初夏色ブルーノート

肥前ロンズ

第1話 夏が来る

 ――智昭ともあきさんが、死去しました。

 緊張しているのか、泣くのをこらえているのか、その声は震えていた。



「ねーナツくん、そうめんは一束? 二束?」


 姉ちゃんの声が、台所から聴こえる。

 俺は金縛りにあったように、電話の相手にも、姉ちゃんにも返事ができなかった。


「ねー、ナツくんー」


 一向に返事が来ない俺に、しびれを切らしたのだろう。階段を上る音がした。

 はっと我に返り、俺はスマホをベッドに放り投げて部屋を飛び出す。

 姉ちゃんは、あと三段で二階にたどり着くところだった。


「一束半! ごめん、今電話してんだ」

「あ、ごめーん」


 りょうかーいと言って、姉ちゃんが降りていく。

 完全に姉ちゃんの気配が消えたのを確認してから部屋に戻り、俺は電話の相手に謝る。


「すいません、今姉ちゃんが昼ごはんの算段を聞いてきて」

『……今の、明子はるこさんですか?』

「あ、はいそうです」


 そう言うと、電話の相手は、お元気そうで何よりです、と言った。

 電話の相手は、智昭さんの奥さんだった。彼女の言うとおり、二人の結婚式以来なのだから二年ぶりだ。

 ──思い出すのは、結い上げた栗色の髪にかかったウェディングベール。それが初夏の風によって揺れていた姿。彼女はトモちゃんと腕を組みながら歩いていた。とても幸せそうに笑っていた。

 幸せそうだね、トモちゃんと花嫁さん。

 隣で手を叩きながら、姉ちゃんが花嫁さんに負けないぐらいの笑顔で言ったのを覚えてる。

 けれどそれ以来、俺と彼女が会うことは無かった。

 いや、トモちゃんとも会わなかった。


 思い出している間、今朝亡くなったとか、通夜と葬儀の日程とか、式場とか、事務的な話が彼女の口から続けられる。

 そして、こう言った。


明子はるこさんにも、来ていただきたいのですが……』

「すいません」


 俺は、自分でも驚くほど硬い声で返した。

 ベッドに置いたデジタル時計を見る。今日は、二〇一九年五月九日の木曜日。




「姉ちゃん、記憶がないんです。一年前から」

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