宵、心を騙し
ほんの数日会っていなかっただけなのだが、何故だか靖央と共に歩いていると随分と懐かしい気分になった。
何度も通ったことのある見知った街道をのんびり歩きながら、小幸はふと思う。
数歩先をゆく幼馴染の少年。
小幸とは違い決して清潔とは言えない質素な服に身を包む彼は、天真爛漫でどこまでも純粋で。
眩しいとさえ思えるその明るさは、例え周囲の環境が変われど常に傍らにあった。
正にそれは掛け替えのない存在と呼べるものなのだろう。
「――とは言え、別に恋慕の情がある訳でもないし……」
「ん、小幸ちゃん何か言った?」
既に日が傾きつつある夕暮れの下。
ポツリと零れた呟きに、靖央ははたと歩みを止めて振り返った。
こてん、と小首を傾げるその仕草には男らしからぬ可愛さがあって、少女は思わず微笑みながら、首を横に振った。
「いいえ、別に。もしも靖央が誰かと結婚するなら、その女性はきっとあなたよりも気丈で格好良いんだろうなって思っただけよ」
「あ、ひどい! 僕があんまり男らしくないって言いたいの!?」
頬を膨らませて心外だとばかりに怒る幼馴染を見つめながら、そうして小幸はまた微笑む。
彼こそが変わらぬ日常だ。
心の拠り所として在り続けてくれた少年は、小幸が神供としての巫であり、そして明日にはもうその御役目を全うしなければならないのだと知れば――
(言ってくれた通り、泣いてくれるのでしょうね……あなたは)
その言葉が嬉しかった。
神に見初められれば何をも残せない自分にも、こうして生きた意味があるのだと。
彼はそれを教えてくれる。
子供で居るのは辞めると決意した。故に多くは求めない。
自らの為に涙してくれる者がたった一人いるだけで満たされる。
例えそれが欺瞞であろうが、少女の毅然は凜を貫く。涙を零すのは、最も傍にいてくれた一人の少年だけで良いのだ。
「……ふふ」不意に嫣然と笑んだ小幸は、軽快な足取りで靖央の隣に並ぶ。「ね、折角だから、市場の方まで行ってみましょう。賑やかな場所が良いわ」
そうして少女は小走りに駆け出す。
ふわりと黒髪を靡かせて笑むその姿は、どうしようもなく美しく、だがどこまでも儚い一輪の花のようであった。
◆ ◇ ◆ ◇
「それにしても、最近ほんと物騒になったねー」
適当に見つけた的屋で買った鶏肉の串焼きを頬張りながら、靖央はそんなことを呟いた。
「どうしたの急に」
「ほら、こないだ僕たちも会った賊のことだよ。普通に刃物とか持ってたでしょ? どうにか助かったから良かったけど、何だか急に街が物騒になっちゃって嫌だなーって思って」
「そうね。皇都の方でも同じようなことが起きていると聞くし……くれぐれも気を付けなさいよ、靖央?」
「あれ、僕が心配される側なのおかしくない?」
きょとんと首を傾げる靖央の口周りには串焼きの
ほんと子供みたいね……と呆れながらも、小幸は優しい手つきで綺麗にしてやる。その様子は完全に姉弟のそれであった。
「なら、もしも次にまた襲われたときはあなたが私を守って頂戴。少しは頼れるところを見せてほしいわ」
「もちろん! 今度はちゃんと僕が小幸ちゃんを守るよ! その為にも、もっと上手に刀を振れるようにならなくちゃね……頑張らないと……!」
ぎゅっと拳を握りしめて小さく決心する姿は何とも微笑ましい。
小幸は口元に淡い笑みを滲ませながら靖央のそんな姿を見詰め、だが直後、透徹した貌に微かな影を見せた。
「ね、靖央」
そっと呼び掛けると、串焼きを完食したらしい幼馴染はくるりと振り返った。
「ん、なぁに? 小幸ちゃん」
「あなたは何も聞かないのね、あの日にあったことを」
率直な、何気ない問いかけ。
だがその瞬間、靖央の顔が僅かに硬直したのを小幸は見逃さなかった。男らしくない円らな瞳も不自然に泳ぐ。その様子を見て、小幸は「そういえば」と仄かに笑む。
「あなたってば、昔から嘘を隠すのが下手だったものね」
「こ、小幸ちゃん……」
「わざと触れないでいてくれることは有難いけど、本当は聞きたいんでしょ? 無理しなくていいのに」
