7 艱難

 2学期が始まり、3次予選まであと半月あまりとなった長雨続きの金曜日、部室に残り任期がわずかとなった、3年生生徒会長の堺雪菜が来た。


「練習はどう?」


「今のところ順調です」


 宥が答えた。


「ところで…今日はみんなに渡したいものがあって」


 手に提げていた紙袋から雪菜が出したのは、カラフルな千羽鶴であった。


「2次予選を見に行ったって生徒の子がいて、有志を組んで千羽鶴を折ったんやって言うて、生徒会室に持ってきてね」


 千羽鶴にはメッセージの短冊が結いつけられてあって、


「祈スクバン必勝 軽音楽部〈West Camp〉さん江」


 と記されてあった。


「これぐらいしか出来へんけど、お気張りやっしゃって」


「…ありがとうございます!」


 こんなふうに応援をされたのは初めてであったからか、宥も、居合わせた貴子も、何だか照れ臭かったのか俯いて頬を赤らめた。





 その日。


 練習でサウンドチェックをしながら打ち合わせをしていると、貴子が少しふらついた。


「貴子、大丈夫?」


 カンナが心配そうに近づく。


「…うん、大丈夫やで。ちょっとめずらしく疲れてたんとちゃうかな」


 貴子にはどこか人の気を上手にかわすところがあって、あまり人に心配をかけさせるようなことがない。


「取り敢えずここのベースライン、ちょっともっかい確かめながら弾いてみる?」


 そうやって練習を再開。


 しばらく何事もなく練習は進んでいたが、休憩時間が済んでも貴子の姿がないのでメンバー全員で手分けして探すと、非常階段の壁にもたれて座り込み、ぐったりとしている貴子がいた。


「…貴子先輩! しっかりして下さい!」


 桜花が体に触れると顔が蒼い。


 慌てて桜花はスマートフォンを取り出して連絡をつけ、駆けつけた宥がユズ先生を呼びに走った。





 ユズ先生のはからいで保健室に運ばれ、診察の結果は目眩の症状であった。


「…練習は?」


 上の空のような声で貴子が言うと、


「貴子ちゃん倒れてたんやで? そんなときに練習なんてできる訳ないやんか」


 宥は答えた。


「さっき親御さんに迎えに来てもらうように電話はしたんで、今日の練習は中止にする」


 ユズ先生は言った。


「でも個別練習ぐらいは…3次予選まで時間があらへんし」


 江梨加が言うと、


「取り敢えず海士部が復調するまで、個別で自主練習という形にしよう」


 合同練習はそれから──ユズ先生は冷静であった。


 原因は、カンナは何やら、思い当たるフシがあったらしい。


「貴子、よく走ってたから」


 小柄で体力不足だと日頃言っていた貴子が、毎朝走り込みをして朝練に来るのを、カンナは見ていたのである。


「それで雨の日も風の日も、欠かさず走り込みをしていたってことか…」


 宥の想像は果たしてそのとおりで、貴子が倒れた原因もやはりそれであった。





 宥は職員室へ呼ばれた。


「篠藤、スクバンどうする?」


「…出さしてあげてください、お願いします!」


 宥は深く頭を下げた。


 ユズ先生は顎に手を当て、黙っていたままであったが、


「…私も出してあげたいのはやまやまなんだが、そんな過負荷を生徒にかけてまで無理をするべきではないし、それに…仮に無理をして負けても、君たちに後悔が残るだけじゃないのか?」


 ユズ先生には出場辞退も頭にチラついていたようである。


「…私たちはむしろ、出ないほうが後悔します」


「分かった」


 ユズ先生は向き直ると、


「それなら君たちの意志を尊重しよう」


 ただしまた体調不良が出たら次は一存で辞退する──ユズ先生は述べた。


「はい」


「これは君たちで決めた道だ。しかし私には、親御さんから君たちを預かっている責任がある」


 くれぐれも注意しなさい──ユズ先生は静かに言った。





 職員室を出ると、江梨加がいた。


「江梨加ちゃん…」


「ごめん、アカンのわかっとったけど聞いてた」


「別に大丈夫やで」


「…うちらの目標は一つだけ。1位通過して最終予選に残ることやろ?」


「確かにそうやけど…」


「先輩が戻って来たときに大丈夫なように、うちらだけでもキッチリ詰められるところは詰めとこ」


「そうやね」


 この日から数日間、宥のカフェにカンナと桜花、江梨加が集まって、録音した貴子のベースラインをもとに細かな確認を詰める作業をした。


 貴子の体調は3日ほどで戻って、そのまま1週間後に合同練習は再開したが、


「また倒れなきゃえぇんやけど」


 次に体調悪化が出たら即辞退という話があるだけに誰もがそこは恐れていることでもある。


 しかも。


 復帰しておよそ1週間で3次予選──という強行軍のスケジュールでもあり、ときおりタブレットを見ながら何やら考え込んでいる宥を見つけると、


「マネージャーって、大変なんやなぁ」


 江梨加は居た堪れない気持ちになることすらあった。





 3次予選の日。


 宥はこの日も早く会場に詰め、順番決めのくじを引いた。


 結果は2番。


 手続きの書類を書いているときにメンバーが来た。


「おはよう宥ちゃん」


 貴子は普段と変わらない笑顔であるが、


「宥ちゃん…いつもありがとね。私が目眩なんか起こして倒れたばっかりに」


「それより大丈夫?」


「今日は天気いいから、目眩は起きないと思うよ」


 検査をして、気圧が傾くと目眩が出やすいのも今回わかったことで、気圧を測るアプリケーションと、目眩の薬は常備してあるらしい。


 会場前の木立の広場で集まり、音を合わせていると、正門から新島実穂子が歩いてくるのが見えた。


「おはよう、お久しぶり」


「お久しぶりです!」


 宥がハキハキ挨拶を返すと、


「まさか対戦するとは思わなかったけど、でもお互いに悔いなく演奏しましょう」


「はい!」


 宥はようやく笑顔になることが出来た。





 2番目の〈West Camp〉のパフォーマンスが無事に終わり、舞台袖へと引き揚げてくると、なぜか実穂子が一人でたたずんでいた。


「海士部さん」


 実穂子は貴子を呼び止めた。


「演奏お疲れさま。それより…身体は大丈夫?」


 小声で気遣わしく言った。


「…知ってたんですね」


「宥さんが教えてくたんです。私も実は目眩を起こしやすくて、他人事には感じられなかったから、本当に良かった」


 フッと一瞬だけ目線を逸らしてから、


「私の場合、耳石が生まれつき片方足りないみたいで治らないみたいなんだけど、私ができるんだから海士部さんだってきっと大丈夫」


 そう言うと実穂子と貴子は、笑顔でグータッチを交わした。





 実穂子が率いる〈八重桜〉のパフォーマンスは、圧巻であった。


「それでは聴いてください、『MIRACLE』」


 ピアノから始まる荘厳なアップテンポナンバーで、曲を聴いて宥は鳥肌が立つのを抑えられなかったほどである。


 ──これは敗けてもしゃあない。


 結果発表を待つ休憩時間に実穂子と出くわすと、


「私たちは結果はあくまで結果で、まずは楽しむことをメインにしている」


 宥はこの言葉に衝撃を受けた。


「だって、私たちがエンジョイしてなかったら、オーディエンスはエンジョイ出来ないでしょう?」


 いちばん大切で、いちばん忘れがちなことを言われた宥は、戻って来て隣の椅子にいたカンナに、


「宥、何かあったの?」


 問われてもしばらく、気づかなかったほどであった。


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