第6話

 そう日が経たないうちにアベルが再訪し、私は彼に手作りの焼き菓子を振る舞った。小麦粉や砂糖はレースの一部を売ったお金で買い求めた。それほどの長さを売却したわけではないのにとんでもない額になって呆然としたのはまた別の話だ。

 焼き菓子を一応は受け取ってくれたアベルだったが、礼儀として感謝を伝えてくれはしたが、やはり彼にとってはエスメの言葉や仕草がすべてなのだろう。特に大きく喜んでくれたわけではない。それは訪問時の手土産から明らかだった。

 アベルは来る度にエスメに贈り物をした。遠くの国のお菓子、白パンといった食べ物。ブラウス、靴など新しい衣服。小さな宝石が散りばめられた小物入れ。美しい革表紙のノート。外国の玩具。海のことを話した次のときには海底に棲むらしい七色に輝く貝を持ってきて、エスメと私を驚かせた。

 最も多かった贈り物は装飾品だ。首飾り。耳飾り。腕輪。髪飾り。どれも素晴らしい意匠の、そして金銀宝石があしらわれた高価なものばかりだった。

 美貌の大悪魔が手にするそれが幼い少女に渡るのは、端から見ていても奇妙だったし、エスメ本人もそう思っていたようだ。彼女は普段それらを身に着けることはなく、どこか奥深くに仕舞って、それきり忘れてしまったかのように新しい贈り物を受け取ると同じことを繰り返した。まるで自分が身に着けると宝物の輝きが失われていると思っているかと感じるほど、頑なに。

 最初アベルに魅了されて遠巻きにしていた養護院の子どもたちは、来訪を重ねるごとに少しずつ慣れ、エスメの元へ向かう彼に話しかけたり、帰っていくところを引き留めて部屋に誘ったりなど、積極的に行動し始めた。

 そしてアベルはそのことごとくを無視した。彼はエスメ以外に興味がない、エスメがアベル以外に心を開かないように。本当によく似た二人だった。

 しかし慣れというのは恐ろしいもので。

 当初は報復を恐れて存在を黙殺していたサリーを中心とした年長組が、アベルから特別扱いを受けているエスメに嫌がらせを始めるまでさほど時間は必要なかった。


「エスメ。書くものを持ってこなかったの?」

 学習の時間、子どもたちが集められた学習室で、教師役の修道女が困った様子で言った。養護院にやってきた順番に座る席なので、エスメは私からだいぶと離れた後方に座っている。

 代々使われてきたお下がりの黒板で単語の書き取りをしているはずが、エスメは学習のための道具を一つも持っていなかった。

 おかしい。他人と馴れ合わない彼女だが、養護院の生活や決まりを無秩序に破るような真似はしたことがないのに、と思っていると、部屋の一角でくすくすという笑い声が上がった。

 見れば、いつも別の派閥で行動している、サリーを含めた少女たちが意味ありげな目配せをしつつ密やかに笑っている。悪意のある目付きに、私はエスメが道具を持っていない原因を悟った。

「いいえ、持ってこなかったんじゃありません。黒板も白墨も割れていたから持ってくる意味がなかっただけです」

「どうせ乱暴な使い方をしたのよ。お下がりが気に食わなかったに違いないわ」

「いいわね、お金持ちの保護者がいる人は。あの綺麗な人に新しいものをねだればいいだけなんだもの」

 反論の言葉に被せるように少女たちが囁き合う。

 エスメは修道女だけを見て言った。

「黒板がないので机に指で書きます。それでいいですよね」

 修道女は眉を寄せてため息をつき、今回だけ、と答えて承知した。

 白墨が黒板にかつかつと当たる音が響くなか、とんとんと机を叩くように書き取りをするエスメは非常に滑稽に映ったようだ。私語厳禁の室内で、幼年組は状況が理解できていないのではっきりと「変なの」と口に出し、エスメの様子を確認したそれ以外の少年少女たちは口の動きだけで「いい気味」などと言い合っている。

