第七話

 広い屋敷の片隅で、身を寄せ合う二つの小さな影が文字や絵を書いた巻物片手に何やら囁きあっていた。


『ねぇねぇ■■、またけいかくについてかんがえようよ!!』

『こら!小さい声で言って下さい!……誰かに聞かれたら面倒なんですから』


 先程まで大人達にその奔放さが祟り叱られていた少女が語る。またいつもの病気だな、と少年は思った。とは言えそれに付き合うのも彼の仕事だ。余り聞かれて良い内容ではないので少女の口元に人差し指をかざして声を小さくするように頼みこむ。


『へへ、わかった。けいかくはふたりだけのひみつだもんね』

『本当に分かっているんですかね……。はい、これはこの前まで考えた計画書ですよ。今回は何を考えるんです?』

『だっしゅつしたあとどんないえにすむか!あ、あとなんにんかぞくがいい?』


 夢見がちな少女の荒唐無稽な計画、それが叶うなぞ有り得ないことを少年は理解しているし、今後の事を思えばあってはならない事だとも理解していた。しかし……彼女の境遇を思えば空想する自由くらいはあっても良いとも思っていた。それが彼自身の立場からして危険な事であるとしても……ある意味で少年は不幸な少女に絆されていた。尤も、後ろの方の質問はナチュラルに無視するが。


『はいはい、村で暮らすのは少し難しいですね。人が少なくて閉鎖的だから直ぐに怪しまれます。となると人の流れが多い街か、後はひっそりとした山の中で畑を作るかです』


 少年は少女に現実的な内容の提案をする。少女は夢見がちであるし、単純であるが馬鹿でもなければ間抜けでもない事を彼は知っていたから。だから出来るだけ真剣な提案をした方が彼女も自身の馬鹿な話に正面から付き合ってくれていると思ってくれる。


『いっしょにたんぼつくろ!!わたしね、ももがすきだからたくさんももえんつくるの!!』

『そちらが良いんですか?うーん、実際暮らすなら街の方が楽なんですけどねぇ?』

『えー、いや。ひとがたくさんなのきらい』


 少女は心底不満そうにする。彼女の境遇を思えば知らない人間ばかり沢山いても怖がるだけなのは仕方ない事だ。彼女にとっては沢山の人間なぞいらないのだ。ただほんの少し、頼れる大切な人々さえいれば。……少なくともこの頃の彼女にとっては。


 彼女が万人を助けようとする責任感を身につけるようになるのは力に目覚め、多くの民草を救い感謝されてから。それによって自己肯定出来るようになってからの事だ。


『はいはい、姫様の仰るようにしましょう。まぁ二人ならば最初の内は山の幸だけでも食べてはいけますが……え?だから家族は何人が良いかですか?姫様、山の幸が豊富とは言え二人以上の腹は満たせないですよ?仲間を増やすのは……そうじゃない?話を誤魔化すな?やれやれ、何の事だか。はいはい雛、そう怒らないで下さいよ………』


 口元を膨らませて拗ねる少女に少年は宥めるように謝る。しかしそれが子供扱いされているように思えて少女は余計に怒るのだ。尤も、それだって直ぐに忘れて少女は唯一の頼りになる人間にまた甘えるのだが。


『ごめんよ、本当に許してよ雛……』

『むー、しかたないな。ゆるしてあげる。だからもっとなでてね?』


 余り人の前でしたくない必殺技、頭を撫でるを使う事で少年は眼前の問題を処理する。確かゲームでは昔村に住んでいた頃に父親にしてもらって以来ずっと誰にもしてもらってなかったのだったか。気丈だが実は甘えん坊な所もある彼女がゲーム内で好感度がカンストすると主人公に頭撫でるようにお願いしていた筈だ。まぁ、今は別に子供だし背負うものもないので割と簡単に撫でさせてくれるし本人もお願いするのだが。


『……ふっ』


 少年は楽しそうな少女の笑顔に小さく、優しい笑みを浮かべた。どうせ子供時代のそれである。大人になれば風化するのだろうし、主人公の魅力には勝てないだろう。


 しかしそれでも、それでも今この瞬間の笑顔だけは自分が独占していてもバチは当たらない筈だ。少年はゲームの一ファンとして心からそう思った。それがある種の恋愛感情である事を、意識的に無視して……。


