2章 火星より

  三度目の天井だった。起き上がり次第熱帯魚へ餌を与えて、寝起きの微睡を楽しむ。意識が声によって晴れていく工程中、伸びをしながらベランダに踏み出る。


 脳を失った自分は死が見えていた。無駄な思考も想像も消え去った青い宇宙に覆われた死の世界は————美しくもあったが底知れない星に堕ちて行くようだった。


 粉塵とガスに覆われた星は外から見れば美しき空と映る。


 しかし、踏み込んでしまえば、そこは煉獄だと気付く。等しき命ある者を拒み、一度掴んだ者は決して離さない冥府の門である。紅蓮の花の如く命を糧に開かれる美しき女主人————自分に新たな脳と身体を与えた存在は————。


「聞いてるの?」


「あれは香りじゃない。声だ」


 視覚化さえできそうな濃厚な香りは、こちらに呼びかける声であった。或いは手招く人魚の歌声であろうか。自分達はまんまと罠に掛かってしまっている。


「声‥‥意外と詩的に表現するのね。だけど私達は、あれを声だけではないと断言します。私達さえ魅了した香りの正体は洗脳。今のあなたの身体は、カナンによって作り出された電子を細胞とし、現実の身体を模した器に注がれた仮想アバター。その身体を強制的に支配する力を香りとして造り出した悪性プログラムとも言えます」


「それが何故、現実のそちらにも届いたんだ?」


「それはまだ不明、だけどこれが狙い。現実を浸食する力を敢えて選んでいる———あなたが言った声とは、もしかしたら的を射ているのかもしれません。この声が届くのだから、私達では感知出来ない何かで、可能性を鑑みれば森こそが発狂の原因————もし名を付けるとすれば、恐ろしき森の魔女、バーバヤガ」


「あれが魔女?むしろ魔法少女感があったぞ?」


 玄関から飛び出て廊下に躍り出る。エレベーターで下層に降りた自分は受け取ったリュックサックを背負って、マンション外に用意されていた車に飛び乗った。


「あなたの主義主張は聞いていません。そして、その姿を教えないように。想定通りです、次元違いのカナンを浸食する超次元の存在は、あなたでなければ対処できない————人智の理解の超えた存在など、もう二度と目に焼け付けたくない」


 人間の理解を超えた存在、確かにあれは全うな人間では生涯を費やしてでも接触できない超越した在り方であろう。それは人間という種の限界に達してしまうからだ。


 人間が処理できない概念を、ただそこにいるだけで放射し続ける存在など。


「今回、こちらは視覚的確認を遮断。声とソナーだけで補助はしますが、現場での対処はあなたに任せます。燃焼でも破壊でも被爆でも好きにしなさい」


「この身体も改造したと聞いたが、具体的には?」


「あなた自身、生身の身体に極限まで近づけています。————気付かないと思いましたか?もはや、あなた自身身体が人智の理解を超えていると」


「その為に、あれだけヒントをやったんだ。勘付いてくれないと困るだろう?」


 直接公園まで乗り込むとは思わなかったが、車が停止した場所はビジネス街の入り口だった。耳元から「降りろ」と男性の声で傲岸に命令してくる為————オペレーター室中に昨日の咆哮を響かせる。


 名前も知らない男性は、頭を抑えて発狂から耐え忍ぶ為に絶叫を上げるが、それもほんの数秒で瓦解するであろう。一秒にも満たない反撃に笑みながら続ける。


「言葉遣いに気を付けろ。誰が一番偉いと思ってる?」


 白衣の女性も何も言わない状況で、下っ端の男性が何か言える筈がない。何かするとすれば、人の意識がない隙に悪戯をする程度だろう。


「それと、俺の身体に指一本でも触れたらお前達の生体情報をアイツらに渡しちゃうぞ?」


 トドメの一撃が決まってしまった。電子世界から現実世界までを貫通する力の持ち主に、一個人のデータなど渡そうものなら、スマホに電源を入れただけでその頭脳を狙われてしまう。一度でも洗脳されたなら、侵攻軍の先兵とされてしまう。


「何驚いてるんだよ?自分から言ったんだろう?現実を浸食するのが目的だって」


 地面に降りた時、一人でにドアを閉めた車両はそのまま何処かへ去ってしまった。


 記憶を辿り、公園の方向に視線を逸らすがビジネスビルと宇宙エレベーターが乱立した街から憩いの場までは見渡せなかった。


 例え仮想現実だとしても、本心で見たくはないようだ。


「ここからは声だけで指示します。そのまま止まっていなさい」


 滑るように移動する街ブロックの慣性に揺らめいた身体が地面に倒れてしまう。


 立ち上がろうにも酷い地震に突き上げられているようで、このまま座ってまっていた方が得策と断じた。風さえ感じる速度に揺られながら待ち続けると、高い隔壁を発見、『なるほど』と納得した時、それを肯定するように声が届いた。


