5-7

「……そんなこと、ないよ」

 ふいに涙が出そうになり、紗月は前髪を整えるふりをしてうつむいた。

 学校では先生が席をはずしている間低学年の子供たちを少しまかされたことがあっただけ、今の男の子にはやれと言われたことをやっただけ。ルンゲはルンゲから来てくれることに紗月のほうが甘えているだけ、ドネルの弟の双子は寄ってこないから紗月からもいかないだけ、それだけだ。

 まわりより一歩下がったところにいるのが自然なことだった。なるべく目立たずおとなしく、極力変化を起こさず毎日をすごすことを第一に考えて生きてきたのだ。中学校で文芸部に入ったのだって好きな作家がいるとか創作に興味があるなんて立派な理由からではない、本を読むのには特別な能力や道具は必要ないし、試合やら遠征やらで母親の日々の流れを乱す心配がないからで、凝った言いまわしの詩やシリーズものの探偵小説を書いている部員もいる中、紗月の担当はもっぱら毎月学校新聞に図書室の本の紹介文を書くことだった。二年生の春に顧問が変わり、近隣の保育園や公民館で乳幼児向けに絵本の読みきかせを定期的におこなうことになったときは、退部するかどうか半年ほど本気で悩んだ。

 ただ、最終的には踏みとどまった。出向くのが基本的に学区内、休日の日中「常識的な」時間帯だったというのもあるが、本当はその読みきかせ会とその後の「ふれあいタイム」が楽しかったのだ。前回のことを覚えていてまっすぐ駆けよってきたり、逆に前回はべったりだったのに今回はまったく来なかったり、自分で絵本を見ているのになぜか紗月の膝の上は譲らなかったり、めいめい好きなようにすごす子供たちの中で紗月も自然とくつろいでいた、かもしれない――ドノヴァンはいつからそんなふうに思っていたのだろう。ひょっとして、一緒にいないときにも紗月のことを考えているのだろうか――

「あ、そ、そうだ、それってたぶん私が子供っぽいからだよ。ぽいっていうか、子供だから、だからわりとスムーズなのかも」

「違うよ。だって小さい子にかぎったことじゃないから」

 ドノヴァンの声が真面目な響きを帯びた。再び心臓の鼓動が速くなっていく。

「紗月は人に寄り添うのがすごく上手だよ。それはまわりのことをよく見てる証拠だし、相手の立場に立ってものを考えるって、言うのは簡単だけど実際にやるのは難しいでしょ。だからそれが自然にできるのはすごい才能だと思う」

「そ、そんなこと……私なんかだめだよ、ほんとに。智偉くんとデイに毎日助けてもらってばっかりだもん。迷惑かけないようにしなきゃいけないのに、私だめだから」

「そんなことない。だめなんかじゃないよ。なんて言うのかな、紗月は空気が優しいんだ。デイも智偉も紗月に救われてる部分があるはずだし、それはあの二人だけじゃない」

 ドノヴァンは何を言っているのだろう。あの二人だけじゃない、なら誰の――背中から、脇から汗が噴きだしてくる。顔が熱い、だめだ、これ以上聞いたら取り返しが――

『そのうち地球に帰るんだもんな』

「ね」

 暴れまわっていた心臓がすっと冷えたのと同時に、横から腕が突き出てきた。Tシャツの袖が不自然にまくれあがっている。

「……え?」

 ドノヴァンはにこにこと腕を揺らしている。

 ぽとりと落ちてきたおかしさが頬にのぼっていた熱を冷まし、はいはい、と紗月は笑って袖を直した。なんとか立て直した。楽しかった、それで充分だ。忘れてしまうのは――残念だけれど、と再び波立ちそうになった水面をなでるように息をはく。始まる前に終わらせてしまえば、望む前にあきらめてしまえば、それ以上深いところに落ちずにすむ。残念、でも思い出なんて案外そんなものだ。それに智偉の言うとおりアトラス様が神様なら逆らうことなど――「ありがと」と紗月の頭をくしゃっとなで、その手をそこにのせたままドノヴァンがふと顔をのぞきこんだ。

「紗月、目のところに何かついてる。ちょっと目つぶって」

「あ、うん」

 紗月は目をとじた。

 ふわりとドノヴァンの香りがして、唇に柔らかいものがふれた。

(……え)

 目を開けると褐色の瞳がそこにあった。

 その瞳がぼやけてゆがんだ。


 ――もう手遅れだ。


 ドノヴァンがあわてたように顔を離した。

「ごめん。びっくりした? ごめんね」

「ごめん、ドノヴァン、私……ごめん。ごめん」

「なんで、紗月は悪くないだろ。今のは俺が勝手に」

「違うの、私、全部忘れちゃうの!」

 アトラスっていう星があることも、ここであったことも全部忘れちゃうの。今日のことも昨日のことも、今までのこと全部、ドノヴァンのことも。だからごめん、ごめんね、どこまで言葉になったかわからないまま、宙に浮いたドノヴァンの声のかけらを打ち砕くように吐きだして紗月は走りだした。ひと足ごとに今日一日のひとつひとつが踏みつぶされ、蹴散らされ、胸の奥に沈んでいく。なんて愚かなことをしたのだろう。ずっと一緒になどいられないのに。いつか必ず離ればなれになって、出来事も、存在も想いもすべて忘れ、忘れたことすら忘れてしまうのに。

 智偉に、デイに、止めてほしかった。女王様でも王様でもアトラス様でもいい、地球人はアトラス人を好きになってはいけないと禁じてほしかった。今日会ったときすぐ言えばよかった、サンドイッチだけ渡して帰ればよかった。バスを途中で降りれば、昨日、一昨日、ちゃんと断っていれば。霧の中なんかに連れていかれないようもっと必死に手を伸ばして、何かに、地球に、しがみついていれば。

 ドノヴァンに出会わなければ――

 バスに乗っている間も、宿泊所まで坂道を登る間も、部屋でベッドに倒れこんだあとも涙はとまらなかった。体内の水分がすべて流れ出ていきたがっているかのようだった。際限なくあふれる涙でまぶたがくっつき、やがて離れなくなった。


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