 エスメはどこまでも凛としていた。彼女のことだから誰かの悪意によるものだとわかっているだろうに、犯人がいるなんて一言も口にしなかったことを、少女たちはちっとも思い当たらないのだろう。

 修道女が別のお下がりの黒板を持ってきて「大事にしてちょうだい」と小言めいた一言を添えたときも、エスメは黙ったままだった。

 次の日は昼から慈善活動の街の清掃を子どもたち全員で行うことになっていた。集合場所である院の門前で、私たちはいつもより綺麗に髪をとかし、長い場合は邪魔にならないよう清潔に束ねて、引率役の修道女が揃うのを待っていた。

 そして恐らく私だけが、エスメの姿がないことに気付いていた。

 彼女の性格を考えるとすっぽかすようには思えない、と近頃すっかり馴染んでしまった思考を辿り、私はそっとその場から抜け出して戻ると、廊下を小走りになってエスメを探した。

 いつもどこかしらで高い笑い声や話し声が響いている養護院だがこのときばかりは静かだった。残っているのは体調を崩している子や、別の仕事を任されている年長組、そして他にやるべきことがある修道女だから、大声や物音が聞こえてくるはずがない。私の足音が最も聞き咎められそうな大きさだったけれど、誰も出てこなかった。エスメもなかなか見つからない。

 庭、大部屋、医務室、食堂と覗いて、諦めそうになったとき、窓の影が落ちる廊下にその影よりも黒いものが揺らめいているのに気付いた。

 目を向けたまま動きを止めると、頭部とおぼしき場所の左右に、にゅるん、と角が生えた。

 悪魔だ。エスメの守り役。名前を確か、ロスといっただろうか。

『…………』

 音にならない、けれど多分私に向けた呼び声めいた気配を漂わせると、ふうっとロスは消えた。と思ったら廊下の曲がり角に立ち、またこちらを見ている。

 私が近付くと消え、道の先に現れる。どうやら、案内してくれるつもりのようだった。

 辿り着いたのは制作室だった。扉を開けようとして、手を止めた。

 細い旋律が聞こえる。小さく、清らかな少女の歌声。

 なるべく音を立てないようにして扉を細く開け、そっと中を覗き込んだ。

 がらんとした室内で、窓辺に腰かけたエスメが、ぼんやりとした様子で歌を口ずさんでいた。

 ぽろぽろと落ちる音は雨垂れのようであり、いまにも止まりそうな銀色の自鳴琴の儚さに似ている。もし私以外の人間が目にしたなら、あのエスメが、と驚くに違いない。扉一枚隔てた先にいるエスメは銀細工のような繊細な少女にしか見えなかったのだから。

 けれど歌声は唐突に止み、エスメの、他者の存在にはっきり気付いた視線がこちらに投げられた。潔く扉を開けた私が姿を現すと「ああ」と納得の声を漏らし、明らかに興味をなくした素振りで目を逸らした。

「この時間は制作室で作業するって聞いたんだけど、どうやら違ったみたいだね」

 エスメはそう呟いて、何故集合場所に来なかったのかと尋ねる前に答えをくれた。誰かが嘘を教えて嫌がらせをしたのがわかったなら、どうしてここに留まっているのか。

「早く戻ったら?」

 戻らなければ私は置いていかれるだろう。約束の時間に遅れてまでいなくなった一人を探したり、来るまで待ったりなんてしない。誰かが私が院の中に戻ったときっと報告しただろうし、さらわれたとか消えたというわけでないのなら置いていく。その辺りが、血の繋がりのない共同生活を送る養護院らしさだと思う。

 何にせよすっかり戻る気をなくした私は首を振り、収納棚から自分の刺繍道具を手に取ると、エスメの姿が見える、けれど彼女から離れた部屋の反対側に座って作業を始めた。清掃から逃げ出したけれど別の仕事をしていたならきっと強くは叱られないと踏んだのだ。

