スコール
愛奈 穂佳(あいだ ほのか)
第1話 遭遇
(1)
ふと、独特の匂いがした。
無色透明の空気の中に、生まれたての潤いを感じた。
立ち止まってみるとさっきまでのそよ風が重くなっていて、微妙にそれが生暖かいことも確認できた。
この時季特有の予感を胸に抱きながら「ぐるり」と空を見渡すと、やはりこの場所特有の厚い雲が、かなりの速度で右から左へと移動している。
方角は解からない。
けど、そんなことは大した問題じゃない。
雲の速さ、風の向き、空気の湿り具合を、キャミワンピの背中から、肩から、全身で感じ取りながら、それが迫りくる方向と到着時間を推測する。
近い。
……来る。
「来た!」
声に出すや否や、周囲は誇張でもなんでもなく、文字通り『バケツの水を勢いよくひっくり返され続けている』ような光景になった。
「雨」というには正しくない程に全てを叩きつけてくる大粒の水滴は、身体に当たると小石をぶつけられたかのように痛い。
地面まで到達したそれらはあっという間にそこへぬかるみを作り、更に降り落ちてくる鉛球のような水滴の勢いは、泥を跳ね上げながら夏の装いをした少女の足元を汚す。
素足にミュールなので、どれだけ汚れても泥なんて簡単に洗い落とせる。
だからそんな事など、本人には全然気にならない。
水滴の機銃掃射が続く中、今度は遠くに見える灰色の空が「パッ」と光り、それとほぼ同時に耳をつんざくような音が届く。
この雷光で夜中に目を覚ますことも珍しくない。
雷鳴は大地を揺るがすようで、慣れていてもドキリとしてしまう。
他の場所は知らないが、ここの雷はよく落ちる。
呆れるくらいによく落ちる。
何も無い所に落ちるだけなら「またか」と笑って傍観できるのだが、雷による被害は相当のもので、真っ二つに裂けた大木や、そこまで酷くなくても落雷したとわかる無残な木々は後を絶たない。これによって家庭の電気製品が使い物にならなくなることも多々ある。
停電や電話がつながらなくなることも日常茶飯事で、運悪く死亡する歩行者やゴルファーも決して少なくない。
だから、近くで雷が鳴ると誰もが条件反射で思わず身構えてしまう。
そういう事情を知っているからなのか、それとも単に右に倣えなのか定かではないが、走っていた古い日本車の何台かは、速やかに道の左端へと車を寄せて停車する。ワイパーは動かさず、ただ、停車しているだけ。
二輪車に乗っている人達はバスの停留所や立体交差の道路の下に逃げ込み、息をつく。
ライダーの中には雨合羽を素早く身につけて運転を続ける強者もいるが、そういう無謀運転者が死亡事故増加記録を更新させていたりする。
車のワイパーを最速にしても全く前が見えないくらいの状態なのだから、二輪車のライダー達もおとなしく停車してやり過ごすのが賢明だろう。
とはいえ、ただ馬鹿正直にぼんやりとやり過ごしている者はまず見かけない。
二輪車に乗っている者は、規模の差はあるが、街の至る所に点在している、屋台風の店構えで様々な珍しい料理が気軽に食べられる野外の大衆食堂――キャンティーン――の近くの軒下を探し、申し合わせたかのようにそこへ愛用の二輪車を停車させ、自分はそのキャンティーンへ駆け込んで軽く何かをつまむのが彼らの常識になっているからだ。
少女は到底「良い」とは言えない視界の中で道の前後左右を見渡したが、彼女の目に見える範囲の中で傘をさして歩いている人など皆無。
――それもそのはず。
ここではこの鉛球の落下が「来る」と思ったら、通行人も二輪車の運転者同様脱兎のごとくキャンティーンへ逃げ込むのが普通。
この数年で市街地に限っては問題が解消されてきているが、この界隈を含む一部の郊外では、未だにアスファルトの車道も、舗装されていない歩道もすぐ大洪水になってしまう。
だから人々は、「来る!」と思ったら一秒を争う真剣さでその場から逃げるのだ。
いつどこでそれに遭遇するかは予測不可能だし、遭遇してもすぐに解放されるのがお約束だから誰も傘なぞ持ち歩かない。
それが、この場所で暮らす上での不文律。
――スコール。
もう十年ほどここで生活していて、こんな事には慣れっこになっている中学二年生の恩田宝は、誰もいない道端で一人、鉛玉の降って来る灰色の空をちらりと見上げた。
今は雨のためにびしょ濡れだが、宝は肩下までの髪をポニーテールにしてオーガンジーのリボンでとめ、少し大きめのクリア・バッグを左肩からさげてキャミワンピにミュールという格好。
その姿はまるで夏期休暇をどこかの避暑地で過ごしているような印象を与えそうだったが、宝にとっては別に特別ではなく、普通に通学途中のそれだった。
予想外の事態に遭遇した宝は気が変わり、キャンティーンでの朝食は諦めてこのまま素直に歩いて登校しようと思った。
しかし、絶妙な間合いで「ぐぅ~」とお腹が鳴った。
宝は灰色の空から自分のお腹へと視線を移し、一瞬だけ深刻に考え込むような表情になってから意を決し、全速力で目と鼻の先にあるキャンティーンを目指して走りだした。
『スコール』と呼ばれる、熱帯雨林地方特有のこの瞬間的集中豪雨には、ここにいれば年中無休でお目にかかれる。
北東季節風が吹く雨季のスコールは特に加減を知らない暴れん坊だ。
スコールに遭遇して五分も経過していないはずなのに、宝はシャワーを浴びた直後のように全身びしょ濡れだった。
十一月から三月くらいまでの雨季は、ここでは一年の中で涼しくて過ごしやすい季節だったが、それでも摂氏二十七度前後の気温なので、極端に冷房がきいている室内に居なければ、濡れていてもすぐに風邪をひくことは滅多にない。
そのままでもいずれ乾くのだが、宝はこれから軽く食事をしようと思ったので、鞄の中から取り出したタオルで髪や服を拭きながら、空いている席はないかと広いキャンティーン内を見回した。
荒れ狂う風と横殴りにもなる雨の音で近場の人の声も聞き取りにくい状況なのだが、居合わせている人々は何を気に留める事もなく、普段どおりに過ごしている。
雨季には乾季よりも、日に複数回スコールに遭遇する率が高くなるので、いちいち気にもならないのだろう。
駆け込んで来た人々は、振って沸いたBreak Time(休息時間)に得した気分で嬉しそうだ。
ここは一部地域では、現代においても『晴耕雨読』の精神が息づいているお国柄なので、午前八時前という中途半端な時間帯なのに、スコールのお陰でそこは、まるでお昼時のような人の多さと活気に包まれていた。
宝がわざわざ登校前に寄った『キャンティーン』と呼ばれる野外の大衆食堂には、大小様々な市場に隣接している小~中規模のものがあったり、HDB(高層公営住宅)の一階すべてがそれだったりと色んな形態がある。
場所によって微妙に違うが、中国・マレー・インド料理を含む数々の現地の料理が非常に安く、手軽に味わうことができるから、ここで暮らす人々にとっては、キャンティーンはなくてはならない場所だ。
早朝から深夜まで老若男女で賑わっていて、珍しく美味しい食事に巡りあえるこの場所は、宝のように日本食が基本となっている少女にとっても、とても重宝する場所だ。
更にここは、宝の通っている学校から徒歩十分くらいのところにある、市場に隣接した型(タイプ)のキャンティーン。
「Hey(ほら)! 小姐(お嬢ちゃん)! Here(ここ)! Here(ここ)!」
不意に、遠くから威勢のいい大きな声がした。
宝がそちらへ目を向けると、恰幅も良ければ人柄も良さそうなオバチャンが、満面の笑みを浮かべながら宝を見て手を振っていた。
ここが空いているよ、いや、むしろココに座りなさい……と、そのオバチャンは全身全霊で宝に訴えていた。
「Thanx(ありがとう)」
宝も笑顔で素直に頷き、オバチャンが確保してくれた席に腰を下ろした。
「Morning(おはよう)、 小姐(お嬢ちゃん)。Chicken Rice(チキン・ライス)?」
「Yah(そうね)」
「OK(じゃあ)。Wait Lah(ちょっと待ってて)」
「Yah(はぁ~い)」
注文が取れたオバチャンは、この上なく上機嫌で自分の店へと戻って行った。
キャンティーンは、どこもだだっ広い。
その広い敷地内に、何十という似たり寄ったりの食事を出す店がひしめいている。
基本的には、客が敷地内を歩きながら気に入った店先で注文して席まで持ってきてもらうのだが、人気がなかったり出店場所が悪かったりすると、店側が客の方まで注文を取りに出向いてくる。
気になる店も贔屓の店もなく、飯(ライス)でも麺(ミー)でもどちらでもよかった宝は、あっさりと相手が提示する「チキン・ライス」に応じたのだった。
ここで言う「チキン・ライス」は、日本の巷でよく見かけるケチャップご飯ではない。
鶏ガラのスープで炊いたタイ米に蒸した鶏を乗せ、チリ・ソースをかけて食べる。
結構な量に一人前のスープもついて、値段は日本円で三百円前後。
朝から胃に重たい食事ではあったが、宝は、ここで朝食を取るために前日の夕飯は軽めに、今朝は早起きをしてお腹を空かせておいたのだ。
「Hey(お待たせ)! 小姐(お嬢ちゃん)。$3(3ドルね)」
「Yah(はい)。Thanx(ありがとう)」
