願い儚き
突如姿を現した靖央にしてみれば、さぞ理解出来ない状況だっただろう。
全くと言って良いほど人気の無い路地裏に居る、幼馴染の少女と顔見知りの女性、そして地面に額を擦り付けたまま動かない三人の男。
それらを万遍無く見回しながら、靖央は訝し気な表情を浮かべる。
どう説明をしたものかと思考を巡らせる鴛花は、だがその所為で、不意に動いた少女を引き留められなかった。
細められた瞳に鮮烈な赤を湛える神巫の少女。
目の前に立つ少年の幼馴染で、けれど今は存在の位階が決定的に異なる少女は、靖央の前まで歩み寄ると、何故か嫣然と微笑む。
見上げる少女を未だよく知る小幸だと思っている靖央は、そんな忌まわしい笑みにも無邪気な様子で応じた。
「ねぇ小幸ちゃん、そこで蹲ってる人たちは誰? こんなとこで何してたの? もうすぐ日が落ちちゃうし、早くお屋敷に帰った方がいいと思うんだけど」
「……靖央こそ、どうして此処へ?」
発せられた声音は、とても静かで澄んでいた。
素知らぬ顔で訊ねる小幸に、対する靖央もまた、当然のように返した。
「お母さんにお遣いを頼まれてね。僕の家から市場に行くときは、この道を通った方が近道なんだー」
そう言う少年の手には、貨幣の入った小袋が大事そうに握られていた。
素直で実直な性格をしている彼のことだ、こうして親の頼みを受けて買い物に出てくることは少なくないのだろう。
だが、既に夜の帳が下ろされかけているこの時間帯に(実年齢が十七歳とは言え)子供が一人で出歩くのは無用心と言うものだ。
ましてや小幸と鴛花は今しがた、そこに蹲っている三人の賊に襲われかけたばかりなのだから。
平民出である靖央に、上流階級に位置する鴛花が配慮を巡らせる義務はない。だが彼は、小幸にとってかけがえのない幼馴染であり、小幸が一人の少女であるためになくてはならない存在だ。
そんな彼をみすみす危険に晒すような真似はしたくない。
なので靖央を連れ立って、まず小幸を屋敷に帰した後に、下女の一人でもつけて彼の生家まで送り届けてやろうと思った――――その直後であった。
先ほどから地面に身を伏せていた三人の賊の内、小幸に紗布を取られた男が素早い動きで立ち上がり、靖央の背後に回りこんだ。
そして懐から短刀を取り出し、切っ先を少年の首筋に当てる。
「うわっ! な、なに!?」
「動くな。余計な動きを見せたら、このガキの喉を掻っ切る」
鋭い眼光を浮かべた男は、靖央の小さな身体を抱えたまま、後ろに数歩退く。
訳も分からず人質にされてしまった少年は、理解が追いついていないのか正面の小幸と背後の男へ交互に視線を巡らせていたが、己に突き付けられた刃の存在に気付くと、ひっ、と喉を干上がらせた。
彼が身動きを止めたのを見ると、男は未だ動かない他二人に賊に声を飛ばす。
「おい、いつまでそうしてるつもりだ!
呼ばれた二人は、まず顔を上げ、そうして遅蒔きながら現状を理解すると、男の後ろまで下がろうと立ち上がりかける。
――だが、そのような無作法を小幸は許さなかった。
「恭順せよ」
吐かれた威。
一切の語気を持たぬ言の葉は、しかし確かな圧となって二人の賊を縛り付けた。
腰を上げる最中にあった彼等は、まるで降りかかる重力が何倍にもなったかのように、揃ってその身を地面に叩き付けられる。
そしてそのまま意識を失ったのか、ピクリとも動かなくなった。
「……驚きましたね」
一切の挙措を見せることなく術を放った小幸は、涼やかな貌を変えぬまま、靖央に短刀を突き付ける男に、そう言った。
「一度は神の言に畏れていながら、尚も不遜を働きますか。この神の国に生きていて、そこまで彼岸世の民に対する信仰が薄いとは……寧ろ称賛に値します」
「皇国に住む全ての人間が否応無く連中に跪くと思うなよ。燎の一族に限った話じゃない。俺たち近迦が従うのは、"武の掟" だけだ」
男が放った言葉に、小幸は僅かに目を細める。
「武の掟、強者が弱者を支配する近迦の成文法ですか。強者の言葉こそが絶対だと信じて疑わないあなたにしてみれば、確かに神の御力などあってなきようなもの。……ふふ、"まつろわぬ者" とは言い得て妙ですね」
張り詰めた緊張の中にありながら、それでも小幸は無垢に笑った。
そんな彼女の余裕な態度が癪に障ったのか、男は靖央を拘束する腕に力を込め、更に刃を近付ける。
「おい。お前が何者かは知らないが、このガキを傷付けられたくなかったら大人しく俺達を見逃せ。少しでも変な動き見せたら、こいつの命は無いと思えよ」
ゆっくりと登り始めた月の光を受けて輝く短刀に、靖央は声も出せずに固まってしまっている。
