第157話

 何も考えず、足が動くままに歩き続けていたら、気が付けば辺りは真っ暗になっていた。来た道がどれかも分らず駅に戻ることが出来ない。ただ出来たとしても、咲はそうしようとは思わなかっただろう。

 途方に暮れて、花壇らしきコンクリート製の淵に腰を下ろす。歩き続けた疲労も空腹も感じない。ただ誠がいない、その空虚さだけを抱え続けていた。


「あんた、どうしたの、そんなとこで」


 唐突に声を掛けられ目線だけ動かすと、小柄な老婆がこちらへ歩み寄ってくるところだった。




「いくら冬じゃないっていっても、この時間は寒かろうに。ほら、お茶飲んで、あったまりな」


 遠慮する咲をものともせず、そのまま老婆は引きずるように咲を自宅へ連れ帰った。あげてもらった家はとても広く、それなのに玄関から廊下、居間も全て明るく見えた。


「見ての通り婆の一人暮らしだよ。何があったか知らんが、落ち着くまでここにいな」

「……あの、私」

「いいからいいから。ああ、お腹空いたね、待ってな、うどん茹でてやるから」


 名乗ってもいないしなぜここにいるのかと事情も伝えていない。咲にとって彼女は見知らぬ人だが、相手にとっても自分は見知らぬ不審人物ではないだろうか。それを自宅でもてなしてくれることに、有難くもあり不思議でもある。


「ほい、あったかいうちに食べな。食べたら風呂だ。そして寝ちまいな」


 あっという間にどんぶりが差し出される。立ち上る湯気が目に染みたのか、咲はぼろぼろと涙をこぼし始めた。泣いていることに自分でも気づかないくらい唐突に。

 老婆はそっと咲の背を撫でた。


「生きてりゃ色々あるさ。逃げることも忘れることも出来ないことが、ね。でも大丈夫、時間が経てば受け止められる。その時をじっと待つんだよ」


 咲はもう我慢が出来なかった。声を上げ、嗚咽を漏らし、ため込んでいた悲しみをすべて吐き出すように号泣した。


◇◆◇


 家の周りから、駅へ向かう道、周囲のショッピングセンターを走り回って、宗司は咲を探すが、どこにも見当たらなかった。もしかして、と、駅員に咲の容貌を伝えると、数時間前に改札を通ったらしい。喪服の若い女性は目立つ。咲が着替えていなかったことに感謝した。


 しかし電車に乗ったらしい、ということだけで、どこへ行ったのかは分からなかった。携帯にかけても通じない。宗司は今一度家に駆け戻り、父親から幾分かの金をむしり取って再び飛び出した。

 家を出る時に兄の優司に呼び止められたが、その腕を振り払って返事もしなかった。


◇◆◇


 一通り落ち着くと、求められてもいないのだが、咲はぽつぽつと自分の事情を話し始めた。しかし家を出てきた理由、ここにいる理由は、自分でもわからなかった。


 田村、と名乗った老婆は、その間ずっと黙って聞き続けてくれた。


「そりゃ、気の毒なことだったね。そうか、お子さんが……」

「すみません、見ず知らずの方にお世話になってしまって……」

「そんなこと気にしないの。あたしから声かけたんだしね。でも、お家の人、心配してるんじゃないかい?」


 常識的な田村の配慮に、咲はそっと首を振る。姑の言葉をそのまま受け取ると、もう自分はあの家にとって用無しなのだ。


「まあ、連絡したくなったら電話使っていいから。玄関の横にあるからね。今日はとにかくゆっくり休みな。今のあんたに必要なのは、食べて寝ることだよ。それが出来るようになれば、大丈夫だから」


 ほい風呂だ、と言いながら、田村は立ち上がって出て行った。

 こたつが暖かい。体ではなく、ずっと忘れていた温かさを思い出させてもらえたような気がした。

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