ふふ、と口許を手で押さえながら笑みを零す小幸。そのまま数歩進み、靖央を追い越す。
何を言おうか迷っているように視線を彷徨わせる彼に、小幸は振り返らぬままに続ける。
「ほんとはね、あなたに隠し事なんてしてるのが嫌だったの。あなたはたった一人の大切な友人だものね。…きっと今が、ちょうどいい機会なんだと思うわ」
周囲に人の影は無い。
いつの間にか市場の区画から外れ、人気のない場所にまで来ていたことに今更ながら気付く。
だが、今は好都合だと思い、背後の幼馴染へと向き直る。
そうして、息を一つ。
靖央と真正面から向かい合った小幸は、これまで彼に秘匿してきた全ての事実を、まるで物語を滔々と紡ぐように穏やかに語り出す。
この神聖皇国が、かつて一人の少女の命と引き換えに神の恩寵を得ていたこと。
その少女は神巫と呼ばれ、ハワグ建国以来四百年が経った今もなお、同種の資質を持った少女たちが連綿と生き続けていること。
そして、自分もまたその神の巫であるということ。
神巫である自分には神から授けられた神秘の力が宿っており、あの日、盗賊を捉えたのもその力のお陰であるということ。
神々を現世に呼び降ろす為の供物である神巫は、神の現界と共に、この世から消えてしまうこと。
―― ″その瞬間″ が、明日に迫っていること。
靖央はただ黙って小幸の言葉を聞いていた。
その面影は色が薄く、感情のほどが上手く読み取れない。
全てを語り終えた小幸は、再び息を一つ吐くと、僅かに伏せていた瞳を少年へと差し向けた。
「ごめんなさいね、こんな話をしてもいきなりは信じられないかも知れないけれど」
遠くから街の人々の喧騒が流れてくる。
無数の灯り籠が発する光が夜の帳をやんわりと照らす中、二人の少年少女は喧騒から外れた場所で、静かに向かい合う。
「でも全て事実。私は明後日の夜には、神供として神巫の御役目を果たさなければならない。……何もかも終わってしまう前に、こうしてあなたに打ち明けることが出来て、少し肩の荷が下りたわ」
勝手な自己満足だけどね、と付け加え、苦笑を零す。
そう、これは小幸の自己満足に過ぎない。
真実を話したところで、何が変わると言うこともなく。
ただ、ほんの僅かに安心したいが為に、勝手に、自分語りをしていたようなものだ。
けれど小幸は、これが自分にとって最後の我が儘であると決めた。
故に、最も傍にいてくれた幼馴染に全てを打ち明けた。自分という一人の人間が求めた本当に最後の傲慢。
それでもやはり、この幼馴染は明かした事実に少しでも泣いてくれるのだろうかと、ほんの僅かに期待する。
そんな己の身勝手さに呆れて溜息を吐く小幸は、だが。
目の前で佇む少年の様子がおかしくなっていることに、ようやく気付いた。
「そん、な………それじゃ、あの人が言った通り、こゆきちゃんは……」
「靖央? 一体どうしたの?」
近くに立っている小幸にすら届かないほどの小さな声で、何やらぶつぶつと呟いている。不安になった小幸は、慎重な足取りで彼に歩み寄り、そっとその顔を覗き込んだ。
「ッ……靖央! どうしたの、しっかりしなさい!」
彼の様子を見止めた小幸は、思わず怪訝な面持ちを浮かべた。
……瞳孔は大きく開き、呼吸は浅い。全身は小刻みに揺れ、額には脂汗のようなものがうっすらと浮かんでいた。
明らかに正常な状態ではなかった。まるで何かに怯えているような、取り返しのつかない失態を犯してしまったときのような、尋常ではない精神状態であることが見て取れる。
幼馴染の見たこともない姿に動揺しつつも今一度呼びかけようと、彼の両肩を強く掴む。
だが、小幸が何か言うより早く、何らかの恐怖に怯えて揺れる靖央の瞳が、かろうじてこちらを捉えた。
――そうして、彼の口許に歪んだ笑みが浮かぶ。
「ごめんね、小幸ちゃん」
唐突に呟かれたその言葉の意味を理解するより早く。
小幸の後頭部を、何か強い衝撃が襲った。
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