第8話 窓の向こうで
それはいつもと変わらない夜でした。締め切られた窓から爪の先みたいに薄い月が見えて、僕はタワーの上でそれをぼんやり眺めながら大きく欠伸をしていました。
はやくご飯がこないかなあ。
ご主人はお部屋の時計を見て時間を計っているみたいだけど、僕にはわかりません。でも、なんだかいつになく遅いような気がしていました。
タワーの下段ではお兄さんが静かにくつろいでいます。くつろぎながら、ソファに横たわるご主人を見ているのです。
いや、見張っているというのが正しいのかもしれません。
このところご主人はどうも変な行動を取ることが多いのです。家にいるときはほとんど眠っているのですが、ふいに飛び起きて「もうやめて!」と叫んだり、かけていたブランケットを引きちぎらんばかりに振り回したり。ご飯も食べず、毎日欠かさなかった水浴びもしないで一日ぼんやりと座っていることもあれば、そわそわとその辺りをうろついたり、窓から雲の動きを眺めたり。
突然暴れ出す以外はまるで猫のような時間の過ごし方に見えました。お兄さんは時折寝ているご主人の傍へ寄って、心配そうに見つめています。僕はというと、ご主人の変化に正直戸惑っていて、どうしたらいいのか、わからなくなっていました。
僕はご主人にとってどんな猫なんだろう。
以前、ご主人は理想の「タイプ」についてこう語っていました。
『いつでも傍にいて、静かに見守ってくれる、そういうひと』……
僕は人ではありませんが、きっとそれを望まれているに違いないのです。ですがそれはもう、クリアしていると思います。だって、僕はこの家でこうして暮らしているのだから。お兄さんに遠慮しているだけで、僕だってご主人のことをずっと見ています。このタワーのてっぺんはご主人の寝顔を見下ろせる特等席なんです。
それなのに、なんだか、これはご主人の理想ではないんだろうな、と思わされます。どうしようもないくらい、それがわかってしまうのです。
細い月を見ていると、ご主人の薄く柔らかそうな爪の先が思い浮かびます。ここしばらくですっかり痩せてしまったご主人。前のご飯が手に入れられなくなったと言っていた……それは、「お仕事」がうまくいかなくなったってことだろうか。もしそうなら僕のご飯はいらないから、ご主人が食べたらいいのに。
忌々しい大きな人間、カタセの鋭い刃物みたいな顔が浮かびます。この間のことを恨んで、僕の知らない間にご主人に何かひどいことをしていたらどうしよう。
「ご飯よ」
ご主人の声。
僕は大げさなほど飛び上がり、猛スピードでタワーを駆け下りていきました。
いつものお皿が二つ。その上に、順番にご飯を盛っていきます。ざらざら、僕のお皿の上。そして次はお兄さんのお皿。
「あれ」
ご主人は袋の底を覗き込み、目を瞬きました。音のしない袋を振って、「しまった……」と呟きます。
僕はもう、ぴんときてしまいました。お兄さんのお皿を前脚で寄せて、お皿に盛られた僕のご飯を分けていきます。
「ムスタ」
ご主人は目を見開いて、それから、うるうると涙を浮かべました。
「ごめん、ごめんね……」
なんで謝っているんだろう。
ご飯がないなら分け合わなくちゃ。
これはお兄さんから教わった飼い猫の心得ではなく、野良の生き方の名残でした。僕には昔一緒に暮らしていた兄弟がいて、漁ってきた少ないご飯を少しずつ分け合いながら生きていたのです。
僕は平気だよ。泣かないでよ。
ご主人にそう言いたくて、口を開きかけた、その時でした。
突如耳をつんざくような金属音がけたたましく鳴り響き、僕もお兄さんも飛び上がりました。
ご主人も慌てふためいて、「なに、なに」と言いながらソファ近くの壁に飛びつきます。そこには白くて四角いものがはりついていて、時折涼やかなベルの音が鳴り、ご主人が話しかける、不思議な装置なのですが……
けたまましい音はどうやらそこから響いているようでした。金属音の合間に抑揚のない人間の声が何事か言うのですが、僕にはわかりません。でも、それを聞いたご主人はさっと顔を青ざめさせました。
「ムスタ」
ご主人が僕を呼びます。
「逃げなくちゃ」
どうして?
「火事なの。上の階が燃えてるんだって。このままここにいるのは危険だよ」
かじってなに?
僕が振り返ったとき、お兄さんはお皿の前にはいませんでした。トイレでもしているんだろうか。
逃げるなら、お兄さんも一緒でなくちゃ。
ご主人はよほど慌てているのかお兄さんを探すよりも真っ先にご飯のお皿を拾い上げていました。手つかずのお兄さんのお皿です。それを抱いて僕を呼びます。
「ムスタ、おいで!」
警鐘が割れ鐘のように響く中、ご主人は窓辺に駆け寄って、開いた手で窓の錠を下ろしました。今まで決して開かれることのなかった窓ガラスがからからと開き、外から冷たい風が一気に吹き込んできます。
「さあ」
ご主人の手が僕の尻を押し出します。久しぶりの外は雑多なにおいに溢れていて、同時に、煙たいような、焦げ臭いようないやなにおいが鼻をつくのを感じました。
確かに、どこか燃えているみたいです。おそるおそる柵の方へ近づくと、すぐ真上に強烈なオレンジ色がゆらめいているのが見えました。
本当だ、燃えてるみたい!
火を見るのは初めてではないけれど、見慣れないものに驚いてしまって、僕はすぐさま振り返りました。
ご主人はまだ白い皿を抱いたまま、家の中に突っ立っていました。何をしているの、早く逃げないといけないんでしょう。
「ムスタ、ごめんね」
ご主人は皿を抱く手に力を込めて囁きました。
「今まで、ごめんなさい」
なにが?
今までって、何かされたっけ……
混乱している僕の前で窓ガラスがぴしゃりと閉められました。
遠くで夜空を裂くような高く鋭い音が鳴り響き、徐々に近づいてきます。炎はすぐそこにあるのに! ご主人とお兄さんは家に閉じ込められてしまったのです。
お兄さん! お兄さん!
僕は夢中で窓を叩きましたが、びくともしません。背中で思い切り体当たりをかましてもだめでした。
お兄さん、気づいて! ご主人が窓を閉めちゃったんだ!
早く逃げないと、二人とも燃えてしまうよ!
鳴きすぎて喉が枯れてしまいそうでした。でも叫ばずにはいられませんでした。
「お兄さん、ここを開けて! ご主人、ご主人!」
遠かった高い音はもうすぐそばまで来ていて、柵の向こうでは知らない人間たちのせわしなく行き交う気配に満ちていました。
悲鳴や怒号。わけのわからない言葉。いろんな人が、いろんなことを叫んでいます。僕もまた精いっぱいに声を張り上げながら、窓ガラスを叩き続けていました。
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