3.救出
その日の深夜。
件の廃工場から30mほど離れた場所に相良と花城の姿があった。
二人は背の高い草の茂みに身を隠し、工場の様子を伺っている。
周囲に灯りは全くないため、色濃い闇が支配していた。
そのため、持参した懐中電灯を消した後は相良にはほとんど何も見えていない。
月明かりのおかげで、かろうじて近くにいる花城の動きが分かる程度だ。
花城はというとこの暗がりの中で、まるで見えているのかのように工場の方を見つめている。
いや、実際に見えているのだろう。
その証拠に彼女は闇を見つめたまま小さく何事かを呟いている。
「よし」
しばらくして花城は相良に顔を向ける。
「やっぱり『悪意』が6体ね。調べてた数と違いはないわ。……ところで相良さん本当に付いてくるの? 何度も言うけれど、身の安全は保証できないわよ」
少し迷惑そうな響きを含ませて花城は問う。
しかし、相良はその響きを無視して強く頷いた。
実はここに来るまでも何度か家で待つよう言われていたのだが、彼は頑なにそれを拒んだ。
対価を払うとはいえ、惚れた女を助けることを全くの人任せにすることはできなかったのだ。
しかも、危険を冒すのは女性ときている。
尚のこと、ひとりで行かせるわけにはいかない。
花城は相良の決意に満ちた目をしばらく見つめて小さなため息を吐くと、手にしていた小さめのアタッシュケースを地面に置いて、音もなく開いた。
相良は悪いと思いながらもついつい中を覗き込む。
花城はそんな彼を一瞥しただけで、何も言わずに中を検めた。
アタッシュケースには一丁の拳銃と一振りの短剣が収められていた。
相良はごくりと喉を鳴らす。
得物を見た途端、彼の中でこれから始まる化け物たちとの戦いが急速に現実味を帯び出した。
相良の覚悟が少し揺らぐ。
「はい、相良さんはこっちよ」
花城はそんな相良に短剣を渡し、自身は拳銃を手に取った。
彼女は慣れた手つきで弾倉を外し、残弾数を確認する。
相良はというと扱い慣れない短剣を握りしめ、肩をこわばらせている。
「よし。準備はいい?」
「オレは何をすれば……」
「何もしないで。その短剣は念のためよ。使う機会はないわ」
言うが早いか花城は工場に向けて音も立てずに移動する。
そして、あっという間に工場に到達すると、壁に身体を預けて壊れた窓から中の様子を伺う。
相良も足音に気をつけながら歩を進め、たっぷり花城の倍の時間をかけて工場にたどり着いた。
到着した相良は花城の肩越しに中を覗く。
「か……!!」
相良の反応を予測していたかのように、花城の手が彼の口を塞いだ。
そして、細い人差し指を形のいい唇に当てる。
工場の奥には電気など付いていなかったが、微かに青白い光が灯されてる。
光源の中心には壊れかけた机に横たわった女性ーーー川谷がいた。
彼女は一糸まとわぬ姿で、痩せ細った身体を晒している。
よく見るとゆっくりと胸が上下しているため、生きてはいるようだ。
そして、その周りを囲むようにして異形の者たちが蠢いていた。
異形は一般男性ほどの大きさで、手足は生えていない。
一見するとぶよぶよした黒い塊だが、時折にやけた笑みを浮かべた人間の顔がその身体に現れる。
花城の話していた『悪意』と呼ばれる化け物で間違いないようだった。
(なんだ、あれは!? あれが神子?)
