第3章 計算機沢山

 朝起きると、一時間くらい勉強して、それから電車に乗って学校に行った。フィルは一緒ではない。当然だ。猫には猫の学校があるからだ。


 今日も朝食をとらないまま、月夜は学校に行った。そして昼食も用意していない。学食で食べるというわけでもなく、そもそも食事をするつもりがなかった。特にダイエットをしているわけでもない。食事をとらないのは彼女の身体的な特徴なので、自分ではどうすることもできなかった。滅多にお腹は空かないし、食欲も湧かないのだ。


 約一年後に受験を控えているが、授業ではまだ新しい単元に触れていた。国の政策では、どうやら受験勉強は数ヶ月程度すれば済む、ということになっているらしい。ただ、三年間毎日勉強をしていれば、そもそも受験勉強などというものをする必要がないわけで、そういう意味では、政策の方針は正しいといえそうだった。


 昼休みを図書室で過ごし、月夜はまた教室に戻ってくる。


 基本的に、彼女は学校で浮いている。基本的にというのは、何らかの行事をする際に、完全に省かれるようなことはない、ということを示す。つまり、いないものとして扱われているわけではない。けれど、彼女が誰かと接するのは、本当にそういう行事がある場合くらいだから、行事のとき以外姿を現さない人物として評価されている可能性も、まったくないとはいえそうになかった。


 そして、放課後を迎え、教室からは誰もいなくなる。


 月夜は自分の席に座って、一人で勉強をしていた。


 勉強というのは受験勉強のことではなく、授業内で与えられた宿題の消化だった。宿題といっても、範囲が予め決められているわけではなく、自分で内容を決めて、その結果を報告するという形式になっている。何でも、このように自分で計画を立てて勉強を進めることで、より一層効果が期待できるらしく(何の効果かは不明)、事実上教師は楽をしているのだが、生徒のためにこういったスタイルをとっているとの説明が成されていた。明らかに自虐と受け取れる説明だが、自虐を言えるのはそれなりに知能が高い証拠でもある。


 そんなわけで、月夜は毎日自分で決めた範囲を宿題として進めていたが、もうそろそろ参考書は終わりの部分に差しかかろうとしていた。たしかに、計画的に進めることに意味はあるかもしれない。ただ、彼女にとって勉強は面白いものではないから、特に何の感慨も達成感も抱かなかった。


 参考書とノートを鞄に仕舞って、代わりに本を取り出して読もうとしたとき、傍にある窓が微かに揺れた。


 そちらを見ると、闇に溶けた何かが、窓を叩いているのが見えた。


 フィルだった。


 月夜は椅子から立ち上がり、窓を開けて彼を室内に招き入れる。彼は外を素足で歩いているので、教室の床が汚れてしまいそうだったが、特に雨が降っているわけではないから、月夜は目を瞑っておくことにした。


「やあ、熱心で結構なことだな、月夜」教室に入ってくるなり、フィルは言った。「毎晩遅くまでご苦労さん」


「苦労はしていないよ」


「では、お疲れさん」


「今のところ、疲れてはいない」


 椅子に座り直して、月夜は本を開いてページに目を落とす。昨日読んでいた続きだった。こちらも、今のところ、面白いといえるほどの内容ではない。


「今日は一日、どんな感じだったんだ?」


 フィルに問われ、月夜は口だけで応じた。


「どんな感じ、とは?」


「楽しかったか?」


「楽しかった、とはいえない」


「いつも通りといったところか?」


「うん」月夜は頷く。「そんなところだと思う」


 無愛想に答えているように受け留められるかもしれないが、月夜は素直に答えているだけだ。そこには何の皮肉も込められていない。


「今日は新しい発見があった」勝手に月夜の隣の机の上に座って、フィルが話した。「散歩をしていたら、大きな八百屋を見つけたんだ。西瓜や何かが売られていたな。今どきこんな古臭い店があるのだと、感心してしまったね。店先に渋柿が吊るされているんだ。なかなか見かけないだろう? 月夜、渋柿を食べたこと、あるか?」


「ない」


「そうだよな。それくらい、珍しいってことだ」


 フィルは机の上から飛び降り、今度は黒板の方に向かう。チョークの粉を受け止める溝の上に載り、掌で黒板の表面を撫で始めた。


「やはり、学校はいいな」


 フィルの言葉を聞いて、月夜は顔を上げる。


「どういうところが?」


 月夜が尋ねると、フィルは飄々とした口調で答えた。


「静かなところが」


 たしかにそれはその通りかもしれない、と月夜は思った。昼間は生徒で賑わっていて煩いが、都市の喧騒よりは悪くない気がする。夜になれば、ほとんど何も聞こえない。時間が止まっているようにさえ思える。


