皿かナイフか
羽上帆樽
第1章 喫茶店深夜
辺りは暗かった。
街の片隅にある喫茶店の店内だが、照明の明かりは充分とはいえない。手元に掲げた本に書かれた文字を読むことくらいはできるが、それくらいだ。少し顔を上げて周囲を見渡してみても、壁にかけられた絵画の内容を汲み取ることはできないし、古めかしい文字で書かれたメニューを読むこともできない。しかし、もともと明るい場所は苦手なので、彼女にとってはその程度で充分だった。
暗闇月夜は本を読んでいた。
本を読むのは彼女にとって当たり前のことで、当たり前のことといえば本を読むことだった。本は現実を忘れさせてくれる。それが物語ではなくても、自分という人間を捨てて一時的に客観的な存在になることができる。どうやら、自分は自分が嫌いなようだと彼女は自分について考察するが、そんな考察をする自分がまたまた嫌いだった。嫌いの連鎖は断ち切れない。それを断ち切るためには、それこそ自分を捨てる以外に方法はないだろう。
月夜の隣の席には、小さな黒猫がさらに小さくなって眠っていた。両手を枕にして、その上に顔を載せて丸まっている。なんとも可愛らしい姿だが、彼が可愛らしく思えるのは眠っているときだけだ。と思ったが、そもそも、彼に対して可愛らしいという感情を抱くこと自体、意味があるのかと月夜は思い至った。本を読んでいるのに余計なことを考えてしまうのは、彼女の悪い癖だ。いや、本当は癖に良いも悪いもない。ただ、自分のことが嫌いであるが故に、そうした傾向をとりあえず悪いものとして捉えようとしてしまうのだ。
喫茶店のマスターがやって来て、コーヒーのおかわりは如何かと尋ねてきたから、月夜は先ほど飲んだのと同じものを注文した。もちろん、料金はとられる。ただ、ほかに金銭を使うことが彼女にはほとんどなかったから、別に何でも良かった。
コーヒーが運ばれてきた気配を察知して、彼女の隣で眠る黒猫が目を覚ました。彼がここにいるということは、当然、この店ではペットの立ち入りが許可されているということだ。ただし、月夜は彼を自分のペットだとは思っていなかった。彼女と彼はあくまで知り合いだ。そこに従属、被従属の関係は微塵もない。
「まだ、飲むつもりか」お得意の若干低い声を出して、黒猫が口を利いた。彼の名前はフィルという。「そんなに飲んで、おねしょでもしたらどうするつもりだ」
「おねしょ?」本から顔を上げて、月夜は呟く。「おねしょ、とは?」
「口で説明するのが、憚られるような事態だ」
「現段階では、口以外で説明することはできない」
カップに手を伸ばして、月夜はコーヒーを喉に流し込む。味の善し悪しはほとんど分からなかった。苦味と酸味は感じるが、旨味は感じない。何を食べても大抵の場合は美味しく感じられし、美味しければそれで良い。ただ、彼女はあまり食事をしない傾向にあった。なお、ただ、というのは、この場合は無料を表す単語ではない。
「こんな時間に、こんな場所に高校生がいても、何も言われないな」欠伸をしながらフィルが言った。
「お店の人から?」
「そうだ。普通、何か言うものじゃないか?」
「なんて言うの?」本のページを捲りながら月夜は尋ねる。
「いや、だから、警察に補導される前に、帰れ、とかな」
「こんな時間まで、店を開いている主人が、言うことではないと思う」
時刻はすでに一時を迎えている。午後ではなく午前だ。すでに日付が変わってしまっている。普段からあまり食事をしない月夜は、睡眠もあまりとらなくて良かった。食事と睡眠の間に因果関係があるのかは分からないが、とにかく、彼女は人間なら誰しもが当たり前にすることをしない傾向にあった。
「そろそろ、帰らないか? 俺は、もう退屈だぜ」