宝は料金を払い、オバチャンは満足げに宝から離れつつ、次の客を確保するために既に目を光らせ始めていた。
街なかにある高級レストランとは違い、キャンティーンでは必要最低限の単語と身振り手振りで気持ちよく意志の疎通がはかれる。
相手に対して失礼がないように、と心がけていれば、カタコトの外国語でもなんとかなるということが実感できて、自分なりの外国人との接触の仕方も見えてくる場所だ。
「いただきます」
宝は手を合わせながら小声で食前の挨拶をしてから、おもむろにスプーンを手に取り、チリ・ソースをたっぷりつけたチキンライスを口に運んだ。
タイ米は匂いがキツイと敬遠する日本人が多いが、鶏ガラのスープで炊いたタイ米だと独特の匂いはさほど気にならなくなる。
家庭でタイ米を好んで食する日本人の話は聞かないが、チキンライスは大好きだという人が、ここには沢山いる。宝も、その一人だ。
「おいしい……!」
宝は満面の笑みでチキンライスを味わう。
食べ物がおいしいと、それだけで宝はほんのり幸せになれるのだ。
これで親しい友達が同席してれば楽しくて言うことないのにな……、と少しばかり残念に思った時だった。
――カシャ
聞き慣れた、だけどこういった公共の場では絶対に耳にすることはないはずのカメラのシャッター音に、宝は怪訝な表情をして我が耳を疑った。
「……」
チキンライスを食べていた手が止まり、宝は首を傾げながら、今の音は「空耳」に違いないと自己暗示しかけたのだが……、そんな非現実的な事をしても後々面倒になるかもしれないと即座に思い直し、そのままシャッター音がした方向を辿るようにキツイまなざしで振り返った。
「――え? とお…る…?」
悪夢でも見ているような気分で半ば呆然としながら、宝は雨に濡れたままで佇むクラスメイト、上杉透の名を口にしていた。
「よっ! 朝からよく食うなぁ~。意外」
傘も持っていなければ鞄も持っておらず、ただ愛用のカメラが濡れないようしっかりと防水対策をしているだけの透は、TシャツにGパンという真夏によく見かけるような軽装で、くったくのない笑顔を宝に向けながら声をかけてきた。
「透……? なんで……?」
宝は我が目を疑った。
落ち着け自分……と己に言い聞かせながらも、狐につままれているような感覚から抜け出せずにいた。
「スコールが上がりそうだったからさ」
透は続ける。
「ガッコ行ったんだけど、綾と『最近の宝の話』になって、なんか興味わいたから、こっそり出て来たんだ」
「……え?」
「けど、スコールって『上がりそう』な時じゃダメだな。確かに雨足は弱くなってたけどさ。あ、スコール、普通の雨になりそうなカンジだぜ。今」
あー冷てぇ~、と、透は嘆きながら肩を竦めた。
「綾……?」
聞き流すことの出来ない名前を宝は厳しい声で問い返したのだが、透の耳には届いていないようだった。
「宝、ハンカチかタオル、持ってね?」
「あのね、先に質問したのはあたしなんだけど」
「ん? ……なんだっけ?」
「今、だれって?」
「……あ、綾?」
「そう!」
「……綾は綾だけど? 他に『綾』って名前のオンナ、いたっけ?」
「……そうじゃなくて」
「あ、違った?」
誰が見ても宝の表情も声音も怒っているのだが、透にはどこ吹く風だ。
「悪ぃ、悪ぃ。……それより、ハンカチかタオル ……ないならないで別にいいけどさ」
「……」
まったく……と、宝は相変わらず人の話をきちんと聞かずに自分の言いたいことを優先する透に腹が立って仕方なかった。が、ややあってから、ふと、こんな校外にいても、校内にいる時とまったく変わらず同じ調子で居る透に気が付いて心底驚いた。
どうして透は、校内にいる時と変わらない態度で、しかも自分からあたしに声なんてかけてきたのだろう?
――【同じ会社でもないし、取引先でもない】のに……。
「……」
自然な流れで真っ先にそう思った宝は、直後、激しく自己嫌悪に陥った。
自己嫌悪に陥ったついでに、『できることなら思い出したくもない』と思っていることを思い出してしまい、宝の気は更に滅入ることとなった。
大抵のクラスメイトや在校生は、校外にいると態度や雰囲気ががらりと変わる。
【よほど親しくない】人でないと、校外でばったり顔を合わせても思いきり他人の振りをするか、さりげなく方向転換して行ってしまう。
それは在籍の学年が替わろうと関係なくよく耳にする話だし、自身でもそういう経験を何度もしていたから、視界の隅でも見知った人物を学校外で確認すると、宝はいつも気が重くなった。
この先どうなるか身に染みているからといって、自分から自分の在り方の方向転換をするのは、なんだか「逃げている」ような感じがして悔しいからそれはしたくない。何も悪いことはしていないのだから、こそこそする必要も全くない。どこで出会ったにせよ……それが学校外であったとしても、堂々とすれ違えばいい。
理屈ではそうなのだが、学校内では見知った顔のはずの人物が、こちらの存在に気付いているのに目も合わせず、全身で他人の振りを強調しながら自分とすれ違うのは……一瞬の出来事とはいえ、宝にとっては胸が痛むし気分が悪い。
校内で見せてくれる明るい笑顔やざっくばらんな態度は一体なんなんだろう……そんな疑問が頭に浮かんで考え込んでしまう。
ところが。以前は誰にも言えずに悶々としていたそんな日常への疑問は、ある時、思わぬところであっさりと解けた。
数ある父親の仕事絡みの招待会(レセプション)で、偶然耳にしたのだ。
子供同士でも、父親の会社が一緒だったり取引先だったりしたら愛想良く仲良くするべきだ、と。たとえそれが本当に自分が親しみを感じている相手ではないとしてもそうするべきだ、と。学校外でも、そういう相手とだけは親しくするべきだ、と。
言われてみれば、納得だった。
子供同士が親しくなれば、家族ぐるみでのつきあいも始まる。そこから仕事に結びつくこともあるだろう。ここでは家族でそれを視野に入れながら生活をしているのだ。
言い換えれば、ここでの生活や在りかたとして、人はみな人格云々で友達を見ているのではなく、その子の父親はどこの会社の人間か……で相手を見、人付き合いをしているのだ。
……親子で。
最低だ、と宝は思った。
損得勘定で人間を判断する連中と自分は一緒にされたくない。
そう強く思った宝は、その時から校外で友人・知人に遭遇しても、相手を分け隔てる事なく徹底無視することにしたのだ。
月日が流れるうちに、徹底無視するきっかけとなった出来事や「最低だ」と嫌悪した感情は忘れてしまっていた。
ただ、自分は違うけれど、新参者や古株の区別はなく、ここでは校外で見知った人間に遭遇してしまった場合は、身内の会社関係や取引先の関係者でない限り、他人の振りをするのが礼儀作法(マナー)なのだと勝手に思い込んでいた。
だけど。よくよく考えてみると、相手が誰であれ、挨拶されて気分を害することは……、まずない。
今だって最初は物凄く驚いたけれど、少し時間が経つにつれ、ほのかに嬉しく感じていたのだから――。
「知り合いに声かけてもらえるって、気持ちがあったかくなる……」
「――あ?」
「――っ! なんでもない!」
無意識で思ったことをしみじみ口にしてしまった宝は、慌ててぶっきらぼうに返してしまった。
唐突で脈絡のない言葉だったので、透はよく意味が解からずに首を傾げたが、宝が無言でそれ以上の言及を拒絶していたから、肩を竦めただけにとどめた。
「どうでもいいけどさ、宝、ハンカチかタオル……、持ってねーの?」
「あ……」
そうだった……、と宝はタオルを取り出そうと足元に置いてあった鞄に手をかけたが、――やめた。
ハンカチもタオルも持っているのだから、ずぶ濡れの人間を前に知らん顔をするのは良心が痛む。
しかし、宝が透に何かしてあげることの不自然さを思えば、知らん顔をする方が自然な流れなのだ。そうやって今まで接してきたのだから、いきなり態度を変えることなど宝にはできなかった。
「……」
宝は鞄を膝の上に置き直して憮然とした面持ちになった。
「……」
やれやれ……、と透は軽く溜息をこぼした。
「隣、座るぜ―?」
非友好的な空気を濃厚に醸し出しているのを感じていないはずがないだろうに、それでも透は平然と宝の隣に腰をおろした。
透はいつだって自分の速度で物事を進めていく。
誰が何と言ったって、自分がやりたいと思えばやり遂げるのだ。だから、隣に座るなと言っても、きっと不毛な言い争いになる。時間も体力も無駄にするのをわかっているから、宝も何も言わない。あさっての方向を見ながら、透がこの場から立ち去るのを待つだけだ。
――トン。
何かがテーブルの上に乗った小気味良い音を聞いて、宝は急に思い出した。
テーブルに置かれたカメラから透の方へ視線を向け、取調べでもするかのように透に詰問した。
「……あたしを……撮ったの?」
「撮ったよ」
透はあっけらかんと即答した。
その能天気さに、宝は更にムッとした。
「なんでっ?」
「ん? 撮りたかったから」
「あのねぇ――」
校外で許可なく黙って撮るのはプライバシーの侵害じゃないのっ? っていうか、校外では許可なしに撮らないって言ってたわよねっ?