 それはおおよそ少年側が少し大人っぽい事を除けば、見る限り子供同士の微笑ましい光景と言えた。親愛と恋愛の区別もつかない子供同士の拙い愛情のお遊び。そして少なくとも双方共に純情ではあった。


 そして一匹の蝙蝠の式神が、そんな子供二人の光景をじっと監視していたのだった………。







ー---------------

 牛車と言えば多くの者が平安時代に公家が乗っていた物を想像するだろう。


 史実においては中国の古事もあって貴人の乗るものとして平安時代から室町時代の中頃まで使われた牛車は、当然ながら和風ファンタジーをテイストした「闇夜の蛍」でも登場しているし、古くからの退魔士の家系であり、自らを神話の時代から続く由緒ある血統であると誇示している(無論嘘っぱちだ)鬼月家もまたそれを日常的に使用している。


 とは言え、それは現実の牛車とは似て非なるものである。


 まず牛が違う。牛車を引く二頭の牛は肌が青く、その頭部からは角が生えていた。元々は夔牛という霊獣を先祖に持つ個体であるらしいが世代交代を続けていく内に血が薄まり、今となっては前述の他に知能が高く人の言葉をある程度解する程度のものでしかないらしいが。


 牛車自体は豪奢で煌びやかであるが俺からすればそれ以上にその高度に組まれた術式の方が目を引く。十枚ばかりの結界に呪い返しに防音、腐食止め、強度の強化……ざっと目にしただけでも一ダース以上の術式があらゆる状況からでも中の人間を保護するように、そして各々が干渉しないように緻密にかつ慎重に組まれている事が分かる。


 ましてや中に至っては退魔士達が長年の実験を行い編み出した人工的な器物の「妖化」の技術を使う事で「迷い家」と化している事が一番目を引く事実であった。


 元ネタは遠野物語等で伝わる訪れる者に富を授ける山中の謎の家であるがこの世界では微妙に違う。


 「闇夜の蛍」の舞台は北陸東北をモデルにしているが此方の世界における「迷い家」は当然のように妖である。しかも大妖ないし凶妖クラスの厄介者だ。


 簡単にイメージするなら某ジブリの動く城を思い浮かべれば良い。本体は悪魔……ではないが意識を持つ妖力の塊のようなもので、建物は付属品、建物どころか周囲の土地まで支配するマップボス、いやマップそのものがボスのような奴だ。


 人間を噂や幻惑で屋敷に案内し、対象は恍惚状態のままでその身体を霊力そのものとして分解して吸収してしまう食虫植物みたいな質の悪い代物だ。しかも幻惑や催眠が効かない相手には屋敷自体が牙を向く。「迷い家」の中はある種の結界により異界化しているらしく、それこそ明らかに空間が現実の面積よりも広く時間の流れも異常だ。物理法則すら限定的な改変が可能で無数の罠もあって迷いこんだ人間は大迷宮の中で永久にさ迷い発狂する事になる。


 ……いや、一流の退魔士なら態態屋敷に入ってそんな遊びに付き合わずマップ攻撃で仕止めるけど。この戦術を考案した退魔七士が一人寛仁上人が言っている、態態相手と同じ舞台で戦う必要はないって。けど、流石に近距離無双な鬼や大入道相手に決闘を申し込んで平地に誘い出してから山に登って目からプロトンビーム撃ち込んで回避不能な嵌め殺しするのはどうなんだろう。


 ……話が逸れた。兎も角も退魔士達、特に実例の「迷い家」が多く棲息?している北部の退魔士一族はそれの特性とその有用性を良く理解していた。そして研究に研究を重ねて、更に一部の家々はそれを人工的に「製造」する技術の開発に成功していた。


 故にその技術を流用した牛車は実際の大きさも然る事ながらその内部空間は更に十倍以上の広さを誇り、更には複数の独立した空間と繋がっていた。もし化物や賊が中の者を襲おうとしても中を無理矢理開いたら現れるのは別の独立空間に閉じ込めていた鬼月家が調伏(洗脳)した妖の群れである。無論、牛車自体が燃やされたら中の者も閉じ込められるがそもそも一撃で「迷い家」化した上に十重二十重に防護呪術の仕込まれた牛車を破壊するのはかなり難しい。


