第6話 父の覚書(一部)空襲

福岡空襲の御話


福岡だけでなく この頃は アメリカ軍は東南方面の島々を手中にして

そこを基地として日本各地に爆撃を行っていました


20年6月19日 福岡大空襲


大きな空襲警報で驚き 自宅から飛び出して 高台から福岡の街を見ると

福岡の街や博多方面が爆撃されているのを目撃しました 

燃えているのを見たようです  


アメリカは日本が占領していた南の島を奪い そこの基地から出撃だとか


木造住宅が多く B29の焼夷弾で火災が起きて延焼してゆきました


福岡の街は焼けの原となり 特に被害が出たのは

現在の博多座 当時は西日本相互銀行の地下室が 一番被害が多かった

蒸し焼きになったと聞いた事があります


今は劇などの博多座となってます 大きな場所で 他にもアジア美術館なども

中心地 天神と博多の中間 天神よりかな?中間点の中州


しばらく行ってないので・・^^;



5日後 自転車で博多区の明治通りを行くと 焼け野原でまだ焦げ臭かったとの事


7月に青木さん親子(母と子)の家に一時 避難したりしました

※青木の娘さんは終戦後 現在の海の中道にあったアメリカ軍の基地の一つで

通訳として働きました


太宰府での疎開中 馬車に家財を持って逃げ 太宰府天満宮の中のトンネルの一つに

蚊帳をして泊まったそうです 上に登って降りられず

弟の方は自力で降りたが 父は母親(祖母)が崖を上り 上からロープをおろして

助けたそうです・・母は強し・・と記載されています

2年後に祖母は亡くなります

8月 戦争が終わり 終戦の日に 放送を聞いたらしいのですが

言葉が難しいので意味が分からなかったらしいですが 大人が説明してくれたらしいです


盆贈りの日でもあり(福岡などは8月にお盆の時期 東京方面は7月)

予定通りに盆贈りの行事は行われました 

※死んだ人達(先祖)が戻ってきて数日過ごし、帰ってゆくのを送るという仏事

各地で違いがあります お供え物をしたり迎え火、送り火で迎えたり送り出したりします

あと、盆踊りなどがあります



余談ですが

疎開中 家や無事だった祖父の建てた家などに多くの人達が避難して

住んだそうです 


その手配をどうやら祖父がしたようです


戦争中か終戦後かは不明ですが 馬車で 九州各地 材料を求めて

回った時に 父も一緒についていた事があったと話してくれた事があります


戦争が終わっても9か月たっても 

配給制の米などの食料を手に入れるのは困難でした



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