 エスメはつかの間私を注視していたが、やがて顔を背け、ぼんやりと外の景色を見始めた。

 会話はなかった。気を使って話しかけることもないし、面白がらせる話題を探す必要もないこの空間と時間を、私は居心地よく思った。愛想のないエスメと、快適な生活のために最低限の振る舞いをする私は、いまだけは自分の時間を――共同生活を送る上で保障されていると言い難い一人の時間を自由に楽しむことができたのだった。

 その後私たちは戻ってきた修道女たちに清掃作業に参加しなかった理由を問われた。私は具合が悪かったと答えたが、エスメはなかなか口を開かない。

「エスメ、どうして来なかったのですか? 正当な理由があるなら言いなさい」

 するとエスメは青い瞳から鋭い光を発するような視線を向けた。

「行かない方がいいと判断したからです」

「理由になっていません。言い訳をするなんて、」

「私がいなかった方がよかったでしょう? 噂になっているって聞いています。何か言われたんじゃないんですか?」

 私にも修道女がはっきりと顔を引きつらせたのが見えた。そこにエスメが畳み掛ける。

「聖女アシュレイの養護院だから表立った騒ぎにはなっていないけれど、街の人は不安がっていますよね。アベルが私に会いに来るから、この街は悪魔のものになるんじゃないかって」

「お黙りなさい!」

 エスメが悪魔憑きであると養護院の子たちはみんな知っている。彼女を傷付けたときに何があるかわからないから、力自慢の乱暴者や英雄に憧れる少年たちですら手を出さないでいるだけだ。それに実際にアベルを見た人間は彼に挑もうなどという気を失くす。それくらい美しく、底知れない恐ろしさを秘めていることを、一時期過酷な状況にいたり心に傷を負っている子どもたちは敏感に察しているのだ。

 しかしいつ恐怖の存在が牙を剥くかわからないのだから、いなくなってほしい、ここから出て行ってほしいと望むのは当然のことだった。

 真っ青な顔色は、彼女もまた同じことを考えていた証だろう。図星を突かれた修道女は肩で息をしながら、全身の悪寒を押さえ込みながら低く言った。

「……そのように悪意のある見方をするのではありません。卑しいですよ」

 エスメは何も言わなかったけれど、唇の端に嘲りを受けべ、かすかに笑った。次の瞬間、さっと顔を青ざめさせた修道女の、金切り声が古びた廊下を神経質に震わせた。

「なんですか、その態度は! 理由もなく仕事から逃亡した罰も含めて、保護室でしばらく反省なさい!」

「はい」

 叱責しているはずの修道女は恐れに震え、保護室という名の懲罰房行きになったエスメは半分笑うという、状況と光景が食い違ったやり取りが終わり、エスメは保護室で罰を受けに、私は一応針仕事を進めたので明日朝一番に礼拝堂の掃除をするよう言いつけられた。

 食堂での夕食が終わると子どもたちは一斉にエスメの噂をし始めた。これまで禁じられていたお喋りが吹き出すように、口々に彼女のしたこと、しなかったこと、でっちあげた様々な話を次から次へと伝達されていく。

「街の清掃に来なかったのは悪魔と遊ぶためだったんだって……」

「来なくてよかったと思う。だってあいつが来ると大悪魔が来るじゃないか。掃除なんてさせてたことが大悪魔に知られたら、俺たちも街の人間も絶対にひどい目に遭わされるよ」

「そうだよね。だからいつもあんなに偉そうにしてるんだ」

「悪魔のお姫様だって本当なのかな?」

「あの子が住んでいたせいで魔物に襲われた街があるんだって。一つじゃなくて、いくつも」

 就寝時刻が迫った大部屋でも噂話は止まなかったのは常に新しい話を発信する少女たちがいるからだったが、時間が経つにつれて「実は魔王の娘らしい」「主食は生ごみ」などと想像力の枯渇を思わせる大味なものになっていった。その辺りくらいから紡ぎ出される創作話に私も飽き、翌朝の掃除に備えて誰よりも早く寝台に深く潜り込んだのだった。

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