祈りを捧げる事だ。この神棚はこの建物を守るちょっとした結界の要であり、邪気や不幸に対しても多少の効果はある。特に子供の病気を祓うのにはうってつけだ。妖気を浄化し、退ける効果もある。


 次いで庭先の畑や家畜小屋の確認、水撒きに餌やり、その後自身の身支度をしてから彼女は頭に生えた「狸耳」とふくよかで丸みのある「尻尾」を幻術で消し去り、街内の井戸へ水汲みに向かったのだった……。







「聞きました?話によると昨日……」

「えぇ、だから旧街の方は兵士が巡回してるらしいわ。どうせなら此方にも来てくれたら良いのに」

「暫くは怖くて夜道も歩けないわ。何処か御守り売ってる所でもないかしら……」

「うちの店は夜中が書き入れ時なのよ?困ったわ……」

 

 文字通り早朝の井戸の前で井戸端会議に興じる奥方達はふとその影に気付くとそそくさと距離を取る。


「………」


 大きな桶を手にした吾妻雲雀がそんな女性達に一礼すれば彼女達もまた誤魔化すような愛想笑いを浮かべる。それが心から友好的なものではないと理解していても彼女はそれについて追及はしなかった。黙々と桶に水を注げばそれを背負い場を立ち去る。


「あの人って……確かあそこの孤児院の」

「えぇ、確かそうでしたね」

「悪い人ではないのでしょうけど、この時期と思うと、ねぇ?」

「あんな気味の悪い子供ばかり引き取って……何考えてるのでしょうね?」

「けどあのまま路地裏に住まわれても怖いですし……一ヶ所に纏めてもらった方が………」



 そんな女性達の会話を彼女は無視してそそくさと家に急ぐ。どうせ何を言っても無意味であるし、寧ろ事が荒れて自分達が住みにくくなるだけだと彼女は理解していたから。


 ……帰宅と共に家の瓶に汲んできた水を注ぎ込み、その後漸く彼女は朝食の用意に入った。


「確か米は……これは今日中に米屋にいかんとならんな」


 炊事場で米櫃の中身を見ながら嘆息する吾妻。米櫃の中にあるのは雑穀米である。流石に食べ盛りの子供を十人以上育てているとなると食費も馬鹿にならず白い米を食べさせてやる事も滅多に出来なかった。


「はは、職場にいた頃は毎日食べていたのだがな……」


 今更ながらあの頃の自分が随分贅沢だったなと思い返す。思えば大乱に動員されていた時ですらも彼女の食事は必ず白い米に一汁三菜が付いていた。貴重な戦力の反逆や消耗を防ぐためだっただろうが……あの頃の補給担当者には頭が上がらない。そして今の自分があの時代よりも遥かに恵まれていながら子供達に白い米も食べさせてやれない事実に情けなくなる。


 とは言えいつまでも嘆いてはいられない。雑穀を研いで、釜に入れれば竈に火をつけて蒸していく。同時に葱と細切れにした油揚げの味噌汁を作り、朝収穫した卵を溶いて中に追加する。


 夏は茄子と胡瓜の収穫の季節である。前者は少し前に収穫し終えて漬物に、後者は瑞々しく肥えたものが朝収穫出来たので子供でも食べやすく切ってから味噌をつけて食べる事になる。


 凡そ二時間余り、食事の用意が出来てから彼女は子供達を布団から引き摺り出す。少し前まで自分と離れたくないといやいや言っていた子供達はしかし今は布団から出るのを拒絶し、彼女を悪の手先のように罵る。その調子の良さに彼女は辟易しつつも彼ら彼女らの朝仕度を手伝い、漸く辰の五つ時(午前八時)を過ぎた頃合いに全員を卓袱台の前に座らせる事に成功する。


「では頂くとしようか?さぁ、手を合わせよう」


 にこりと微笑み頂きますの合図をすれば子供達も拙い口調でそれに応じて同じく宣言する。そしてその後は堰を切ったようにがつがつと必死に目の前の朝食を食べていく。吾妻もまたそんな彼ら彼女らの姿を一瞥して小さく、慈愛に満ちた笑みを浮かべると茶碗を手にしてゆっくりと味わうように飯を口に運んでいった。