「寝ていたら?」目だけ横に向けて、月夜は一瞬フィルを見る。「もう、眠くないの?」
「眠い」
「じゃあ、寝たら?」
「一緒に寝てくれないか、月夜」奇妙な笑みを浮かべてフィルは言った。「やはり、今までそうしていた分、一人だと少し寂しい」
「いいよ」
「じゃあ、こちらにおいで、月夜」
「こちらとは、どちら?」
フィルは月夜に向かって腕を伸ばす。
「私は、椅子には座るだけで、その上では眠れない」
「身体を小さくしたらどうだ?」
「小さく? どうやって?」
「魔法か何かを使って」
「フィルは、使えるの?」
「何をだ?」
「魔法」
「いや、使えない」
「じゃあ、できないよ。ごめんね」
「魔法を使う勉強をしていないのか?」
「一緒に、寝るという話は、どうなったの?」
「それは冗談だ」
「そう」月夜はフィルに向けていた顔を本に戻す。「じゃあ、明日ね」
「え? 何が明日なんだ?」
「寝るの」
沈黙。
沈黙も何も、店内はずっと静かだった。周囲は木製の壁に囲まれていて、窓は一つもない。この喫茶店は地下にあった。音楽は流れていない。ときどき、店主が食器を洗う音が聞こえてくるだけだ。
フィルが一人で眠るのが寂しいと言ったのには、理由がある。それは、彼はもともと月夜とは別の人物のもとにいたからだ。それが、諸事情があって月夜が彼を引き取ることになった。引き取るという言い方は少し違うかもしれないが、とにかく、彼は彼女のもとで一緒に生活することになった。それまではその人物のもとで暮らしていたから、そのときのことが思い出されて、少々物足りなく感じることがあるのだろう(普段の彼の言動からそうした心情を察するのは難しい)。
フィルが言うには、彼は物の怪と呼ばれる存在らしい。あまりにもファンタジックかつエキセントリックな説明だが、月夜は彼がそうした存在であると信じていた。それはもちろん、信じるだけの理由があるからだ。ただ、彼が物の怪であろうと、そうでなかろうと、彼女の彼に対する態度は何も変わらなかった。彼という存在があって、彼女の傍にいるというのが事実であることに変わりはない。
「今日は、勉強はしなくていいのか?」
寝るだの寝ないだの言っていたフィルが、結局寝ないで月夜に話しかけた。
「今日は、もうしたから、これ以上しなくていい」相変わらず本を読む手を止めないで、月夜は答える。
「とても、受験生が口にする言葉とは思えないな」
「どうして?」
「ただのイメージだよ。受験生といえば、毎日勉強、みたいな感じだろう?」
「そうなの?」
「きっと、お前にとっては違うんだろうな」
「勉強は、ゴールがあるから、ゴールに辿り着いたら、それ以上やる意味はない」
「でも、楽しければ、それだけで続ける理由になるだろう?」
「私は、特に、楽しい、とは感じない」
「じゃあ、嬉しいか?」
「嬉しい?」
「勉強できて、嬉しいだろう?」
「どうして、嬉しいの?」月夜は少しだけフィルを見る。
「勉強できるのは、恵まれている証拠だ。世界には、勉強できない子どもたちも沢山いる」
「それは、たしかに、悲しいことだと思う」
「だろう?」
「それでも、私は、自分が恵まれている、とは感じない」
「感じないというよりも、感じられないんだろうな。それが、あまりにも当たり前すぎるから」
「私は、生まれたときから、この環境で生きているから」月夜は言った。「ほかの環境で暮らす人のことを持ち出されても、困ってしまう」
「そういうときだけ、やけに雄弁だな、月夜は」
フィルに言われ、月夜は首を傾げる。
「話す内容によって、言葉の数は変わると思う」
「でも、そっけないときもあるだろう?」
「そう?」
「ああ、そうだ」
「それは、ごめん」月夜は謝った。「自覚、しなくちゃ」