「あとで、少し、学校を探検してみないか?」


「いいけど、この前も、したよ」


「そうだったな」フィルは一度首を傾げて、それから再び口を開いた。「それなら、あの喫茶店に行こう」


 月夜はもう少ししてからと言ったが、フィルがどうしてもすぐに行きたいと言って聞かなかったので、月夜は荷物を纏めて、学校を出た。


 石造りの階段を下りて、裏門に向かう。当たり前だが、この時間は正門は施錠されている。なぜかは分からないが、裏門はいつも開いているので、夜まで学校に残ったら、月夜はそこから敷地の外に出ていた。


 線路沿いを歩いて、五分ほどで駅に到着する。階段を上って再び下りると、バスロータリーに至る。そのまま暫く先に進むと、昨日来た喫茶店への入り口が見えてくる。喫茶店は地下にあるから、また階段を下りる必要があった。


 ドアを開けると、その上部にある鐘が綺麗な音を上げて、客の入店を知らせた。昨日も顔を合わせた店主が二人を出迎えて、お好きな席にどうぞ、と呟いた。


 月夜は店内を進む。


 ドアを開けたときから分かっていたが、カウンター席に、昨日も見た顔があった。あの、部屋着に身を包んだ奇妙な少年だ。彼は一瞬だけドアの方を見たが、またすぐに顔を戻した。特に月夜たちに興味があるわけではないらしい。


 昨日と同じテーブル席に座って、月夜はコーヒーを注文した。特に喉は渇いていなかったが、入店したからには何か注文しなくてはならなかった。


「これで、満足した?」


 月夜がフィルに尋ねると、彼は不敵な笑みを浮かべて首を振った。


「まだまだこれからだ」


 注文したコーヒーが運ばれてきて、月夜はそれを一口啜る。特別美味しいとは感じなかった。それは、この店のせいではない。


 本を読もうとしたが、なんとなくまた勉強する気になって、月夜はもう一度参考書を取り出した。自分でも不思議だったが、こういうことは稀にある。場所が変われば気分も変わるということだろう。


 数学の勉強をしようと思って、鞄の中を漁っていたら、なぜか計算機が二つ出てきた。数学の勉強をするとき、彼女は計算機を使う。式を立てるところまで自力でできれば、あとは単純な作業だからだ。そちらの作業の方は、人間の手でやるより機械に頼った方が効率が良い。ただ、計算機を二つも持っている意味はない。計算機はどちらも月夜自身のものだったが、二つも鞄に忍ばせたつもりはなかった。


「一つは、俺のだ」唐突にフィルが呟いて、月夜は彼を見た。


「鞄に、入れたの?」


「いつもお前が弄っているのを見て、面白そうだと思ったからな」フィルは話す。「俺も、触ってみたかったんだ」


 二つある内の一つをフィルに渡して、月夜は勉強を始めた。単元は連立方程式の範囲だった。


「なかなか、面白いな」


 フィルの声を聞いて、月夜は彼の手もとを覗く。


「それじゃあ、エンターキーを押しているだけだから、意味がないよ」


「この、ボタンの感触が、なんともな」フィルは満足気に言った。「反発がなかなか優れている」


 明らかに使い方を間違えていたが、本人が満足しているようなので、月夜はそれ以上何も言わなかった。


 二人が計算機に夢中になっていると、傍に人の近づいてくる気配があった。顔を上げると、それまでカウンター席に座っていた少年が、二人のことを見下ろしていた。目には前髪がかかっているが、外界が見えないわけではなさそうだった。


「……それ、どこの会社のマシーン?」


 唐突に声をかけられて、月夜もフィルも暫く固まる。ただ、月夜は少年のことを意思の籠もった目で見つめて、できる限り彼のことを分析しようと努めていた。


「計算機に、興味があるの?」


 小さな声で、月夜は尋ねる。


「いや」少年は首を振った。「計算機じゃなくて、その手のもの全般」


 月夜は、自分が使っている計算機を少年に手渡した。彼はそれを受け取ると、裏返して企業名を確認した。ふうんとだけ呟くと、少年はまた月夜にそれを返した。


 少年は、月夜のことを、無表情で見つめている。


 彼は、彼女の目を見ている。


 月夜は、それが意外だった。


 彼女の視線は、普通怖がられる。だから誰も見ようとしない。


 それなのに、眼前に立つ少年は、何の怖気も見せずに、彼女の目をじっと見つめている。


「何か、用事?」


 月夜が尋ねると、少年は少し笑った。


「別に」そう言って、彼は二人に背を向ける。「勉強、頑張って」


 頑張るつもりはない、と答えようと思ったが、実際にそれを口にする前に、少年は二人の傍から離れてしまっていた。


 カウンター席に戻った少年の背中を、月夜は暫くの間見つめる。


「知り合いか?」


 フィルに問われて、月夜はそれに応じた。


「フィルの?」彼女は訊き返す。


「まさか」フィルは答えた。「俺は、計算機同好会になんて所属していないぜ」


 手もとに視線を戻して、月夜は勉強を再開した。式を立てたら計算機を使って答えを導き出す。作業と呼んでも差し支えない行為で、傍から見れば勉強しているとは認識されないに違いなかった。


 頭の上で回っているプロペラの名前を思い出そうとする。


 しかし、どうしても思い出せない。


 知っているはずだ。


 けれど、頭文字すら浮かんでこない。


 文系科目を勉強していると、よく見られる症状だった。それを知っているということは分かっているのに、知っていることが何なのか思い出せないのだ。このとき、人は客観的に自分の内部を観察している。知っていることを知っているという意味で、メタ的なのだ。意識しているかしていないかは置いておいて、人間は基本的にメタ的な生き物だといえる。


 人間は言語を使うが、言語について勉強すると、それがメタ構造を体現したようなものであることが分かる。たとえば、言語について説明する際には、言語を使わなくてはならない。これは、自らを説明するのに自らを使うということであり、典型的なメタ構造だといえる。


 思い出せない何かを思い出そうとしながら、月夜はぼんやりと椅子から立ち上がった。


 そのまま、前進。


 フィルに見つめられているのは分かっていたが、彼女は彼の視線を無視して足を動かす。


 正面に、目的とする対象。


 カウンターの椅子に座って、背を丸めている少年。


 手を伸ばし、そちらへ。


 彼の小さな肩に軽く触れる。


 突然の事態に驚いたのか、一瞬身体を震えさせて、少年は月夜の方を振り返った。顔を動かした反動で髪が宙に浮かび、またもとの位置に戻って静止する。髪と髪の間から覗く玉のような目を怪訝そうに歪めて、彼は月夜の顔をじっと見つめた。


「何?」


 彼の小さくて不機嫌そうな声が聞こえる。


「あれ」彼の肩に触れているのとは反対の手を天井に向けて、月夜は回転するプロペラを指差した。「あれの名前を、知っている?」


 指で示された方に目を向け、少年は対象物を確認する。暫くすると、また顔を月夜の方へ戻して、彼は微妙な角度で首を静かに振った。


「知らないけど」


「そう」


 沈黙。


 カウンターの向こうから店主が姿を現して、静止している二人にコーヒーのおかわりは如何かと尋ねてきた。月夜も、少年も、まだ最初に頼んだコーヒーがカップに残っていたから、揃って首を振って断った。


「で、何をしているわけ?」


 店主が立ち去ったあとで、少年が月夜に訊いてきた。


「何も」月夜は首を振る。


 影になっていてよく見えなかった少年の手もとを、月夜は上から覗き込んだ。興味があるわけではなかったが、なんとなく見えてしまった。


 彼の手もとには、小さな電子機器があった。それはパソコンに似た構造をしていて、けれど下半分も上半分と同じように画面になっている。下画面の左右のそれぞれにいくつかボタンが配置されており、画面には何かポップな映像が映し出されていた。


「それ、何?」


 手もとを指差して、月夜は少年に質問する。


 何のことを問われているのか分からなかったのか、少年は一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに無表情に戻って、ゲームだよ、と静かな声で答えた。


「ゲーム?」


 月夜の反応を見て、少年は尋ねる。


「ゲームを知らないのか?」


 月夜は首を振る。


「知っている」


 あそう、と言って少年は顔を背ける。


「どうして、ゲームをしているの?」


 いつも通りのトーンで、月夜は尋ねた。


 彼女の言葉を聞いて、少年は再度彼女を見る。


「どうしてって、何か理由がいるのか」彼は言った。「それは、どうして勉強しているのかという質問と、根本的に同じなんじゃないか?」


 返ってきた少年の答えを聞いて、なるほど、と月夜は思った。それから、自分がなぜ「どうして」と問うたのかと、自分が分からなくなった。でも、ときどきあることだから、あまり深くは考えないことにした。月夜の知らない暗闇月夜が、まだ彼女の内に潜んでいるのだ。