 食事を終えて、年長組は後片付けの手伝いをして、年少組は部屋や庭先で遊ぶ中、吾妻は寺子屋へと出勤するための仕度を始める。神社仏閣の多い門の内側の旧街とは違い、新街は人口こそ旧街に引けは取らないが元は大乱で生じた難民が勝手に居着いて出来た街だ。朝廷は最終的にその存在を認めたものの、無秩序かつ場当たり的に作られた街は各種のインフラが不足しており、その生活水準は旧街に比べれば劣り日雇いや肉体労働者が多く、危険地帯とは言わずとも治安は宜しいとは言えない。


 そのために新街の寺子屋は限られているし、教育が出来る程の知識人も珍しい。それ故に元々陰陽寮に勤めていた彼女は重宝されたし、彼女の方もこの仕事は気に入っていた。個々の生徒の親から受けとる授業料は多くはないがその分人数は多い。


 そこに自分の貯めた財産を切り崩していけば子供達が大人になるまでの養育費用は十分賄える事を彼女は理解していた。


「おかーさまいっちゃうの?」


 そう舌足らずの口調で尋ねるのは先程まで庭先で仲間と追いかけっこしていた幼女だった。尤も、ただの幼女に蜥蜴の尻尾は生えていないだろうが。


「いつも通り夕方には帰ってくるさ。それまで皆と一緒にお留守番をしてくれるな?お腹が空いたら皆で飯櫃の飯でも食べるといい。ただ食べ過ぎるなよ?今日は帰りに団子でも買ってくるから楽しみにしてくれ」


 若干泣きそうな幼女をそう慰め、年長組の子供達に任せると共に家の鍵をかける事や知らない人達についていかない事等を念入りに注意しておく。一応留守の守りに式神を何体か体現させておくので問題はない筈だが……。


 幻術で耳と尻尾を隠した後、そうして子供達に見送られながら吾妻は孤児院を兼ねる自宅から外出した。そしてそのまま舗装もされていない道新街の雑然とした道を、新街の外れにある寺へと向かう。


 途中で屋台での客引き等に捕まりながら、それをあしらいつつ彼女は職場へと辿り着いた。そこで年老いつつも慈善事業等に熱心で徳の高い住職に挨拶してから彼女は自身の仕事に入る。


「おはよう皆、元気にしていたか?来られていない子はいないな?」

「「「はーい!」」」


 彼女の挨拶に元気に答えるのは孤児院の子供達と同じくらいの年頃の子供達だ。尤も、此方は角や翼等、元来人間にはあり得ない器官なぞない普通の子供達であるが。 


 彼女が寺子屋で教えるのはまずは文字の読み書き、次いで算術だった。実際問題、この新街で求められる知識なぞその程度のものである。無論、それ以外にも彼女なりに教養や歴史、道徳等の授業も行う。


 特に道徳の授業は好評だった。所謂教訓話を中心に据えたものであるが子供達からすれば知らない物語はそれだけで聞いていて楽しいものだ。


 一通りの授業を終えれば新しい話をせがむ者、子供達同士で遊び始める者等に別れて騒ぎが始まる。親御が迎えに来るまでの間、そんな子供達が怪我等をしないように監視するのも彼女の仕事のうちだった。


「せんせぇ、またこのまえのおはなしして!!」

「だめだよ、せんせいはぼくらとあそぶの!」

「せんせぇせんせぇ!わたしたちとおままごとして!」


 外行きの衣服を彼方此方に破かれるのではないかと思う程に引かれて、吾妻は苦笑いしながら彼ら彼女らの面倒をへとへとになりながらも見やる。そして、彼女は思うのだ。子供というのはどのようなものでも違いはないな、と。