残っていたコーヒーをすべて飲み干して、月夜は自分の腹部を触った。飲んだ液体は確かに体内に取り込まれたはずだが、特にそういう感じはしなかった。食べても飲んでも食べたり飲んだりした感じがしないから、本当は何も食べたり飲んだりしていないのではないか、と感じることがあるが、そういうわけではないらしい。彼女は確かに生きているし、一応生き物としてこの世界に存在している。ただ、その感覚が欠落している気がするのだ。それは主観的なことだから、誰かに証明してもらうことはできない。
小さな欠伸が出て、口もとに手を持ってくる。自分の肌の感覚が唇に伝わって、少しだけ安心した。
コーヒーカップを下げにやって来た店主に、月夜はミルクを一杯注文した。自分が飲むのではなく、フィルに与えるためだった。与える、といったが、彼女にそのようなつもりはまったくない。ただ、フィルにも飲んでもらった方が良いかな、と思ったので、その通りに行動しただけだった。
「俺には、食べ物も、飲み物も、必要ないんだぜ?」
運ばれてきたミルクに舌を浸しながら、フィルが言った。
「でも、飲むと美味しいんじゃないの?」
「まあ、そうだが」
基本的に、フィルは素直ではない。それに反して、月夜は素直だ。傍目にはそうは映らないかもしれないが、彼女はほとんど人を選ばないで接する。接する人ごとに自分を作るのが面倒だというのが表向きの理由だったが、本当はその能力が自分にはないだけだということは、彼女自身気がついていた。
ミルクを飲んでいるフィルを暫くの間見つめて、それからまた月夜は本のページを捲る。
彼女が読んでいるのは、論理学に関する新書本だった。新書だから、そこに書かれていることが本当だという証拠はない。万人受けするようにマイルドに書かれているし、だから、その分妥協して、結果的に嘘になっている部分も存在するに違いない。本気で勉強をしたいのなら教科書を買うのが一番だが、彼女は勉強をしたいのではなく、とりあえず読めるものがあれば良かったので、それで充分だった。
世界は、広い。
それは、本を読む度にいつも感じることだ。
本を読めるということは、その本を書いた人がいるということだ。そして、書店に行けば本棚はありとあらゆる本で埋まっている。それは、それだけ本を書く人がいるということであり、その分色々な考え方があるということでもある。本を読めば、必然的に自分ではない誰かと対面することになる。ときには、本を読むことで、いつもは意識することのない別の自分と対面することもある。
本は、すなわち世界だと、月夜は思う。
ただ、世界という言葉の定義が曖昧だから、それで伝わるかどうかは分からない。
フィルが言っていた通り、月夜は今は受験生だ。受験生……。その言葉を聞く度に、それがどういう意味を表す言葉なのかと、月夜は頭を悩ませる。別に悩むほど重大な問題ではないが、どういう意味なのだろう、と不思議に思ってしまう。
彼女は高校三年生で、それは確固とした事実だ。一年生から三年生までの三段階に分けられている内の、三つ目に属するということを意味しているから、文字通り意味のある記号だ。しかしながら、受験生というのはそれとは違う。その言葉は受験をするための勉強をしている者のことを示す。けれどそれは、具体的な意味を表していない。そう……。つまりは、世界という言葉と同等のレベルということになる。月夜は確かに受験を控えているが、自分が受験生だと思ったことはない。たぶん、何かを研究している人間が、自分を研究者だと思わないのと同じだろう(思う人もいるみたいだが)。
「ミルク、美味しい?」
本当になんとなく思いついて、月夜はフィルに質問した。彼女が自分から誰かにはたらきかけることはあまりない。
