其の四

   †4†

 ふと気がつくと、電車はすでに発車していた。

 かすかにローリングし、レールの継ぎ目を乗り越える時の振動を感じるから走っているとわかるが、窓の外はこの時期には珍しい霧が立ちこめていてまったく様子がわからない。

 みやこはうーん、と背伸びをしたあと、周囲を見回してみたが、同じ車両内に乗客のいる様子はない。

 ボックス席のため、確認できる範囲には限りがあるが、それは別にどうでも良かった。

 本に集中していて疲れたのか、少し頭が重い。

「あー……いま、どの辺だろ?」

 窓の外に目をこらすが、白い霧が渦巻うずまくばかりで何も見えない。

「……まいったな」

 降りる予定の駅を通り越してしまったかもしれない。

 そんな不安を覚えて、京は立ち上がった。

 揺れる車内を、バランスを取りながら車両の後部へ向かった。

 車掌しゃしょう室へ行ってきいてみるつもりだった。

 だが、一つ後ろの列車に移動した時、おかしなことがわかった。

 他の乗客が一人としていないのだ。

 ただただ無人のボックスが並ぶさまに、京はうすら寒いものを感じた。

「この電車、私しか乗ってないんじゃ……?」

 そんなこと、あるはずがない。

 必死でそう言い聞かせながら、京は車掌室を目指す。

 その途中、不意に列車に備え付けのスピーカーがノイズを発した。続いて陰気いんきな男の声が聞こえてくる。

『エェ……毎度、ご乗車ありがとう……ございます。次の……駅は……エェ、ジジッ……ニィ、てーしゃします……』

 京は放送に耳を澄ませたが、肝心かんじんの駅名はノイズが走って聞こえなかった。

「んもう、なんでそんな……」

 グチを言いながらも、無人の列車の最後尾へ向かい、転ばないように慎重に進んでいく。

 他の乗客は見当たらないのに、視線だけは感じる。

 まるでめるような、値定めするような、ねっとりとした嫌な視線だ。

「……っ」

 京は周囲に目をやりながら一歩一歩、足下を確かめながら進んだ。

 ようやくたどり着いた車掌室の、ガラス張りのドアの向こうには、制服姿の後ろ姿があった。おそらくあの人物が先ほどの陰気な放送をしたのだろう。

「あの、すみません。さっきの放送、ノイズでよく聞こえなかったんですけど、神戸かんべ駅はまだですか?」

 声をかけてみるが、返事はない。

「あの、すみません!」

 もう一度声をかけると、車掌の体がぐらりとかしぎ、そのまま床に転がった。

「えっ……?」

 京は思わず数歩、後ずさった。

 小さなきしみ音を立てて車掌室のドアが勝手に開いた。

 むわっ、と鉄のにおいが漂ってくる。

 血だ、と直感した。

「ヒサユキだ!」

 後ろの方から子供の声がした。

 そっちを振り向いても、やはり人の姿はない。

「ヒサユキがやったんだ!」

 また子供の声がした。

 京がよくよく目をらすが、見えないものは見えない。

 だが、京を取り囲む視線はますます増えているように思えた。

「な、なに……?」

 京は座席の方を見回しながら、しかし後退することもできず、その場に立ち尽くしていた。

 視線の主が、おそらくは声の主だろう。

 だが、どこにいるのか、ヒサユキというのが誰なのか、まったく見当が付かない。

 そのまま立っていると、だんだんと振動のペースが開いてきた。

 電車が減速しているのだろう。

「ヒサユキだーっ! 目を隠せー」

「目を隠せーっ!」

 突然、声が口々に叫んだと同時に、京に向けられていた視線がふっ、とゆるんだ。

 電車が停車し、右側のドアが開く。

 京は反射的に開いたドアから外へ飛び出した。

 電車の外は相変わらず濃い霧に覆われて見通しが悪いが、足下がコンクリートのプラットホームになっている以上、どこかの駅に着いたのは間違いないらしい。

 京は駅名の看板を探したが、それらしいものが見当たらない。それどころか、木造の、嫌に古い駅舎にはあかりすらともっておらず、闇の中に沈んでいる。

「どこ、ここ……?」

 電車は発車しない。

 無人のまま、霧の中に電灯の灯りを放っている。

 寒々しい、人工の灯り。

 京は、その灯りに背を向けて駅舎の方に近付いた。

 駅名の看板がないか、探してのことだ。

 スマートフォンのライトであちこちを探してみるが、それらしいものは見つからない。

 京はだんだん、わけがわからなくなってきた。

 やがて、ライトは無人の改札を照らし出した。

 と、その改札に白いものがいた。

 人の形をしているが、人にしてはいびつな形をしている。

 その姿は、さながら洋画に出てくるクリーチャーのようで、京は小さな声を上げてしまった。

「えっ……?」

 クリーチャーが京の方を向く。

「こ、来ないで……っ!」

 京は列車の方へ戻ろうとして、気付いた。

 列車の窓という窓に人の顔があることに。

 それがいずれも、恐怖の表情を浮かべた子供の顔であることに。

「なに……これ……?」

 体から力が抜け、その場にへたり込む。

 後ろからぺたぺたと裸足の足音が聞こえてきた。

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