第26話 塗り替えられた過去

愁陽の前から逃げ出し、結局、愛麗が自室に戻ったのは日も暮れようとしている頃だった。

あのあと、愁陽に抱き締められて胸がどきどきして、なんだか部屋に戻るにも落ち着かず、屋敷の庭にある池の畔で少し心を落ち着かせていたのだ。


見慣れた屋敷奥の自室へ戻り、戸を閉めると室内は薄暗く、仄かに花の香りが漂う。

侍女が用意したのだろうか、鏡台の傍の花瓶に桃の花が生けられていた 。


愛麗はゆっくりと桃の花の傍に歩み寄る。桃の花の香りが、先ほど愁陽と交わした会話を思い出させた。

きっと変だと思われたに違いない。自分でもそう思う。


ハッキリと、女の姿に見えるそれは、彼には見えなかった。

私の中にいる、もう一人の私……


女はそのようなことを言っていた。

どう考えても、自分がおかしいとしか思えない。


次に愁陽と会うときに、どんな顔して会えばいいのか。女のことを聞かれたら、なんて答えればいいというのだろうか……

わからない。怖い。

愁陽に呆れられたら、嫌われたら、どうしよう。


ああ……そっか。

もう、いいのか……

このまま会わないようにすれば。

早かれ遅かれ、自分は別の男の元へ嫁ぐ身なのだから……


結婚の日まで、会わなければ、それですむ……

このまま嫁いでしまえば、もう会うことは無いのかも知れない。


目を伏せた愛麗の顔からは表情が消え、花瓶に生けられた桃の花は、色も匂いも失った。

何も感じないように、何も見ないように、それは今までと同じ。

愛麗はすべてから自分の中にある感情を引き剥がす。

そして、愁陽との再会で芽生えた光にも見えない蓋をして消してしまおうとしたとき、再びあの声がどこかから聞こえた。


『……愚かな女』

愛麗は心臓が掴み上げられるような気がした。恐怖に頬が引きつる。

怯えながら声のしたほうを振り向く。

背後の壁から滲み浮かび上がるようにして、女の影が忍び込んでくる。

恐怖で身体が硬直し、動くことも叫ぶことも出来ない。


『自分の心を封印して、他人になりすまして生きている。あの日から、私のすべてを閉じ込めてしまった』

女の影は先ほどより人らしく実体を持って、しっかりとそこに立ち、存在しているように見える。


白く長い衣の裾を引きずり、金糸で襟元と袖口に飾りのあるそれは、婚礼衣装にも死に装束にも見えた。

黒く長い髪には金の簪がつけられ、白い肌に黒い瞳と紅く塗られた唇。

ただ黒い瞳だけが虚ろで、まるで禍々しい闇のようだ。異質で人間のものではなかった。


『欲望、怒り、嫉妬、情熱、自由……人形のように、ただ生きてるだけなんて、もううんざりだわ』


愛麗は声にならない声を喉から絞り出すように、掠れる声で彼の名を呼んだ。

「愁、陽……たす、け、て……」

彼女のことを助けてくれる者など、愁陽しか知らなかった。家族も助けになど誰も来ないだろう。さっきまで、もう彼に会わないと決めたのに、結局、彼を頼ってしまっている。都合のよい自分が情けなかった。


