マルとネア ~2人の天使のお話~

なしろ

第1話 それは白昼夢のような、

(ここは……どこだ……?)


 ふと気づくと、見知らぬ草原に立っていた。辺りには何もなく、ただひたすらに緑が広がっている。

 見上げれば空はどこまでも澄んだ青色をしていて、雲は遠くの方に僅かに見えるだけであった。太陽が辺りを照らしているはずなのに、光源が判然としない。時折り風が吹き、髪や衣服の裾を揺らした。

(何かがおかしい……いったい何が……)

 先程からぬるりとした違和感がある。空の青も草の緑も、とても鮮やかな色彩を感じるのに、どこか輪郭がぼやけたように滲んでいる。遠くの方の景色は薄ぼんやりと白く霞み、空間に溶けていっているかのようだ。

 不意に風が強く吹き抜ける。周囲の草が靡いて波のような軌跡を残した。

(そうか、音だ)

 風が吹き、周囲の草を揺らしている。空には雲が流れ、たまに鳥も飛んでいるようなのに、恐ろしいほど静かだ。いや、よくよく聴けば全くの無音ではない。草が擦れる音も、鳥が遠くで鳴く声も、意識を向ければ聞こえてくる。ただ壁越しに聞こえる音のように、鈍く曖昧に響いた。


 ふっと、急に光が遮られたかのように暗くなった。雲はほとんどなかったはずなのに何故、と疑問に思い、空を仰ぎ見る。

「!?」

 空中に人影があった。逆光になってよく分からないが、二人いるように見える。

 予想もしていなかった状況に驚き、呆然と見上げているうちに、人影が徐々にこちらに降りてくる。次第に姿形がはっきりと捉えられるようになり、そして、その人影はふわりと音もなく目の前に降り立った。

(女の子……!?)