「ああ、美味しいよ」フィルは彼女の質問に答える。「お前も、飲むか?」
フィルが飲んでいるミルクは、彼が飲みやすいようにカップではなく皿に注がれているので、それを月夜が飲むのは難しそうだった。
「いや、いらない」月夜は真顔で答える。
フィルは美味しそうにミルクを飲んでいた。素早く舌を出し入れして、少しずつ液体を体内に取り込んでいく。人間とは異なる飲み方だが、その方が確実に舌に液体が触れるから、より味を感じやすいかもしれない。人間の場合、液体は一つの塊に近い形で口に含まれるから、舌に接する面積という観点から見ると、百パーセント味が感じられているとは言いがたい。
「フィルは、ミルクが好き?」
月夜の質問を受けて、彼はゆっくり顔を上げた。それから一度瞬きをすると、彼女の顔をまじまじと見つめた。
「どうして、そんなことを訊くんだ?」
逆に問われて、どう答えようかと月夜は暫し考える。
「好きとは、どういうことかと、疑問に思ったから」
「なるほど」フィルは少し笑った。「誰か、好きなやつでもできたんだな」
「好きなやつは、最初からいる」
「俺のことか?」
「フィルも、そうだよ。でも、もう一人、いる」
「そうだったな」
「好きって、なんでしょう」
月夜の言葉を聞いて、フィルは声を出して笑った。
「さあな」彼は首を傾げ、再びミルクを飲む。「俺にも分からない」
「フィルは、好きな人が、いたんでしょう?」
「まあ。……でもあれは、たしか、あいつの方から好きだと言ってきたんだ。そう言われて、もちろん、嬉しかったが、少し戸惑ったのも事実だ」
「そんな彼女が、好きになったの?」
「そうとも言えるが……」フィルは歯切れが悪い。
「好きになるって、どういうこと? フィルは、好きだって言われたから、好きになったの?」
「うーん、まあ……。……それだけが理由じゃないことは確かだが、それも理由の一つではあるな」
「好きって言われると、好きになるの?」
「なることもある」
「ならないこともある?」
「それはそうだろう」
「どうしたら、好きになってもらえる?」
「好きになって下さいって、お願いしたらかな」
「お願いするの?」
「好きだって言うことが、お願いするのと同じことなんだよ」
「そうなの? だから、好きって言えばいいの?」
「たぶん」
月夜は少し沈黙する。
「フィルが、ミルクが好きだって言うのは、ミルクに好きになってほしいから?」
月夜の言葉を聞いて、フィルは無表情で彼女を見た。
「それは、お前が俺に言わせたんじゃないか」
「それで、ミルクはフィルのことを、好きになってくれる?」
「ミルクは生き物じゃない」
「フィルは、生きているの?」
「それは、また別の話だ」
「フィルは、私のことが、好き?」
「嫌いではないよ。だから、たぶん、好きなんだろう」
「これで、今、私は、フィルのことが、好きになった?」
「どうして、俺に訊くんだ? 自分のことくらい分かるだろう?」
「分からないから、質問している」
フィルは小さく溜め息を吐いた。ただそれは、呆れからきたものではなく、月夜に対する愛情からきたもののように思えた。少なくとも、彼はそういうつもりだっただろう。
「一緒にいて、不満はないだろう?」フィルは笑いながら話した。「だったら、それでいいじゃないか。好きだとか、嫌いだとか、余計な線引きをされるのは御免だよ。俺は、どちらかというと、好きだから一緒にいるんじゃなくて、一緒にいるから好きだという方が好きだ。理由があるから一緒にいるなんて、現代社会の権化のようなものじゃないか」
「理由が、欲しい」
「我儘だな」
「うん……」
月夜は途端に口籠る。
