願い廻りて

 告げられた名に、衛正は瞠目する。


「……燎祗、だと」


 北の辺境にある街、近迦を統治する燎一族の長を名乗った男は、左手に掴んでいた刀を無造作に放り捨てる。そしてその貌に浮かべた優しげな笑みを変えぬままに首を傾いだ。


「信じられないか? ならば証明をしてやろう」


 そう言って男は、未だにボタボタと血を垂れ流す右の肩口へそっと反対の手を添えると、腕の切断面を包むように手のひらを丸めた。

 直後、掌中に小さな薄紫の光が宿ったかと思えば、絶え間無かった流血がピタリと止まる。それだけでなく、足元に出来ていた大きな血溜りすら跡形もなく消え去っていた。

 間を置かずして、変化はあった。

 まるで周囲の空気が極小の粒へと変化したかのように、いくつもの小さな光の塊が浮かび上がり、次第にそれらが燎祗の手のひらへと集束する。

 そうして無数の光点は衛正によって斬り飛ばされた右腕の形へと変貌を遂げると、ほんの一瞬だけ強く明滅してから、光を霧散させた。

 やがて現れたのは傷ひとつない生身の右腕。欠損部位の修復という神の巫ですら成し得られない奇跡を起こした男は、だが平然とした様子で、再生した手を数度握っては感触を確かめていた。


「ふむ。やはりこの従僕は感応の具合がちょうど良い。依代が凡雑であると、いくら私と言えども満足に術を使えないからな」


 柔らかく頬笑むその姿は、だが全身に刻まれた鬼の紋によってどこか歪なものとして衛正には映った。

 右手をひらひらと弄ぶように振ってから、鬼の一族の長は先ほどと同じように首を傾げる。


「どうだろう。これで私のことを信じてもらえたか?」


 その問いに対する返しは、変わらぬ静寂だった。

 衛正も、その後ろに控える黒装束たちも、ただの一言すら口にしない……いや、出来ない。

 燎祗が周囲に振り撒き続ける威は、尚も密度を変えないままこの場に漂い続けている。常人が感じれば吐き気すら伴いそうな異質な圧に、衛正はギリギリのところで耐えつつ、最大限の警戒を潜めて眼前に立つ男を見据える。


 近迦を統べる燎一族の長が、並の人間でないことは知っていた。

 神聖皇国ハワグにありながら、神々の意思に背き続ける鬼の血族。その頂点に君臨する男は、一族の咎すべてをその身に宿しているが故に、人から外れた存在であるとされている。

 生きた年数は人間のそれを遥かに超え、まるで神巫の少女が使うような奇跡の力を事も無げに使役する。その力の出所は明らかになっていないが、恐らくは神と同等の上位存在――――彼岸世の民が関与しているのだろうと衛正は推察していた。


「……燎の長ともあろう者が、どうしてここに……いや、それ以前に……」


 ――貴様はつい先ほどまで別の人間だったはず。

 その疑問を呈するより早く、衛正の思考を読んだ燎祗が穏やかに口を開く。


「私を筆頭に、燎の血を継ぐ者全員が持つこの鬼の紋には、私自身の呪が込められていてな。それはさながらひとつの軸となり、私と従僕達すべての意識を繋いでいる。私が望めば従僕達の身体を依代とし、彼らの意識を上書きして顕現することが可能なのだ」


 こうして先ほどやって見せたようにな、と。燎祗はとっておきの秘密を打ち明けるかのように、自慢げに言った。

 ――衛正は与り知らぬことだが。

 神招聘の儀が神喚の夜にしか成し得られないという事実を燎祗は知っていた。それでもこの刻限間際まで燎儀たちに小幸を探させていたのは、この《憑依》とも呼べる力があったからだ。

 明日の夜更けにさえ間に合えば、近迦と江鷹に跨がる距離を無視して、燎祗の身体に憑依して儀礼を行う。そういう手筈となっていた。

 故に、小幸が燎儀に対して隠していた《儀の刻限》という情報は、たとえ提示していようと意味を成さなかったのである。

 遠く離れた箇所で地面に蹲り、先ほどから微動だにしない着物姿の少女をちらりと見てから、燎祗は衛正へと向き直った。


「あの娘はなかなか良い性格と心をもっているな。従僕に一切として退かなかったあの姿勢、まだ年若いながらに一人の人間として見事なものだ。育てた者の器量の良さが窺える」


 満足そうに頷いた燎祗は、だが直後。

 それまでの穏やかで優しげな物言いから一変、底冷えするような威を孕んだ声で続けた。


「だが、巫としてはまだ未完成の領域にいる」


 一歩、燎祗の足が踏み出される。

 たったそれだけの動作で、この場の空気が一段重くなった気がした。


「あの娘を育てたのはお前だろう。ならば聞くが、お前にとって神の巫とは如何なる存在か?」


 ゆっくりと衛正へ歩み寄りながら、そのようなことを訊ねる燎祗。問われた衛正は、しかし小刻みに唇を震わせるばかりで答えられない。言葉を発しようと口を開いても、まるで喉に異物が詰まっているかのような感覚に陥ってしまう。