女の真っ赤な口が嘲るように弧を描いて、一歩ずつゆっくりと近づいてくる。

『でも、それももう僅か。あの男のおかげで、愛麗は私だけのものになる』

迫ってくる影から逃れようと後ずさる愛麗の足元が寝台にぶつかり、そのまま布団の上に倒れ込む。


『なんて、醜いの。フフフ…逃げるつもりなら、無駄よ』

愛麗は絹の布団の上を這い、壁際まで後ずさる。

『だって、私はあなただもの』

「どうして……」


女は寝台の縁に腰かけると、そのままゆっくりと愛麗の方へ身を乗り出してくる。

彼女を追い詰めていくのを楽しんでいるかのように、じわじわと近づく。

『私は、いつもあなたの傍にいる。ずっと、あなたの中にいた』

愛麗は追い詰められながらも、かぶりを振り抵抗する。

「私は、あなたなん、て、知らない。あなた、みたいな、恐ろしい、人……」


うまく呼吸ができなくて、言葉が途切れた。

『恐ろしい?…フッ、よくそんなことが言えるわね。あなたは私を求めているくせに』

「私が、求める?」

『私は自由よ。私は私の生きたいままに生きる。それが出来る』

女の言葉に苛立ちを感じて、愛麗の語気が強くなる。

「私はあなたを求めたりなんか、しないわ!」


『なぜ?私を認めるのが怖いの?』

「怖い?」


女はさらに愛麗のほうへ身を乗り出し、壁に背がつき動けないでいる愛麗に、おかしそうに笑いながら顔を近づけた。

『いつだってあなたは私の存在を否定する。せっかく私が姿を現そうとしても、すぐに暗闇に閉じ込めてしまう。いつも、そう』


女は白くほっそりととした手を伸ばし、愛麗の冷たくなった頬に触れると愛おしそうに、すぅっと撫でる。

『でも、私にはわかる。あなたの中に、秘められた情熱、激しさ、自由への憧れ、そういったものが抑えきれないで、あなたは一人苦しんでいる』

「わ、たし、は……」


女は愛麗に顔を近づけ、言葉をまるで彼女の震える唇に注ぎ込むように続けた。

『かわいそうに……長い長い気の遠くなるような時間、あなたはただ窓辺に座り、外を眺めていた。自由に空をとんでゆける鳥たちが羨ましかった。この身体の奥にある激しさを、自分でどうすることも出来ずにいるくせに』


女の黒い瞳は虚ろなのに、まるでそこに吸い込まれて闇に落ちていくようだった。


『自由になりなさいよ』


「……自由、に……」


『そうよ』


解放される…………?


そしたら、ラクになれるの…………?


愛麗は、ぼんやりと影に引き込まれそうになったところを、はっとして、すぐ目の前に迫っていた女の身体を力いっぱい突き飛ばした。

女から身体を離し、寝台を転がり落ちるようにして下りると、振り返って叫んだ。


「違う!私はっ、……私は、このままの私でいい!今のまま、この場所にいられたら、それで満足なの。ここは静かで、穏やかにいられる。何もかわらなくていいし、変わりたくない。そんな激しさ、そんな自由はいらない!だからっ、もう、私に話しかけないで!!」


身体に絡みつく糸を断ち切るように、全身で息も荒く一気に言い放った。

肩で息をする彼女を見つめながら、影は表情も変えずゆっくり立ち上がる。

そして、静かに言った。


『……人を殺したから?』


「え…………?」


部屋の中で愛麗と女が対峙していたこのとき、部屋の外では城内の東屋から愛麗の屋敷へ向かった愁陽が、ちょうど部屋の近くまで来た時に愛麗の荒げる声が聞こえて、急いで扉の前まで駆け付けたところだった。

今まさに戸を開け放とうとして、思わぬ言葉に愁陽の伸ばした手が止まった。


人殺し……?


なんのこと、だ……?


彼の存在に部屋の中の愛麗は気づかなかったが、女のほうはスッと目を細めた。


『自分が人殺しだから、静かにいたいの?それとも自分自身を殺したつもりかしら』


「なんの、こと?私が、人を、殺した?」

女がいったい何のことを言っているのか、愛麗は本当にわからなかった。

喉がひりついて、うまく言葉が出てこない。

女はゆっくりと愛麗と向き合い、静かに問いかける。


『そう、あなたの姉さんは何故、死んだの?』

愛麗にいた二つ違いの姉のことだ。


「っ!私が、姉さんを殺したというのっ!?まさかっ!姉さんは、病気だったのよ!おかしなこと言わないでっ」

女の瞳は取り乱した愛麗をただ静かに見つめていたる。


『姉さんが死んだ日のことを、思い出してみなさいよ』

「急に病気が悪化して姉さんは亡くなったのよ、私は、関係ないわ」

『夏の暑い日だった』


「やめて!!」


思わず愛麗は耳を塞いだ。

部屋の中から苦しそうな愛麗の声が聞こえ、愁陽は扉を開けて彼女を助けるべきだと思うのに、目の前の扉を開けられないでいた。

子供の頃に亡くなった愛麗の姉姫の本当の死の原因を、愁陽もよくわからなかった。

本当に急だった。そんなに病状が悪かったわけでもないのに。


『二つ違いの姉さんは物静かで、聞き分けもよく本当に愛らしい姫だった』


「……やめて」


『幼い頃から身体の弱かった姉さんは、いつも大人たちに囲まれ、大切にされていた。お転婆で元気いっぱいのあなたとは大違い。よく姉さんを見習いなさいって、叱られたわよねぇ。でも、そんなあなたは、姉さんが羨ましかった。両親の愛情を一身に受けている姉さんが……』