最初は川谷しか目に入らなかった相良だったが、この世ならざる者の存在を目の当たりにして恐怖を覚える。
しかし、それはすぐに怒りにとって変わった。
川谷を攫い、警官を殺したことに対する怒りだ。
近くに花城がいること、武器を持っていること、相手があまり強そうには見えなかったこと、様々な要因が相良の心境を変化させた。
ーーーぶっ殺してやる
更に怒りが憎悪に変わる。
短剣を握る彼の手に力がこもる。
「落ち着いて。貴方が考えているほど簡単ではないわ」
花城がそんな相良の心情を見透かしたように声をかける。
「あいつらは厄介な相手よ。貴方では相手にもならない。すぐに殺されて終わりよ。良からぬことは考えないことね」
小声ながら有無を言わさぬ強いそう口調で告げられ、相良は一瞬怯んだが、自尊心を傷つけられたことの方が勝ったのか花城を睨みつける。
「そんな怖い顔しても無駄よ。事実だもの」
相良の視線を軽く微笑んで受け流すと、塞いだ口から手を離し、再び『悪意』に目を向ける。
相良が何か一言言ってやろうかと口を開いた瞬間、『悪意』たちが激しく震え始めた。
(気づかれた!?)
相良の目が怯えた色に染まる。
しかし、逆に待ってましたとばかりに花城は笑みを浮かべた。
全ての『悪意』の身体に歓喜に満ちた人間の顔が浮かび上がる。
その口からは獣の唸り声にも似た音を発していた。
そのうち、1体が大きく口を開くとものすごい勢いで川谷目掛けてに顔を伸ばす。
「ちょっ……」
喰う気だと気付いた相良が思わず声を上げた瞬間、小気味の良い破裂音が響き、そいつの顔の上半分が消失した。
次いで、その隣にいた『悪意』の顔も吹き飛ぶ。
顔を失った2体は、どす黒い体液を盛大に撒き散らしながら、地面をのたうつ。
そして、更にもう1体、音につられて相良たちに顔を向けた『悪意』の口内に弾丸が突き刺さった。
僅か数秒の間に3体の『悪意』が転がる。
しかし、花城が4体目に狙いをつけた直後、残りの『悪意』の身体が霧状に変化した。
真っ黒な霧は空間をゆっくりと侵食しながら二人の方に迫ってくる。
相良は身の危険を感じ、慌てて短剣を身構える。
(なんでこんなことやらないといけないんだ? よくよく考えたら川谷は恋人というわけでもない……。オレが危険を冒してまで助ける必要ないんじゃないか?)
近づいてくる黒い霧を目で追いながら相良はそんなことを考えいた。
(そうだな。意味がないな。意味がないと言えば、仕事だってそうだ。遅くまで働いて……。給料は悪くないけど、使う時間はないし、責任は重くなっていくし。そもそもあと何年働かないといけないんだ? 30年以上? そんなに長く辛いことが続くのか。というか、仕事がなくなったとしても、生きているってだけで辛いことっていっぱいあるな。辛いこと……やりたくないな)
彼は自分の人生を悲観し、絶望していた。
視界の端が暗くなり、目眩がする。
ーーーじゃあ、いっそのこと……
彼は知らず知らずのうちに微笑んでいた。
「しっかりして」
その時、生気に満ちた声が相良を現実世界へと引き戻した。
はっとした相良は自分自身の首筋に短剣の刃を当てていることに気付く。
「うおっ!?」
素っ頓狂な声を出して、慌てて短剣を首から離す。
次いで無意識に命を絶とうとしていた自分に身震いする。
「言ったでしょう? やつらは生き物の思考を操るって」
涼しい顔で語る花城は『悪意』の力の影響を受けていないようだ。
「どうして……」
「覚悟の差よ。気を強く持ちなさい」
そう言うと、再び発砲する。
放たれた弾丸は花城に食いつこうとした敵の顔面をきれいに撃ち抜いた。
どうやらこの化け物は顔以外の部分を攻撃しても傷つけることはできないようだった。
そして、顔は自由に体内に隠すことができる。
