第10話 学園でのパーティ
「お待たせしました」
今日は学園のパーティがある日だ。
私がセブンズワースの屋敷の玄関ホールで待っているとアナが現れ、そう言った。
今日のアナは濃い紫のドレスを纏っている。
私の瞳の色だ。
裾や袖口などの刺繍には黒い糸が使われている。
私の髪の色だ。
宝石類も紫と黒が使われている。
私の色に染まることを選んでくれる女性がいる。
その女性は可愛らしく、穏やかで優しく、慎み深い、まさに理想の女性だった。
前世の私からしたら、考えられないほどの幸せだ。
喜び、というよりも感慨といった感情に近いものがじわじわと胸に広がって行き、目頭が熱くなる。
「ありがとう、アナ。
君と出会えたことは、これまでの人生で最大の幸運だ」
今世の十六年に前世の八十二年分も加えても、これが最大の幸運だと思う。
その思いが、言葉となって口から出た。
「あ、あの?」
勢い余って私はまたアナを抱き締めてしまったので、アナは驚きを隠せない。
勢い衰えぬままアナの額に唇を落とすと、アナは一瞬で沸騰したように真っ赤になり
「いい加減にせんかお前はああ!!」
公爵が怒鳴り声を上げ、私の襟首を引っ張って私をアナから引き離す。
またもや公爵に強制終了させられてしまった。
「アナ。驚かせてすまない。
その、ドレスを着た君を見たら、あまりの感動でつい体が動いてしまったのだ」
真っ赤な顔を扇子でパタパタと扇ぐアナに、私は興奮のあまりスマートさの欠片もない行動を起こしてしまったことを謝罪する。
「……その、着飾った女性を見たら褒めなきゃならないのだろうけど……何と言うか……言葉にならないよ。
とにかく最高だ」
誉めなくてはならない。
それが紳士のマナーだ。
だけど、胸がいっぱいで褒め言葉が思い浮かばなかった。
「ありがとうございます……。
ジーノ様も……とても素敵ですわ」
照れながらも赤い顔でちらちらと私を見て、アナは私の服装を褒めてくれる。
実に可愛らしい。
今日のスーツはアナがプレゼントしてくれたものだ。
スーツと言っても、前世の仕事着のような服ではない。
上着は膝丈まである裾が長いもので、ボタンは五つあり胸の中央辺りまで留まる。
黒地の生地には、アナの色である銀と若草色の糸で刺繍やラインが入っている。
タイはマサリハと言われるシルクのような高級生地で若草色だ。
そこに銀糸で刺繍が入っている。
加えてスーツの随所に大粒の宝石まで
生地、縫製、宝石。
どれも最高級のものだ。
恐ろしいほどの値が付くであろうことは、商人だから分かる。
◆◆◆◆◆
「セブンズワース公爵家アナスタシア様、並びにバルバリエ侯爵家ジーノリウス様、ご入場です」
扉の前に立つ男性が私たちの名前を告げたので、私はアナをエスコートして会場に入る。
一斉に視線がこちらを向く。
身分が高いほど入場が後になる。
今日は王族がいないので、筆頭公爵家の令嬢であるアナが、つまり私たちペアが最後だ。
アナをエスコートしてパーティ会場に入るとすぐに学園長によるパーティ開催の挨拶となり、乾杯後に歓談となった。
セブンズワース家の入婿に皆興味があったのか、わらわらと人が寄って来る。
爵位が上の者が話しかけようとしているのに、下の者がそれを邪魔するわけにはいかない。
必然的に私たちは、公爵家から順に話すことになった。
やはり皆、化粧水について話したいようだった。
だが私が一先ずは全員と挨拶したがっているのを悟ると、そのまま話し込まずに一旦は引き下がってくれた。
一時間ほど掛けて参加者全員への挨拶を終えると、今度は話し込みたい人たちが待っていましたとばかりにまた集まる。
化粧水については作戦通り「私ではなくセブンズワース公爵夫人に尋ねられては?」で通した。
彼女が販売人なのだ。
筋は通っている。
化粧水の追及を
公の場でアナと踊るのはこれが初めてだ。
小声でお喋りしつつアナと踊って、私は束の間の癒やしを得た。
続けて三曲ほど踊ってから、私たちは休むために飲み物を受け取って会場の隅へと移動する。
今度はそこに女性陣が集まってきた。
「バルバリエ様もさぞお怖いでしょう?