耳を塞いでいた愛麗の震える手が、ゆっくり下ろされていく。


「……私は、屋敷の中では独りだった。姉さんの周りには、あんなに大人たちがいるのに。だから、私はよく屋敷を抜け出して、愁陽たちと遊んでいた。家に帰ると叱られたけど、でも楽しかった」


『そうね……、あの夏の日までは』


「…………あの日は……朝から…本当に、暑い日だった…。だから、わたしは、屋敷の中で、一人遊んでいたの。」

彼女の声が、幼い頃の愛麗に戻っていく。


「人形遊びにも飽きちゃったわたしは、部屋を出て廊下を歩いてた。姉さんの部屋の前まで来たとき、部屋の扉が開いていて、ふと、姉さんの部屋の中が見えたの。そしたら、いつもいるはずの大人たちがいなくて、姉さんが部屋に一人いたの。だから、わたしは中に入って、姉さんとおしゃべりをして楽しんだわ」


女が優しい表情かおで白い手を伸ばし愛麗の頬にそっと触れる。


「おしゃべりしてるうちに、わたし、ほんの少しだけ、姉さんを困らせたくなったの。だってね、羨ましかったの、父さまや母さまにいっぱい愛されて、いつも侍女たちにも大切にされている姉さんが。わたしも大好きな父さまや母さまを独り占めしてズルいって思ってた。わたしだけが、羨ましいって思うのは、嫌だったの」


今なら解る。姉姫が身体が弱かっただけでなく、男子もなく二人姉妹であった我が家にとって、姉姫は大切な跡取りであったということ。二番目の娘の自分とは違ったということ。


『解かってるわ。本当はあなたも寂しかったのね、あなたはまだ子供だったから……』


「姉さんは、身体が弱いから外へ出ることは禁じられていた。わかってたけど、わたしは姉さんに言ったの。外へ行こうって…姉さんははじめ断ったけど、わたしがお気に入りの場所があるからっていうと、姉さんはわたしについて来た」


『あなたは大好きだった草原くさはらに、姉さんを連れて行ったのよね』


愛麗はコクリとうなずき、目を上げ眩しい日差しを見るように、目を細めて手で遮った。

「とても日差しが眩しくて。夏の強い日差しが、姉さんの身体にどんな影響を与えるかなんて、まだ幼いわたしたちには、解からなかった。わたしは、姉さんの前で走った。一度くらい、わたしのことだって、羨ましいって思って欲しくて。誰からも愛されてる姉さんに……ただ、ほんの少し、困らせたかったの」


『そうね、ほんの少しのつもりだったのに』


「そしたら、姉さんも走るって言いだして。わたしは止めたけど…でも、姉さん、笑って走ってた。あんな楽しそうな姉さん、はじめて見たわ。そのとき、はじめて分かったの。本当は、姉さんもわたしのことが羨ましかったんだって。いっしょに笑って走ったのなんて、はじめてで。すっごく楽しかった」


『そうだったわね。そして、夕方になって…』

女の口元がゆっくりと弧を描いて、楽しそうに歪められてゆく。


「夕方になって、わたしたちが帰ろうとしたら、夕立ちにあって、二人はずぶ濡れになって……屋敷に戻ったら、随分叱られたけど、姉さんは、わたしが誘ったことは言わなかった。ただ笑って、二人の秘密ねって、楽しそうに言ってた。……でも、……その夜、姉さんは熱を出して、二度と…………」


