第4話 お忍び時々迷子

 ヴァイスラント公国の王都の治安は、衛兵の主な仕事が酔っ払いの道案内になっているくらいに良好だった。

 かつて指名手配犯の張り紙が貼られていた掲示板は迷い猫のチラシが貼られるようになり、戦時の早馬の詰め所は旅行代理店に看板を変えた。人々は祭りもサロン通いも大好きで、女性や子どもに至るまで街歩きを楽しんでいた。

 ところがヴァイスラント国民にあるまじきことに、街歩きの習慣がない少女がここにいた。

 カテリナは王城と実家の往復でパンも洋服もそろうために、その対角線上からはみ出ずに大人になった。学生時代は買い食いもせず、新しいチョコレート店ができたんだってと何かを期待するまなざしで言う父にも頓着せず、いつもの牛乳店に足しげく通うカテリナだった。

 そんなカテリナが無事王城に就職して騎士という称号を得て、大手を振るって盛り場に繰り出したかというと、まさかそんなはずはなかった。むしろ王城内に出入りする商人や食堂という強い味方を得て、街歩きの能力は本格的に劣化した。

「……しまった」

 ギュンターとアリーシャのお忍びの馬車が走り出して数刻後、まもなくカテリナはここがどこかわからなくなった。

「何か言ったか?」

「いいえ。徒歩通勤にこんな穴があったと知らなかったんです。お話を続けてください」

 カテリナは道案内の役目が果たせなかったらどうしようと思ったが、一瞬ギュンターがアリーシャとの話を中断してしまったので、慌てて言いつくろった。

 馬車の窓からうかがう王都は、建国以来の祭りにどこも浮き立っていた。音楽隊が行き交い、商店からは呼び込みの声が響く。道行く人々は小旅行や買い食いを満喫していて、昼前から既ににぎやかだった。

 カテリナはというと、街のにぎわいに目を輝かせるより、目先の仕事を注意深くみつめていた。まったく自信はないが、ギュンターとアリーシャをどこに道案内するか、ボードゲームを組み立てるように計画を練っていた。

 ふいに腕を組んで密やかに目配せをしながら路地に入っていった男女を見て、カテリナはぴんと閃いた。

「待て、カティ。どこに行く」

 庶民は立ち入れない目抜き通りに馬車が到着するなり、カテリナは近衛兵に耳打ちして、自分は明後日の方向に歩き出そうとした。ところが馬車の中では始終アリーシャと話に花を咲かせていたギュンターが、途端に声を低くして呼び止めた。

 カテリナはギュンターを振り向いたが、その目は大いなる到達点をみつめていた。つまり国王陛下が最愛の人とワルツを踊ること、そのために自分ができる最善の方法をこれから実行する予定だった。

「夜勤に備えてパンを買いに行こうと思います」

「何の夜勤だ。君の仕事は私の付き人のはずだ」

「はい、ですから」

 彼女の頭の中ではすでにギュンターとアリーシャは恋仲で、これから雨が降ってどこかの宿で夜を明かすところまで進行していた。

 初日からこの進捗なら最終日を待たずに目標が達成できると、カテリナは澄んだ瞳でじっと国王陛下をみつめた。まさか彼女の頭の中をのぞいたわけではないが、ギュンターはその真剣で有無を言わさないまなざしに眉を寄せた。

 ふとカテリナの目は上に動いて、落胆の色を浮かべた。空は晴れ渡っていて雨の気配がない。

「わかりました。近くに控えています」

 雨でなくとも足止めの手段はある。カテリナはすぐに気持ちを切り替えて顔を引き締めた。

 ギュンターはというと、そもそも外出の目的は令嬢とのお忍びなのであって、なぜお付きの騎士などに気を取られているのかわからなくなった。

「アリーシャ、リボンが靴に合わないと言っていなかったか。気に入る品をプレゼントするよ」

 ギュンターも気持ちを切り替えてアリーシャのエスコートを始めた。

 国王たるもの呼吸をするように令嬢をエスコートしなければと自負していて、滞りなく心地いい話題を提供するのも慣れている。

 流行のリボン、街で噂の新作菓子、暮らしを飾る花に、王城のサロンまで話題をさらった演劇。どれもアリーシャが好んで、いつまででも息の合う会話を続けてくれるのをギュンターは知っている。