 因みにこれは鬼月家の屋敷も同様で、更には人工的かつ非人道的な実験で生み出された茶髪ポニーテールのシャイな座敷童子なんかもいたりするそうだ。攻略可能キャラではなくちょいキャラではあるが……気狂いが多い中ではその子供らしい性格は癒しである。清涼剤といっても良い。


 ……さて、前置きが長くなったのは謝ろう。まぁ、そういう訳で仮に牛車に相乗りするとしてもその中は結構広々としている。その上、下手すれば切り替えた別の空間内で待機していても良いのだ。いや、寧ろそちらの方が普通なのだろう。退魔士本家の娘とたかが一下人の関係からすればそちらの方が遥かに当然だ。


 故にだ、故に本来ならばこのような状況は有り得なかった。


「どうした?折角寝床も用意してやったのだ。遠慮する事はない。横になっておく事だ。傷の具合は承知している。そのような体勢では傷口が開こう?」

「しかしながら、幾ら事情があるとしてもこのような非礼は……」


 同乗する同い年の少女の淡々とした言に、俺は膝を屈して頭を下げながら答える。仮面はなく、故に足や肩を襲う激痛は薬師衆の麻酔を使ってもまだ相当の痛みではあったがそれを表情に出す訳にもいかなかった。可能な限り無表情を浮かべる顔は、しかし額に汗が浮かび上がる。


(糞、本当に面倒な事になった……!!)


 俺はそう思いつつ、痛みを誤魔化すために頭を下げたが視線だけは周囲を観察する。


 「迷い家」の現実改変によって精々六畳分である筈の牛車の中は三十畳余りの大部屋となっていた。しかも足下は畳で御丁寧にも牛車の出入口には靴置き場がある仕様である。


 彼女は、鬼月雛は座布団の上で正座していた。手元には漆塗りに金箔で紋様を描いた文台、その上にはこれまた高そうな硯箱があり、手元には何か書状が置かれていた。どうやら執務をしていたらしい。この牛車の中は何の震動もなく、暑さとも寒さとも無縁、仕事をするには丁度良い環境である事は間違いなかった。


 背後の壁には掛け軸、そこから右に視線をずらせば見事な屏風絵、左に視線を向ければ絹を染め上げた几帳に脇息が置かれていた。その他周囲を見渡せば棚があり、刀剣類を置いた台座があり、その他煌びやかな調度品が置かれていた。牛車での旅である移動の筈が、これはまた豪華な……。


「私の趣味ではない。野宿でも構わなかったのだがな。さりとて誉れある鬼月の直系が外で寝るのも外聞が悪くてな。……確かお前は今回綾香に同行中は野宿だったか?」


 生真面目そうな仏頂面に少し困ったような、そして硬い微笑みを浮かべて尋ねる少女。それは彼女が笑う事に慣れていない事を示していた。


「はい、その通りで御座います」


 俺は感情を晒さないように淡々と答える。無論、途上に宿場町や村があればそちらに宿泊したが、そういうものがない場合は当然のように野宿をした。鬼月綾香は下人衆に比べれば遥かに実力は上であるが、それでも一族の末端であり、力も一族全体では余り強い方ではない。「迷い家」化した牛車なぞ使える立場にないので彼女も我々下人同様野宿する事になる。


 まぁ、それでも立場が違うので野宿の準備や食事は此方で用意するし、我々はその辺りで交替で警戒しながら雑魚寝するのに対して彼女は天幕があってぐっすり眠れるのだが。うん、途中天幕張るのを手伝おうとして失敗したり見張りもやろうとして眠たくなって頭こくこくしてたの可愛い。


「……そうか。牛車に乗るのもか?」

「護衛として控える事はありましたが、入室した事は御座いません。何せ下人でありますので」


 これまで鬼月家一族の幾人かに護衛として随行を命じられた経験はある。しかし、同行する女中や側用人であれば兎も角、下人程度が護衛は勿論その他如何なる理由でも牛車に乗せられる事はなかった。それは俺個人に限らず、下人全体での扱いである。まぁ、非公式に乗った者は幾人かいるだろうけども。