「ゲーム、楽しい?」月夜は尋ねる。


「楽しくないなら、やらないだろう?」


「暇潰し?」


「……まあ、そういうときもあるかな」


「楽しいの?」


「楽しいよ」


「そっか」


「そうだよ」


 会話の途中で沈黙が訪れても、月夜は特に気にしない。それだけ精神が強いのではなく、気にする能力がないのだ。


「で、何の用?」


 少年に問われ、月夜は再び口を開く。


「ゲームって、どんなゲーム?」


「なんだ? ゲームに興味があるのか?」


 一度沈黙し、少し考えたうえで、月夜は答える。


「少し、あるかもしれない」


「かもしれないって、どういうことだ」


「可能性がゼロではない、ということだ」


「いや、そういうことじゃ……」少年は少し笑った。「……パズルゲームって言えば、分かる?」


 月夜は一度首を上下に動かす。


「分かる」


 少年に頼んで、月夜はゲームがどういうものか見せてもらった。フィルも月夜が座っていたテーブル席からこちらに来て、彼女の肩に上がってそれを見た。少年が言うパズルゲームというのは、下から上に上がってくる三つの塊のブロックを、上から順に積み重ねていって、同じ色を五つ合わせると消えるというものだった。下までブロックが積み上がってしまうとゲームオーバーで、それを回避するために素早く組み合わせて消していかなくてはならない。ただし、五つ組み合わせられる段階ですぐに消すのではなく、一つの組み合わせが消えたあとに連続して次の組み合わせが消えるように工夫すると高得点になるので、下まで積み上げないように、如何に連続して消せるかが、このゲームの肝になるみたいだった。


 少年の実演を見ながら、意外とシンプルなゲームなんだな、と月夜は思ったが、彼のプレイに合わせて、組み合わせ方を一緒に考えてみると、意外と難しいことが分かった。ルールがシンプルであるが故に、工夫の仕方が無数に生じるのだ。棒という酷くシンプルな図形だけでアニメーションを作ろうとすると、無数のアイデアが生じるのと同じだ。


 少年はかなり慣れているらしく、ブロックを素早く適切な場所へと配置していく。


「で、君は、これに興味があるのか?」


 プレイ画面を中断して、少年は顔を上げて月夜に尋ねた。


「興味は、ない、かもしれない」


 月夜の返答を聞いて、少年は短く息を漏らす。


「だから、かもしれないってなんだよ」


「可能性が、ゼロではない、ということだよ」


 少年は顔を背けると、片方の手をひらひらと振った。


 少年に別れを告げ、月夜は自分の席に戻った。フィルは彼女の肩から飛び降り、また隣の席に座った。


「どうして、彼に声をかけたんだ?」


 何事もなかったかのように勉強を再開した月夜に、フィルが質問した。


「どうして、という質問には、答えられない」下を向いたまま、月夜は答える。


「何か、引っかかることでもあったのか?」


「引っかかること?」


「お前が自分から声をかけに行くなんて、滅多にないことだからな」


「この、頭の上で回っているやつ」月夜は指だけ上に向けて、それを示す。「これの名前を知りたかった」


「訊くだけなら、俺でもよかっただろう?」


 フィルの言葉を聞いて、月夜は顔を上げる。そして、螺子巻人形のような挙動で横を向くと、首を上下に動かした。


「うん、そうかも」


「やっぱり、何かあったんだな」


「何か、とは?」


「俺には分からないよ。月夜のことなんだから、月夜にしか分からない」


「フィルは、何だと思う?」


「さあ」フィルは首を捻り、不敵に笑う。「異性として、興味を引かれた、とか?」


「その可能性も、否定はできない」


「冗談に真顔で返すものじゃないぞ」


 ペンを握り直し、月夜はまたノートに数式を書き込む。


「ゲームをやってみたかったのか?」フィルがまた尋ねてくる。


「うん、少し」月夜は彼の質問に答える。


「でも、すぐに興味はなくなったんだな」


「完全ではないけど、それを知る前よりは」


「単純な、知的好奇心だったってことか?」


「そうかもしれない」


「月夜にとって、かもしれないとは、何パーセントくらいなんだ?」


「五十パーセントくらい?」


「つまり、イエスかノーで、半々ってことか?」


「そう」


「なるほど」


「何が、なるほどなの?」


「ただの相槌」


 月夜の中では、労働と娯楽の区別はない。だから、ゲーム以外にほかに興味を持つものがあるかと訊かれると、答えるのに困ってしまう。彼女は、基本的に、勉強と、読書しかしない。それは、コンスタントにするものはそれくらいしかない、という意味で、だから、コンスタントではないこと、つまり突発的なことに関しては、彼女にもそれなりの経験があった。昼休みに図書室に行くのも、それに当たる。彼女の場合、計画的に図書室に行くことはない。その日の気分、というよりも、そのときの気分で、なんとなく図書室に行くのだ。そういう意味では、勉強と読書以外に何もしないわけではない。