「ぼくたいましやくね!おまえはあやかしやくだから、わかった?」

「えー、またぁ」

「ぼくもたいましになりたいもん!!」

「あやかしやくなんていやだよぅ!!」

「そうだそうだ!いつもじぶんだけずるいぞ!!」


 あーだこーだ、と元気の良い男の子達が騒いでいた。どうやら妖退治ごっこに興じているらしく、其々の役処を相談し、奪い合っているらしかった。当然人気なのは退魔士役であり、後は兵士達、村人役に、そして………。


「………」


 それがある種仕方ない事であると分かっていても、それでも尚彼女にとって純粋な子供達のその会話は過去自身が幾つも経験してきた死地での怪我よりも深くその胸を突き刺し、抉るような痛みを感じさせていた……。








 仕事を終えて子供達の帰りを見送り、次いで住職にお暇の報告をしてから吾妻は寺子屋を後にした。昼過ぎを過ぎて空が夕焼けに赤く染まり始め、地上は暗くなり始める頃……。


「……あぁ、そう言えば団子でも買って来てやる約束だったかな?」


 ぼんやりと空を見ながら帰宅の途についていると、彼女はその約束を思い出す。それに米も残り少なかったか。これは買い物に行かねばならないなと彼女は目前の課題の解決に意識を向けた。より正確には目の前の課題を口実に現実から逃げた。


 米屋で雑穀米を枡で袋に注いでもらい、そのまま売店が並ぶ表通りに足を踏み入れる。


 新街の表通りは城壁で囲まれた旧街に比べて遥かに雑然としてはいるがその人の多さと賑やかさでは負けていない。いや、ある意味では中流層以上ばかりが住む旧街に比べて活気に溢れていた。


 居酒屋に煮売り屋、うどん屋に鰌汁屋、天麩羅屋台、茶漬け屋台に塩焼き売り、田楽売りに水果売り、氷売り等が大声を上げて通行人に宣伝する。様々な食べ物の食欲をそそる匂いが彼方此方で漂う。都から出稼ぎに来たばかりの田舎者であれば縁日か何かでもあるのかと思うかも知れない。実際は都ではこれくらいの賑わいはいつもの事だ。


 その中でも彼女が足を運ぶのは居酒屋と茶漬け屋台に挟まれた団子屋である。中年の禿げ頭の男が団扇で暑さを堪えつつ網で団子に程好い焼き目が出来れば砂糖醤油等に浸して味をつけていく。


「売れ行きはどうかな、店主?」

「おお、先生ですか?ぼちぼちです……と言いたい所ですがねぇ」


 吾妻が声を掛ければ店主は陽性の笑みを浮かべて恭しく挨拶する。彼の息子も三日に一度程の割合で寺子屋で勉強をしていた。


「何かあったのか?」

「いやね?話だと昨日くらいに妖が都に攻めてきたそうなんですよ。それは御上が撃退したらしいんですがね、その生き残りが何体か街に紛れているとかで……明日や明後日には噂も広がるでしょうからそうなると客も減りそうでしてねぇ」


 はぁ、と溜め息を吐く店主。新街に暮らす多くの人々と同様に団子屋の店主も然程裕福な方ではない。客が減ればそれだけで生活が困窮しかねない。日銭で暮らすという訳ではないが新街の住民達にとっては何日も収入が減るなり無くなるなりすれば大問題だった。


「それは大変なものだな。それではそんな店主に一つ協力してやろうか。団子をくれ。そうだな……二〇本、砂糖醤油に餡を一〇本ずつで頼む」

「へい、先生。今すぐ用意しますよ!」


 人好きのする笑みを浮かべながらみたらしと餡の串団子を笹の葉で包んでいく店主。

 

「ん?店主、数え間違いかな。二本多い」

「先生の所の餓鬼は十人でしょう?一人二本なら先生の分がねぇ。おまけですよ」

「しかし……」

「構いやしませんよ。……気分を悪くするかも知れませんがね。あの餓鬼共は余り好きじゃありませんが、先生本人にはこの街の奴らも世話になりっぱなしですからね」


 流石に陰陽寮の頭である事は知られていないにしろ、数年前にこの街に来た吾妻という女性が所謂呪いの類に明るい役所勤めの人間である事くらいは知っている者は少なくなかった。教師が不足する寺子屋で教師をして、簡単な御守りや薬の類いを隣人に教え、ましてや忌々しい半妖の化物共を引き取ってくれるのだから彼女に対して悪意のある人間はいない。  