しかし、食事となれば『悪意』たちも顔を出さざるを得ない。
そのため、花城は『悪意』が食事を行うこの時間帯を狙って奇襲をかけたのだ。
そのことに気付いた相良は「その道のプロ」という花城の言葉を今更ながらに理解した。
加えて自分がこの戦いでは何の役にも立たないことも。
当の花城は銃を構え、敵の動きに気を配っている。
残った2匹の『悪意』は霧状の姿のまま花城を取り囲むようにして移動する。
攻撃するときには顔を出さないといけないため、相手も慎重になっているようだ。
下手に手を出せば先ほどの『悪意』と同じ末路を辿ることが分かっているのだ。
しばらくの間、お互いに手を出せない均衡状態が続いていたが、しびれを切らした1匹が花城の左側面から襲いかかった。
至近距離からの攻撃のため、銃を向けている余裕はない。
「危ない!」
相良の警告の声と同時に打撃音が響く。
見ると花城の裏拳が相手の鼻っ柱に叩き込まれていた。
更に花城はその勢いに乗って身を翻しながら、カウンターを受けて仰反る『悪意』の無防備な弱点を狙い撃つ。
どす黒い体液が地面を汚した。
「すごい……」
と相良が呟いた時には、すでに銃口は最後の一体に向けられていた。
「これで最後ね」
花城は銃を構えたままじりじりと距離を詰める。
対する『悪意』は霧のまま逃げるように川谷の眠る机の方へと移動する。
その時、何かを察したのか花城が慌てたように駆け出した。
相良が何事かと見ていると、突然、川谷の額から黒い蒸気のようなものが吹き出し始めた。
そして、蒸気は見る見るうちに『悪意』に吸い込まれる。
花城は諦めたように足を止め、小さく舌打ちする。
「夢の具現化か。まさか本当にできる個体がいたとはね」
油断したとぼやきながら、花城は銃を構える。
銃口の先には『悪意』ではなく、ひとりの男。
女性と見紛うほどに美しい顔だちをしており、花城ほどに長い黒髪を背中に流している。
東洋のものと思しき民族衣装を身に纏い、手には多様な宝石をあしらった剣を携えていた。
物語から抜け出した英雄のような美しく力強い風貌に相良は思わずため息を漏らす。
そして、それと同時にその姿にどこか見覚えがあると感じていた。
(誰だ? どこかで見たような)
なかなか思い出せないが最近の話だ。
しかも、ちょっと前にもこの男の名前を思い出そうと記憶を辿っていた。
確か川谷の自宅でーーー。
「そうだ。小説の表紙に……川谷が好きだった『神の楽園』の主人公。名前は劉……?」
「劉璋ね」
「知ってるんですか?」
驚いて思わず声を上げた相良に対して、花城は視線だけ寄越す。
「私だって小説くらい読むわよ」
そう軽口を叩くが、表情は厳しい。
「強いんでしょうか?」
「さあ? 小説では最強だったけど」
言って花城は引き金を引いた。
銃声に一瞬遅れて甲高い金属音が響く。
劉璋が手にした剣で銃弾を弾いたのだ。
「強いみたいよ」
花城が若干頬を引き攣らせながらそう告げる。
次の瞬間、劉璋が凄まじい速度で花城との距離を詰めてきた。
2度、銃口が火を噴くが、ことごとく弾かれて敵の勢いを止めることはできない。
「ちっ!」
花城が間合いを取るべく、大きく後ろに飛ぶ。
しかし、劉璋の踏み込みは花城を逃さなかった。
相良が悲鳴を上げる間もない速さで、剣が横に薙ぎ払われる。
花城は体勢を低くしてそれを躱し、銃弾を叩き込んだ。
劉璋はその至近距離からの攻撃を難無く受け切ると、更に上段から剣を振り下ろす。
花城は横に転がるように回避しながら2回の攻撃を加え、追い討ちをかけようとした劉璋の足を止めた。
二人は警戒しながら距離を取り、体勢を立て直す。
刹那に繰り広げられた凄まじい攻防を目の当たりにして、相良は戦慄する。
そして同時に何もできない自分に焦りを覚えていた。
(な、何かできることはないのか?)