バルバリエ様に病気が
可愛らしい顔立ちの女性が心配そうな表情で言う。
何を言われているのかすぐに理解出来なかった。
彼女は侯爵令嬢であり、爵位という意味ではアナとの身分差は小さい。
しかしセブンズワース家は強大な権力を持つ筆頭公爵家であり、
この侯爵令嬢とアナとでは、権力差という意味での身分差は圧倒的だ。
なぜアナに対して侯爵令嬢が喧嘩を売ることが出来るのだろうか。
意図せず口にしてしまった失言なのだろうか。
そう考えたが、その疑問は次の瞬間に消えた。
ちらりとアナを見たその目には
怒鳴り付けたくなるのを何とか
今の私はバルバリエ家を代表しているのだ。
人脈作りが目的のこの場で、喧嘩などしてしまったら本末転倒も
それではバルバリエ家の名に泥を塗ることになる。
何より、アナの目の前で喧嘩などしたらアナは落ち込む。
それだけは避けたい。
深呼吸をして出来るだけ心を落ち着かせてから私は口を開く。
「伝染するなどあり得ませんよ。
もし人に
何人かでも感染者が出たなら、最低でも病名くらいは付くはずです」
努めて冷静な声で私はそう言った。
「バルバリエ様は、ラーバン商会の経営者でいらっしゃるのでしょう?
立ち上げから僅か数年であっという間に大きな商会にしたと伺いましたわ」
「そう大したものではありませんよ」
別の令嬢が話を変えてくれたので、その流れに乗った。
「それほどの才覚をお持ちで、しかもそのお顔なのですから、どんな女性だって伴侶としてお選びになることが出来たでしょうに。
本当に、ご自分では婚約者を選べないなんてお可哀想ですわ」
世間ではそう見られているのか。
確かに、アドルニー子爵家ではセブンズワース公爵家からの縁談を断れないことなど
そう思ったけど、それも違った。
その令嬢はアナをちらりと見て口角を上げたのだ。
信じられない思いだった。
この女性は伯爵令嬢のはずだ。
たかが伯爵家が絶大な権力を誇るセブンズワース家を相手に、なぜここまであからさまに喧嘩を売れるのか。
全く理解出来ない。
「可哀想?
それは誤解です。
我が婚約者ほど素敵な女性を、私は見たことがありませんよ。
この人に出会えたことこそ、私の人生での最大の幸運です」
そう言ってアナの頬に唇を落とした。
今日二度目のキスだが、やはりアナは瞬時に真っ赤になった。
アナの顔から曇りが消えた。
いや、知り合いに囲まれている中でキスなどされて、それどころではなくなった。
という表現が適切だろうか。
キスをして良かった。
「よろしければ、わたくしと踊って頂けません?」
別の令嬢が私に近づいて来てそう言う。
またも信じられない思いだった。
女性が男性をダンスに誘うことはある。
夫を誘ったり、婚約者を誘ったりなどだ。
娘が父を、妹が兄を誘うこともある。
だが、未婚女性が初対面の男性をダンスに誘うなんて聞いたことがない。
特殊な場合を除き、未婚女性は男性からのダンスの申し込みを待ち、受けてよいと思ったら男性の差し出す手を取るものだ。
女性から男性に申し出たりするものではない。
平民でも商人同士で集まってパーティを開くことはあり、私も出席したことがある。
しかし、マナーに緩い平民だって女性からダンスを申し込んだなんて話は聞いたことがない。
なんて無作法な女だ。
町娘同然のアドルニー家の姉上だって、ここまで酷くない。
「申し訳ない。
婚約者がいるもので」
そう言って私は申し出を断る。
まるで浮気の誘いを断っているような言い回しだが、気分的にはそれに近かった。
「ねえ。アナスタシア様。
婚約者様をお貸し下さらない?