「ありがとう。あ、ちょうど新作が出ているみたい」

 アリーシャはショーウインドーでリボンをみつけて、ギュンターと共に中に入っていく。カテリナは近衛兵たちにならって、ギュンターたちからつかず離れず続いた。近衛兵も含めて五人も店内に入ってしまったが、邪魔にならないよう、人形になったつもりで壁に張り付いて待機する。

 ギュンターがアリーシャをエスコートした店は、ドレスのアクセントとなるリボンを中心に、貝殻のペンダントやショールが絵のように並び、店員の控えめさも相まって、カテリナが普段出入りする下町の雑貨店とはまったく違っていた。

「靴……そうなの。靴を変えたのが失敗だったわ」

 けれど目に留まった靴が、少しアリーシャに引っかかったらしい。はしゃいでいた声を収めて、早々にため息をつく。

「私に濃い色は合わないって知っていたはずなのに、靴を変えてしまったの。だから全体のバランスが悪くなって、どのリボンを見ても違うって思うのよ」

 アリーシャは自分が王城に出入りする令嬢の憧れと自負していて、時にその自負が彼女の足かせになる。いつも平常心ではいられないところは、まだ年相応の少女だった。

 女性の心を晴らすのは難しいなと思いながら、ギュンターが差しさわりのない別の話題を持ち出そうとしたときだった。

 壁際で石像のように微動だにしなかったカテリナが、店員に何か耳打ちした。店員は訝しげな顔をしたが、そっとアリーシャに歩み寄ってリボンを差し出す。

「こちらはいかがでしょう?」

「……あら、これ」

 日頃、アリーシャは自分で身に着けるものはすべて自分で選んで見せると自信を持っているが、店員の差し出したリボンを見て歓声を上げた。

「すごいわ! その合わせ方は初めて。ね、陛下。結んでくださる?」

 言われるままにギュンターがアリーシャの髪を結うと、彼女は子どものように喜んで鏡の前で繰り返しリボンを撫でる。

「似合うでしょう?」

 確かにその淡い緑のシルクのリボンは彼女の靴と色こそ違うが、レースの形がそろっていて、少し大きいところもつり合いがよかった。

「あ、ああ。似合うよ」

 ギュンターはちらとカテリナを見やったが、カテリナはもう石像に戻ってしまっていた。

「こちらなどもお似合いです」

「本当! 陛下、見てみて」

 それからアリーシャのご機嫌はみるみるうちに良くなった。アリーシャはお洒落ゆえにギュンターすら手を焼くほど好みにはうるさいはずが、いつもなら相手にもしない店員の差し出す商品を手放しで喜んだ。

 ただ決まって店員が歩み寄るその前にカテリナが店員に耳打ちしているのは、カテリナを背にしているアリーシャは気づかなかったらしい。

「やっぱり精霊が降りてきてるのね。今日は運命の出会いばかり」

 いや、違うんだアリーシャ。そこの、壁と一体化しているような新米騎士が服の色にも生地にも、最新のリボンの結び方にも詳しいんだ。

「喜んでくれて何よりだ」

 と、ギュンターはもう少しで言うところだったが、自分より一回りも年下の、子どものような顔をした少年に負けを認めるわけにもいかず、そつのない笑顔を浮かべただけだった。

 アリーシャが仲良くなった店員と談笑している間、ギュンターはカテリナに近づいて小声で言った。

「君には姉妹がいるのか」

 カテリナはどうしてかびくりと震えると、目を逸らして答えた。

「申し訳ありません、一人っ子です。一人っ子のおかげで、なぜか令嬢教育も惜しみなく受けて育ちました」

 ギュンターはカテリナの言葉を考えて、ふと思い出して言った。

「そういえば君の身元保証人はメイン卿だったな。「令嬢が選ぶ家庭教師」第一位の」

 メイン卿は身分では下級貴族だが、教育者としては最高峰の紳士だった。ドレスの着こなしからお稽古事、歩き方まで、どこのサロンに出ても恥ずかしくない令嬢に育て上げてくれるという評判だった。

