第26話 ひと夏、かけがえのないとき

 太陽が高く上る少し前、カテリナが新行事を満喫して遅れて出勤すると、ギュンターはなぜか恨めしい目で彼女を迎えた。

 カテリナはとっさに自分の格好を確認したが、いつも通り髪は縛って帽子に仕舞い、騎士団服は詰襟の一番上までボタンを留めていた。王城の一角で女性の姿でいたことはばれていないと胸を撫でおろして、そもそもなぜ女性であることをここまで隠す必要があるのか、ふと思いをめぐらせた。

 王城には女性仕官も少ないながら勤務しているし、騎士団にはまだいないが入団を禁止されてはいない。ただどうしてか、今この場では女性の格好でいる自信がない。

 この場だから……陛下の前だから? そう思ったとき、ウィラルドがカティは恋をしていると告げた言葉を思い出して、勝手に顔が赤くなった。

「すみません、新行事に参加していて遅くなりました」

 混乱して自己申告をしたカテリナは、まったく言わなくていいことを報告していたが、過去の女性からのチョコレートの洗礼を受けたばかりの国王陛下はその正直さに気が抜けた。

 ギュンターはため息をつきそうになるところをこらえて言う。

「君もヴァイスラント国民の一人だ。祭りを楽しんでいれば何より」

 ギュンターは大人の余裕を見せるところだと、カテリナの遅刻の詳細は訊かないことにした。実際ははにかんで目を逸らしたカテリナが誰とほろ苦いやり取りをしたのか結構な手順まで想像しかかったのだが、それは要するに過去のことなのだ。

 ギュンターとしては、ビターチョコレートの儀式はヴァイスラント国民の国王への催促だったのだと思っている。国王が最後のダンスを誰と踊るか国民は興味津々でみつめているのに、未だにギュンターは相手の名前すら明かしていない。アリーシャを応援していた国民も多数いたわけで、この機にギュンターへささやかな嫌がらせでもしようという思いだったのだろう。

 カテリナは肩掛けカバンを下げると、近衛兵と目配せして言う。

「準備ができたそうです。参りましょう、陛下」

 いや、国民に周知しようにも俺も彼女の名前を知らないんだがな。ギュンターはぱたぱたと駆け寄ったカテリナを見ながら心の中で愚痴ったが、もう少しの間は知らなくてもいいかと思って目を逸らした。

 前夜祭に当たる今日から、ギュンターはヴァイスラントのあちこちで開かれている祭りを公式訪問するという立派な仕事がある。事務仕事もこの二日間は置いておいて、文字通りのお祭り騒ぎの中、踊りに踊るのがギュンターの仕事だ。

 早速向かった会場は、海の近くにある夏の合宿所だった。砂浜に屋根だけ張り出した壁のない集会所が立ち、笛とリュートを用意した子どもたちとそれを見守る保護者たちが国王陛下の訪問を待ちわびていた。

 だいぶ形だけになったとはいえ、ヴァイスラントにはまだ身分の違いがある。庶民の子どもたちは働くために執事学校や仕官学校といった職業学校に早くから通う一方、貴族の子どもたちはほとんど家庭教師だけで育って他の子どもと交わらない。

 けれどどんな子どもも夏には海風に誘われて合宿所に集い、宵には男の子と女の子が共に踊るダンスパーティに行って、やがて大人になっていく。

 ギュンターは代表で花束を差し出した少女に、屈みこんで手を差し伸べた。

「レディ、私と踊ってくださいますか?」

 どんなに小さくとも女性はレディとして扱う、そんな国王陛下は本日も健在だった。ギュンターは六歳ほどの少女の手を取ると、さすが手慣れた様子で優雅に踊り始めた。

 それを合図に少年少女の楽団は音楽を奏で、子どもたちも踊り始める。降臨祭と、これから彼らが将来をかけて踊るダンスの数々が喜びにあふれていてくれるよう、カテリナもほほえましい思いで見守っていた。

 嵐が明けて空は晴れ渡り、潮風が香ばしく吹いていた。まだ本格的な夏の到来は先だが、まぶしい季節の前はカテリナも心が躍る。

 ギュンターのサーコートの裾が風に揺れるさまが、昔ここに連れてきてくれたチャールズの後ろ姿と重なった。

 カテリナが夏の合宿所に行ったのはずいぶん幼い頃だった。一体いつのことだったのかはっきりと思い出せないが、その日も一面青い空が広がっていて、潮風が今のように心地よく通り過ぎていた。

 カテリナは父が庶民出身であったからその暮らしぶりは貴族然とはしていなかったが、母は隣国の王姉の身分だったから、執事のチャールズはカテリナの教育に大きな誇りと責任を持っていた。

 それに父ゲシヒトも早くに妻を亡くして、妻の忘れ形見の一人娘に過保護になっていた。カテリナはそういう周りの感情を感じやすい子どもで、外に出てみんなと遊びたいとは口にできずにいた。

 結局、来年には仕官学校に入るときになって、チャールズはカテリナをほとんど外の子どもと交わらせずにいたことに気づいて、カテリナに何度も謝ったのだった。別にいいよとカテリナは笑ったけれど、とても幼い頃何かの折にチャールズが連れて行ってくれた合宿所が楽しかったことだけは覚えていて、少しだけ寂しかった。

 あの子はどうしてるかな。ふと思い出したのは、夏の日のひととき。

「踊らないの?」

 ふいに声をかけられて、カテリナは過去と現在が潮風の中に混じったような思いがした。風にあおられて飛びそうになった帽子を押さえて振り向くと、隣に王弟シエルが座っていた。

 シエルが目を向けた先では、陽気なリュートに合わせて子どもも保護者も、王城からやって来た従者たちも踊っていた。石段に座っているのはカテリナとシエルだけで、ぼんやりと思い出の中に浸っているのもカテリナだけのように見えた。

「ううん。今の言い方は素直じゃなかった。……僕と踊ってくれる?」

 優しく言ったシエルの声音が、遠い日の誰かの声と重なる。

 薫る潮風の中、隣に座った男の子がそうカテリナに言ったのはいつの夏だったかはもう思い出せないけれど、そのときの思いは覚えている。

 僕は男で、ダンスは下手で、そんな言い訳を重ねて、男の子から隠すように手を引っ込めた。

「君は昔も今も、とってもかわいいから」

 カテリナが驚いて目をまたたかせたとき、シエルはカテリナの手を取ってキスを落としていた。

 シエルはすぐに手を離してくれたが、カテリナはとくとくと鼓動が早くなっているのが聞こえていた。

 体温が感じられるくらいに近くに手を置いたまま、シエルは長いことカテリナの隣でパーティをみつめていた。

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