「感染予防には隔離が必要だと判断したまで。公園全体を四つのセキュリティーコードで囲み、相互に受諾した情報を更新し続けています。万全とは言えないまでも無機物を汚染は出来ませんから」


「良い判断、って言いたい所だけど中は確認できているのか?多分、届いている位置情報は偽物だぞ」


 嵐のように響くコンソールの音に眉をひそめた。冗談であってくれればと思い描いていたが、嫌な予感ばかり的中してしまうとは。あの方から受け取った身体が原因だろうか。


「たったいま観測可能範囲のカナン全域を調べ上げました。————真下にいます」


 そう言ったや否や、アスファルトを模していた細胞が半透明のブロックに覆われる。見た目通り凍り付いたと同意義なアイスセキュリティーは、本来はただの時間稼ぎ。処理に必要なプログラムを凍てつかせて遅鈍させるのが狙いでしかない。


「好きに使いなさい」


 早速引金に指をかけて、ビジネスビルの窓ガラスの一枚に放つ。弾丸を受け入れた窓ガラスは砕ける事はなく、むしろ柔らかく吸い込んだ瞬間————構造、必要理由を理解した自分と場所を変動させる。


 視方を変えれば飛び降り自殺にも見える態勢のまま、高層階を囲む窓ガラスに更に撃ち続ける。宇宙エレベーターにまで届いた所で、遂に気付いてしまった。どうやらカナンに置いても上流中流下流を造り出しているようだと。


 最上階近くから眼下の道路を見渡すが、そこは悠然と雲が広がっているのみだった。ここに通勤する人物達は自分こそが天上界の神と勘違いする事だろう。


「趣味が悪いぞ。家畜にでもする気か?」


「クライアントからの指示なの。私も悪趣味だとは思います」


 だいぶ砕けた物だ。こんな事を作戦中に言い放つのだから。


「隔壁はどう飛び越える?」


 見上げる程に高い壁は雲どころか青空を貫通していた。宇宙という空間が既に完成しているのなら、今すぐにでも足場にし続けているエレベーターに乗り込むべきだ。


 だが答えは降ってきた。


 空から落とされた、いや遠方より放たれたミサイルが轟音を立てて真上を突き抜けるように飛来する。青空を雲を引いて引き裂く『トマホーク』に絶対当たる筈もない『弾丸』を放ち、命中させ位置情報を変える。


 恐ろしい————空気摩擦も慣性力も重力もクーロン力さえ無視した、完全なる等速直線運動により弾丸がロケットの側面を貫通する。同時に位置を変えて公園に着弾する筈だった膂力を受けた。身体中を押し潰す空気の壁に抗い、意識を食い縛って握り続け、数秒にも満たない地獄のような痛みに耐え続けようやく自分は最速最短で隔壁を超える。


「これは—————」


 超えたと同時に安全であろう入口のアーチを撃つ。ようやく安定する地面を得たというのに、自分は息つく暇もなく噴水を囲むベンチのひとつに乗り移った。砕かれるベンチの破片を横目に続いて噴水、水によって常に流動する汚染しにくい物質に自分の一部を放ち領域とする。


 自分の血にも匹敵する情報は、ただの『貴き者』では汚染できる筈もなく何者も寄せ付けない寝具となった。つまりは————飛び込んだ。


「まだ死んでいないようね。だけど水に飛び込む趣味があったなんて」


 隔壁もすぐさま追い抜きそうな身の丈を持つ樹海を知らないのだから、無理もない。だが悪気がない分、ただの無知を披露されるというのは、なかなかに堪えた。


「密度の高い高硬度のセキュリティーは、そもまま隔壁の高度に変わる。硬度イコール高度って、仮想世界はセンスがあるようだな。だけど、もうすぐ崩壊するぞ。こちらが察知出来ない影、高高度からの超次元からの侵略によって」


 水に濡れながら的確にアドバイスをした時、向こう側から「まさかッ!?」という悲鳴が聞こえる。しかし、彼女達も技術者だった。どこか嬉しい悲鳴にも聞こえた。


「あと数分足らずで壁を越える。ソナーは動くのか?」


「————信じられない。たった数日で」


「数時間で二倍成長するんじゃねぇか?そんな事より、どうなんだ?」


「ソナーでの探索なんて出来ない。あまりにも密度が高すぎて、こちらはひとつの樹、いえ星としか判別できない。よく聞いて、カナンは現在別の惑星から侵略を受けているのと変わらない状況に陥っている。しかも先兵なんかじゃない」