 ついでになかなかの美男子で、アリーシャも何度となく父親にねだって家庭教師に来てくれるよう頼んだというが、叶わなかったという。

「個人の家庭教師は引き受けてくれないらしいが、もしかして君はメイン卿の教育を受けたのか」

 カテリナはばつが悪そうにうなずくので、ギュンターはようやくカテリナの素養の理由を知った。

「なるほど。女性だったら社交界の華になれただろうな」

 ギュンターが悪気なく笑って言ったときだった。

「……僕は男ですから」

 あきらめたようにカテリナがつぶやいたのが、ギュンターにはなぜか気がかりだった。

 ギュンターとて女性の機嫌は時々損ねることがあるもので、放っておけばそのうち戻ると知っているが、ふとこの少年はどうなのだろうと思った。

 別にお付きの騎士の機嫌などどうでもいい……と思うのなら、気になるはずもなかった。機嫌を直せと命令するわけにもいかないから、余計に変な気分になる。

 以前、妹のマリアンヌが苦笑して告げた言葉が耳に蘇る。陛下は口が回るくせに、肝心なとき何も言わないのよ。慣れた相手ならそれは陛下の優しさだってわかるけれど、付き合いの短い方だとどうでしょうね。

 妹の声に心の中で言い訳する。俺は国王で、誰かを特別扱いするわけにはいかないんだ。

 ……でもそれを言うなら私室に入れた時点で、他とは違う扱いをしてしまっている。

「陛下、どうなさったの」

 店員のところから戻ってきたアリーシャが声を上げる。彼女が見たのは、近衛兵から紙袋に入ったパンを受け取ったギュンターだった。

「みな、外に出て少し休憩にしなさい」

 ギュンターは店外に部下たちを呼び寄せると、手ずから彼らに一つずつくるみパンを配って労った。

「アリーシャ、君にも」

「ありがとう。でもどうして突然?」

「わざとらしいのは承知している。しかし付き合わされる立場の者たちも、それ相応の扱いを受けていいと思ってな」

 自分は男と女で言葉面や態度を違える癖があるのは知っているが、男でもきちんとその労を認めてきたはずだった。今までにも臣下を育てるために指導をしたし、しかるべきところへ推薦もした。

 だからこれはいつもの延長で、決してある騎士がパンのことを口にしたから買ったものではないと、自分に言い聞かせる。

 そう思ったところまでは、確かに平常心だったはずだった。

「……カティはどこに行った」

 けれどお付きの騎士が視界から消えただけで、その行方を案じてしまったのは変だった。

 先ほどまで控えていたカテリナの姿がどこにもないことに気づく。ギュンターは何度となく呼んだその名前を、一昨日まで知らなかった。

 近衛兵であっても家がある。家に帰ることもあれば異動もする。ずっと側にいられるはずもないのは人間として当然で、誰にも責められない。

 だとしたら急に辺りが暗闇に落ちたような思いがしているのは、何なのだろう?

 もう一度無意識に呼ぼうとして、アリーシャという令嬢の前で不機嫌な顔をするのさえ抑えられない自分に苛立った。

「はい。御前に」

 ところが憎たらしいほどまんまるな目をして、カテリナはギュンターの前に戻ってきた。

 ギュンターは気づかれないよう詰めていた息を吐いて、じろりとカテリナを見た。

「どこにいた?」

「知識としては知っていましたが、宿の予約を取るのは初めてで」

 ギュンターは慈悲深くあれと教えこまれた帝王学を、一瞬かなぐり捨てたくなった。

 ざわざわと周囲の喧噪が耳に戻って来る。気が付けば踏み出しかけていた足を一歩下げて、ギュンターは深く息を吐いた。

「一つ言っておこう。今日の君の仕事に、労いの言葉はやれない」

 指示していない仕事をするなと教えるのは、この無尽蔵なやる気を持つ新米騎士の芽をつぶしてしまいそうで、何とか思いとどまった。

「あとはもう一つ。……今日はもう帰る」

 ギュンターは未だわからない新人教育の難問にぶつかって、軽く頭を押さえた。

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