この小説は絶対に読まないでください 〜パワーワード〜
大和田大和
綿棒を着る女
『パワーワード』
第一巻 パワーワード
プロローグ
太陽が雲のカーテンを着込む。
仄暗い空からは、雲が涙を流す。
地べたに向かって蒼白い雨粒が次々と落ちていく。
時雨が軽快なメロディーを紡ぎ、風が空に潮流を産む。
遠くに見える朧月は、少しだけ光を孕んでいる。
私はそれを見て、急いで家の中に戻る。
人間は雨が降ると、逃げるようにして屋内に移る。
それは、雨粒の投身自殺を見たくないからだ。
窓から地べたを見ると、“雨の死体”は水たまりになっている。
地面に生まれた水たまりは、まるで墓場のようだった――
この世界は残酷だ。
人生とはまるで一枚の絵のよう。最初はまっさらな無地のキャンバス。
子供は物心がつくと、そこに絵を描くように求められる。
手にした筆でどんなことでも描いていい。
風景画を描いてもいいし、漫画を描いてもいい、文字だけの小説を書いてもいい、抽象画を描いてもいい、詩を書いてもいい、自分の名前だけを書いてもいい、何も描かなくてもいい。
どんな人生を描くかは、全ての人間の自由だ。
そのはずだ。
そのはずなのに、いつもキャンバスに絵を描くのは、周囲の人間だ。
“子供が手にした筆”を小さな腕からひったくる。そして、好き勝手に何か描き始めるのだ。
父親、母親、友人、教師、上司、兄弟、姉妹。みんなが勝手に私のキャンバスに絵を描く。
「我慢して勉強をしろ」、「やりたくなくても残業をしろ」、「結婚して子供を作れ」、「お前はこうすべきだ」、「お前は父さんのようになりなさい」、「将来はこうなりなさい」、「お前は誰にも必要とされない」、「お前にできっこない」、「お前はこういう子だ」
そして、気づけば私は、他人が“私のキャンパス”を好き放題に塗り尽くすのをただ見ているだけになる。
私の人生のはずだったのに。私の絵のはずなのに。
みんなが私の人生を操ろうとしてくる。
人生はまるで仕事のようだった。やらなくてはいけない辛いこと……それが人生だ。
ちっとも楽しくない勉強をして、
行きたくもない学校に行って、
やりたくない仕事をやらされる。
あんまり好きでもない相手と“妥協して結婚”し、
大して欲しくもない子供を、“親に見せるため”だけに作る。
一緒にいたくないような嫌な奴と一緒に過ごし、
世間体を保つためだけに生活をする。
そんなことをしないと、誰からも認めてもらえなかった。誰からも愛してもらえなかった。
ありのままの私ではダメなんだ。
『もっと頑張らないと! もっと努力しないと! 他の人に勝たないと!
頑張らない私はダメなんだ。頑張らないと価値がないんだ。頑張るしかないんだ』
私たちはいつも心をすり減らし、自分を騙し騙し生きている。
ボロボロになりながら心を殺し、感情を踏み潰し、悲鳴を喉の奥に閉じ込める。
そんな時私たちは、いつもいつも自分に言い聞かせる。
「これが“普通”だ」「辛いのが人生だ」「苦しむのは当たり前だ」「私なら頑張れる」「私なら耐えられる」「泣くな! 泣くな! 泣くな! 泣くな!」
だけど、涙を止めることは簡単なことではなかった。
「泣くのは弱い人間だ! 苦しくても泣くな! 泣いたらダメだ! 泣くな……」
そう言いながら、私は何度泣いたかもう覚えていない。
笑顔なんて数えるほどしかなかった。なのに、泣き顔なんて数え切れないほど見た。
こんなに辛いことがたくさんあるのに……幸せなことなんてほとんどない。
瞳の中からは、抑えきれない苦痛が涙になって溢れてくる。
透明な滴は、次々と私の頬の上を切っていく。まるで夜空を切り裂く箒星(ほうきぼし)のようだ。
本当は辛い、苦しい、逃げ出したい。辛くて辛くて仕方がない。体も心も今にもぶっ壊れそうだ。
日を追うごとに、人生が進むごとに、傷は深くなっていく。
『時が経てば、傷は癒える』……そんなの嘘だ。えぐれた心は、時が経つほど腐っていく。
ひどい匂いを放ち、ウミがドロドロと溢れる。血を流し、ヘドロのような液体が中から滲んでくる。
『いつか楽になる』……いつまで待ってもそんな瞬間はこなかった。“いつか”なんていつまでもこない。
今の今まで、そんな瞬間一度もこなかった。そして……そんな瞬間これからもずっとこない。
『必要じゃない人間はいない』……いいえ。世の中は、そんな人間で溢れている。誰からも必要とされずに、ずっと日陰でシクシクと泣いている人がたくさんいる。
誰かに必要とされるような人間は、そういう人のことは気にも留めない。
そういう人の視界に、私が入ることはない。