「欲しがりなのは、別に悪いことじゃないさ」黙り込む月夜に向かって、フィルは言った。「そのくらいの方がちょうどいい。少なくとも、何も欲しがらないよりはいいだろう。生き物は、もとより欲しがる存在だ。エネルギーがなければ生きていけない。生きていくためには、なくてはならないものが沢山ある。食べ物なんてまさにそうだし、安心感、仲間、あとは……、人間だったら、時間もそうか」
「欲しがっても、いいの、かな」
「俺はいいと思うが」フィルは不敵に笑った。「まあ、そう思うのは、俺がそういう質だからかもしれないけども」
「誰かを、好きになりたい」
月夜がそう言うと、フィルは顔を背けた。
「それはお前の自由だ」
フィルがミルクを飲み終わるまで、月夜はなんとなくぼうっとしていた。ふと顔を上に向けると、頭の上で扇風機のような回転機構がゆっくりと空気を撹乱していた。風は感じない。誰にも気がつかれない範囲で、それはそっと自分の役割を全うしている。
空になった皿を店主が下げると、フィルは月夜の膝の上に載ってきた。口にミルクがついたままになっていたから、彼女がそれを拭いてやると、彼は欠伸をしてまた小さく丸まった。
「人間らしくなったな、月夜」
寝言のようにフィルが言った。
本のページに向けていた視線をずらして、月夜は彼を見る。
「人間?」
「生き物らしい、と言った方がいいか」
「生き物らしく、なった?」
「ああ、そんな気がする」
テーブルの上には何もない。サービスで貰える水は最初から貰わなかった。必要がないからだ。コーヒーで喉を潤すのに、その前段階で水で喉を潤すという行為が、月夜には必要に感じられなかった。
「どういうところが?」彼女は尋ねる。
「色々と」フィルは答えた。「たぶん、色々な出会いがあったからだろう。まあ、出会いと言っても大したものではなかったかもしれないが……。でも、ゼロと一ではやっぱり違う。あるとないの差は大きい。俺もお前も孤独が好きだが、傍に誰かいるうえでの孤独と、本当に誰もいない場合の孤独では違うだろう。だから一緒にいるんじゃないかな」
「それが、人間らしい、あるいは、生き物らしい、ということ?」
「どうだろう」フィルは首を捻った。「ただ、お前は、前より少し可愛らしくなった」
可愛らしくなったと言われても、月夜は特に嬉しく感じなかった。それはフィルに言われたからではない。誰に言われても同様に感じたはずだ。
月夜には好きな人がいた。いや、正確には好きだったのではない。彼女が自分でそう言ったように、好きになりたかったのだ。あるいは、好きというのがどういうことか知りたかった。でも、好きになることがその人の傍にいるための必要条件ではないから、好きについて考えることを保留していた。
好きと伝えなくてはならないのかもしれない、と、最近思うようになった。
どうしてそう思うようになったのかは、自分でもなんとなく分かっていた。
きっと、そう伝えられる状態の方が、そうでない状態よりもポテンシャルが高いと、気がついたからだろう。
そして、その気づきは、別れから得られたものだった。
生き物は空間の中に存在するから、距離が離れていると意思の疎通を図ることができない。人間の場合、通信技術を駆使すればある程度可能になるが、それでも人間も動物であることに変わりはない。できることなら近くにいて、その人の姿を目の当たりにしたいし、さらにいえば、その人の一部に触れたいと感じる。
昔の月夜には、その感覚は欠如していた。それはおそらく、自分で自分に触れることができたからだ。けれど、段々とそれだけでは満足できなくなった。フィルと長い間一緒にいたからかもしれない。知らない内に、誰かが傍にいることが当たり前になってしまったのだ。
好きだから一緒にいるのか、一緒だから好きになるのか、どちらだろう?