「フィルは、ゲームに、興味があるの?」ペンを動かしながら月夜は尋ねた。「私と彼のところに、来たから」


「俺も、ゲームに興味があったんじゃないな」フィルは答える。「お前が何かに興味を示すという、その事態に、興味があったんだ。お前が興味を示す対象がどんなものか知ることへの興味、とでも言えばいいか」


「面白かった?」


「お前が、何に興味を示したのかを、知ることが、か?」


「そう」


「ああ、面白かったよ」


 フィルの返事を聞いて、月夜は少しだけ笑った。


「そう」彼女は応える。「それなら、よかった」


 月夜の表情の変化を目にして、フィルは暫くの間絶句していたが、少しするとまたいつもの調子で椅子の上で丸まった。彼も、そろそろ月夜という人間に慣れてきたのだろう。


 今は春だから、これから徐々に夜は短くなっていく。色々なことに興味を持てない月夜でも、夜という時間に対しては、好きといっても良いような感情を抱いていた。少しずつ短くなっていくところも、また、冬に近づけば少しずつ長くなっていくところも良い。でもそれは、昼に関してもいえることだ。昼があるからこそ、夜はそういう形であることができる。夜はそれ単体では成り立たない。


 一時間くらい経過した頃、カウンター席に座っていた少年は店から去っていった。


 この時間帯に彼がここにいることを、月夜は特に疑問には思わなかった。明確な理由などないかもしれない。現に彼女はそうだから、そんなふうにニュートラルに構えることができた。


 さらに三十分くらい経ってから、月夜も喫茶店から立ち去った。こんな時間でも店主は笑顔を浮かべて、元気に精算作業をしてくれた。


 昨日よりも遅かったから、もう電車は運行していなかった。月夜の家は、学校からは比較的近い所にある。ただ、普段は電車で来ているということは、電車を使った方が便利だということだ。歩いて通学するとなると、疲れるくらいには距離がある。


 静まり返った夜の街を、月夜はフィルと二人で歩く。


 何度か、歩いたことのある道だった。


 いつか、もう、ここを歩くことはないかもしれない、と思ったことがあった。


 けれど、また歩いている。


 先のことは分からない。


 道が先へと続いているように、時間も未来へと続いている。ただ、時間の場合は道のように後戻りすることができない。今過ごしているこの瞬間を逃せば、永遠に同じ時間を経験することはできなくなる。


 でも、そんなことを忘れて、皆生きている。


 少なくとも、月夜はそうだ。


 いや……。


 たぶん、それも違うだろう。


 彼女には、そもそも、時間に対する価値の適用という考え方がない。


 今ある一瞬に、価値を見出だせないのだ。


 いや、見出だせないのではなく、見出すべきではないと考えているといった方が正しい。


「オリオン座は、いつか消えてなくなるらしいな」


 唐突にフィルが呟いた。


 月夜が空を見上げてみても、今はオリオン座はどこにも見えなかった。星はいつでも真上にあるが、昼間は明るすぎて見えないし、夜になってもすべての星が見えるわけではない。


「オリオン座そのものが、なくなるの?」彼の話に付き合うつもりで、月夜は尋ねた。


「いや、その内の星の一つが、爆発して消えるんだ」フィルは答える。「もうすでに消えているかもしれない。光が地球に届くまでには、相当な時間がかかる。今見ている光も、今のものではない。ずっと昔に発せられた光が、今、ようやく、ここまで届いているんだ」


 月夜は黙って頷く。


「そういう事実を認識しても、時間に対する考え方は変わらないか?」


 フィルの問いを受けて、月夜は彼を見る。


「変わらないと思う」


 彼女の答えを聞いて、フィルは笑った。


「そうか」


 当然ながら、月夜は宇宙に行ったことがない。だから、宇宙があるのかどうかも分からない。


 宇宙とは、何か?


 自分は今、どこにいるのか?


 ……分からない。


 分からないことだらけだ。


 分からないことがあると、知りたくなる。


 でも、知っても知っても、きりがない。


 終わることがない。


 これが、無限。


 これが、宇宙?


 心臓が痛くなって、月夜は胸を押さえた。

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