「相良さん」
「は、はい! オレは」
「何もしないでね」
質問より先に答えを返されてしまい相良は二の句が告げられなくなる。
彼女は相良の思考を読み取ったかのような言動をとることが多い。
(もしかして、人の心を読む能力を持って……)
「ないわ」
相良は彼女の前では不用意に物を考えまいと心に誓う。
「それにしてもこれほどまでに強い夢とはね」
そんな相良の様子を他所に唐突に花城は語り始める。
「夢の強さは、想いの強さ。そして、その強さは本人の意思なくしてはありえない。彼女……本当にこっちに帰ってきたいのかしら? もしかすると彼女にとって今が1番幸せなのかもしれない」
「そんなこと!」
「ないとも言えないでしょう? 人間、現実が辛ければ辛いほど夢や妄想が強くなるわ」
花城はそこまで言って川谷の夢の具現たる劉璋を顎でしゃくる。
「そして、彼女の場合、それがこんなにも強い」
相良は花城の話を理解することはできていた。
しかし、だからといって川谷を化け物に喰われるのを見過ごすわけにはいかない。
「例えそうであったとしても連れて帰ります。川谷が現実に戻った後のことは、オレがなんとかします」
「そう。じゃあアフターケアは任せたわ」
花城は、もはや何も言うことはないといった様子で話を切ると銃を下ろす。
「私の仕事はもう終わったようだしね」
一瞬、花城が何を言っているのか分からなかった相良だが、激しく悶えている様子の劉璋を見て理解する。
「いくら人の夢を吸って姿を変えたところで、『悪意』であることには変わりない。その衣装も、その剣も結局は『悪意』の身体そのもの。剣で攻撃を受け止めているように見えても、実際には身体で受け止めているようなものよ」
そこまで話すと花城はマガジンから銃弾を1発取りだし、相良に見せた。
「この弾は特別製なの。神子に対して効果のある……そうね、強力な毒のようなものが仕込んであると言ったらいいかしら」
「毒……」
「そう。そんなものを硬質化されたとはいえ、自分の身体で6発も受けたんだもの。ただでは済まないでしょうね」
その言葉の通り、もはや『悪意』は劉璋の姿を保てぬほどに弱っていた。
例の顔が身体に浮き出し、悍ましい呻き声を上げながら苦悶の表情を浮かべている。
そのうちぶよぶよした身体がヘドロのように溶け始め、ついには真っ黒な水溜りと化した。
それを見届けた後、花城は深いため息をつく。
「素直に顔を撃たせてくれれば1発で済んだのに……これひとつ8万もするのよ。予定外の出費だわ」
恨みがましくぼやきながら、花城は取り出した銃弾を詰め直す。
そして、相良に手を差し出し、貸していた短剣を受け取る。
「さて」
花城は気を取り直すように言うと、相良に明るい笑顔を向けた。
「ここからは貴方の仕事よ。相良さん」
「はい」
短く返事をして相良は、未だ目を覚さない川谷を見る。
工場の開いた天井から差し込む月明かりの下で、少し寝苦しそうに身をよじっているが、ちゃんと生きているようだ。
「たぶん何もしなくてもしばらくすると目を覚ますわ。『悪夢』たちが適度に栄養は与えてただろうから多少は衰弱してるかもしれないけど大丈夫だと思う。それよりも心のケアが心配ね。そこは……頑張ってね」
花城はそう言うと、ジャケットを脱いで相良に渡し、出口に向かって歩き出す。
その背中に相良は声をかけ、深く頭を下げる。
「ありがとうございました」
花城は顔だけ後ろを振り返って、笑顔で片手を振りながら、振り込み忘れないでねとだけ言い残すと夜の闇に溶けるように消えた。
あたりが静寂に包まれた。
相良は横たわる川谷の元に歩み寄る。
そして、彼女の体に先ほど花城から受け取ったジャケットを被せてやる。
(目を覚ましたらなんて声をかけよう)
寝息を立てる川谷の顔を見ながら、相良はそんなことを考えていた。
月はまだ高く、夜明けまでかなりの時間があるようだ。
しかし、相良は待ち続けるつもりだった。
彼女が目を覚ますまで。
いつまでも、いつまでも。
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