5-4
夕方、部屋の窓からふと見下ろすと玄関の前に人影が見えた。三階を見上げていたその人物は、智偉が下りていってドアを開けると「やあ」と表情をくずした。
「あのさ、紗月の具合どうかな?」
「え……そのためにわざわざ?」
「うん、ちょっとね、気になって」
ドノヴァンはにこにこしている。昨日のことなど忘れたかのような屈託のなさだった。
「……見てきましょうか」
紗月は眠っていたが、顔色はだいぶよくなっており、寝息も静かで落ち着いた様子だった。「そうか、よかった。ありがとう、手間かけたな」とドノヴァンは世界が滅亡を免れたかのように顔をほころばせ、あっさり体の向きを変えた。
「え、会わないんですか?」
「うん、寝てるなら起こしちゃ悪いし。じゃあな」
なんだったのだろう、と智偉はドアを閉めて階段を戻った。これでは――彼は本当に紗月のことが好きみたいではないか。少し具合がよくなったようだと聞いただけであんな笑顔になって、わざわざここまで来たのにそのまま帰るなんて――そこへ二、三分の間に階段を二往復するはめになった智偉の足音のせいか、額に手を当てた紗月がのっそりと廊下に出てきた。
「あ、紗月、起きたのか。具合どう?」
「うん……」
「今ドノヴァンが来てたよ」
紗月が顔を上げた。ぼんやりしていた目の焦点が智偉に合い、視線が階段に走る。しおれかけていた花が久しぶりに水を浴びた瞬間を早送りで見ているかのようだった。
「……ほんとにたった今だよ。紗月寝てるって言ったら、起こすの悪いからって帰った」
ごめん、ちょっと行ってくる、と紗月は階段を駆けおりていった。
「ドノヴァン!」
背の高い後ろ姿が振り返り、目を丸くする――ぐらりとよろめいた次の瞬間二本の腕の中にいた。
「おっと! 大丈夫? だめだよ、走ったりしちゃ」
「だって、なんで」
「たまたま通りかかったんだよ。大丈夫?」
まわりの景色も地面もぐらぐら揺れている。おさまるのを待って息をつき、顔を上げるとドノヴァンはほっとしたように微笑み、紗月に背を向けて地面に片膝をついた。
「ほら、戻ろう」
「……え」
「いいから、ほら」
手がひとりでに動いてすぐ下にある肩にふれる。ひょいと体が浮き、視界が高くなった。
「わ、軽いなあ、紗月。ちゃんと食べてた?」
「……うん、デイがおかゆつくってくれたから」
「そっか。よかった」
あたりが妙にかすんでいる。霧かな、と紗月はぼんやり思った。そうか、また助けにきてくれたんだ――しかしドノヴァンは紗月をおぶったままのんびりと坂道を登っていく。霧の中へ、甘い綿菓子のような霧の奥へ紗月を連れていく――
「じゃ、今夜もちゃんと食べて早く寝てね。明日も、本当は治ってほしいけど、でも少しでも調子悪かったら無理しちゃだめだよ」
柔らかな声が聞こえ、一歩ごとに伝わってくる振動と広い背中の温かさを頼りに紗月は頷いた。心臓を落ち着けようと深呼吸するとドノヴァンの首筋の香りが鼻孔に入ってきて、また頭がぐらりとした。
(また熱があがったのかな)
(今断れば、明日がっかりさせないですむ)
しかし言葉はどうしても出てこない。かわりに頭の片隅に浮かんだのは、一晩寝れば治るかもしれないし、という遠足の前日の子供のような言い訳だった。
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