せっかくパーティに出席されたのに、アナスタシア様が縛り付けてしまわれたらお可哀想ですわ」
しまった。
失言だった。
私の断り方は、アナの方に話が行ってしまう可能性がある断り方だった。
まさか、自分のダンスの相手として婚約者を貸すよう
だからアナに矛先が向かうとは考えてもみなかった。
「ねえ。わたくしたちお友達でしょう?」
答えないアナに、令嬢が更に言葉を続ける。
「ええ。
ダンスだけなら、わたくしは構いませんわ」
令嬢にアナはそう答えた。
疲れていることを理由に断ろうと思ったが「お友達」という言葉が私を迷わせる。
とても友達同士には見えないが、私が断ることによってアナが不利益を被るのは困る。
「では、一曲だけでよろしければ」
迷った末、状況理解も終えてないうちから誘いを断り、アナと令嬢との間に波風を立てるのは避けることにした。
令嬢とのダンスは、やたら踊りにくかった。
この世界のダンスは、前世の社交ダンスとは違い男女の間に距離がある。
触れるのは手のひらだけで、相手の体をホールドしたりはしない。
だが、この令嬢は距離が近過ぎる。
豊満な体付きの令嬢のため、時折令嬢の胸が体に当たるほど近いのだ。
もしアナがこの場にいなくて、この女が無作法極まりない下品な女だと知らなければ、もしかしたら私は鼻の下でも伸ばしたのかもしれない。
だけど私は、この女が呆れるほど品がないことを知っているし、今はアナを一人にしてしまっているのでアナが心配で気が気ではない。
胸が当たることなど、どうでもいいことだった。
踊りながらちらちらとアナを見ていると、驚いたことに令嬢の一人がグラスをアナに投げつけようとしていた!
くそっ!
これが狙いか!
まんまと引っ掛かった!
突き飛ばすように令嬢から離れると、私は指輪に魔力を流す。
この指輪は護身用に自作した魔道具だ。
この魔道具は、作動させると僅かな時間ではあるが私の時間のみ二十倍程度進みが速くなる。
加速した時間の中で私はアナに向かって走った。
令嬢がアナに投げ付けたグラスは、加速した時間の中ではスローモーションのように見えた。
グラスとアナの間に私は体を割り込ませる。
グラスは私の胸に当たって床に落ちた。
グラスの中の液体は、私の体に掛かっただけで済んだ。
間に合った。
魔道具が効果を失い、パキリと指輪の魔石が割れた。
「アナ! 大丈夫か!?」
振り返ってアナに尋ねる。
アナは目を丸くして私を見ている。
そうか。魔道具を使ったのだったな。
二十倍の時間加速は、
普通なら走って五秒かかるところを〇.二五秒で移動してしまうのだ。
間近で見たなら当然驚くだろう。
「……え、ええ。わたくしは大丈夫ですわ」
驚きながらも、アナはそう答えた。
「お、驚きましたわ。
いきなり現れたように見えましたわ」
グラスを投げた令嬢の隣にいた令嬢が私にそう言う。
「こう見えても剣を嗜んでいます。
踏み込みの鋭さには自信がありますので」
私はそう言って誤魔化す。
「まあ。剣まで凄い腕前なのですね。
本当に、完璧なお方ですわ」
私に話しかけた令嬢がそう言う。
どうやら高速移動に驚いたのは、アナや令嬢達だけではなかったようだ。
周囲の視線が集まっているのを感じる。
ここは逃げの一手だな。
「服も汚れてしまったので、今日はここまでにしておこうと思うのだが、アナはどうしたい?」
私はアナに尋ねる。
「ジーノ様とご一緒したく思いますわ」
アナは私にそう答えた。
アナとの話し合いで、このまま帰ることが決まった。
「今日はこれで失礼します」
そう言って私が礼を
「お待ち下さい!