「そうか。ならば今回は貴様にとっても初めての経験か」


 筆を止めて、何処か愉快そうな表情を浮かべて彼女は更に言葉を続ける。


「この牛車は防音だ。外の音は聞こえるが中の音はしない代物、外を警戒するならば態態耳を澄まさんでも良い。そもそもお前は重傷の上、疲労困憊だろう?私もそんな者にいちいち礼儀は求めん。早く怪我が治るように努力するのが最善の行いの筈だ。違うか?」


 姉御様の主張自体は合理的ではあった。成る程、それは認めよう。しかし……。


「……では、せめて敷物はもう少し離れた場所に御願いしたいと思います」


 おう、流石に執務中の姉御様の目の前数メートル先で横になるとか罰ゲームだろう!?


 最初は「迷い家」が内蔵する幾つかの別空間で休息を取ると俺は考えていた。そうではなく護衛も兼ねてと同じ空間内に滞在するとしても別室、同室としてもせめて横になる場所は部屋の隅だろうと思ったよ。


 ……いや、本家の長女が仕事する目の前で寝るとか論外だろうが!!こんなの一目でも見られたら詰みだ。余りに無礼過ぎるし、そうでなくてもひねくれた噂話でもされかねない。


 実際問題、余り愉快な事実ではないが……俺はその手のネタの相手として好都合な面があったから。


 俺は元々農民の生まれだ。それも冬の厳しく、作物の実りも乏しい貧しい寒村の、だ。


 微弱ながらも霊力があった事が発覚して鬼月の家に買い上げられた俺は、しかしその時はまだ多少運があったらしく、いきなり下人衆に入れられる事も、あるいは実験材料とされる事もなかった。それどころか運良く当時引き取られたばかりの鬼月雛の世話役の一人として召し上がられた。


 長い髪に凛々しい瞳、スレンダーな体つき、そしてプライドが高く厳めしい性格……原作ゲームにおける鬼月雛は苦労人だ。鬼月家本家筋の父が偶然見初めた農家の娘と駆け落ちして出来た子供で、七歳まで農村の男勝りで元気な子供として過ごしていた。その後母が流行り病で亡くなり、父によって本家に連れ戻された後は共に屋敷に住む事になる。とは言えその扱いはかなりぞんざいであったが。


 流れが変わったのは屋敷に住まわされて三年余りが過ぎた頃だ。外で遊んでいた彼女が妖……実は彼女を疎む継母が送り込んだものだったりする……に襲われ目覚めた異能が事態を変えた。


「滅却」の異能は普通に反則クラスの力だ。それはただの炎ではない。概念や事象を「焼き尽くす」特殊な炎だった。


 それこそ相手の概念攻撃を焼き払い無力化する事も出来るし、形なき精神攻撃すら無効化する。何より凄まじいのが自身の「死」という事象すら焼き尽くす事だ。


 妖、特に凶妖クラスとなれば初見殺しな能力を使ってくるものも少なくない。それによって同じく反則な力を持つ一流の退魔士すら事前の備えや調査なしではその力を発揮する前に殺害される事も少なくない。というかゲーム終盤ではそんな反則級の化物が結構出てくる。


 鬼月雛の力は妖達にとっては特効といって良い。自分達の能力を無力化され、ましてや運良く殺害出来ても次の瞬間には全身が燃え上がりそこから不死鳥の如く何もなかったかのように復活してくるのだから。


 強いて弱点を言えば霊力が凄まじい速度で消耗する事であろうか。それでも数時間は実質無敵なので十分反則だ。もし母親も名家の生まれだったら霊力は更に膨大だっただろうからその点で長老衆の一部から惜しまれている描写がある。術式も五行全て、その他体術や剣術、使役術すら一流という化物で周囲からは才人と呼ばれている。ただ実際は血反吐を吐く努力の果てという事実が中盤以降主人公が交流する中で判明したりもする。


 でだ。当時の俺はまだこの世界にある種の幻想のようなものを抱いていた。あるいは糞みたいな底辺から這い上がろうと野心を抱いていた。だからこそ、彼女の世話役の一人に抜擢された時、彼女におもねり、煽て、彼女が異能に目覚めて家中での立場が大きく変わる時のおこぼれに預かろうとしたのだ。そして……俺は一番大事な時に失敗した。


 彼女が異能に目覚めるイベント……化物と戦う事になった時、俺は面前の化物から逃げたのだ。彼女の助けを呼ぶ声すら振り切って。


 余りに恐ろしかった。恐ろしすぎた。ゲームのイベントだからって何も安心出来なかった。だってよ、周囲の護衛や他の世話役が次々と挽き肉にされて貪られているのに自分だけが無事だって保証が何処にある?


