第6話

 真っ暗闇の中、僕は急に目が覚めた。枕元に置いてあったスマホで時刻を確認してみる。夜中の二時半。なぜこんな時間に目が覚めたのだろう。幽子が嫌がらせで僕を揺さぶりでもしたか?夢の中へ戻ろうと目を瞑るがなかなか意識が遠のかない。う~ん。


 眠れない。眠れないとなると、何かのせいで僕の安眠が妨害されているのか。昨日の幽子との悶着で生じた心のわだかまりのせいだとか、就活が上手くいっていないストレスのせいだとか、原因を上げれば思い浮かぶ。しかし僕はある変化に気が付き、そのような思考の諸々が頭から吹っ飛んだ。


 変化、いや正確には異変だ。異変が生じている。今僕が寝ているこの部屋に。これが僕の安眠を妨害している事は容易に想像がついた。

 まず部屋の匂いが違う。覚えのある何かの匂い。金属のような光沢をイメージさせる匂い。鉄のような何か。そんな匂い。


 そして次に音。「ぴちゃり……ぴちゃり」という水滴音。小さかったが、何かの液体が滴っている音を僕の聴覚は確かに捉えていた。暗闇の中で反響する水滴音の正体は見当もつかず、そんな得体の知れなさが不気味さを醸し出す。


 そして最後に感触。僕が寝ている布団の端っこが妙に湿っぽい気がする。手をさっとずらしてその部分を触ってみる。そうしたら。


「濡れてる……」

 

 敷布団の端がしっとりと水分を帯びているのを直接肌で感じ、僕は思わず呟いた。何が起こっているんだ。まさか幽子が犯人か?昨日の喧嘩の続きか?台所の水道をいじられて部屋を水浸しにでもされたのだろうか。そうだとしたら流石に悪ふざけが過ぎている。アイツを怒らせたのは初めてだが、怒るとこんな事をしでかすのか。こんなに人を不快にさせるような嫌がらせをするなんて許さん。説教の一つでもしてやろう。そう決心して僕は布団を蹴飛ばし、電気を点けた。


「おい、幽子っ!」


 そう叫んで勢い良く電気の紐を引っ張る。

 明かりが点く。一瞬で光が部屋に満ちる。


 部屋の全貌が眩い光と共に目の中へと入ってきた。その時は、僕は状況を上手く飲み込めなかった。しばらく間が開いた後で、この六畳間で起こっている事を認識した。しかしその瞬間、真っ先に明かりを点けた事を後悔した。


 照らし出された空間は普段と著しく様子が違った。そこに広がっていたのは、異様で凄惨な様相を呈する六畳間だった。なぜ僕の部屋がこんな事になっているのか。寝る前と今の状況との間に、あまりにも脈絡が無さすぎた。


「幽子……幽子……幽子…………」


 部屋の惨状を目の当たりにした僕はただ茫然と、その状況の渦中にいた人物の名前を呟く事しか出来なかった。


「何だよ……これ……」


 まず最初に、明かりの満ちた部屋を見た時、床が赤かった。いや紅かった。その原因は巨大な水溜り。僕が寝ていた布団に到達するほどの、大きな真紅の水溜りが床に発生していた。本来雨など降るはずの無い部屋の中に、水溜まりが出来る事自体おかしい話だ。それも真紅の水溜り。


 そしてそれの発生源があると思しきはその少し奥の、部屋の隅に鎮座する机。そこから水溜りは発生していた。なぜか僕の専攻と関係の無い法学関連の本や六法全書が積み上げられているのが気になったが。それらに囲まれて机に突っ伏している何者かの青白い手首から、それが滴っていた。


 その何者かの出で立ちは、背丈は百六十センチ程。黒のカーディガンに白いロングスカートという女子大学生的な出で立ち。髪は茶色のロングヘアーといったところ。伏せている姿勢のため顔は良く見えない。しかし物凄い既視感の後姿。そう彼女は。


「幽子……」


 そう。幽子その人だった。彼女の姿からは就寝前までの元気は全く感じられず、机からだらりと力なく左腕を垂らしていた。その手首からは規則正しい感覚で「ぴちゃり……ぴちゃり……」と真紅の液体が滴っている。おびただしい量のそれがすでに流出し、例の水溜りを形成していたという事は、それの大きさから容易に窺い知ることが出来た。


 そして彼女から滴り流れ出ているものから、先程布団の中で感じた鉄のような匂いが発せられていると気が付く。真紅、鉄のような匂い。ここまで来てようやく状況が飲み込めた。幽子の手首から流れ出た真紅の形成するものの正体が、水溜りなどではなく、血溜まりであると理解するまでに僕は少し時間がかかり過ぎたと思う。


 繋ぎ合わせると、机に突っ伏す幽子の腕から大量の血液が流れ出ており、それが床の大部分を真紅に濡らしていて、僕がそれを見つめているという、一枚の絵になった。ただ茫然と立ち尽くす事しか出来ない僕は、その絵の中で何の面白味も無い邪魔な存在として浮いてしまっているかもしれないが。


 一人の若い女性の死が部屋を真紅に染めている。そんな状況の中で僕は生気と思考力を失った声で彼女の名を呟き、その惨状をずっとずっと眺めていた。

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