まだダンスの途中ですわ!」
先程まで一緒に踊っていた令嬢が大声を上げた。
本当に令嬢らしくない下品な女だ。
パーティ会場で目を吊り上げて大声を張り上げるなんて。
とはいえ、ダンスの途中で女性を放り出すのは大変失礼なことなので、彼女の怒りも理解は出来る。
「申し訳ありません。
緊急事態ですので」
私はそう言って一応謝罪の礼は
アナの手を引いて私は会場を後にした。
「……申し訳ありません。
わたくしのせいで……」
私の隣を歩くアナが呟くようにそう言った。
まだパーティがお開きの時間にはなっていないため、この時間に会場から出たのは私たちだけだ。
使用人たちは、この時間はまだ休んでいるのだろう。
視界に映る限りでは、廊下には私たち以外誰もいなかった。
学園内は学園関係者以外の立ち入りが禁じられているので、いつもならアナの側に控えているブリジットさんもいない。
私たち以外誰もいない学園施設の廊下では、アナの小さな声でもよく響いた。
しょんぼりと
衝動が抑えきれずアナを抱き締めてしまう。
「謝る必要なんてない」
アナを抱き締めながら、アナの耳元でそう呟く。
「ですが……」
それでもアナは素直に頷いてくれない。
だから私は言葉を続ける。
「謝罪の言葉を含め、言葉なんて一切必要はない。
だが、どうしても一言言いたいなら、そこは『ありがとう』だろう。
私は何一つ迷惑になんて思ってない。
アナを守りたいと、そう私が勝手に思って勝手に行動しただけだ。
だから、今は謝るところではなく礼を言うところだ。
そんな顔しないで、笑顔を見せてくれ」
アナが顔を上に向けると、アナの瞳が私の瞳を映す。
互いが互いの瞳を映し合う中、アナは顔を歪めて涙を
「アナ?」
唐突に泣き出すアナを見て私は狼狽する。
その直後、事態は驚くべき展開を見せた。
なんと!
私の腕の中にいるアナが、私を抱き返したのだ!
私の体の側部に手を置いただけの、かなり控えめな抱き方だが、確かにアナは私を抱き締めて返してくれているのだ!
まるで脳天にハンマーを叩き下ろされたような、まるで稲妻が頭に落ちたような、とにかく強烈な衝撃だった。
考えてみれば前世の八十二年と今世の十六年、併せて約一世紀も生きてきたが、家族以外の女性から抱き締められたことはこれが初めてだ。
続けようと思っていた慰めの言葉はすっかり消し飛び、頭は真っ白になった。
これは夢か?
涙を
ああ。そうだ。
アナは泣いていたのだ。
意識を飛ばしている場合じゃない。
「アナ。泣かないでくれ。
辛いことがあるなら話してくれ。
君に寄り添う権利を私にくれないか?」
彼女こそが私の人生の伴侶なのだ。
アナが辛いときに寄り添ってこそ人生の伴侶だろう。
私はその思いを口にした。
「誤解ですわ」
「え? 誤解?」
「ええ。わたくしは辛くて泣いているのではありませんの。
ジーノ様があまりにもお優しいから、嬉しくて泣いているのですわ」
「優しい? 心当たりはないが?」
「……ジーノ様」
「なんだ?」
「……お慕いしております」
(っ!!!)
まるで爆発したかのような激情が脳天にまで一気に突き上がる。
この感情は何なのか。
ああ。
そうか。
これが人を愛するということなのか。
「私もだ。
アナ、愛している」
愛を伝える言葉は、すんなりと口から出た。
心の中では濁流のように感情が渦巻いていたので、それを少し口から漏らせばいいだけだった。
むしろアナを求める強烈な衝動を抑えることに私は苦労した。
その日私たちは、初めて唇を重ね合わせた。
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