第20話

 その後、担任である横山のホームルームを終えて、ユウジ達は滞りなく今日のカリキュラムを消化していく。だが、三時限目の授業を前にして二年G組の教室は緊張感に包まれていた。

 明るい色をしたリボンやシュシュで髪を飾っていた女子生徒達はそれらを外し、黒のゴムバンドに付け代える。また、上側を折って短くしていたスカートの丈も元に戻す。男子達も整髪料で髪を立たせていた者は櫛で撫でつけ、緩ませていたネクタイをしっかりと結び直した。次の授業は厳しい事で知られる本田教師の科学なのだ。

「長野、ネクタイが少し右に曲がっているぞ」

「まじか、やべえ!」

 ユウジ達もお互いに不備がないかを確認し合う。さすがにネクタイが曲がっている程度で罰せられることないが、それをきっかけに目を付けられて質問を浴びせられることがある。本田の前では目立つことを極力避けるべきなのだ。


「よろしい、全員揃っているな。それでは授業を開始する。では、前回の続きモルについて・・・」

 授業開始のチャイムが鳴り終わる前に、二年G組の教室内に長身で痩せ気味の男が現れ、授業の開始を宣言する。男の年齢は三十代半ば程で、髪は耳がしっかり見えるよう短く切り揃えられており、伸びた姿勢と合わせって清潔感を覚えさせる。だが、それはやや神経質でいくらか過剰にも思われた。

 この男こそが生徒達に厳しいと噂される、科学と生活指導の担当している本田ヨシオである。彼は自分の授業の際には常にチャイムが鳴り終わる前に登壇しているのだった。

 もちろん、二年G組の生徒達は既に着席した状態で彼を待っている。チャイムが鳴り終わってから教室に戻って来ようものなら、問答無用で遅刻とされ、その日の授業は質問攻めで吊し上げられるのである。普段はギリギリまで廊下で雑談をするような生徒達も本田の授業だけは優等生となっていた。


「であるからして・・・」

 身嗜み等で注意を受ける生徒がいなかったため授業は順調に進むが、それまで教科書内容を補う説明に終始していた本田が言葉を詰まらせると、獲物を狙う猛禽類のように教室を見渡す。質問を浴びせる生徒を吟味しているのだ。

 それを感じ取ったユウジは呼吸を浅くしながら出方を待つ。下手に動くと標的とされるからだ。この時に備えて予習をしていたが、当てられずに済むならそれに越したことはない。さりげなく目の動きだけで周囲の状況を窺うがクラスメイト達も、一人を除いて時が止まったかのように硬直している。唯一の例外は窓際のレイだけだ。

 レイは数秒の沈黙にさえ飽きたかのように頬杖を始める。ユウジの位置からは、はっきり見えなかったが、もしかすると欠伸を隠すための動作かもしれない。

「そうだな・・・麻峰、いままでモルについて説明したわけだが、なぜ? アボガドロ数が6.02×10の23乗という中途半端な数字にされているか、解かるか?」

 どこまでもマイペースなレイを目標に定めた本田が今日の授業の根幹とも言える内容を問い掛ける。

「それは相対質量をわかりやすくするため・・・です。例えば原子核質量の標準である炭素原子12Cがアボガドロ数集まると12gとなり質量数と重さの数字が一致するように、計算が楽になるからです」

「うむ、正解だ。アボガドロ数は、それだけ原子が集まると質量、いわゆる重さがその原子の質量数と一致することから定められた物質量の基本単位だ。まあ、厳密言えば完全なイコールではないのだが、それは基礎科学の範囲外だな。他にも水素原子1Hが・・・」

 授業を受ける態度はともかく、模範とも言えるレイの解答に満足すると、本田は他の原子についても言及し授業を続ける。

「では、今日はここまで・・・文系の生徒の中には、このモルの辺りから急に難しくなったと感じる者もいると思うが、この程度で躓いていては進学どころか社会人としても失格だ。しっかり着いて来るように!」

 終了を報せるチャイムに合わせて本田はその言葉を残すと教室を去って行く。彼の姿が見えなくなったことで、緊張の切れた二年G組の教室からは安堵の声が沸き上がった。


「ふう・・・今日は麻峰のおかげで助かったぜ!」

 休憩時間にユウジの席にやって来た長野は先程の様子を溜息交じりに告げる。今回はレイが上手く回答していたので、本田の機嫌も良かったが、下手をすると満足した正解が出るまで質問者を晒し上げる圧迫授業に至った可能性もあったのだ。

 クラスメイト達も予習はして来たと思われるし内容もそこまで難しくはないのだが、どこをどのような形で質問するかは未知数であり、更に理解していても焦って上手く説明できない場合もある。そんなわけでレイはちょっとしたヒーローとなっていた。

「だな、ほぼ模範解答だった。麻峰は一学期の成績もかなり良かったのかな?」

 今更だが、ユウジはそんなクラスの人気者であるレイについて長野に問い掛ける。

「ああ、お前は二学期からの転入だから知らないかもしれないけど、麻峰は一学期の期末じゃ学年二位だったし、一年のときも常にトップ3には入っていたはず。・・・それに運動神経も良くて、美人だなんて完璧過ぎだよな」

「二位! そんな上位だったのか・・・」

 レイが優秀なのは既に知っていたが、学年二位だったと知ったユウジは改めて窓際の席に座る彼女を見つめる。事件を追う相棒という関係になってはいるが、自分はレイについて知らないことの方が多いのだ。

「ああ。最初は、なんでそんな麻峰がお前と付き合い始めたのか不思議だったし、羨んだりもしたけど・・・今思うと、逆にお前のそんなところが気に入ったのかもな!」


「そんなところ?」

 長野の興味が麻峰から自分に移ったことで、ユウジは彼が自分をどう思っているのか問い掛ける。

「ああ。むしろ、そういうところだよ。天然ボケとまでは言わないが・・・なんか変に余裕があるところ。思えば麻峰に似ているよ。俺もそうだが、普通の男は麻峰のような完璧美少女と付き合うなんて、自分とは釣り合わないと思ってビビるもんだが、お前はほとんど気にしてないみたいだしな。何かあっても『そうなんだ』か『なるほど』で済ましてしまいそうなところだ」

「いや、俺だってレ・・・麻峰と初めて会話らしい会話をした時はかなり緊張したよ!」

「・・・でも今は名前で呼び合う仲なんだろう? 麻峰は対等に接して来る男子が好みだったんだな。・・・まあ、麻峰はお前に任すから、川島のことは頼んだぞ!」

 本田の授業で欠伸をするようなレイと似ていると指摘されたユウジは長野に反論するが、彼はそれを客観的な事実で退ける。確かにレイとは既に名前で呼ぶ合う仲だ。もっとも、長野はそれに対する不満は本当にないようで、最後に川島への紹介を念に押す。

「・・・わかった。頑張る!」

 長野の頼みに改めて頷くユウジだが、その心中はやや複雑だ。もちろん川島のことではない。レイとの関係が深まったことで、自分を見つめる友人の目にも変化が起きていることだ。正確には無意識に感じていたことを論理的に知覚し始めたと言うべきか? いずれにしてもユウジはレイに近づいたことで目立つ存在になってしまったのだった。

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