 そんな彼を冷めた目付きで眺める燎祗は、最初から答えなど求めていなかったかの如く、間を置かずして続けた。


「神を常世に呼び下ろすための贄、ハワグにおける奇跡の象徴たる神供―――。お前たちはみな揃って神巫をそのように見ているがな、″あれ″ がそんな人間の私欲に使われるだけの存在だとでも思っているのか?」


 やがて燎祗の足が、衛正のすぐ目の前で止まる。

 鬼の目に至近から見据えられ、衛正の膝がガクリと崩れる。見境なく振り撒かれる圧はもはや空間を軋ませるほどに濃いものとなり、さながら心臓を直接握られているかのような錯覚を衛正たちに与えていた。


「………そ、れは……いった、い……」

「まぁ、四百年もの歳月をかけてさえ気付いた者はいないのだ。お前に何を言おうと無駄であろうがな」


 小さくため息をついた男は、おもむろに右手を横合いにかざした。

 すると先ほど燎儀の腕が斬り飛ばされた折に転がった蛮刀が、不可視の力を受けてひとりでに飛来し、燎祗の掌中に収まる。

 それと同時、場を支配していた威圧感が僅かに薄れたような気がした。

 震える膝を押さえながら何とか立ち上がる衛正へと、何故か燎祗は手にしている刀を投げて寄越した。


「さて、ひとまず閑話はここまでにしよう」


 再び柔らかな表情に戻った燎祗は、先ほどよりも幾分か軽い口調で言った。


「お前には私の従僕が色々と世話になったからな。一族の長として、一応はその返礼をせねばならない」

「ッ……」

「だが私は無抵抗の相手を痛ぶる趣味は持たない。故にその刀を貸してやろう。せいぜい抵抗して、私の良心を痛め付けないようにしてほしいものだな」


 その言葉に、衛正は受け取った刀を反射的に構える。

 対峙する男には殺気どころか敵意すら感じられない。虚ろの光が揺蕩う双眸は一見して優しげに細められているものの、反して彼の全身に刻まれた血よりも深い色の紋様がドクンと強く脈打った。

 鬼と呼ばれる男が、静かに右手を持ち上げる。得物はない。が、その腕が何よりも強力な武器であろうことは、否が応でも理解できた。

 刀を握る衛正の手が小刻みに震える。

 彼のそんな様子をすら微笑ましそうな目で見据えながら。

 そうして男は、短く告げた。


「さぁ、期待しているぞ」


 その言葉が、惨劇の始まる合図となった。



     ◆ ◇ ◆ ◇



 ―――悲鳴が聞こえた気がした。

 血生臭さが鼻腔を突く。不快感を伴うその匂いに、小幸は煩わしげに眉を顰めた。


 辺りを暗闇が包み込んでいる。光はない。肌に触れているだけで寂寞とした孤独感が心を苛むこの闇は、いつも見ていた夢そのものだ。


 この闇は神の感じる孤独なのだと、母は言った。

 人間には悍ましさすら与える果てなき絶対の孤。この冷たき空虚を埋めるのが、神の側女である私たちの御役目なのだとも。


 ……なぜ私なの


 そう何度も思った。

 神巫とは奇跡の象徴。故にその御役目を担うことは、何よりの誇りである。

 人はみな口を揃えてそう言う。誰しも奇跡に縋らなければ生きてはいけないこの国に於いて、その口承は決して拭えない気風を形作り、神巫という少女の肩にのし掛かる。

 そうしてこの皇国は連綿と歴史を紡いできた。


 その歴史の裏で流されてきた少女たちの涙を、小幸は暗闇の奥の泥濘に垣間見た気がした。


 巫の御役目を与えられてきた彼女たちは、みな死を恐れて人知れず泣いていた。

 一人として自らを誇りに思うことはなく。

 縋る幸せすら喪って。

 それでも健気に己の役目を全うするために、泣くことをやめた。

 流れる涙は己の弱さなのだと、そう自分を律して。


 ……それでも


 塗り固められた偽りの笑顔の下に流され続けた少女たちの涙を想った小幸は、人としての熱が喪われつつある己の躰をそっと抱き締めた。

 一人の少女が背負うにはあまりに過酷で、大きすぎる宿命。

 それでも健気で在り続けることを求められた彼女たちは、その健気さ故に自分の宿命を素直に受け入れ、みな誰かの幸せのために生きた。


 ……自分もまた、同じ道を辿るのだろう


 誰かの願いを叶えるために幼い頃から生き方を強いられて。

 今まで頑張ってきたのに報われることはなく。

 たった一人の大切な者すら助けられない。

 奇跡を成すために、そうして言われるがままに生きてきた自分の末路を顧みた小幸の心が、静かにゆっくりと冷えてゆく。


 頬を伝いかけた涙を拭い――――それでも彼女はひとつの願いを胸に抱いた。

 この先の時代で、自分と同じ運命に立たされるであろう多くの少女たちのことを想いながら。


 世界の残酷さと。

 彼女たちが背負うであろう途方もない悲しき運命を伝えるために。


 そして。

 出来ることなら、どうか。



 ――どうかあなたは、自分の幸せのために生きてください



 唱えた祈り。

 その切なる懇願に、不思議と聞き覚えのある女性の声が重なったような気がした。


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