『二度と帰らない人となった』


最後の言葉は恐ろしくて口にすることが出来なかった。かわりに影が言う。

愛麗は愕然とし目を見開き、震える手で自分の耳を、頬を触れた。


すべてを思い出した。

なぜ今まで忘れていたのだろう……

それはきっと、耐えられない事実であったから……


『周りの大人たちは、疑いながら、誰も私を疑わなかった』


「……もし、あのとき、誰かが私を責めていてくれたら…」


「私が、姉さんを殺した」


吐くように愛麗が言った。

女は勝ち誇ったように笑い声を上げて、声高々に言い放った。


『ようやく思い出したようね!お前は自分の犯した罪に耐え切れず、自分の心を封印することで、このことを忘れようとした。代わりに姉さんとして生きることを選んで!』


愛麗の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。

「私が……、姉さんからすべてを奪ったの。だから、私は姉さんの代わりに生きることを選んだ……」


女は愛麗を睨みつけるように、挑戦的にゆっくり歩み寄る。

『そして、お前自身はお前の中に閉じ込められ、抑圧されたものは行き場を失くし、私が生まれた』


愛麗は力なく両腕をおろし、ゆるゆると視線を女に向けた。

「でも、あなたは愛麗じゃない。…そして、あなたが抑圧から作り上げられたものだというなら、この私も彼女の罪が作り出した偶像……だったら、私は、誰……?」


誰に訊ねるでもなく、そう問いかけた彼女の瞳には涙が溢れた。力なく自嘲する。

女が彼女の頬に手を添えて、指で流れる涙を拭ってやる。

『大丈夫。私たちはこれから一つになればいいの。一つの身体を共有しているのですもの。さあ、もう疲れたでしょう?限界よ……あなたは、私にすべてを任せればいい。私たちを束縛するものはすべて、破壊すればいいのよ』

女は扉の外の気配に目を向けると口元に笑みを浮かべ、スーッと掻き消えた。


「愛麗」

声とともに両開きの扉が開かれて、愁陽が姿を現した。


愛麗は目を見開き、唇が震えて声を出すことも出来なかった。

なぜ、愁陽が今ここにいるの?いるはずのない彼が。

誰よりも一番、彼に聞かれたくなかった。

こんな醜い自分を知られたくなかったのに。


「……今の話は」

つい今まで愛麗以外の低い女の声が聞こえていたはずなのに、部屋の中には愛麗しかいなかった。ただ空気だけが禍々しい感じが漂い、重苦しい。

女の姿がないことが、一層それまでの話がすべて真実なのだと感じさせた。


少しの沈黙のあと、愛麗は自嘲的な笑みを浮かべ、震える両手を胸に当てて言った。


「愁陽……もし、この世に鬼というものがいるのなら、それは人の心の中。私のここには鬼が住んでいる」


愛麗はいつもより細く見える肩を震わせて、そして白く細い手を悲しげに見た。

「私はこの手で姉さんを殺したんじゃない」

そう言うと哀しそうに、けれど、まっすぐに儚い笑みを浮かべて愁陽を見る。

そして、胸に手をあてて言った。

「私は、ここで、姉さんを殺したの」


彼女の目から、涙が一筋零れ落ちた。


愛麗は愁陽の言葉を待たず、部屋の外へ向かう。

彼は横を通りすぎようとした彼女の腕を掴んだ。

「愛麗!」


すぐ近くにある彼の真剣な眼差しを、愛麗はまっすぐに見上げて心から告げる。

「愁陽…。もう一度、あなたに会えて本当によかった。あなたに会わなければ、私は姉さんだけでなく、自分をも殺すところだった。……ありがとう、愁陽」


「……さようなら」

最後にもう一度笑みを見せると、愛麗は愁陽の手を振りほどきその場を走り去った。


さようならって……どう意味だ!?

その場に一人残された愁陽は、動けずにいた。

どうして追わない?

今すぐ愛麗を追いかけるべきではないのか?

けれど、愛麗を引き留めて、何を言えばよいというのか?

彼女が去り際に見せた微笑みは、なぜなんだ?

今すぐ彼女を追いかけなければいけないはずなのに。


「っ、なんで追いかけないんだよ、俺はっ……」


ふと、部屋の花瓶に飾られた桃の花が目に映る。

彼女の姉の死の真実は、愁陽にとってもあまりにショックな話だった。

姉が亡くなったのは、確か、愛麗が七歳のときだった

当時、彼女を心配して、何度も会おうとしたが、あのあと愛麗も体調を崩しすっかり塞ぎこんでしまっていた。暫くしてからも喪に服しているという理由で一年以上会えず、その後は皇子として彼自身も勉学や武術など学ぶことが増えて、城の外に忍び出ることも叶わなくなり、そのため愛麗にも会うことができなくなっていった。


それでも彼が四年間の遠征に出る前に一度だけ会えた。

けれど、ようやく会えても男女の仲ということで、御簾越しで顔も殆ど見えない。

愛麗はほとんど話さず、形式ばった会話、彼もそれを崩せるほど大人でもなく、ほんの短い時間の挨拶程度だった。


愁陽が城で忙しくしている間、

遠征にいっている間、

彼女はこの部屋に、ずっと一人だったのだ。


彼女は一人で苦しんでいたのに、気づいてやれなかった。

もし、自分がもっと強引に彼女に会おうとしていれば……


そうしなかった、幼すぎた自分に腹が立った

けれど、今も彼女はどこかで一人でいる

追いかけることもできず、立ち尽くしてる自分は、あの頃と同じではないか。


「何やってんだよっ…俺は!!」

愁陽は踵を返し、部屋を飛び出した。

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