……と一気に捲くし立てようとした宝の口に、透は間髪入れずにチキンライスをスプーンで山盛りすくって突っ込んだ。
「!」
宝は驚き、動揺し、固まってしまったが、透が笑顔でスプーンを宝の口から引き抜いたので、とりあえず、透から視線を逸らして再び憮然としながらチキンライスを食べることにした。
透は、四六時中カメラをぶらさげてシャッター・チャンスを逃すまいと目を光らせている、『よくいる写真好き』とは微妙に違っていた。
彼の場合は、撮りたいと思った時にだけおもむろにカメラを取り出して撮る、という、他ではあまり見かけないタイプの写真好きだ。
プロを目指しているわけではないそうで、撮った写真の出来栄えにも頓着していない。
誰かに撮ってくれと頼まれても自分が撮りたいと思わなければ撮らない。
早い段階から透はそういうヤツだと周囲からも暗黙の了解で認識されているので、自分の知らないところで写真を撮られていても誰も文句は言わない。
文句を言うどころか、彼は彼が撮った校内での何気ない風景や人物の写真を全て皆に公開するので、そこに良い写真があれば自分が写っていようといまいと、誰もがお構いなく気軽に焼き増しを頼んでしまう、という有り様だ。そういう意味ではプロのカメラマンのようでもある。
焼き増しを頼む人々の中には、基本的に宝も含まれていた。
当たり前すぎてなんの感慨もない日常なのに、透によって切り取られた瞬間となると、驚くくらいに新鮮で愛しく感じられるからだ。
ここでの中学生の毎日は、とにかく忙しい。
目まぐるしく変化する人間関係に、恋愛感情に、学習内容に置いていかれないよう、気になる事柄だけに全神経を集中せざるを得ない。それはある意味『盲目的に』、だ。
だからだろうか。客観的とも言える透の撮る自分や、友達や、好きな人の意外な表情には誰もが関心を抱き、その写真を皆、手元に残しておきたいと思うのだ。『自分は間違いなくここで、この学校で過ごしていた』、という、確かな楽しい記録として……。おそらく皆そうなのだろう。
だが宝にとってのそれは、『校内にいる時、限定』だった。
口いっぱいに放り込まれたチキンライスをきちんと咀嚼し終えた宝は、今度こそきちんと抗議しようと息を整えて視線を透に戻し、その顔を睨みつけた。が……待ってましたといわんばかりの間合いで、透が半瞬早く言葉を口にした。
「心の底から美味そうに食べてるこの無邪気な表情が【本当の宝】なんだろうなー」
「は?」
「カワイイじゃーん、って思えたから、撮ったんだ」
「……なにそれ」
透の言葉の意味が解からずに、宝は怪訝そうに眉を寄せた。
透は宝の目を見ながら話を続けた。
「何がきっかけで、『プライバシーの侵害』とか『ストーカー』とか言われるかわかんねーじゃん? だからオレは基本的に校外では友人・知人・顔見知りを問わず、人は撮らない。そう公言してる。面倒は御免だから。けどそれは、あくまで『基本的』になんだよ。オレが撮りたいって思ったら、撮る。勿論、撮ったことは本人にも言うさ。それが礼儀ってヤツだからな」
「……何をご立派な感じに言ってるの? 本人に言えばいいってモンでもないでしょ?」
「そうか? 『天狗』になってる訳じゃないけどさ、オレにふとした瞬間撮られて嫌がるのは、学年を問わずに宝だけだぜ?」
「……」
意外な指摘に、宝は言葉に詰まった。
人当たりの良い、でもどこか鋭さを秘めたまなざしをまっすぐに向けながら、透はいつになく挑発的な口調で尋ねてきた。
「撮られるの……なんで嫌なのか、自分でわかって嫌ってる?」
「……」
さぁ? と宝は首を傾げた。
そんなこと、考えたことない。
ただ、隠し撮りされる事がたまらなく嫌なのだ。
隠し撮りではなくとも、クラスの集合写真を始め、遠足や課外授業等で撮られるスナップ写真も苦手だ。
……理由なんて知らない。
嫌なものは、嫌。
ただ、それだけ……。
「宝が、知らないところで写真を撮られるの嫌なのは、素の自分が映し出されるからだよ」
「……は?」
「たぶん……いや、間違いなく」
宝はきょとんとし、まじまじと透を見つめた。
「綾と二人だけで話したり遊んだりしてる時は違うんだけど、校内の……クラスにいる時の宝って、基本的に誰彼構わずに無言で威嚇しまくりだし、みんなと一緒に笑ってても目は笑ってなくて怖いし、どこか棘がある物言いだったりして、表情も雰囲気もヤな女で最悪なの、気付いてる?」
「――っ!」
宝は息を飲んだ。
「……気付いてるんだ」
「……」
宝は透から視線を逸らした。
「気付いてて、敢えてそうしてるわけか……」
「……」
宝は何も言わない。
完璧な無表情を保とうと内心必死になっていた。
透は気持ち悲しそうに肩を落とした。
「……主観(セルフ・イメージ)と客観(パブリック・イメージ)あるだろ? 宝はふだん客観(パブリック・イメージ)に比重を置いてるから、無意識の素の表情を撮られてみんなに見られるのが嫌なんだよ。……違う?」
「――っ!」
再び、宝は息を飲んだ。
透の指摘が、見事に的を射ているように感じたからだ。
別に悪意があって大勢のクラスメイトにそういう態度を取っているわけではないのだが、事情はともかく、宝は『クラス内での自分』を冷静に自覚していたから、時と場合によっては、周囲に感じられている『自分のイメージ像』を演じている部分さえあった。
そんなことなんて絶対誰にも悟られていない……と自負していただけに、透にはそれを見透かされていたということが、宝にとっては計り知れないほどの衝撃だった。
写真が嫌いな理由も、まさに今そう言われて、そうなのだと気付いたことが宝には悔しかった。
自分自身のことなのに、自分では何も解かっていなかっただなんて……悔しくて恥ずかしくて、とても許せない気持ちになった。
その怒りは自分に対してのものなのか、それとも自分を見透かしていた透に対してのものなのか宝にも漠然としてよくわからなかったけれど、とにかく今は怒りと羞恥とやりきれなさに潰されそうで、ただ声を荒げることしかできなかった。
「知った風なこと言わないでよっ! 透には関係ないことじゃない!」
「関係あるだろがー」
激昂したかのような宝に対し、透はどこまでも落ち着いた様子でいた。
「オレと宝、同じクラスだろ。今の宝、このままじゃ、遅かれ早かれ、クラス内で孤立するぜ。そういうの見えてて、見て見ぬ振りできるほど性格悪くないんだわ。オレ」
「……」
「宝の態度、アイツらもカチンとくること多いと思う。端から見てても『実は不快だったんだろーなー』なんて思ったり。それは感じる。今までは宝の陰口とかは聞いた事ないけど、何がきっかけで騒ぎになるか分から……」
「――だから、そんなこと、透には関係ないじゃない! あたしがクラスでどうなろうと、それはあたし自身の問題なんだから……余計なお世話よ!」
はぁ~、と透は大きく溜息をついた。
「どうして宝はそう刺々しく物言うかな? 特に最近ほんと容赦ないよな。ま、オレに対してはずっとそんなだから今更ショックもないけどさ。けど……実はなんかあったりする?」
「……なによそれ?」
「別に言いたくないならオレも聞かないけどさ……」
「……」
「綾も心配してたから」
「――綾?」
また透の口から『綾』の名前が出てきたので、宝は怪訝な表情になった。
いつから、ふたりはそんなに親しくなったのだろう?
綾から透の話なんて聞いたことがない。
綾が誰と懇意にしていようとそれは綾の勝手なので全然構わないけれど、綾本人から何も聞かされていないとなると、なんだか淋しい気持ちになる。
しかし、親しい間柄とはいえ、宝は自分に関することを綾に包み隠さず全て打ち明けていたわけではないので、綾が同様でも文句は言えない。だから「淋しい」なんて思うのはお門違いなのかもしれないけれど……宝の胸が痛んだのは事実だった。
「あぁ。たまたま今朝、世間話的に綾と話してたんだけどさ。毎年この時季になると、季節柄なのか単なるストレスの解消なのか、宝は現地料理(ローカル・フード)を片っ端から極めようとするから、体重の増加と宝の体調が心配だ……って言ってた」
「――綾っ……」
宝は何故か気が抜けて脱力してしまった。
「オレ、綾が宝を気にかけたり心配になる気持ち、わかった気がした」
「え……?」
「もったいないもんな」
「……?」
「あんなに無邪気で無防備で、ある意味、年齢(とし)相応のカワイイ笑顔を自然と出してメシ食えるのに。クラスじゃそのカケラも見せないんだからさ。『壁』、なんて作る必要ないのに。」
「――っ」
「そりゃ一癖も二癖もあるヤツだらけだけどさ、ここ。みんな根は悪党じゃなさそうだし、そう徹底して距離置かなくても――」
ガチャン!とテーブルが叩かれる音がした。
「だから余計なお世話だって言ってるでしょっ!」
周囲が何事かと注目してしまったくらいの大きな声で、椅子から立ち上がった宝は透の言葉を遮るように一喝した。
透は驚きとカメラがグラッとなったことへの怒りを抑えるような様子で宝に返す。
「…………なんでさっきからそう人の言葉をぶったぎっ……」
「ぶったぎるのは透の得意技でしょ!」
「はあ? 得意技ってなんだよ? オレはぶったぎった挙句、そんな、いきなり大声出して怒鳴ったり――」
「えらそーにしないでよっ」
「偉そう? オレが何したってんだよっ!」
さすがに透もカチンときたらしく、カメラは椅子の方へ避けながらも、がん、とテーブルの板面を叩きながら宝に負けず劣らずの大声で言い返した。
売り言葉に買い言葉のやり取りが始まった。
「えらそーに説教たれてたでしょうがっ!」
「説教なんかじゃねーよ!」
「だったら何、哀れみ?」
「だから、どーしてそうひねくれた感じで噛みついてくるんだよ! 少しくらい綾以外のヤツの話にも耳傾けろよ!」
「だからそれが余計なお世話だって言ってんの! いちいち綾の名前出さないでよ! 彼女は関係ないでしょ!」
「関係なくねーだろ!」
「関係ないでしょ! それともなに? 綾に頼まれたからわざわざこんな所に出向いてきたわけ?」
「そんなんじゃねーよ! それこそ、綾は関係ねぇ!」
「だったら――」
「Hey(はいはい)! 小子(少年)! Chicken Rice(チキン・ライス)?」
「……」
「……」
宝と透は、睨み合いと怒鳴り合いの中に割って入ってきた陽気な女性の声に虚をつかれた。