 空中から現れた二つの人影は、まだ年端もいかない少女に見えた。どちらも背に白い翼を持っていて、俺の肩よりも頭一つ分は低い。

 一人は、金の髪に青い目、白い服を纏っている。もう一人は、黒の髪に赤い目、黒い服を纏っている。

 横並びに降り立った二人は、お互いに向き合って何事かを囁きあったのち、こちらに向き直った。そのタイミングが二人とも全く同じで、少々面食らう。

「ようこそ、この世界へ! ボクたちはお兄さんをお迎えに来ました! それで、えっと……あれ? なんだっけ……?」

 金髪の方が元気よく口を開いた。しかし次に言う言葉を忘れたのか、急に尻すぼみになる。救いを求めるように隣の少女の方を見た。

「まずは自己紹介じゃない?」

 黒髪の方が小声でアドバイスをする。

「あ、そっか! ボクはマルカって言います!」

 仕切り直すかのように、金髪の方が元気よく言った。

「ぼくはネアノと言います」

 続いて、黒髪の方が静かに言った。

 見た目通りの可愛らしい声で二人に自己紹介をされ、俺は戸惑いながらも答えようとした。

「俺は……」

「あっ! お兄さんはここでお名前を言ってはいけません!」

「何故だ?」

 俺が名乗りかけたのを慌てて金髪の……マルカだったか、が遮る。

「この世界で名乗ってしまうと、元の世界に帰れなくなるからです」

 黒髪の方、確か……ネアノ? が俺の問いに答える。俺がとっさに言われた意味を理解できず、言葉に詰まっていると、マルカが再び口を開いた。

「名前を言うことで、お兄さんの存在がこの世界に認識されちゃうんです! そうなると、ここから出られなくなってしまいます!」

「お兄さんは本来この世界にいるべき人ではありません……。でも、名前を言ってしまえば、それはここに存在する証明をしてしまうことになります」

「何を言ってるんだ……?」

 名前を言うだけで世界が俺を認識する? いったいこの子たちは何の話をしているのだろうか……。

「とにかく! この世界から出るまでは絶対に名乗らないでくださいね!」

 マルカが俺を見上げながら真剣な表情で言う。その隣でネアノも上目遣いに俺をじっと見つめている。

「わ、わかったよ。忠告に従おう」

 納得した訳ではないが、ひとまず二人の言う通りにすることにした。青と赤、二対の瞳に見つめられて、俺はやや気圧されてしまったようだ。

「しかしこれからどうすればいいんだ?」

「まずは森を抜けます!」

 俺がそれ以上追求しなかったことにほっとしたのか、マルカがぱっと表情を明るくすると、朗らかに答えた。

「森? そんなものいったいどこに……」

 先程ぐるりと周囲を見たが、見渡す限り草原が広がっていて、森のようなものは見えなかったはずだ。

「あっちです」

 ネアノが右手を指し示す。その手に釣られるように視線を向けると、

「!?」

 確かにその手が指し示す先に、こんもりと木々が生い茂る森が見えた。

「馬鹿な! さっき見た時は無かったはず……」

「それはお兄さんがたった今認識したからです! 森は最初からあそこにありますよ!」

 マルカが何故か得意そうに胸を張る。

「この世界には、おそらくお兄さんの目に見えていないものが沢山あります。だから、ぼくたちの言うことに従ってくださいね」

 諭すように、ネアノがゆっくりと言葉を紡いだ。

「あ、ああ……」

 思わず素直に頷くと、それまで無表情に近かったネアノが、小さく笑ったような気がした。

「それではさっそく行きましょうか」



 前を歩く二人に連れられて、俺は突如として現れた森へ向かう。気づけば最初にいた場所から、森へと向かう道のようなものが続いていた。これも先程までは確かに無かったはずだ。

 そのまましばらく道なりに歩き、俺たち三人は森へと辿り着いた。

 森に足を踏み入れる直前、マルカがこちらを振り返って言う。

「お兄さん、はぐれないようにしっかりついてきてくださいね! 運が悪いと永遠にさまよっちゃいますから!」

「……運が良いとどうなるんだ?」

 俺は恐る恐る尋ねた。なんとなく嫌な予感がする。

「狭間の怪物に食べられて魂が完全に消滅しちゃいますね!」

 マルカは事も無げに答えた。まるで明日の天気でも尋ねられたかのような気安さだ。

「なっ……」

「ぼくたちから離れなければ大丈夫です。だからそんなに心配する必要はありません」

 俺が絶句していると、フォローするかのようにネアノが言葉を継いだ。

 それを聞いても全く安心は出来ず、逆に得体の知れない恐怖感が、じわじわと足元から這い上がってくるように感じた。そもそもここは……なんだ? 意図的に考えないようにしていたが、やはりおかしい。この子たちはいったい俺をどこへ連れて行くつもりだ……?

 思わず足を止めてしまった俺を、二人が不思議そうに見つめる。

「どうかしましたか?」

 ネアノが小首を傾げて問いかける。

「……」

 俺は、浮かんでは消える泡のような不安感に苛まれながら、どうすべきかを必死に思案する。このままこの少女たちに素直についていっていいものなのか? 変わらず周囲は音がほとんど感じられない。しかし急に風が、空気が、べたべたとまとわりつくように感じられた。なんとなくだが、この森に入ってしまえば、もう後戻りはできないような気がした。

 二人は微動だにせず無言でこちらを見つめている。あらためて二人と向かい合うと、その宝石のような瞳も相まってか、人形のようにも見える。彼女たちの作り物めいた容姿と、見渡す限り人工物のない風景との対比が、ひどくアンバランスに感じた。それは俺が先程から感じている違和感の原因の一つなのかもしれない。

 無音に近いはずの空間に、微かに木々のざわめきが聞こえる。そう認識できるほどの静けさに耐えきれず、俺が身じろぎした直後、ネアノが半歩こちらに近寄り、沈黙を破った。

「お兄さんが不安に思う気持ちはわかります。ただ、このままここに留まっていても、お兄さんにとって良い状況になるわけではありません。今だけでもぼくたちを信じてついてきてもらえませんか?」

 言い聞かせるわけでもなく、懇願するわけでもなく、ただ淡々と事実を述べている。少なくとも俺にはそう感じられた。

「……なら一つ教えてくれ。ここはいったいなんなんだ……?」

 そして、君たちはいったいなんなんだ、と続けようか迷い、そのまま口を噤んだ。その答えによっては、やはり彼女たちについていくのが躊躇われるような気がしたからだ。

「それは……ぼくたちからお伝えすることはできません。それが、あなたをこの世界に定着させてしまう一助となってしまうからです。ただ言えるのは……ここでは言葉と意識がとても力を持っています。なので、口に出したこと、思ったことや考えたことが、世界のあり方そのものに影響を及ぼします」

 ネアノはそこで一呼吸置き、さらに言葉を続けた。

「それは逆に言えば、お兄さんが進むべき道を誤らず、正しい道へ進むという意識を持ち続けることができれば、その望みは必ず叶えられるということです。ぼくたちの目的は、そのお手伝いをすることです。今言えることはこのくらいですが……これでは信じてもらえませんか?」

 少し困ったような顔で眉尻を下げ、小さく微笑むネアノの顔を見て、ああ、困らせるつもりはなかったんだけどな、と今更ながら少し後悔した。腑に落ちた訳ではないが、精一杯説明をしようとしてくれたことで、彼女たちを少しは信じてもいいのではないかと思い始める。そもそもここからどこへ行ったらいいのかさえ全くわからない。訳がわからないまま、訳もわからないうちに消えるかもしれないのは嫌だった。それならば、もう少しこの二人に付き合ってもいいのかもしれない。

