[33] 暴走
何をやった? 何が起こる?
警戒レベルを瞬時に最大まで引き上げる。
男はなんらかの非常に単純な術式を起動した。そんなに強力な現象は発生しないはず。
だのになんだ? この全身を圧し潰してくるような重苦しい感覚は? この男がこれを発しているというのか?
いや違う、何かをとらえ違えている。私の身体は確かに危険を感じ取っている。
けれどもその源が何であるのか、厳しく限定できていない。
「クロ!?」
りっちゃんが驚きの声をあげた。
『あなたがたはそれが何であるか、理解していない』
男の言葉が脳裏によみがえる。いったいクロが何者であるのか、私たちは理解していない。
全身を揺さぶるような激しい咆哮、びりびりと空気を震わせ、森全体が左右に揺れ動く。
圧倒的なプレッシャーの正体、それは目の前の男ではなく後ろにいた、ちっぽけな子犬だった。
気づいた私は逃げ出すように距離をとる。とりながら振り返った、後ろを確認する。
圧迫感のその正体はいったい何だったのか?
そこにいたのは相もかわらず1匹の小さな生物でしかない――けれども尋常でなく色濃い黒のオーラをその全身にまとう。
気を抜くとその本体を見失ってしまいそうなほどに、濃密で巨大な魔力を立ち上がらせる。
ようやく足を止めた。森の中にぽっかり開いた空き地、そのぎりぎりのところまで私は後退していた、後退させられていた。
むしろそのまま逃げなかったことをほめて欲しいぐらいに、その場所は圧倒的な存在感によって支配されていた。
感覚的には理解できる。
初めてクロに出会った時に感じたあのプレッシャー、あれを極限まで高めていけば、今のこの感覚にまで達することはあるだろう。
ただしそれはあくまで理屈の上での話にすぎない。現実は私の想定をはるかに上回る状況にあった。
私、りっちゃん、クロ、それから怪しい男、四者はいずれも距離をとっている。互いにすぐには手が届く距離にはいない。
誰がどのような隠し玉を抱えているかわからない現状では、安全が十分に確保できているとはいいがたいが。
最優先の警戒対象はすでに男からクロへと移動している。
あれが何者であるかわからない以上、まったく油断するわけにはいかない。
またあれだけの急激な変化、まったく別のものに変質してしまっている可能性も否定できない。
推察するに、男にとってクロの変貌は予想の範囲内で、彼はこの怪物を制御するための手段を、なんらかの形で握っていると考えられる。
それがどの程度のものかわからない。わからないけど、場合によってはそれって結構やばくないかな?
りっちゃんは驚いてはいるがびびってはいない。ただどうすればいいのか、状況をつかみかねている。
誰をどう攻撃すれば終わりになる、といったようなシンプルな設定じゃない。
男をぶん殴ればそれで終わりになるのか? 確証がない。
不意に哄笑が響き渡った。
「すばらしい! まさかこれほどのものとは!」
男は空に向かって、あるいは目の前で強い存在感を放つ魔力の巨大な塊に向かって、両手を広げ高らかに笑い声をあげる。
「魔法生物とは何か? 他の生物とは何が違うのか? 何がその存在を決定づけるのか? 生まれついて決まっているのか? それとも環境によってそれは獲得されるのか? 遺伝は? 魔力に対する適性がそれに作用する? 魔力容量が拡張されている可能性? まったくわれわれとは異質な生物? 人工的な発生を支援できる? 強制的な魔力の注入によって? 外界からの使者? 人工魔法生物? 規範から外れるもの? 群れからの疎外者?」
興奮して早口になって男は言葉を並べ立てる。私にはその言葉の半分も理解できなかった。
断片的な情報をつなぎあわせたところ、彼にはなんらかの計画があったように思われる。
人工的な、自分に都合のいい魔法生物を作り上げるといったような。
詳しいやり方はわからないが、その一つのサンプルが――クロであるということだけは察せられた。
感情がぶれる、吐き気がする。物事が1本の線へと収束していく、同時に冷静な自分がいた。
これはかなり危ない状況かもなと俯瞰で眺めている。いったい何が危ないのか?
「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ! やれー! やってしまうのだー! 実験体13号!」
いかれた男はなおも戯言を喚きつづけている。
その叫びを打ち切ったのは他でもない、りっちゃんだった。
「黙れ、このくそ野郎がー!」
直球の罵倒、それと同時に一瞬にして魔力が展開する。
爆発、りっちゃんの青い魔力が急速に膨れ上がる。
それはクロが発するような巨大な圧迫感を持たない。
一瞬にして鋭く立ち上がると、最短距離で機動する。
いやそれは一瞬にすら満たない時間だった。私に認識できたのはその結果だけだったから。
いかれ男にはそれすら認識できなかったろう。彼の全身は青白く凍結されていた。
観測不可能。
りっちゃんのことをよく知っている私からしても、ちょっとどうかと思うぐらいの速度だった。
りっちゃんのことを知らない人間からしたら、とても人間業には思えなかったことだろう。
彼は死んではいなかった、と思う、少なくともその時点では。
まあその時点で死んでいよう死んでいまいが、あまり関係のないことだったのは確実だけど。
ぷつりと糸の切れたように、りっちゃんのからだがその場に崩れ落ちる。急激に魔力を使い果たしたせいで。
特にそれによって頭をぶつけたとか、そういうことはなさそうで、時間がたてばいずれ回復することだろう。
場に不意の静寂が訪れる。立っているのは私とそれからクロ。
彼は存在を巨大化させ、世界全体を見下ろしている。長く細く響く声で悲しげに鳴いた。
それはすでに彼自身には力の制御ができていないことを、つげているように私には聞こえた。
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