「種子どころか根を伸ばし始めている。厄介だぞ」


 返答に声で頷いた白衣の女性は、今すぐ動けとは言わなかった。自分も、今は潜むしかないと考えていた。何よりも噴水を取り囲む花々の茎によって身動きが取れない。


 ベンチをすぐさま砕き、吸収した茎は蛇ではなくあくまでも触手に見えた。


 獲物を捕らえ、引き裂き、体内に潜り込んで内臓を引きずり出す。『貴き者』の中でも特に怠惰とは聞いていたが、まさか現実では不可能と判断して肉片を『星を渡る子』計画に提供していたとは思わなかった。受け入れた側も、酷く怠惰だが。


「あなた、一体何を知っているの?」


「星を渡る子計画立案者とも通じているんだろう。自分で聞け」


 最悪の状況だ。けれど、隔壁を超えなければもっと酷い状況になり果てていた筈だ。二度目の再会相手が———彼女で正解だった。


「それともご主人様にお伺いでも立てるか?死ぬ前に他惑星の技術を得たかったのに、間に合いそうにないから造り出したカナンは崩壊寸前。葬式の準備と年金が」


「今のあなたにそんな事を言っている余裕があるの?」


「あるから悠長にしてるんだよ」


 先ほどから酷使しているM&Pシールドを取り出し、手の中で温める。この体温すら模倣された偽物であるとしても、自分という存在を思い出せてくれる。


「待ってろ————今迎えに行く」


 拳銃が自分の触媒のイメージだとしたら、幾らでも改竄出来る。そもそもこの触媒こそ与えられた精神に寄り添った形、ならば———。


「見ていてくれ。俺は、帰ってきたから」


 この力は同胞達の物。しからば、自分にも使いこなせる。


 祈りを捧げるように額に当てる。耳元から疑問の声が届くが、今の自分には何も聞こえない。自分の心音さえ他人の物に感じる。誓いと契約を果たす時だ。


 拳銃の内部構造を無視した変形が手の中で始まる。鋼とカーボンが織りなすかぎ爪の音に神経を尖らせ、自分が思い描く機械仕掛けの刃を取り戻す。両手の端から溢れる温かな鉄塊たちは有機物のようで、むせ返る鉄臭さに血の味が口に広がる。


「あり得ない————ひとつの精神に、ひとつしか実体はない筈なのに」


「脳を切り分けられて、繋ぎ合わされた。実数として幾つもの脳とカナン内で重なったんだ、精神分裂のひとつやふたつ珍しくもないだろう?」


 拳銃であった筈の形は既に失われていた。あるのは歯車と鉄片が合わさって形作られた『槍』———重厚で巨大な刃を持つそれを軽く突き出せば、衝突した触手は先端から塵となって消えていく。崩壊が根元まで届くかと思いきや、周りの触手によって途中で切り落とされる。


「さぁ、俺の正体に勘付いた頃だろう?出迎えもしないのか?」


 復讐か、憤怒か、狂気か。もはや自分の顔さえ思い出せない同胞は声も上げなかった。だから自分は地獄を思い出させた————自分達が、どういう存在なのかを思い出させた。


「覚えてるか?みんなで世界を開闢した日を。慰み者でも捌け口でもない、俺達だけの世界をみんなで作り出したんだ。学校生活に憧れる日もあったな、放課後の時間を想像した時も—————友達って奴を楽しみたかった」


 迫る樹木の腕が噴水に突き刺さる。だが、それも自分という存在を認知したと同時に先端を切り落として情報汚染を避ける。知っているからだ。この情報だけは受け入れてはならないと。自分の主から仰せつかっている。


「教室を作ったはいいけど、想像でしか知らないから結局殺風景な広い部屋にしかならなかった。ルームシェアだったか?それぞれが勝手に自慢したいリビングを作り出した所為で、喧嘩して個室しかあり得ないって結論が出たんだよな」


 肩で背負うように構えた槍が鈍色に光るのがわかる。視界の隅にちらつく汚れた刃は分厚く頑丈で、人の首だけでなく太い幹すら叩き斬れる。


「趣味に興味を持った日もあった。絵だったり運動だったりゲームだったり旅行だったり———嬉しかった。誘ってくれて。だけど、なんで俺にしか言わなかったんだ?みんなで行けば、みんなで楽しめたじゃないか」