 結果としては鬼月雛は力に目覚めて化物を一人で殺した。そして、それが俺が世話役として彼女を見た最後の光景だった。彼女の立場が変わったためか、あるいは俺が逃げ出したせいか、恐らくは複数要因があるのだろうがそのすぐ後俺は下人の訓練兵に落とされて厳しい鍛練の毎日を送る事になる。


 ましてや妹のゴリラが失脚せずに姉御様の派閥とゴリラの派閥が鬼月家の中で微妙な均衡を維持している中、どちらかと言えばゴリラの方の派閥に組み込まれているように見られている俺と姉御様の関わりはかなり繊細だった。


「………そうか、分かった。但し、護衛なのだから私の視界からは離れるなよ?」


 そんな過去の記憶を振り返っていると、暫しの間沈黙していた鬼月雛は淡々と俺の主張を容れた。俺は彼女に一礼して敷物を広い部屋の片隅に移動させて、そこに座り込む。


(何だろうな、この何とも言えない微妙な空気は)


 子供時代トラブルで喧嘩別れしてそのままの知り合いと大人になってから再会したような気分だ。いや、実際はもっと深刻なんだけど。


 多分姉御様は其ほど俺の事を恨んではいない……と思う。何だかんだあってもゲーム内では(比較的)人格者で、右も左も分からず何処の馬の骨とも知れない主人公相手にも公明正大だった。攻略ルートに入ると多少束縛感はあるものの他のヤンデレからすれば拗らせ方はまだ可愛い方だった。


「っ……」


 右足の痛みに無表情で耐える。糞、やっぱり表情変えずにいるのムズいわ。屋敷に戻ったら真っ先に仮面の支給してもらおう。


 刃先を布で覆った槍を手元に置いて、何時でも護衛の任を果たせるように俺は座り込んだまま眠気に身を任せる。


(少なくとも摘まみ食いの可能性がないだけ洞窟よりはマシだな)


 予想以上に疲労していたのだろう、俺は重い瞼をゆっくりと閉じていき、睡魔に身を任せていた。


「お休み、■■。良い夢を」


 意識を完全に失う直前、幼馴染みに懐かしい名前で呼び掛けられた気がした。


 夢か現か判断つかなかったが、少なくともそれは何処ぞの気狂い鬼のそれと違い不愉快ではなかった……。





 ……あぁ、折角の機会だったのにまた碌に話も出来ずに寝させてしまったな。鬼月雛は広い部屋の片隅で何時でも警戒出来る体勢で寝入る幼馴染みを見つめてそう思った。そして思うのだ、自分はまだまだ力不足だと。


 彼女は下人を恨んでいなかったし、それどころか責任すら感じていた。それは彼をこのような状況に追いやったのが自身の短慮である事を知っていたからだ。


 そうだ、彼は唯一無二の存在だった。母が死に、父とは会えなくなった彼女は広い屋敷の中で頼れる者もおらずに一人だった。


 ……いや、正確には世話役の大人や遊び相手の子供はいた。しかしそれは彼女の求める者ではなかった。大人達はよそよそしく頼れる程信用出来なかったし、遊び相手の子供達は農村生まれの彼女とは感性が余りに違い過ぎた。


 そんな時に連れて来られたのが彼だった。同じ農村生まれ、それでいて貧しい村だったからか働き者で、世話焼きで、此方に合わせてくれる少年は彼女にとって唯一頼りになり、信頼出来る存在だった。子供ながらに拙くも好いていたといって良い。別に鬼月の家の権力なぞ興味もなかった雛は家出してこの頼りになる少年と一緒に畑でも耕して暮らそうとでも空想していたくらいだ。何なら遊び半分で実際に計画について話し合ったくらいだ。無論、彼方も遊び程度にしか思ってなかっただろうがそれでも彼女にとってはそれが楽しかった。