 無論、半妖と暮らしているという事実は心配されたり、不安を感じさせるものではあるが……。


「そうか。……では有り難く頂こう」


 団子二〇本分の代金を払い、彼女は笑みを浮かべて謝意を伝える。そこには明確な感謝の気持ちがあったのは間違いない。……同時に複雑な感情が渦巻いていたのも事実ではあるが。


(私もあの子達の同類だと知っても、彼らは同じように接してくれるのだろうかな……?)


 その考えが少し捻くれたものであるとは分かっていても、それでも彼女はそれを疑問に思わずにはいられなかった。





 空も大分暗くなってきて、吾妻雲雀は自宅でもある孤児院へと足を急がせる。自宅に帰ったら家事をしなければならない。一人で孤児を育てながら切り盛りするのは大変だ。無論、命を賭けた戦いに明け暮れていた時に比べれば苦しくはないが。


「……今のは、悲鳴?」


 ふと、彼女の隠蔽された獣耳はその声を捉えた。常人では到底聞き取れないそれ、しかし彼女は半分人ならざる存在であり、同時に退魔士としての超感覚を有していた。僅かな、闇の中に消え行く声だって聞き分けられた。


『いたい……こわい……たすけて………』

「っ……!!」


 その消え入りそうな弱々しい声を認識すると同時に彼女は駆けていた。疾走していた。人目が少ない場所とあって隠行をしつつも凄まじい速度で跳躍し、駆ける。


 そしてその裏手に辿り着くと同時に彼女は険しい表情を浮かべた。そこにいたのは人影が二つ。一つは男だろう、外套を着こんで槍を携えた人影が立っていた。そしてその足下に倒れ伏していたのは……。

 

「何をしている!?」


 人影はそれに気付いたようにさっと振り向く。認識阻害のための外套を着こんだ姿は顔が見えないし、見えたとしても認識阻害術式によって見た顔を覚える事すら出来まい。


 しかしながら……彼女にはその相手の所作からおおよその思考が読み取れるくらいの鑑識眼があった。そして、彼女は同時に気付いたのだ。相手が呆気に取られる程に驚愕している事に。まるで、その影は彼女が何者なのかを知っているかのように。そして何よりも、それは何か取り返しのつかない失敗をしたかのようで……。


「なっ!?っ……!!?」


 槍を携えた人影は咄嗟にその場から霊力を使った跳躍をして近場の家の屋根に着地。そのまま足音もなく、重さも感じられぬように屋根から屋根を駆けてその場から全速力で逃走する影。


「待っ……くっ!?」


 吾妻は影を追いかけようとするが、それよりも大切な事がある事に気付く。直ぐに彼女は地面で打ち捨てられたようにボロボロの服に、見える範囲で体中に痣を作って倒れ伏す子供の元に駆け寄る。


「これは……」


 そして、一瞬彼女はその正体を見てはたとする。そこにいた少女は銀髪だった。白く輝く髪型は目刺し髪、一見すれば柔く、今にも壊れてしまいそうな華奢な子供だった。歳は十はないだろう。こんな子供が虐待されたかのように全身傷だらけなのは痛々しい。呼吸は少し荒く、苦しそうで息をする度にその小さな胸が上下に鼓動していた。


 しかし、真に注目するべき事はそんな事ではなかった。そう、本当に注目するべきはその頭部だった。髪と同じ色の毛の揃った大きな狐耳、そして臀部から生えているのは細い一本の狐尾……。


 彼女が保護したのは、間違いなく化け狐の血が混ざった半妖の子供であった……。







「……ヤバい。介入するタイミングに失敗した」


 闇夜の中、誰にも聞こえない場所で、一人の転生したモブ戦闘員は事態がややこしくなった事に絶望の声を上げていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る