 対戦車擲弾のように持ち上げた槍を、一歩踏み込んで投擲する————。


 一直線に、空を切り裂き黒い枝達を避けるように駆け抜ける灰色の槍は昨日の森に向かって落下し始めた。浸食されてあり方を変えられた樹々は森を閉ざそうと巨木を作り上げて壁とするが————触れた瞬間、自分の情報を与えぬようにと腐らさせて落とす。しかし、自分達の時間は想定していなかったようだ。


「どれだけ俺達が一緒にいたと思ってる。一緒の産湯で一緒の部屋で一緒の時間に生まれたんだ。存在の統合は後付けでも一緒の夢を見れたんだ———お前がここに来るのは1000年早かったんだ」


 手足でしかない樹木ではあるが、紛れもなく身体の一部であるのは間違いない。脳内の現実を一息で空の彼方へ、一度滅んで更に再生され再度滅んだ火星へと意識を飛ばす。惑星を一直線に貫く人工物の奥深く、そこで芽吹いた命を模す何かと————思考を合わせる。


「地球への侵攻なら800年。だけど、それも諦めるんだな。お前が最も恐れる魔王がここにいるんだぞ」


 槍を持つ自分を想像————目を開いた時、自分は槍を握って森の真上を飛行していた。アライズされた身体の重みに加えて、重力の再現に肩に重しを感じるが、むしろ心地よい枷としか思えない。


「彼岸に浸かるのも諦めるんだな。全ての始まりの御子が待ってるぞ」


 一瞬だけ空のテクスチャーと自分を固定。足場を組み立てたと同時に槍を森に向かって投げつける。大地を陥没させる勢いで放った槍と同化して、土埃も起こさずに草と根で覆われた土地に着地する。


「なに、何が起こっているの————何を知っているの」


「ちゃんと新聞とか読んで、裏取りをしといた方がいいぞ。意外と世界の真実って奴はすぐ近くにいる。世界を作り出したいのなら、世界の在り方を知っておけよ」


 三度目の投擲を行う。自分が作り出して放置した樹の巨人に突き刺さる、数舜の起動時間で重い巨体を持ち上げて自分を掴み上げさせる。


 強大な情報思念体には巨大な情報生命体をぶつける。この仮想世界でも唯一操れない命という存在の強みを見せる。


「さぁ、花の化身よ。退去の時だ」


 辺り一面を覆う花々から雄しべとも雌しべともつかない蔓が伸びる。空を覆う一面の毒々しく鮮やかな植物達は、その身を使って内臓を作り上げた。


 大方、これ以上の資源を渡したくないという机上の空論だろう。しかも樹の巨人諸共体内に含まれた自分にとって———とある空間を思い出させる。


「そうだ。あの時に似てるんだ。そうか、お前が世界の根、俺達を分解した」


 勝敗など既に決している。自分に寵愛を与えてくれたあの方が————人間という不確かですぐに裏切る存在と手を携えた弱者に劣る訳がない。そして、未だに公園しか浸食できていないのだ。


「自分の情報を開示するのが嫌か?だから、負けるんだよ」


 樹の巨人を改造する。


「知ってるか?もうこの星には————貴き者、上位の存在が溢れてるって」


 徐々に落ちる視点を嘲笑うように、花の少女はその身を膨らませる。白い肌に植物の蔦が絡まる姿は、痛々しくも神秘的で、優しくも恐ろしかった彼女によく似合っていた。


 しかし————あれは宿り木でしかない。真に世界を創造した自分達よりもはるかに劣っている。自分が作り上げたのは弓ではあったが、やはり槍であった。


 弦を引いて携えた槍を受け入れる姿勢を取る花ではあるが、『彼女』も『彼女』で見識が足りていない。


「飲んでみろ。酒にもなるんだから」


 放たれた穂先には、とある木の実が塗られていた。塗っていると模倣していた。


 槍を受け入れた花の少女は胸で抱えるような仕草を取るが、続けざまに胸の間から血にも似た樹液が溢れる。白い瑞々しい肌から零れる粘着性を持つ蜜はとどまる所を知らず、体内の全てを曝け出すようだった。


「聞こえるか?迎えにきた」


 今も苦しむ花の少女に近づき、腕を伸ばす。砕け始めた花から蜜が後引く少女を奪い去った時、鋭い目蓋を開き————静かに笑んだ。


 そして、一切の躊躇もしないで頬を叩かれる。


「————なんで?」


「私からの誘いを断ったから」


 蜜だらけの身体を抱えた状態で、弓を再度樹の巨人に変えてうずくまらせて、腹の下に隠れる。崩壊しつつある内臓から脱出するのは難しいと判断、そして公園の浸食が止まり次第白衣の女性たちは観測を始める。———この肌を、もう二度と晒せたくなかった。


「そんなに強く抱くんだったら、どうして断ったの?」


「断った訳じゃない。みんなでって言ったじゃないか」


「秘密で行くのがいいって、そう書いてあったから。まだ5歳のあなたには早かったみたいだけど」


「そっちだって、まだ5歳だろう」


「私の方が先に目を開いて、ひとりで歩いた。はい、私の勝ち」


 肩と胸を押されて突き飛ばされた時、巨人の腹に手を付けた少女が資源の一部を掠め取る。肌を覆う一枚の布、トガを真似た服装となる。


「前から聞きたかったけど、どうしてそんなに肌を見せたがるんだ?」


「私が美しいからに決まってるでしょう?あれだけ一緒にいて、そんなこともわからない?それに人が私の肌に溺れていくの、嫌いじゃないし。まぁ、事故を装って触ってくる人間は嫌いだったけど。慰撫も下手、口説き文句も下の下だったし————それで私の身体は?」


「外にある。もう行くのか?」


 振り返った彼女が、捕食者を思わせる笑みを浮かべた。そして巨人の真下で這いずって迫ってくるので迎え入れる。密かに鼻で笑う少女は「そんなに一緒にいたい訳?」と、変わらない挑発を耳元でささやかれる。


「約束は果たしたんだ。次はそっちの番じゃないか。俺の破片は何処にある?」


「我儘ね。さっさとここから出て外に意識を飛ばすべきじゃない?あなたがカナンを破壊して、私達『子供達』を外に飛ばした暁には約束を果たしてあげる。向こうでね」


 腕の中から消えつつある身体を、ほんのわずかに抱き寄せた。あと数日で再会できるのだから、逢瀬を楽しむ必要はない。だが————僅かな勇気の報酬が欲しかった。


「弱々なあなた一人だと不安ね。仕方ないから、ちょっとだけ手伝ってあげる———向こうで会った時、覚悟しておいて。絶対にあなたの初めては私が貰うから」










「汚染深度を確認、除去も浄化も完了している。本当にひとりで————」


 染み抜きでもするように公園ブロックの細胞がひとつひとつ浮かび上がって消えていく。シャボン玉が弾けていく光景にも見えるが、その実、もはや不要と判断された部位を除去する————焼却の灰とさほども変わらなかった。


「どっちが侵略者だ」


 口の中で呟いた言葉が脳髄に響く。そもそもこの世界は自分達の身体だったというのに。切り刻まれた肉片と化し、繋ぎ合わされて完成された血と脳と肉の世界。


 それがこの美しきカナン。人間が次の段階へと進む為に作り上げられた楽園計画、死も病も傷も、思いのままの神となれる———あらゆる恐怖から解放される世界。


 たった今旅立った彼女はずっとここにいたのに。ずっと一緒にいたのに。


「聞こえていますか?今から当該地区のオールクリアを起動させます。あなたの身体に害はないと思いますが、地割れにも匹敵する現象が‥‥何を見ているの?」


「星と花と蜜、かな」


「————黙祷なら別の場所でしなさい。邪魔です」


 与えられた車に乗ると同時に扉が閉まり発車する。急発進ではないにしても唐突な移動にシートへ身体をぶつけてしまう。文句のひとつでも差し上げようかと思い立ったが、窓の外の光景に言葉を失う。


 オールクリアと名付けられた世界修復の始まり、破壊の工程は皮膚を切り裂かれているようだった。いまだ血の通う生暖かな肌を淡々と機械的にめくり上げ、動脈が晒されようが骨が剥離しようが、カナンが幾ら悲鳴を上げようと気にも留めない。


「あの公園は消すのか?」


「完全に除去します。一度でも侵入された電子細胞は全て。例外はありません」


 思い出があった訳ではない。特別であった訳では————いいや、特別ではあったのだ。外の事など手探りも出来ない施設の中、彼女は真っ先に『公園』と呼ばれる施設を作り上げ自慢した。センスの良し悪しなど測れない。だけど、特別だった。


「次の場所は?」


「仕事熱心で何より。次は学術区画に向かって貰います」


「いよいよ俺を学生にさせる気か?」


 呆れと同時に、何故だろうか焦燥感にも似た感情が胸に詰まった。行きたくない、行ってはならない。そんな邪だけど自分を守るという恐怖とも言える防衛本能に苛まれる————ああ、彼が待っている。

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