「わかった。いや、話の中身はよくわからないが……君たちについていこう。他の選択肢はあまりなさそうだ」

 俺がそう言うと、ネアノとマルカは明らかにほっとした様子で表情を緩めた。思っていたより二人を不安にさせてしまっていたようだった。

「そうと決まればさっそく出発です! ボクたちについてきてください!」

 元気なマルカの声に背中を押されるように、俺たちは森の中に足を踏み入れた。


 先導する二人について、黙々と進む。森の中は思っていたよりは明るかったが、外に比べればかなり暗い。鬱蒼と木々が生い茂っていて、空はあまり見えなかった。足元も木の根や岩などで決して平坦ではない……はずなのだが、不思議と難なく歩くことができた。それにも関わらず、一瞬でも気を抜くとすぐに、前を行く二人を見失いそうになる。決して速く歩いているわけではないのに、だ。俺は、はぐれまいと白い翼が輝く二人の背を必死に追いかけた。


「そういえばお兄さんに大事なことをお伝えし忘れていました!」

 薄暗い森の中をしばらく進んだころ、前を歩くマルカが急に言葉を発した。

「今度はなんだ……?」

 俺は身構えながら尋ねる。明朗な声が逆に不安を煽るような気がしてきた。

「この森を抜けると、白い門があると思います。白い門への道は、お兄さん一人で進んでもらう必要があるので、気をつけてくださいね!」

 白い門。これまでの人生においてあまり馴染みのない代物だ。

「その門へ行けばいいんだな? 道は分かるものなのか……?」

「心配する必要ありません。一本道ですし、遠くからも見えるので、すぐに分かると思いますよ」

 思わずこぼしてしまった不安を、ネアノが丁寧に拾い上げてくれた。

「そうか……それならなんとかなるかな。ありがとう」

「どういたしまして」

 そのやりとりが可笑しかったのか、ネアノは口元に手を当て、くすくすと笑った。なんとなくそれが意外で、思わずまじまじと彼女を見てしまってから、慌てて視線を逸らす。あまりじっと顔を見られても、気持ちの良いものではないだろう。ネアノはそんな俺の様子に気付いたのかどうかは分からないが、マルカに声をかける。

「マル、ありがとう。大事なことなのに伝え忘れてた」

「どういたしまして! ネアが忘れてるなんて珍しいね。もしかして体調が悪いとか……?」

 そう言いながら不安になったのか、マルカはネアノの顔を覗き込んだ。

「なんともないよ。あんまりここに長居するとよくないし、先を急ごう」

 マルカを安心させるように、ネアノが柔らかく微笑む。

「ならよかった! うん、のんびりしてて夜になったら大変だもんね!」

 二人の会話から普段の仲の良さそうな様子が垣間見え、わずかに頬が緩む。夜になるとどうなるのかが少し気になったが、恐らく知らない方が幸せなことだろうと思い、俺は沈黙を保った。


 その後は三人とも無言で歩き、しばらくすると森を抜けた。急に開けた視界に目が眩む。再び見渡す限りの草原と、目の覚めるような青い空が見える。森に入る前と違うのは、少し離れた丘の上に、巨大な白い門が見えることだった。

「はい! 着きました! ここからはお兄さん一人で行ってください! あっ! よそ見をせずにまっすぐ向かってくださいね!」

「あ、ああ……」

 俺は先ほどまでとの明るさの差に当てられたのか、軽いめまいを感じながら緩慢に答えた。

「じゃあボクたちはこれでさようならです! お元気で~!」

「……気をつけて行ってください」

「二人ともありがとう。それじゃあ」

 なんとか礼を言って、手を振る二人を背に、俺は門の方へと一人向かった。

(なんだか不思議な子たちだったな……。いったい何者なんだろう)

 幼いころ絵本で見たような、白く輝く翼を持つ子どもたち。その子どもたちが住まう世界は、幸せのあふれる楽園だという。そんな、取り留めのないことを考えながら足を動かすうちに、俺は丘の上の、白く輝く門へと辿り着いた。


 下から見上げると、想像以上に高く、空の果てまで続いているのではないかと錯覚するほどだ。青い空を四角く切り取ったような白い門とのコントラストが眩しく、思わず目を細める。門には両開きの大きな扉が付いているが、見るからに重量がありそうで、俺一人の力ではとても開きそうにない。さてどうしたものかと、足を止めて考えようとした。しかし、そんな俺の不安をよそに、よく見ると金や銀で細かな装飾が施されていたその扉は、正面に立った瞬間、静かに開き始める。



 そして俺は、白い光に包まれた。

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