男の眼は真剣だった。ここで此方が下手な行動に出れば、彼は間違いなく少年の喉を切り裂くだろう。
身動き出来ない状況に鴛花が歯噛みしていると、おもむろに小幸が息を吐いた。
「自らの義を重んじる矜持は褒めて然るべきでしょうが、今はその姿勢を貫くときではありませんよ。確たる矜持が力を持つのは、その権威が効力を及ぼす範囲でのみ。……生憎と "此処" は、あなたの知らぬ神が守護する地です」
――刹那。
男は自らの身に起きた出来事を、認識出来なかった。
思わず見惚れる仕草で腕を持ち上げた小幸が、その細く白い人差し指の先をつぅ、と男に向ける。
すると瞬く間に煌めく白光が指先に収束し、眩い光点と化す。
そうして次の瞬間には、その光は真っ直ぐに撃ち出され、茫然と立ち尽くす男の額を打ち据えていた。
音は無かった。
静寂の中に在って、ただ意識を刈り取られた男だけが、ゆっくりとその身を地面へと傾けてゆく。僅かな土埃を巻き上げて男が仰向けに倒れた後も、その静謐は束の間、保たれた。
弾けた白い飛沫はさながら水飛沫の如く散り、やがて大気に溶け入るように消失する。
男だけでなく鴛花も靖央もただ呆然と立ち尽くすばかりであった。
顕された神力の欠片。
紅の光を瞳に湛える少女は、掲げていた腕をそっと下ろす。そして眼前でぽかんと口を空けたまま動かない幼馴染に、嫣然とした声をかけた。
「大丈夫、靖央? 怪我は無い?」
心なしか普段の彼女よりも美しく見える貌を傾げ、薄く笑む。
すると少年はハッと我に返り、慌てて頷いた。
「う、うん。僕は平気。……あの、小幸ちゃん」
「ふふ、なぁに?」
人を揶揄う様な、且つ男の心をざわつかせる妖しい笑みだった。
ここに至り、ようやく靖央は目の前の少女がいつもの彼女ではないとを悟ったのだろう。
その事に言及しようと口を開いた靖央だが、少女の誘うような微笑に思わず声を詰まらせる。
――離れた位置から様子を眺めていた鴛花は、状況が収まった事に安堵の息を漏らしつつも、神妙な面持ちを浮かべていた。
幼い頃から神巫としての小幸を育ててきた鴛花は、巫の意識が乗った彼女をこれまで数度見てきた。
彼女が顕現するのは、大抵が小幸の身に危険が及びかけたとき、そして心に途轍もなく大きな揺らぎが生じたときだ。
そしてその姿を、衛正は頑なに秘してきたのである。
理由は明白。
神秘の力を持ち、神を現世に呼び降ろす贄である神巫は、謂わば奇跡の体現者だ。切望する願いに手を届かせるための手段とも言える。そのような存在がいると周囲に知られれば、人は小幸に群がり、己が欲望をぶつけんとするだろう。
万人の渇望を一緒くたに潤すことができるほど、神秘は、神は人に易しくない。故に彼女という存在を固く秘匿せねばならなかったのである。
(まぁ、他の街や皇都では、巫の存在を公表していると聞いたことがありますが……)
神巫は小幸だけではない。
伝え聞いた話では、彼女の他に巫の素養を持つ少女は四名存在するらしい。その者達も、小幸のように自らに課せられた運命に苦悩しているのだと思い、妙齢の女性はその端麗な貌を僅かに顰める。
だが現状考慮すべきは、今の小幸を靖央に目撃されてしまったことだ。
鴛花は首を振り、束の間の憂慮を振り払う。
一先ずこの場から小幸を遠ざけることが先決と考え、少女に向けて一歩を踏み出す。
けれど数瞬早く、巫の少女は艶やかな仕草で白い腕を持ち上げた。
華奢な五指が触れるは、茫然と立ち尽くす少年の頬。
「……靖央」
名を紡ぐ唇は、薄くも艶冶だ。
煌々と紅を湛える瞳は人を欲の沼に誘う妖しい香を放ち――だが次の瞬間、その中心に苦慮の色を揺らめかせた。
「お願いね、靖央。この
どこか不安を覗かせる声音は、少年の縛られていた意識を引き戻した。
少年の顔が僅かな驚愕に染まる。
言葉の意味を理解出来ない鴛花は怪訝そうに眉を顰めた。
「こゆき、ちゃ……」
「約束よ」
そこまでだった。
ふわりと靡いていた艶やかな黒髪が、力を失ったかの如く、重力に引かれて背へと垂れる。
淡く纏われていた燐光もまた霧散し、降り注ぐ月光と混じり合って消える。
鮮紅に輝く瞳に瞼が下ろされ、神の意識から解放された小幸の身体が、傾ぐ。
ただの一人の少女に戻った彼女を、靖央が慌てて抱き留めた。
言葉は無かった。静寂が満ちる。
少女を腕の中に抱きながら、靖央は微かに瞠目した。
何故なら、着物越しに触れる小幸の肢体には、人としてあるべき優しいぬくもりが欠けているように思えたのだから――
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