だからそう見えるだけ。
『辛いのが永遠に続くことはない』
『諦めなければ夢は叶う』
『お前は……価値のある人間なんだ!』
『濃い闇の中ほど、光は輝くのよ』
そんな言葉は、何の役にも立たない。
一時的に気が楽になるだけ。本を閉じれば、すぐに地獄に戻る。
目の前に惨たらしく突きつけらられる現実は、巨大な氷山のようだった。
右から左に水平線を掻っ切る氷山。空と海の境界線。ちっぽけな人間なんて、一瞬でぶつかってバラバラにされる。
氷山(現実)の下の水面をよく見ると、バラバラになった人間の死体が、死屍累々と積み重なり沈んでいる。
もう生きるのをやめたい。もう前に進みたくない。もう辛い思いはしたくない。
私たちがそんなことを言うと、
『甘えるな』、『逃げるな』
と、容赦無い怒号が飛んでくる。弱り切ったボロボロの人間に対して、手加減も慈悲も一切ない。
飛んできた言葉の銃弾は、私の胸を正確に射抜く。貫かれた穴からは、たくさんたくさん血が滲んだ。
私だって頑張っている。こんなに一生懸命頑張っているのに。こんなに苦しんでいるのに。
私だって誰かの役に立ちたい。私だって人に感謝されたい。こんな私にだってできることがあると感じたい。
ただ一言、『君は頑張っている』そう言ってもらえたらいい。それなのに、そんなことを言ってくれる人は、ただの一人もいなかった。
私は孤独だ。ずっとひとりぼっちだ。誰からも愛されず、誰からも求められない。
私が消えても惑星は変わらず回る。それどころか誰にも気づかれないかもしれない。
私はまるで見えない人間。そこにいるのに……存在していないみたいだ。
生きているのに……もう死んでしまっているみたいだ。
気づけば、いつもそんな暗いことばかり考えてしまっている。
常に罪悪感を感じ、ぐるぐるぐるぐると辛い思考だけがリピートされていく。
永久(とこしえ)に抜け出せない無間地獄に閉じ込められているみたいだ。
私は鏡に映る自分を見つめた。鏡に映る私の分身は、涙を流しながら私を見つめ返す。
私たちの瞳はお互いがお互いを求め合う。視線が交差されて、互いの瞳にその刃を突き刺し合う。
瞳の奥まで突き立てられた視線の刃はひどく痛かった。
鏡を見ると、自分は世界に一人だけではないと思ってしまう。鏡の中にいる人物は私が笑顔を向ければ笑い返してくれる。私が怒れば、同じように怒りを顔に貼り付ける。
まるで、最高の友達ができたみたいな気分になる。
だけどその友達は、私の心を焼き尽くす孤独の炎をより強く、激しく、燃え上がらせるだけだった。
孤独にくべられた薪は、さらに炎を育てていく。燃え盛る火炎は冷たくて、悲しい。まるで氷のような炎だった。
人間は弱い。どれだけ気を張っても、どれだけ強がっても、孤独には勝てない。
私は鏡に向かって、
「神様……? 聞いていますか? 私です。アリシアです。
今日は神様にお願いがあります。
神様は私がどれだけすがりついても私の言うことなんてちっとも聞いてくれませんでしたね。
あなたは……どれだけ叫んでも私のことを無視した。
私は、ずっと辛い人生の中を溺れそうになりながら、息継ぎしていました。四角い箱の中で、わずかな空気を求めて、水面に顔を出し、また溺れる。
息すらもできないような辛い人生でした。
リセットをしたい。やり直したい。次のチャンスが欲しい。そんなこと何百回、何千回考えたかわかりません。
でも……本当はリセットなんてただの自分を騙す嘘なんです。
『リセットすれば幸せになれる。
やり直せば次は、楽しく過ごせる。
次のチャンスがあれば本気を出せる。
次の人生なら……誰かに必要とされる』
そうやって自分に“嘘”をつき続けました。
だけど……虚しいだけだった。現実と妄想の違いはより私を強く押しつぶした。
もっと辛くなった。もっともっと苦しくなってしまった。
だから自分の胸に隠した“本音”を言います。誰にも言わなかった“本音”を聞いてください。
本当は……リセットなんて
本当は………………“
私は、いつも自分に言い訳をするんです。
私が勇気を出して一歩を踏み出せないのは、失敗するのが怖いから。
一歩を永遠に踏み出さなければ、永遠にチャンスがあるような気がするから。
失敗してしまうのが、
『一歩を踏み出さないから、成功していないだけ。一歩を踏み出せば、すぐに成功できる』
そんな言い訳をするために……ずっと一歩を踏み出しませんでした。
でも、もうそんな言い訳をするのをやめます。
もし……今からでも間に合うのなら……今からでも遅くないのなら……一生で一度くらい生まれてよかったと思いたい!