二人とも数秒遅れて声のした方を向くと、そこに立っていたのは宝に注文を取りにきたオバチャンだった。
言葉の意味は解からなくても外国人が(それが子供であれ)怒鳴り合いをしていれば、とばっちりを恐れて近寄りがたいと思うのだが……彼女は笑顔でチキンライスを勧めに来ていた。
「$3(3ドルだけど)」
「……Sorry(すみません)」
透は女性に言った。ここがキャンティーンという公共の場であったことを思い出した透は、怒鳴り合いを繰り広げてしまったことにばつの悪い思いをしていた。
ついでに、長居している場合でもないことを思い出し、時計を見た。
「I have no time(時間がないもんで……)」
「OK(そう)。See You(じゃあ、またね)」
女性(オバチャン)はそう言ってあっさりと宝たちのテーブルから去った。
「……」
「……」
どうしようもなく気まずい空気に居たたまれなくなった宝は、透を置いて立ち上がった。
「……宝?」
「ごちそうさま」
「え?」
戸惑う透に見向きもせず、宝は歩き出した。
透は慌てながら真剣に叫んだ。
「おい! 宝! チキンライス! 残しすぎ! もったいねーぞ?」
「……」
「……食うぞ? 食っちまうぞ? 後でこの分請求してくんなよ?」
「……馬鹿」
振り返らずに小さく呟きながら、宝は足早でキャンティーンを後にした。
「あ……」
透が言っていたように、外はスコールから小雨に変わっていた。
霧吹きを使ったような細やかな雨はさっきまでの鉛玉とは違ってあたたかく、とてもやわらかかった。
その優しい天からの恵みのような雨に包まれながら登校するのも宝は好きだった。普段ならそうやって歩いて登校するのだが、今朝の場合、ここで徒歩なり早歩きで登校すると、透に追いつかれそうな気がしたので、宝はタクシーを拾うことにした。
透に追いつかれるのも嫌だったが、それ以上に、透と二人で並んで登校している姿を誰かに見られることは何があっても避けたかった。色々と後々面倒臭いことになると思ったからだ。
そんな危惧のような懸念のような思いもあった宝は、敢えて学校から遠ざかる方向へ歩きながら、タクシーを拾うことにした。
運良くタクシーはすぐに拾えた。
目と鼻の先である学校へ送り届けて貰うのは申し訳なくて気が引けたが、「日本人は朝も午後も学校があって大変だ!」と宝が遅刻しそうだと思ったらしい運転手は、日本人の少女に同情してなのか、法定速度を全く無視して車を走らせてくれた。
宝は運転手のその言葉に曖昧な微笑を浮かべただけで、すぐに窓の外へと視線を移す。
現地の学校は、午前の部と午後の部に分かれている。
どちらか一方を選択すればいいのだから、さぞかし一日が有意義に過ごせるだろうと思われがちだが、二部制には過酷な事情が隠されている。
現地の勉強は全分野においてとても厳しく、小学校4年生と6年生の終了時の大規模な試験の結果で、その人の人生が決まると言っても過言ではない。試験の結果によって中学校から先は能力別のクラスに分けられたままに進級・進学をしていくので、途中、どれだけ成績が伸びようとも絶対に上のクラスには入れてもらえない。
最初が肝心なのだ。
だから、現地の子共たちは午前か午後は学校へ行きながら、学校のない午前か午後のどちらかの時間には家庭教師に来てもらうなどして更に勉強をする。
小学校の時点で成績の良い生徒は、そのまま『選ばれた優秀な人(エリート)』として、より高度で充実した環境で学業に専念していける制度(システム)なのだ。
とはいえ、全員が全員激戦を勝ち抜きたいと思っているわけでもない。
家の事情や、国民性、宗教の違いなどから、学業に重きをおかない家庭もある。
そういう家庭の子は、学校が終わればキャンティーンや市場で働いたり、新聞配達をしたり、生きていく上での必要なことや大切なことを体で覚えていく。
どちらを選んでも、現地の子供達は一瞬一瞬をとても大事にしていて、無理なく楽しそうに完全燃焼している。
宝の目に、現地の子供たちはそんな風に映っていた。
去年。たった二週間だったけれど(日本人学校ではない)、現地の学校で生活をしてみた時の様々な異文化交流の日々が、昨日のことのように鮮明に思い出される。
同じ中学生なのに……。
自分達と似た環境の子もいるだろうに……。
国民性の違いなのだろうか……。
なまじここで十年ほど生活しているのもあって、宝はどうしても何かにつけて比較してしまうクセがついていた。
日本。
ここ。
日本人。
ここの人たち。
在り方。
思い方。
ただ比較して滅入るだけでは意味がないと頭では理解しているのだけれど、だったらどうすれば比較しても滅入らず、胸を張って日々を過ごせるようになるのかと思うと……わからなかった。
わからないので、極力考えないようにしているのだ。
「……」
宝は、窓の外の見慣れた景色を視界に映しながら小さく溜息をこぼした。
運転手が法定速度を無視して飛ばしてくれたおかげで、タクシーは乗車してからものの数分で、学校に到着するところまで来ていた。
――朝も午後も学校があって大変だ!
先程の運転手の言葉が、宝のアタマから離れない。まったくもってその通りだからだ。
学校の人間関係は宝にとって、毎日毎日飽きもせずに、朝から夕方まで繰り広げられる『キツネとタヌキの化かし合い』。
特にこの雨季の間は酷いので、見るのも聞くのも関わるのも嫌で仕方ない。だったらさっさと見切りをつけて登校拒否でもすればいいのだが……踏み切れない。
車が止まった。
何かにつけどっちつかずの中途半端な自分を情けなく思いながら、宝は当たり障りのない笑顔で料金を払って礼を言い、タクシーを降りる。
腕時計で時間を確認すると、まだ十五分ほど朝休みが残っていた。
*
スクール・バスの出口も兼ねている正門から校舎に入ると、入ってすぐのところがバスの待合所になっていて、そこにはバス通学の友達を待っている生徒たちが、それぞれベンチに座っていたり植え込みの囲いの端に腰掛けていたり地べたに座ったりしてくつろいでいた。
「あ。おはよ~。宝~」
人の波を縫うようにして足早に下駄箱へ向かっていた宝に、同じクラスになったことはないけれど、文化祭だか体育祭がきっかけで顔見知りになった女子生徒が、朝の挨拶をしてきた。
声のした方へ視線を移すと、ノートを片手にベンチに座っている女子生徒が三人いた。
「おはよ。朝からテスト?」
よそいきの笑顔と声音で、宝は彼女たちの方へ方向転換をした。
「そうなんだよ~」
悲壮な表情の三人は、うんざりとした表情も付け加えながら頷いた。
「3組は知らないけど、うちら1組は、今日なんだよー 例の『常識テスト』!」
「あ…そうなんだ」
三人に言われるまで忘れていた。……そういえば3組はいつだっけ? と宝は慌てて自分のクラスの予定を思い出そうとしたが、ぱっと思い出せない。後で綾に訊いて予定を確認しておかないと……と思いながら、宝は三人の言うことに話を合わせる。
『常識テスト』というのは、読んで字のごとく、ある事柄についてどれだけの常識があるのかを試されるテストのことで、9割以上の点数を取らないと、追試ではなく、課外授業への強制参加とレポート提出、ということになる。
全学年、学期ごとに行われるのだが、いつ行うのかはクラス担任の自由で、内容は、『この国について』と統一されている。
「そうなんだよぉ~! 担任ごとに出題するとこが違うし、全クラス終わるまで問題用紙も返してくれないから情報収集もできないし、一年や三年に訊くのも意味あるようでないし、ほんと、面倒でウザい~」
「べつにうちらココに永住するわけでもないんだからさー、こんなの覚えなくてもいいと思わない?」
「ねーっ!」
「一年に一回ならまだ妥協するけどさ~、学期ごとっての、やめてほしいよね~」
「ほんとだよ~」
三人は、本当にイヤそうだ。
「………」
無表情を装いながら、宝は内心では深く深くため息をこぼしていた。
価値観の違う人間とは話にならないことを、経験上、身に染みて知っているからだ。
立場や価値観の違う相手にムキになっても時間と体力の無駄……と思った宝は、いかにして自然にこの場を立ち去ろうかと、ぼんやりと、しかし真剣に考え始めていた。
宝が一言たりとも同意せず、さりげなく視線を逸らしたことを見逃さなかった者が三人の中に一人だけいた。
その一人は、宝のその様子を快く思わなかった。
「宝はいいよねー。小学校からココだもん。どんな問題出されても、楽勝じゃん? いいなー。十年もいる人と一年そこらのヤツに同じ問題出すこと自体、あり得ないって」
本気でそう思っていることが伝わって来る言い方に、宝は条件反射でカチンときた。
日頃、校内でしか接触しない顔見知りとは、波風立てずに当たり障りなくその場をやりすごすようにしているのだが、この朝の宝にとっては聞き捨てならないことを口にされたような気がして、宝の内心は思わず熱くなっていた。
きついまなざしで三人を見据え、宝は腹の底から声を出していた。
「滞在年数なんて、関係ない。たとえ、まだココに来て一週間でも、興味と関心とこれからお世話になるっていう謙虚な気持ちがあれば、最低限のことくらいすんなりと記憶できるから。……っていうか、学期ごとにこんなテストされなきゃならない状況を恥ずかしいと思って反省するべきなんじゃないの? 文句ばっか言う前に」
宝の言い方には三人もカチンときたようで、和やかだったその場の空気が一気に険悪なそれへと変わった。
「うちら、宝と違って、好きでココに来てるわけじゃないから」
「―――っ! あたしだって―――っ」
「そうそう。十年もこんななんもないトコに住んでられないもんね。興味も関心もなければ、『お世話になる』なんて謙虚な気持ちなんてまったくもってないし」
「………」
「一年に三回、十年で三十回、似たようなテストやってれば、そりゃ、全部覚えちゃうよね~」
「……『常識テスト』が始まったのって、ここ二~三年なんだけど」
「ていうか、毎度、合格しなかったら、恥だよねーっ。むしろ、満点合格で普通なんじゃない? 今学期も、よゆーで満点合格っしょ?」
「………」
宝は、苦虫を噛み潰したような表情になった。
そうなのだ。
滞在年数が長ければ長いほど、周囲はそういう目でしか人を見ない。
だから宝は、そういう周囲に馬鹿にされないよう、卑屈にならないようにと、心がけて生活をしている。
『普通に生活していれば』満点合格も決して無理なことではないのだが、それがわからない生徒が多いから、こんなテストが行われるようになったのだ。たぶん。
「……」
「……」
不毛な睨み合いは、そう長くは続かなかった。
「……シンガポールの位置と面積は?」
一人が、ノートに目を落としながら挑発的にそう尋ねてきたのだ。
宝は、必要以上に余裕たっぷりな微笑を浮かべながらその挑戦に応じる。
ついでに、社会科の資料集や観光本(ガイド・ブック)に掲載されているような言葉をわざと選んでみた。
「……赤道に近い位置にある島国。本島と周辺に点在する五十くらいの小島からなっていて、日本の淡路島程度の面積」
「……気候は?」
「高温多湿な熱帯雨林。周囲を海に囲まれた島国だから、熱帯だけど過ごしやすい。年間を通じて雨が多いから、湿度が高い。乾季と雨季に分かれる」
「共通語は?」
「多民族国家だから、英語、中国語、マレー語、タミール語の四つが共通語」
「シンガポールと日本の関係は?」
「一八七九年に日本の領事館が開設されたところから始まり、第二次世界大戦で日本はシンガポールを占領し、傍若無人で極悪非道な行いをしたことで戦後、星日関係は一から出直すことになったけれど、勢いを失わない日本企業の進出に対し、経済面におけるシンガポールの対日期待は今も大きい」
「シンガポールでのお正月は、年に何回?」
「4回。一月一日の正月(ニュー・イヤー)、中国正月、マレー正月、ヒンドゥー正月。他にも、シンガポールは各民族の伝統を守る年中行事が多い」
「……シンガポールで気をつけなければならないことは?」
「喫煙。ゴミのポイ捨て。ツバの吐き捨て。歩行者の横断禁止区域での道路横断。エレベーターの中での立小便。過激な暴力シーン、セックスシーンが入ってる映像・本などの所持。トイレの水を流さないこと……など。見つかると、罰金。悪質だと、鞭打ちの刑」
「………シンガポールの建設者と呼ばれているのは?」
「スタンフォード・ラッフルズ。一八一九年一月二十九日にシンガポールに上陸して、自由港宣言をし、一八二四年、イギリスの植民地に確定」
「………」
「………」
他は? もう終わり? と、宝は言外に三人に圧力(プレッシャー)をかけ、三人は三人で悔しそうに唇を噛みながら宝を睨んでいる。
やがて、三人のうちの一人が大きなため息をこぼした。
「……なんか、虚しい」
うん……、と残りの二人も同じようにうなだれた。
「勝てるわけ、ないじゃん……。十年と一年の差は、埋まらないよ……。埋められるわけがないよ……」
違うのに……と、宝は声に出さずに呟いた。
「だよね……。なんでこんな不公平なこと、やるんだろ……意味、わかんない」
全然、不公平なんかじゃないのに……。
どれだけ丁寧に説明しても、どんなに熱く語っても理解はしてもらえないだろうから、宝は無表情を装う。
「行こっか……」
「そだね。テスト受けるの、うちらだし……。時間、もったいないし……」
「じゃあね、宝……」
「んん……」
すっかり気落ちしてしまった三人は、がっくりと肩を落としながら荷物をまとめ、足取り重くバスの待合所を後にした。
「……」
三人を見るとはなしに見送りながら、宝も胸中複雑だった。
いつから、自分はこんなにしっかりとシンガポールに関する基礎知識を特に思い出すこともせずに言えるようになっていたのだろうか……。
定期テスト前のように、必死になって記憶した覚えはない。
日常生活の中で、自然と覚えてしまったとしか思えない。
日常生活―――。
思い出しかけて、宝はそっと首を横に振った。
学校にいる間は、皆と同じでいたい。
うん、と宝は頷き、気を取り直して足取り軽く自分の教室へと向かった。
(2)
「モーニン! タカーラ!」
宝が後ろの扉から教室に入ると、どこからともなく外国人丸出しの発音で陽気に朝の挨拶をされた。
「……」
それがまた必要以上に大きい声なのでげんなりしてしまう。
なまじ素敵で完璧な発音だから、場違いすぎて恥ずかしいのだ。
宝は教室に入った途端に自分の名を呼んだ親友の姿を、朝休み特有の喧噪の中に探し求めた。
親友は、教卓のところで数人と歓談中だった。
それでも親友はずっと宝を見ていたらしく、探し当てた宝と目が合うとにっこりと微笑んだ。
「タカーラ! Come on(おいで)!」
教室内の喧噪を飛び越えて来るかのような大声で再び名前を呼ばれたが、まだ英語発音で呼ぶので、宝はそちらに向かって【あっかんべ】をしてやった。すると、親友は上品に笑いながら宝の前の席まで出張してきた。
「改めて、お・は・よ! 宝」
片言の日本語ではなく、日本人の日本語で親友は話しかけてくる。
ゆるやかに波打つ長い髪をバンダナでひとつに束ねている親友は、紐つきオフショルニットに白パンツ姿ととても夏らしいいでたちをしている。
ぱっと見ただけで彼女が中学生だと思う人はまずいないだろうが、それがしっくりと似合っているので教師たちは文句を言わない。
一般常識を基準に『学生らしい言動と服装を』だけが校則なので、男女ともにおシャレな生徒は感嘆するくらいに着こなし上手だ。
俄かには信じられない校則を臆することなく掲げ、また生徒もそれを破らずに有効活用しているここは、シンガポール日本人学校中学部。
単身の留学生はおらず、全員、親のシンガポール赴任に伴い来星(らいせい)……シンガポールへと居を移し、会社の辞令ひとつで次の赴任地へ赴くか帰国させられる境遇にいる。
シンガポール日本人学校の歴史は古く、一九一二年(大正元年)十一月三日に児童数二十六名で始まった。
日本人が経営する東洋ホテルを借りての寺子屋のようなものであったが、有志の力によって、そこで教えられているものは日本国内の教育とまったく変わらぬ内容になっていた。
仮住まいから出発した日本人学校は、転々と場所を変えながら独立校舎建築のために八方奔走し、一九二〇年に独立の新校舎が完成。
その後、日中戦や第二次世界大戦などの紆余曲折を経て、一九八四年、児童数が二千名を越したのをきっかけに、小学部と中学部を分けることにし、中学部は現在の地に移ったのだ。
中学部は校舎独立後も生徒数がうなぎのぼりに増え続けたが、ここ数年、あからさまに流れが変わってきている。
何がどう変わってきているのか、現地にいる子供達にとって詳細はわからない。
子供達は学校に関わり、自分たちに関わる周囲の大人達の醸し出すあまりよろしくない空気を、敏感に感じ取っていた。
何かにつけて見て見ぬ振りをするのが日常化している校内で、今日もなにやら奥歯にものが挟まっているような感じのする生徒同士の雑談が、至るところで繰り広げられている。
言いたいことがあるならはっきりと言えばいいと思う宝は、この、相手の出方を探りながら進めていく会話が嫌いで、クラスや学校にずっと馴染めずにいた。それは親友も同じらしく、宝が登校して来たのを確かめたらすぐに宝のもとへと飛んできた。
着こなし上手な親友を今日もステキだと思いながら、宝はわざとスネた表情をして親友に苦情を申し立てた。
「頼むから、呼ぶなら普通に呼んでって。綾! ここ、学校なんだから……」
「普通に呼んでるけど?」
綾、と呼ばれた親友は、茶目っ気たっぷりにウインクした。
「それは、except日本人の場合でしょ」
宝は綾を軽く睨みつけた。
「だって、ほんとに、笑えるくらいに呼びやすいんだもの」
綾は、人好きのする笑顔を浮かべた。
「普通、思わないよ? 子供が外人と接触した時に、呼びやすい名前にしようなんて。『takara』って全部『a』だから、読みやすいし呼びやすいのよね」
くすっ、と綾は憮然としている宝へ微笑みかけた。
綾の言う通りだった。
いくら長期海外赴任が珍しくない仕事柄とはいえ、必ずしも子供までが両親並に外国人と接触するとは限らない。それなのに、両親はそんな狙いを定めて命名したのだ。
宝、という名前は珍しいらしい。
三人に一人は由来を聞いてくるので正直に答えている。だが、何故か綾だけはいつまでも面白がって、暇さえあれば流暢な本場の英語発音で宝の名を呼ぶ。
その呼ばれ方がどうしても嫌だというわけではないが、そういう発音で呼ばれ続けると、終わりの見えない自分の現実を「これでもか」と突きつけられているかのような気持ちになってしまって、宝は気が滅入ってくるのだ。
ふぅ~、と大きく息を吐き出した宝を、綾は無視しなかった。
長い年月をかけて少しずつ素直に喜怒哀楽を綾に見せるようになった宝。
微妙な表情の変化や細かな目の輝きの加減を見ながら宝を茶化すようにしている綾。
ふたりは今では気心の知れた仲で、お互い決して短くはない年月を共にしてきている。
「それはさておき」
見る人が見ればかなりの確率でフィリピン人とのハーフだとわかる顔立ちの綾は、必要以上に好奇心に満ちた表情で宝に顔を近づけ、周囲を軽く見回してから声を落として囁くように言った。
「今朝は何を食べたの?」
「チキンライス、1/3」
「サンブンノイチ?」
綾はすっとんきょうな声を上げた。
「……ああ、スコールに遭遇したから、いつもより混雑してて出て来るのが遅かったんだ?」
宝は少々ムッとしながらはっきりと言った。
「違うわよ」
「違う? Why(なんで)?」
「邪魔が入ったからよ」
「……Disturb(邪魔)?」
「透」
「I see(あ~、はいはい)……。But(けど)、邪魔って……」
綾は苦笑いした。
「邪魔よ! ……わかんないこと捲くし立ててくるから、こっちも思わず熱くなって周りのヒンシュク買って恥ずかしかったもん。チキンライスも食べ切れなかったし!」
宝は、透に写真を撮られたことを綾に話そうかどうか迷ったが、今はやめておくことにした。
いずれは綾にも話すだろうが、今しばらくは誰にも知られたくないと強く思ったからだ。
「なに? 宝たち、キャンティーンで怒鳴りあいしてきたわけ?」
「そう」
「そりゃ、ヒンシュク買うよね~」
「……」
「キャンティーンは美味しく楽しく食事するとこなんだから」
「……」
宝はばつが悪そうに唇を尖らせた。
「透もバカよね……。宝と顔を合わせたら、宝の神経逆撫ですることばかり口にするんだから……。もっと言葉を選べば展開も変わるでしょうに……」
「……」
「宝も宝で、何故か透にだけは容赦ないんだから……。時々、透が可哀相に思えてくるわよ?」
「……」
ぷいっ、と宝はそっぽを向いた。
どう反応したらいいのか判らなかったからだ。
「透がキライなら、徹底無視でもして、関わらなければいいのに」
「別にあたしは……透のことが嫌いなわけじゃ……ない……し」
「じゃあ、好きなの? 好きだと認めるの?」
「…………」
宝は綾から視線を逸らしたまま、唇を噛んでせつなそうな表情になった。
「……はっきりしないのね。相変わらず」
綾は、やるせなさそうな表情だ。
「……好きか嫌いか、白黒はっきりさせなきゃイケナイことなのかな?」
ぼそっと言う宝に、綾はムッとしてぴしゃりと言った。
「当たり前でしょう! なに甘ったれた無知なコドモみたいなことを言ってるのよ!」
「……」
「その気もないのに思わせぶりな態度で接してたら、蛇の生殺しでしょ? ついでに、時間の浪費。これが、アイドルとか、まず手の届かない相手に恋してて、相手の反応がなくてもあれこれ行動に移す自己満足型の時間の浪費なら楽しい思い出になるんでしょうけど……透の場合は違うでしょ? 宝の言動に一喜一憂して、宝から離れられない状況にいるの、わからない?」
「……」
「お呼びじゃないなら、さっさと引導渡すのが最初で最後の、最大限の優しさでしょ?」
「……」
「少しでも透の存在が気になるなら、一歩踏み込んでみればいいじゃない! その後、どうなるかなんて、考えるだけ無駄よ? 何事も、なるようにしかならないんだから」
綾は泣きそうになっている宝の頬を両手で掴み、ゆっくりと自分の方へと向かせた。
「いい? 宝。考え方や価値観、性格の違いもあるから、私は宝に自分の意見を押し付けたり無理強いする気はないからね。そこ、ちゃんと理解してよ? なんのかんので、宝が考えて決めたことなら、それが最良(ベスト)なんだからね!」
「……ありがとう」
「ただ、参考までに私だったら……って話をすると、私なら、その瞬間その瞬間の自分の気持ちを最優先するわ。誰になんと言われようと、私の人生だもの。やらないで後悔するより、やれるだけのことをやった上での後悔の方が後味マシだもの。だから、私は私の欲求に忠実に従うわ」
「……すごいね、綾」
宝は本気で深く感心していた。
日本人の父とフィリピン人の母を持ち、自分は多民族国家のシンガポールで生まれ育った綾。たった十四年の人生でも、綾は宝の想像を遥かに超えた浮き沈みの激しい生活を送っているのだろう。
彼女の言葉には、内側から滲み出る説得力と強さがある。
「そう? 感心するだけで終わらないで、目の前をよく見つめた方がいいわよ? 泣いたり悔やんだりしないために」
「……そうだね。わかった」
「わかればよろしい!」
宝と綾は笑みをかわした。
と、その時、教室の入り口の方からどよめきがあがった。
剣呑さを含んだそれに、たちまちその一角の緊張した空気が教室全体を染め上げた。
先程までの活気に満ちた喧騒は鳴りをひそめ、教室にいる生徒たちは、自分には害がないことを確認した上での残酷な期待と好奇心を込めたまなざしをそこへ向けていた。
誰もが、現場へ近づかない代わりに耳を澄ませていた。
宝と綾も、遠目に現場を確認してからその意外さに顔を見合わせた。
教室の入り口で睨みあっているのは、透とクラスで鼻摘み者的存在の下陸一(しもりくはじめ)と、その腰巾着たちだった。
様子から察するに、教室に戻ってきた透が、下陸たちに行く手を阻まれて、絡まれているという状況らしい。
「おめぇもわっかんねぇヤツだなぁ~。ちょっと俺様をかっこよく撮ってくれたらそれだけで済むハナシじゃんかよ!」
なぁ~、と下陸が腰巾着たちに同意を求めると、そこから「そうだそうだ!」の大合唱が起こった。続けて腰巾着たちは融通が利かない透をなじり始め、下陸はそんな手下の態度に満足しているようだ。その状況に、自分の要求が聞き入れられることを確信してか、下陸は踏ん反り返っていた。
ところが――
「何度も言わせんな。オレはオレが撮りたいと思わない限り、撮らないんだよ!」
透は、怯むどころか怒気を孕んだ一喝で不毛なやりとりを強制終了させようとした。
その効果はてきめんで、下陸たちは即座に鼻白んだ。
窓際の席からそれを見ている綾が、小声で宝に言った。
「透、珍しく攻撃的で機嫌悪そうねぇ~。ま、朝から宝と一戦交えて惨敗した後に下陸たちに絡まれたとなれば……全力でうっぷん晴らししたくなるのもわからなくないけどね」
「惨敗って……、人聞きの悪い。別にあたしは、今朝だって透をやり込めたわけじゃないよ?」
「そうね。宝は一度だって透を『やり込めた』ことはないと思うわ。やり込められたことはあってもね」
「……なにそれ」
「やり込めるって言うのは、言い負かすことを意味するでしょ?」
「……そうだけど?」
「言い負かすってことは、理論的に攻めること。いつも勢いで感情的に捲くし立ててる宝は、透をその場その場で【やっつけてる】だけなのよ。だから結局進展無くて堂々巡りだから、また顔を突き合わせると同じことを繰り返す。永遠(エンドレス)にね。気付いてなかった?」
綾は可笑しそうに笑った。
「……そうかなぁ?」
宝は納得いかないといった表情で考えこんでしまったのだが、それはすぐに中断された。
「宝っ!」
教室中に響き渡るような大声で名を叫ばれ、それがただの大声ではなく緊迫した感じだったりしたものだから、
「――はいっ!」
と、思わず宝は姿勢を正して同じ様に緊張した大声で返事をしていた。
「落とすなよっ!」
言い終えるや否や、透は教室の入り口から宝のいる窓際目がけて、おそらく物凄く大事にしているであろう愛用のカメラを勢いよく放り投げた。
「え……? えぇ――っ? 嘘ぉ―っ!」
宝は弾かれたように席を立ち、落下してくるカメラだけを見て移動した。
間違いなくカメラは高価でこの界隈では部品さえ手に入らないような代物だろうし、なによりあのカメラは透の大切なモノなのだから、何がなんでも受け取らなければ! と瞬時に必死の行動に出た。
必死すぎたため、周りの机や椅子など蹴散らしていることには気付いていなかった。
「あらやだ! 本気ぃ!?」
一瞬、綾は驚いて唖然としたが、次の瞬間には宝を支援(サポート)しようと迅速に動き出す。
カメラしか見えていない猪突猛進な宝とは違い、綾はできる限り進路や退路の妨げになりそうな机や椅子をどけながら軽い身のこなしで到達予測地点に駆け寄る。
「宝っ!」
「……うん!」
宙を泳いできた透のカメラは、うまいこと透の願い通りの放物線を描き、宝の両手に着陸した。
我が身を省みず、他人の机に突っ込む形でなんとか透の投げたカメラを無事に受け取った宝だったが、持ち主の透は既に宝など視界に入っていない様子で、下陸との一触即発な空気の中、教室の入り口に立って居た。
「よくCatchしたわね」
「……」
無事にカメラを受け取った安堵と、何をしているんだろう、と我に返って虚しく思う気持ちから、宝はその場にへなへなと座り込んでしまった。
「お疲れ様」
綾は宝の隣に座り込み、ぽんぽんと頭を撫でながら労った。
恩田さんすごーい、など感嘆の声があちこちから小さくあがったが、それはすぐに消えてしまった。
再び透が口を開いたからだ。
「残念だな。カメラがなきゃ、何も撮れない」
「て……めぇ!」
「どけよ。朝休み、終わるだろ」
無理にでもその場を移動しようとした透だったが、下陸は透の肩を掴んで凄んでみせた。
「おい! 新参者のくせに、いい気なってんじゃねーよ! 俺を誰だと思ってんだ? 小学部で教師やってる下陸の息子だぞ! 俺のオヤジは【中学部の教師とも仲がいいから】な、お前の成績下げることくらい、楽にできんだぞ? 中二にもなれば成績も内申も、大事だよなぁ? 少しは将来のこと考えて俺に口きいた方がいいんじゃねーか?」
自分の言葉に酔いしれ、勝ち誇ったような表情をしている下陸は、だからクラスで鼻摘み者なのだ。
また始まった……と言わんばかりの溜息が、教室のあちこちから聞こえている。
透も、最大限の軽蔑を含んだ溜息をこぼした。
「下陸さ、言ってて、恥ずかしくね?」
「なんだと?」
「まず、どこの世界に、息子の嫌いなクラスメイトだからって理由で、成績下げたり内申悪く書いたりするよう操作する教師がいるんだよ? そんなことしたら大問題になって即座にクビだろが。お前の親父はそんなこともわかんねー無能なのか? ま、息子が息子だから、親父もロクな人間じゃないのかも知れねーけどな」
「――てめえっ!」
「それと!」
カッとなって殴りかかってきた下陸の拳を交わしがてら反対の手で彼の胸倉を掴み、透は本気で怒鳴りつけた。
「オヤジはオヤジ、てめえはてめえだろが! 文句あるなら、てめえ自身でかかってこいよ! 親が地位あるからって、おめーもそうとは限らねーんだよっ!」
最後はそう吐き捨て、透は下陸をスチール製の掃除用具入れに勢いよく押し付けた。
カエルがつぶれたような呻き声をもらした下陸には見向きもせず、透はつかつかと宝のところへやってきた。
透が手を差し伸べてきたので、宝は自分が座り込んでいることに気付きその手を取ろうとしたのだが――。
「違う」
「――は?」
「カメラ」
「……はぁ?」
すっとんきょうな大声をあげた宝の隣で、綾はおなかを抱えて笑い転げていた。
「あはははははは! あーははは!」
きょとんとして動けずにいる宝を見て何故綾が笑っているのかに気付いた透は軽く肩を竦めながら、宝に謝った。
「……ごめん」
「え……?」
宝には状況が上手く飲み込めずにいたが、透は宝が後生大事に胸に抱えている愛用のカメラに手を伸ばし、それをそっと返して貰った。
「あ……」
「さんきゅーな」
「あ……うん……」
透は宝には感謝を込めた笑顔を向けたが、未ださっきの小競り合いの苛立ちがおさまらないらしく、宝に背を向けるとぴりぴりした空気を漂わせながら、宝の席よりももっと前の方にある自分の席へと戻って行った。
透が席に着いた時、ちょうど朝休み終了のチャイムが鳴った。宝も自分の席に戻りながら、透と下陸のやりとりを反芻していた。
――親が地位あるからって、おめーもそうとは限らねーんだよっ!
透は本気で苛立ち、忌々しく思っていたのだろう。
あんなに激昂した透は、初めて見た。
だけど。
宝は、誰にも気付かれないように透の方を盗み見た。
そして、頬杖をつきながら不機嫌全開の透の背中に向かって、小さく呟いた。
「……だよね」
【この教室で】ああもはっきりと言ってのけた透を素直に凄いと思い、宝は今だけそっと心の中で透に向かって拍手をした。
いつか自分も思った事を思った通り口にできるようになれますように……、と淡い願いを込めながら――。
(3)
「……」
不意に、担任教師が話の途中で不自然に黙り込んだ。
担任がいきなり突拍子ないことをしでかしても、急に無言になったとしても、この教室では誰も反応しない。
どよめきもざわめきも起こらない。
何事かと意識を担任に向けるものも皆無に等しい。
それぞれが無言で自分のすることに集中している。
宝は、春から何も変わらない光景の教室を見回した。
同じ様に視線を巡らせていた綾と目が合い、二人は苦笑する。
「なあ……」
教師が話し出そうとしても、教室では、ひたすらもくもくと問題集を解いている者、ノートにラクガキをして遊んでいる者、この時間には関係のない教科書を眺めている者、紙切れにではなく専用ノートを用意して手紙を書いては回してもらっている者……と、実に様々な内職が堂々と繰り広げられている。
漫画や小説など読書に没頭している者がいないのは、単に、シンガポールでは日本の書籍が手に入りにくく、苦労して取り寄せた書籍は何にも勝る貴重品なので、盗難防止も兼ねて校内への持ち込みが禁止されているからだ。見つかれば没収され、二度と戻ってこない。
一方、図書室の本は寄贈されたものしかなく、破れ具合や変色加減からして、どう贔屓目に見ても、数十年前に誰かが「帰国するのに荷物になるから置いていった」としか思えない偏った趣味の代物ばかり。
さすがにそれらはもう時代に合わないとの事で、新刊や古典や流行の本などを日本から取り寄せようとしているらしいが、それはまだまだ先の話。だから、図書室の本を読もうとする者もいない。
誰も無駄口を叩かない。
野次も飛ばさない。
担任をなじることもしない。
そういう種類の静けさが、教室内に広がっている。
そんなことをして『問題児』と認識されてしまったら、進学に支障が出るし世間体も悪くなる。
どちらかといえば『世間体』を重視する連中ばかりなので、自分が不利になるようなことは徹底してやらない主義……なのだ。
このクラスに限らず、この学校に通う大半の生徒たちは――。
担任は、苦虫を噛み潰したような表情で、教室を見回している。
自業自得だ、と思いながら、宝は成り行きを静観していた。
「なぁ……」
意を決したように、担任は話を切り出した。
「今までのことは水に流すにしても、今日は、ちゃんと参加してくれないと困るんだが……。それは、今回が初体験の先生よりみんなの方がよくわかってるよな?」
物分かりが良く、さわやかで、時に熱血。
それが『売り』らしい担任だが、このクラスの生徒は誰もそう思っていない。
担任の言動が無神経に感じられ、信じられないから、相手にしない。それを、もう半年以上続けている。
気に入らないことがあるのなら、一度くらい担任に面と向かってはっきりとそう言えばいいのだが、誰一人としてそれを実行に移した生徒はいない。
宝自身もだ。
何かにつけて担任の言動を不快に思っているのはクラスメイトたちと変わりないのに、宝は全ての教師に対して何も期待せずに諦めてしまっているので、この教室でも嵐が過ぎ去るのを待つように、そっと縮こまって目立たないようにしていた。
クラスメイトの誰かが何かをしてくれるとも思っていないから、ただただ時間が過ぎて、進級する日だけを待ち望んでいる。
どうせその場凌ぎの時間稼ぎでしかしないのだから――。
『物分りが良い』とか『熱血』とか言われている教師に限って、生徒を欺くことが上手い、と宝は感じていた。人間は所詮、他人の事より自分の事を優先させるのだ……ということを、宝は小学校からの日本人学校生活で痛感していたのだ。
この教室内の静けさ。何が、どの言葉がきっかけでこの静けさが生まれたのか、恐らく誰も覚えていないだろう。
ホームルームを始め、担任の教科や担任が担当する特別科目の『国際』の時間は、最初から最後まで担任を徹底無視するのが、ここでは日常生活になっている。
授業前・授業後の挨拶(ここではそれだけでも貴重なコミュニケーションであるというのに)すらしない生徒ばかりいる担当クラスなのに、担任はそれについて話し合いの場さえ設けることはしないで今日まで来ている。
噂によるとこの担任、教師の本分であることさえマニュアル通りにしっかりとやっていれば、生徒は理解してくれる、と本気で思っているらしい。それが本人の口からではなく、それとなく耳に入ってくるから、ますます教師と生徒の溝が深まる。だが……担任はその事に気づかない。
今日こそは話し合いの場でも設けるのかと思って、宝は少しだけ担任に注目した。
担任は、努めて普段と変わらない口調を意識しているようだった。
「今日の『国際』の時間は、あらかじめ、年明けすぐに行われる交換留学生の立候補者を選出するって先生、告知してたよな? 各クラスから二名選出しなくちゃならないんだが……立候補者はいないのか? いないならいないで、推薦でもかまわないんだぞ?」
「……」
誰も微動だにしない。
担任の声など最初から耳に入っていないとでもいいたげなその態度に、担任の表情はひきつる。一喝したそうなのが、ひきつり笑顔から窺い知れる。
「なんなら、経験者が再度行ってもいいぞ? 前回と違う現地校に行けばいいんだからな。どうだ? 日本では絶対に経験できない、日本人学校ならではの特別行事だぞ? 参加しないのはもったいないと思うけどなぁ~」
「……」
これほど完璧に場がシラケているのも珍しい……と宝は妙なところで感心していた。
宝はそんな教室内をそっと眺めるように盗み見していたのだが、うっかり……本当にうっかり、宝は担任と目を合わせてしまった。
「……」
「……」
担任の方も、まさか俯いて内職をしていない生徒がこの教室内にいるとは思っていなかったのだろう。まじまじと何かを発見したかのような目で、宝を見つめている。
ややあって担任の表情がまさに破顔するとでもいうような嬉しそうなそれへと変わったので、宝は慌てて担任と合ってしまった視線をぷい、と逸らした。
――が、遅かった。
担任は手元の資料に目を落とし、我が意を得たり、と満面の笑みを浮かべた。
「やっぱり、そうだ!」
担任は手元の資料を強調するようにひらひらさせた。
「これな、小学部・中学部交えた、過去の交換留学に参加した生徒のリストなんだよ。大半は帰国していて役に立たないんだが……、恩田は去年の交換留学に参加してたんだよな! どうだった?」
あちゃ……、と宝は自分の不運を呪ったが、無視して事を荒立てるのも面倒だったので、視線は外したままぶっきらぼうに答えた。
「どうって……、それは、体験談を提出済みなので、そっち見てください」
「あ~、コレな」
担任は、別の冊子も持ち上げた。
「もちろん、先生は読んだぞ。けど、このクラスにも、今年からの転入組が結構いるから、彼らのためにも説明してやってくれないか? ほら、恩田は、ここでの生活も長いだろ? 先生も含めて、みんなにとっても興味深くて参考になる話だから、聞かせてくれないか? 体験談こそ、この『国際』の授業になくてはならない貴重な教材だろ? ほら、この前は、実際に第二次世界大戦を体験した中国人のおばあさんの話を聞いて、とても有意義だったろ? それと同じだから」
「…………話すことは何もありません」
宝が溜息をつけば、担任はその何倍もの溜息をついた。
「恩田ぁ~。そう出し惜しみしなくてもいいだろ? 【長期滞在者だからこそできる経験】は、とても貴重なんだぞ? 真似したくてもできない連中ばかりなんだから、せめて『話』くらい聞かせてくれてもいいだろ? 頼むよ。な? 恩田」
「……」
人の気も知らないで……!
宝は担任を睨みつけた。
射るような視線で人を殺せるのであれば、間違いなく担任は今、宝に射殺されただろう。それくらいの怒りに満ちた目で、宝は担任を睨んでいた。
おそらく、担任には悪気も悪意もないのだろうが……だからあなたは『無神経』なのだ、と宝は思った。
それに加えて、間が持たないから宝に助け舟を出して貰おうという教師の魂胆も宝にはみえみえで、そういう部分でも宝は更に担任に腹が立って仕方なかった。
「……興味深い話を聞こうと思う人が、内職を続行するでしょうか?」
「……あ、ほらほら! 恩田が話をするんだから、作業を中断しろ~!」
意に反して例のごとく、誰も指示には従わない。
「おい! こら! 恩田が――」
「話すことは何もありません。それに、偏った先入観を持って交換留学に参加するよりかは、まっさらなままで参加した方が【ずっと有意義で忘れられない貴重な体験になる】と思いますけど」
宝の刺々しい物言いに、さすがの担任も不機嫌さを隠し切れなかった。
「……そ、そうか? ……だそうだ。ほら、誰か、交換留学に参加しないか? 貴重な体験だし、いい思い出になるぞ?」
「……」
何をどうしても反応しない生徒たちにも、担任はほとほと困り果てていた。担任は壁の時計を見て、まだまだ授業時間があることを確認し、げんなりしたような表情を見せた。さてどうしようか……と考え込みかけた時、名案が浮かんだように言葉を口にした。
「……そうだ」
恩田、と担任は懲りずに宝へ声をかけた。
「……なんですか?」
どうせロクなことは言わないだろうと覚悟しながら、宝は嫌々さを前面に出しながら反応した。
「恩田、今年も交換留学に参加しないか?」
「――はぁ?」
これっぽっちも想像しなかったことを言われ、宝は面食らった。
「恩田が参加すれば、相方はとても心強いだろ? 経験者だし、なにより、言葉に不自由しないんだから、これほど助かることはないよな」
「嫌です」
驚きは即座に怒りへと変わった。
あたしは通訳でもガイドでもない!
皆と同じただの中学生だ!
喉まで出かかった言葉を理性を総動員させて深いところへ飲み込み、宝は一言だけ付け足した。
「一度参加したら、充分です」
手を変え品を変えても思い通りにならない宝に対して、担任は徐々に苛立ちを覚え、憎々しく思い、疲れて来ているようだ。
しかし、今まで築き上げてきた自身の『印象(イメージ)』があるので、それを覆すような態度を取りたくない気持ちが強いらしく、担任はぎこちなくも親しみを込めたような苦笑を浮かべながら宝に言った。
「……先生だったら、毎年でも参加するぞ? たった三年しか居られないんだから、経験できることはしておかないと損だからな。みんなも、そうだろ? 時間は戻らないんだ。今、できることは今やっておかないと、後々悔やんでも遅いんだぞ? それに、滞在期間は無限じゃないんだ。有効に使わないと――」
「いい加減にしてくださいっ!」
バンッ、と机を叩いて立ち上がり、声を荒げたのは、綾だった。
「綾……?」
年齢の割には考え方が大人びている綾は、滅多なことでは感情的にならない。
その綾が今まで歯牙にもかけなかった担任に物申そうとしているのだ。これには教室中が驚いた。
「ん? どうした? 冴木? 先生、何かマズイことでも言ったか?」
さすがの担任も度肝を抜かれたらしく、及び腰になっていた。
「……」
綾は怒りの余りわなわなと震えていた。
極力感情的にならないよう自分に言い聞かせながら、綾は先を続けた。
「先生は、どうしてこのクラスがこんな風になってしまったか、真剣に考えたことがあります?」
「……? なんだ? いきなり……」
「先生は、今年度からの赴任ですよね?」
「……そうだ」
「任期は三年。不祥事を起こして縮まることはあっても、延びることはない……」
「……そうだ」
綾が何を言いたいのかさっぱりわからない担任は、訝しそうに首を傾げる。
「先生は、自分が『特殊』な立場にいることを自覚していますか?」
「……特殊な立場? なんだそれは?」
はぁ~、と綾は心の底から呆れた溜息をこぼした。
綾だけではない。クラスの大半の生徒が意図せず同時に諦めの溜息をこぼしていた。
「先生は、自分の意志でココを職場として選び、来星してるんです。滞在期間もきっかり三年って最初から決まってます。来たくて来たわけだし、帰国予定日も決まってるから、いろいろ無駄なく計画立てられて、滞在中にあれこれやっておこうと精力的に取り組めるんです。それが悪いとは思いませんけれど、いつまでも念願の海外赴任できたことに舞い上がってないで、受け持ちクラスの実情に目を向けたらどうなんですか?」
「?」
「このクラスの中で、一体、何人が自分の意志で来星したと思います?」
「……?」
「生まれも育ちもここの私や一部の生徒を除いた全ての生徒が、親の仕事の都合で仕方なくこの国にやってきたんです。いつ帰国できるかもわかりません。帰国したい時に帰国できればまだマシですけど、帰国したくない時に帰国せざるを得ないことだってあるんです」
「……」
「年明けすぐに行う毎年恒例行事の交換留学生だって、興味はあっても参加できない人、大勢いるはずですよ?」
「……なんだそれは?」
「交換留学生の期間は、二週間。もし、自分の帰国が決まっていたら、その二週間を友達と過ごす時間に充てたいと思うだろうし、自分ではなく、友達が帰国決定だと知らされた場合もそうでしょう。人にも寄りますけど、帰国が決まったからといってすぐに嬉しそうに言って回るのは、稀なんですよ。帰国が決定していても、直前まで言わない人の方が多いです。何故だかわかりますか? 今生の別れになるかもしれない可能性が大きいことを、経験上知ってるからです。何も知らせないで最後までいつも通りに過ごすことを選ぶか、知らせた上で思い出作りに専念するかは人それぞれですが、どちらにしても、年末年始はとても微妙なんです。先輩の先生方から何も聞いてないんですか? 申し送りとかなかったんですか?」
「………………」
綾の話が意外だったのか、担任は神妙に、耳を傾けている。
「それに、交換留学生のメインは二年ですけど、どうしても選出できない場合は、一年からでも三年からでも選出できるはずです」
「それはそうだが……、先生としては、この貴重な体験は絶対、後々、みんなの素晴らしい財産になるから――」
「そういうの、『ありがた迷惑』って言うんです!」
綾はぴしゃりとはねつけた。
「先生は、いつだってそう。なんでも自分の尺度でしか考えないから……、偽善者なんですよ! 本当に何が私達のためなのかを考えていたら、絶対そんな無神経な言葉の数々は出てきません! もう、いい加減にしてください! もうこれ以上、そのお気楽さで私達の神経を逆撫でしないでください!」
「――っ」
綾の悲鳴にも似た言い方に、担任は絶句した。
綾の言葉が的を射ていると感じているかどうかはわからないが、ここまでこきおろされるとは夢にも思っていなかったのだろう。
教室のあちこちから、綾を称える言葉が飛び交った。
教室は、俄かに騒然とし始めた。
もちろん、担任の制する声など誰の耳にも届いていない。もう、授業どころではなくなっていた。
「……先生。気分が悪いので、保健室に行ってきます」
最初から担任の了承を得る気などない綾は、型通りの事だけを告げて、さっさと教室から出ようとしていた。
「保健委員、同行します!」
宝はとっさにそう叫び、綾の後を追って教室を出た。
「……誰が保健委員だって?」
廊下を歩きながら、ちらり、と綾は宝を見た。
「……誰が気分悪いって?」
宝も綾を気持ち見上げながら言い返した。
「あら。気分が悪いのは本当よ?」
「気分が悪い割には、血色いいけど?」
「そりゃ、あれだけ興奮(エキサイト)したら、血の巡りも良くなるでしょうよ。思い出させないでくれる? 胸クソ悪いんだから!」
「はいはい……。で、図書室にでも向かうの?」
「この階(フロア)で自由に出入りできる教室は、図書室しかなかったと思うけど?」
「そうでした……」
宝は肩を竦めながら図書室の扉を開けた。
カウンターを覗いて見ても、やはり誰も居ない。
司書は……居るのか居ないのかよくわからない。
昼休みや放課後なら、図書委員がカウンターに居るのを見かけるが、司書は見かけたことがない。
授業中に図書室を訪れたのは初めてだが、無人なところからして……おそらく、最初から司書は雇っていないのだろう。それでも一応、「失礼します」と一言声をかけてから、宝と綾は上履きを脱いで図書室に入った。図書室、音楽室、視聴覚室は教室が絨毯なので、上履き厳禁なのだ。
宝と綾は、図書室の隅っこへ向かい、壁にもたれながら腰を下ろした。
しばらくの間、ふたりは何も言わずにぼーっとしていた。
図書室には宝と綾しか居ないらしく、エアコンの冷房の音がやけに大きく聞こえた。
「なんか……ね」
綾が溜息混じりに呟いた。
「やりきれないわ……」
「……何が?」
宝は綾に視線を向けず、全然関係ない書架を眺めながら努めてさりげなく、それでいて優しく包み込むような気持ちを忘れずに綾に言葉の先を促した。
綾は両膝を抱えた姿勢で、やはり、全然関係ない書架を目で追っていた。
「思いっきり先生を責めたけれど……」
綾は抑揚のない声で呟くように言葉を紡ぐ。
「うん……」
宝は全身で頷いていた。
「先生の気持ちも、解からなくないのよね……」
「うん……」
「三年、って決まってたら、無理なく無駄なく過ごしたいよね……。海外生活だし。見るもの聞くこと全てが珍しいんだから、慣れるまでははしゃいじゃうよね……。多分」
「うん……」
「誰かに……ってこの場合は『生徒に』、だけど、いろんな経験させてあげたい、って気持ちも……わかる気はする。私だって、ここにいる間、私が知ってて宝が知らないことがあるなら、教えてあげたいもの。宝にもっともっとシンガポールのことを知ってもらいたいもの」
「うん……。ありがと」
「……『先生』っていう立場も置かれてる環境もわかるし、生徒の数だけ存在してる境遇も知ってるから……、『国際』の時間は……やるせないわ」
「うん……」
「……言葉って難しいわね。一度口にしたら取り消せないし、誤解も生じるし、人も傷つける……」
綾が自己嫌悪に陥ったような声になったので、宝は言った。
「けど、人を救うこともできるんだよ?」
「……」
「綾、気付いてた?」
「……What(何に)?」
「綾、先生に抗議してる時、一度も英語使わなかった。英語交じりの方が話しやすいだろうに、でも、全部ちゃんとした日本語だった」
「……あら」
無意識だったらしく、綾は驚いていた。
「片親の国籍違うと、生活とか考え方とか、どうしても両親が日本人のコとは違っちゃうよね……」
「そりゃそうよ」
「仕方ないって解かってても、英語交じりの会話になるし、考え方も第三者的だから、何かこちらの思惑と外れたこと言われたりされちゃたりすると、だからハーフは……とか、所詮ハーフだから……って言われるじゃない?」
「言われるわねぇ~」
綾は忌々しく相槌を打つ。
「クラスにも、そんなくだらない偏見を持った人たちが少なからずいると思うんだけど、それでも、ほぼ全員が綾を見て綾の話を真剣に聞いてたから、きっと共感しただろうし、溜飲が下がったと思う。言いたくても言えなかったことを、最初から最後まできちんとした日本語で代弁してくれたんだもの。少なくてもあたしは、綾の言葉に救われた。共感したから」
「そっか……。なら、よかったわ」
「うん……」
並んで座っている宝と綾は、互いに頭を横にして寄せ合いながら、しばらく図書室のその場で時間を過ごした。
大事なことは何ひとつ口にできないまま――
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