5-2

「まだ帰るわけじゃねえよな?」

 手の中のサンドイッチを溶かそうとしているのかと思うほど見つめたのち、ドネルはぐいと顔を上げた。

「ならいいよ。それより昨日の続き教えてくれよ。なんだっけ、まさ?」

「いや、NASA……いや待って、でもさ」

「いつ帰るかはまだ決まってねえんだろ? じゃあいいじゃん」

 黒縁眼鏡ごしに押しこむように見つめられ、ふと自分が何に悩んでいたのかわからなくなった。そうだよな、とつぶやくとドネルは勢いよくサンドイッチにかぶりつき、智偉の返事も一緒くたに噛んで飲みくだした。

 昼食後、智偉は図書館に向かった。題名に「地球」という単語が使われている分厚い本を見つけて広げる。英語の辞書をひきながら読みはじめたが、専門書なのか難しい単語が多く、そのうち辞書にはさむ指がたりなくなった。肝心の本は少しもページが進んでいない。辞書から指をぬいてバタンと本を閉じると正面の男性がちらりと目を上げたが、かまわず腕組みをして素知らぬ顔をしている本の表紙を見つめた。

 ――地球人はね、地球に返ったらすべて忘れるのよ。ここのこと、ここであったことすべて、アトラスの存在自体を。

 昨日小さな木の小屋でキトリはそう言った。少し首をかしげたままゆっくりと、幼い子供に絵本を読みきかせているかのような口調だったが、微笑んではいなかった。

 ――私にもはっきりしたことはわかりませんが、それがアトラス様のご意思なのだと思います。……おそらく、地球とアトラスの関係を守ろうという。

 うつむいてそう言ったデイの口調はそれまで聞いたことのない、まるでこの話を続けるのを避けたがっているかのようなものだった。

 ――お話しするのが遅くなり、申し訳ございません。じつはお話しするべきかどうか迷っていたんです。知らないほうがここでお過ごしいただきやすいかもしれないと……

 たしかにそうかもしれない。初めから知っていたら、こんなふうにドネルと親しくなどなれなかっただろう――それでもデイがいれ直して持ってきたお茶はいつもと同じ色なのに味がまったくしなかった。

 ドネルから宇宙の外側について聞いたとき違和感があったのだ。宿泊施設や翻訳機のみならず、辞書まであるのだから、今まで何人もの地球人がここを訪れているはずだ。なのになぜ地球ではアトラスの存在すら知られていないのか、これがその答えだった。地球に帰ると記憶を失う。

 どうにかできないだろうか。

 まず思いつくのは紙に書くことだが、アトラスの紙は持って帰れない。なら来たときに着ていた高校の制服や自分の身体に直接とも思ったが、制服はデイに預けているため手元になく、またそういうことをした場合どうなるのかも見当がつかなかった。帰れなくなるかもしれない。目が覚めたら火星にいたりして、いやそれならそもそも目が覚めないだろ、と自嘲的にため息をついたときすぐそばで自分の名前を呼ぶ声がし、目を開けると「なんだよ、寝てたのか?」とドネルが机の上の本をのぞきこんだ。

「なんだこれ、『地球との関係に関する考察』? こんな難しそうなの読んでたのか?」

「いや、読めなかった。そうだドネル、かわりに読んでくれないかな」

「いや、無理だから。読めねえから。なんでそんなの読もうとしてんだよ」

「記憶をなくさずに地球に帰る方法がないかと思ってさ」

 ドネルははっと顔を上げ、ああ、と頭をかいた。

「じゃ行くか。これ戻してくるよ」

「な、なあ、もしまだここで本読みたいなら、今日は来なくても……」

「……いや、いいよ。さすがにこれは無理そうだから」

 お店の手伝いもしたいし、話もしたいしさ、と続けると、ドネルは少し間をおいて頷いた。


 夕方宿泊所に戻り、紗月の部屋のドアをノックすると、中から「あ、はい」とあわてたような声が返ってきた。

「紗月、大丈夫? 開けてもいい?」

「どうぞー」ともうひとつの声がのんびりと答えた。

「おかえり。じゃ、俺はそろそろ帰ろうかな。紗月、お大事にね」

 声の主は紗月に軽く手を振り、すれ違いざまに智偉に笑いかけて部屋を出ていく。階段を下りていくやけに軽やかな足音が聞こえた。

「……どうしてドノヴァンがいたの?」

「あの……今日私が休んだことルンゲに聞いたって、お見舞いに」

「……ただの友達なのにわざわざ?」

 紗月が目をそらした。

 部屋を飛びだし、階段を駆けおりる。玄関のドアを勢いよく開けると白いTシャツの背中が振り返った。

「やあ。どうかした?」

「あの、高村智偉です。高校クラスの一年の……あの、地球から来た」

「知ってるよ。俺はドノヴァン・デイビス。ドニーって呼んで」

「知ってます。あの、どういうつもりだか知りませんけど、紗月のことあんまりからかわないでもらえませんか」

 ドノヴァンがジーンズのポケットに手を突っこんだ。

「君は紗月の彼氏?」

「いえ、違います」

「じゃ保護者?」

「いえ」

「じゃ何?」

 整った目鼻立ちが淡々とした口調をより無感情に響かせているようだった。智偉はひるみそうになるのをこらえて大きく息を吸った。

「運命共同体です」

 ドノヴァンの片眉が上がった。

「紗月とは地球から一緒に来ました。偶然だけど、一緒に来た以上、僕は僕が紗月を守るべきだと思ってます。だから、その……紗月を傷つけてほしくないんです」

 紗月は話していないのだ。

 ドノヴァンは智偉を見つめている。智偉の存在をどう解釈すべきか考えているのか、それとも野暮なじゃまだてをするやつだとでも思っているのだろうか。

 時間にすればほんの数秒だったのかもしれない。無言で視線をぶつけあったのち、ふいにその茶色い目からふっと力がぬけた。

「からかってるわけじゃないよ」

『まだ帰るわけじゃねえよな?』

 たしかに、まだ帰るわけではない、でもそれとこれとは話が違う――

「じゃあまたな」

 立ちつくす智偉を残し、ドノヴァンは坂道を下っていった。


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