……分からない。
それについて考えるのは、きっと世界の始まりを辿る行為と等しい。
「月夜は、自分が嫌いだからな」もう眠っていると思っていたフィルが、唐突に口を開いて言葉を発した。「その分、お前を好きになってくれる誰かが必要なんだ」
「私は、必要だとは感じない」
「でも、誰かを好きになりたいんだろう?」フィルは言った。「そのためには、お前も誰かに好きになってもらわなくてはならない。人の関係とはそういうものだ。一方通行ではない。相互関係でない限り孤独なままだ」
「相互関係が成立しても、孤独を感じることはあるのでは?」
「まあ、そうかもしれない」
「結局のところ、どういうこと?」
「結局のところ、結局のところはない、ということさ」
月夜は本を閉じてそれを鞄に仕舞った。代わりに参考書とノートを取り出してテーブルの上に並べると、開いて勉強をし始めた。
「なんだ。今日はもう勉強しないんじゃなかったのか?」
フィルに尋ねられ、月夜は手もとに目を向けたまま答える。
「いつの間にか、今日は終わっていた」
一般的には、本を読むこと、そして、その中に書かれていることを暗記することが、勉強として認識されている。けれどそれは違うのではないかと、ぼんやりとだが、月夜は考えていた。もし本に書かれていることを暗記するのが勉強であるのなら、その行為には意味がないと言わざるをえない。なぜなら、そもそも本とは、人間の頭だけでは処理しきれない情報を、一時的に別の場所で処理するために作られたものだからだ。要するに、本とは人間の頭脳の拡張領域だといえる。だから本に書かれていることは自分の頭の中にあるのと同じであり、容量の大きい方から小さい方へと移す行為(しかも重複して)は、明らかに無駄でしかない。
ある本を一度通読すれば、次にその本を手に取ったとき、内容がどんなものだったかある程度思い出すことができる。これが本に書かれていることを「知っている」状態だ。本の内容をいつでもどこでも展開できる、つまり暗唱できるのが、「知っている」のではない。暗記は頭の中に道筋そのものを作る行為だが、本を読むという行為の本質は、次にその道筋を辿る際に楽ができるように、靴や杖を用意することだといえる。
ペンを静かに動かしながら、月夜はそんなことを考える。
今勉強しているのとは、明らかに異なることだ。
階層のレベルが一つ違うといえる。
それでも、同時に処理することができている。
暗記というチープなことだけではなく、人間にはこういうこともできるのだ。
これこそ、人間の持つ思考の持ち味ではないだろうか。
「数学は、苦手だな」唐突にフィルが声を出した。先ほど彼は眠ると言っていたが、どうやら睡眠欲はなくなってしまったようだ。
「どうして?」手を止めないで月夜は尋ねる。
「なんか、素直すぎるから」彼は説明した。「馬鹿真面目なのはよくないさ。たまには融通が利かないと。だから、国語でも、小説はよくても、論理的に書かれた文章は駄目だ。ルールに縛られすぎている。これ以上ないくらい、真っ直ぐに書かれているだろう?」
「真っ直ぐ?」
「ああ。寄り道のしようがないくらいに」
「フィルは、どちらかというと、寄り道をするタイプ?」
「そうかもな。散歩をしているときも、ついつい脇道に逸れてしまうし……。というよりも、最初から何の目的も決めないで歩き始める感じか。最初に方角だけ決めて、あとは運任せだ。でも、結局は、どちらの方向に進んでも何かしらあるものだ。何もないということはない。もしそんなことがあれば、この宇宙のルールに反しているからな」
「最後の言葉は、数学っぽかった」
「出鱈目を言っているだけだから、如何にも国語っぽい感じがしないか?」
数秒の間のあと、月夜は頷きながら答えた。
「する」
月夜とフィル以外に客のいない店内に、初めてベルの音が響いた。二人の背後で入り口のドアが開いて、誰かが入ってくる。特に興味がなかったから、月夜は振り返らなかったが、フィルは背後に目を向けて、その人物の姿を捉えていた。
少年が一人、喫茶店に入ってきた。
月夜と同い年くらいの少年だ。
ただ、彼は月夜の知り合いではなかった。
フィルにはそれが分かった。
知っている情報と照合して導き出した結論ではない。
フィルは、月夜に自分以外に知り合いがいないことを、知っていた。
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