 それが変わってしまったのは一つには陰謀で化物に殺されかけて力に目覚めた事だった。それによって彼女を取り巻く環境は一変した。いや、それ以上に……。


「そうだ、それは問題じゃない。本当の問題は私自身の愚かさだ……」


 鬼月雛は瞼を閉じて思い出す。自分の取り巻く環境が変わった事、自分が命を狙われている事、自分におもねる大人が大量に寄ってきた事、それが幼く愚かな彼女には余りにも怖くて……だからいつも頼りになる少年に助けを望んだのだ。屋敷から逃げたいと。

 

 それがいけなかったのだろう。余りに不用意な発言だった。少年が即決で自分の助けに応じてくれなかったというだけで彼女は少年に失望して詰って、泣いて、その場から去った。その次の日には少年は彼女の世話役から追放されていた。


 あぁ、愚かだ。余りに自分は愚かだった。あの大人のように落ち着いた、自分よりもずっと賢い彼が絶望した表情を浮かべていた理由を少しも考えなかったのだから。


「思い返せば当然の事だ。あいつの存在は目障りだったものな」


 一気に次の当主の有力候補になった彼女の側に貧農の餓鬼がいるなぞ世間体が良かろう筈もない。ましてやそれが家臣として、あるいは異性として寵愛されてしまうなぞあってはならない。


 鬼月雛のやった事は渡りに船過ぎた。悪口を言いながら泣いて走った彼女の行動は、彼女自身が少年を嫌った事の証明であり、ましてや屋敷を逃げる相談なぞ……式神で監視されていたせいで会話は全て筒抜けだった。後で知った事であるが昔悪ふざけで作った屋敷の逃亡とその後の生活計画が見つかり、それが子供にしてはやけに具体的で計画的だったのが止めだったようだ。


 流石に外聞が悪過ぎるのか、処罰の表向きの理由は世話役でありながら主人を置いて化物から逃げ出した事にされ、実際彼は術式で記憶を一部改竄された。そしてそのまま「伴部」という名前を与えられると共に下人衆にまで落とされた……そのまま何処かで死んでくれる事を願われて。流石に鬼月葵ごと死なせようとしたらそのまま生き残って彼女に保護されたのは謀殺しようとした方も予想外だったようだが。


「情けない限りだよ。ここまで立場を手に入れるまでお前を何も助けられなかったのだからな。ましてやあの忌々しい女に……!」


 自嘲気味に笑った後、彼女は葵を……憎々しい妹を思い返して顔をひきつらせる。


 妹に保護される……それが彼を救う事になっていればよかった。実際は真逆だ。あのネジのイカれた女が何を考えているのか知らないが、毎回毎回彼を守る事もなく、いつも生きているのか死んでいるのか分からないボロボロの状態に追い込んでいる事実が彼女には理解出来なかった。


「助けられた癖に、あいつに何の恨みがあるというのだ……!?」


 ギリ、と奥歯を噛みしめ、彼女は嵐のような怒りを抑えつける。怒りに任せて莫大な霊力を垂れ流す事は彼の身体のためにも良くない。


「許してくれ……とは言わない。だが、もう少しだけ、もう少しだけ待ってくれ」


 この十年余り、彼女はひたすらに学び、鍛え、力をつけた。戦いだけではない。財力も教養も、派閥も、それはただひたすらに彼を助けたいからだ。彼を救い出したいからだ。


「お前の呪いも、記憶も、全て私がどうにかしてやる。たとえ、残る全てを捨て去ってもな。だから、もう少しだけ待ってくれ」


 彼女は懺悔するように、謝罪するように震えた声で呟く。自分のせいで大切な人が何度も死ぬような苦しみを味わってきた事に彼女は耐えられなかった。


「全て終わらせてやる。助け出してやる。だから……だから………」


 だからせめて、全てが終わったら昔の約束を、一緒に、静かに私と暮らしてくれ。そのための脅威からは、その存在からは私が全力で守るから。


「それがたとえ、誰が相手であっても………」


 最愛の男を見つめる彼女の瞳には静かな狂気に満ちた激情の炎がたなびいていた……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る