来世じゃなくて……“
だから……お願いします!
大嫌いな神様。
あなたがどうして私のことを嫌っているのか、私にはわかりません。
どうしてこんなに辛い人生を、私に与えるのかわかりません。
だけど、ほんの少しでも私を気にかけてくれるなら、どうか私の一生のお願いを聞いてください。
たくさんのお金もいらないし、地位も名誉もいらない。
広い家も、おいしい食べ物も欲しくない。
高い洋服も、宝石がついたネックレスもいらない。
リセットもやり直しもいらない。
チートも無双もできなくていい。
異性にもてなくてもいい。
時に傷ついて、時に泣いて、時に苦しむ、普通の人生でいい。
辛い過去を背負ったままでいい。これから苦しいことが起こってもいい。
どれだけ苦しくても、もう諦めないから。
どれだけ不幸でも、抗い続けるから。
どれだけ才能がなくても、努力し続けるから。
どれだけ辛くても、生きるのをやめないから。
もう自分の人生を呪うのもやめます。
もう自分を嫌うのもやめます。
もう自分を憎むのもやめます。
そんな悲しいことの代わりに、これからは誰かを愛したい。
これからは誰かを助けたい。
これからは自分自身を愛してあげたい。
これからは誰かに必要とされたい。
リセットなんてしなくていいから……“今この瞬間”から自分を変えたい……どうか私のことを認めて欲しい。
私がここに生きていることを知ってもらいたい。
“この人生”を諦めたくない。
“この一生”を幸せなものにしたい。
“今の私”を……愛して欲しい。
だからお願いです、神様…………私に
もうひとりぼっちは耐えられそうにありません。
そんなに大勢はいらないです。一人だけでもいいです。
どうかどこにもいなくならない友達をください。
完璧じゃなくてもいいんです……欠点がたくさんある普通の友達でいいです。
たまには喧嘩をしてもいいです……きっと仲直りできるから。
だから……どうか当たり前の日常を私にください。他人から見たらどうでもいいことかもしれません。
でも、私にとっては……それが大きなことなんです。
お願い……私に……一生で初めての……友達を……ください!」
気付いたら私は大粒の涙を流していた。涙の粒は、光を乱反射しながら火花のように輝く。
泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて、泣き続けたら、心がスッと軽くなった。
ずっと心に沈殿していたヘドロは、涙と一緒に地べたにこぼれた。
鏡の中の私の泣き顔は、泣いているのに、どこか幸せそうだった。
私は袖で涙を拭った。すると涙は、もう溢れてこなかった。
あれほど自分に『泣くな!』と言い聞かせても止められなかったのに。嘘のように止まった。
心の中から迷いは消え失せた。不安は溶けて、心の底からは希望が芽吹く。
こぼれ落ちた涙は、希望の新芽を育てる水となる。
剥がれたかさぶたは、土になり養分となる。
流した涙は無駄にはならない。私がいつも自分で無駄にしてしまっていただけなんだ。
前を向けば、世界はこんなにも幸せだった。私は自分から目を閉じていただけだった。
モノクロだった世界は、輝きながら色付き始めた。
私は大きく息を吸い込んだ。肺の中が幸福感で満たされる。そして、“禁じられた行為”を行った。
「見え――」
そして、私の願いは叶った。いや、私は願いを力づくで叶えた。
夕暮れが世界を削りながら壊していく。世界はその均一性を失った。
黄昏は布になって、私の涙の跡を拭ってくれた。
気づけば雨は上がっていた。雲の切れ間から土砂降りの光が降り注ぐ。
ぬかるみの中には、苦しみと不幸が溶けている。
私はそれを踏みつけて、前に進む。足に絡みつく冷たい感触が、不思議と温かく感じた。
太陽が地上に向けて光を撃つ。光の束は、私の顔を明るく濡らした。
光で大地は焦げている。砕けた光が、地面にぶつかってキラキラと弾ける。
光の波は、私から不幸を洗い流す。静謐な沈黙が惑星の表面を滑る。
透明な空気は、まるで質量のない海。私をどっぷりと幸せで浸してくれる。
幻想的な夕暮れの中に闇の居場所なんてもうどこにもない。
心に乗っていた重荷を自分で下ろした。
前に進むことは、思っていたよりも辛くなかった。
勝手に辛いと想像していただけだった。
それどころかもっとずっと楽しくて、心地の良いものだった。
幸せで幸せで、それはそれは素敵なものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます