アカムツ

黒板の前に立つ生物のおじいちゃん先生は、睡魔に負けて机に沈んでいく生徒たちを気にする素振りもなく、淡々と授業を進めた。

わたしは授業中の時間が空いている時は自然とデッサン用の鉛筆を握っている。

ノートの隅に、現実をなぞるように手を動かす。

先生の声を作業BGMにしながら、前の席に座るふゆくんの後ろ姿をしゃかしゃか描いた。

突然、教室にスマホの着信音が鳴り響く。

ふゆくんは先生に声をかけてから席を立ち、廊下に出ていってしまう。

思わず、授業中なのに教室の外へ飛び出しそうになった。


電話の内容を聞きたい欲求を抑え込み、椅子にお尻を押し付けて我慢する。

わたしは長い髪を指で手繰り、表情を隠すように髪の中に顔を埋めた。

心細くなったり、心に何か引っかかっている時の癖だ。

授業が終わるまで残り七分を示す時計に目を向けて、ふゆくんが戻ってこないことに泣きそうになる。

わたしは心の中でおまじないのように何度も繰り返した。

ふゆくん、ふゆくん、ふゆくん、ふゆくん。

自分の髪を何度も梳いたり指に絡ませたりして気を紛らわせる。

昼休みのチャイムが鳴って、ふゆくんを追いかける為に扉を開けて廊下に出た。


ふゆくんは廊下の窓際で、スマホを片手にじっと佇んでいる。

窓からの光はわたしには逆光で、こっちを見ていることはわかったけど、近寄らないと表情がよく見えなかった。

「えーみぃちゃぁん」

甘えたような口調でふゆくんはわたしの名前を呼んだ。

わたしの存在に気づくと、目を細めて笑いかける。

笑っているけれど、笑っていない。

冷えきっていて、何かに激しく怒っているようだった。

「なあ、浮気って、どういうことだよ?」

「あ、えっと……なんの話?」


ここで黙りを決め込むと更に激高を重ねるだろう。

しかし、煮え切らない返答は沈黙と大差が無かったらしい。

ふゆくんは大きく舌打ちをして、わたしの腕を痛いほど強く引っ張って歩き出した。

取り繕っていた笑顔は破り捨てられ、いつもの無表情に戻る。

そのまま北校舎から渡り廊下を通り抜けて、第二体育館までたどり着くと、体育倉庫の中に引きずり込まれた。

普段、生徒だけでそこに出入りすることはまず無いし、基本は鍵が閉まっているはずだ。

「か、鍵はどうしたの?」

「はぁ?どうでもいいだろ、そんなこと」

倉庫に入る時に勢い良くふゆくんに背中を押されてしまい、わたしは転んで尻餅をついた。

そんなわたしをふゆくんは真顔で見下ろしている。


「なあ、なんで浮気したの?あなたは僕に飽きちゃったの?あんなに好きだって言ってくれたのは全部嘘だったのか?酷くない?」

「浮気なんて……しないよ。絶対にしてない。ねえ、何の話をしているの?わたしはふゆくんがいっとう好きだよ。わたしが浮気なんてするわけないよ……」

「どうだかね……依未ちゃんはとんでもない嘘吐きだからなァ」

小さな窓から射し込む日光に照らし出されたのは、カビ臭い体育倉庫の中にこもった白い煙だった。

モウモウと舞い上がる粉塵に、わたしは目を細めて小さく咳き込んだ。


「それとも少しくらい、……した方がいいのかな……?」

「え……なにっ、……ッ、ガッ、かはっ、ひゅ、ぁっ」

刹那、ふゆくんの男らしい拳が見事な軌道を描き、わたしの腹部を深く抉る。

食道にせり上がる胃酸をゴクリと飲み込み、吐瀉物を撒き散らさぬよう気をつけながら、わたしはふゆくんのサンドバッグになった。

凡そ自分の身体から出ているとは思えない鈍い音が何度も響き、とうとう堪えきれずに胃の中の物を吐き出してしまう。

「おえぇぇっ、げほっ、げぼ、ッ、うぇっ、はっ、はぁっ……」

身体をくの字に折り曲げて、わたしは呻く。


反射的に溢れた涙で視界は歪み、顔中が体液でベタベタになっている。

しゃがみ込んだふゆくんに頬を強く叩かれて、身体が小さく跳ねる。

ふゆくんはそれを眺めて、満悦に蕩けた目つきで、喉を鳴らした。

それから、わたしの背中に手を伸ばして、宥めるように撫でる。

身動きできなくなったところを狙っていたように、ふゆくんは猫なで声で言った。

「依未ちゃん、依未ちゃん、依未ちゃん。ああ、困ったな。どうしよう、こんなの駄目だよね。駄目なんだけどさ、すっげー可愛い……。僕には依未ちゃんだけなんだよ。こんなに誰かを好きになったのは初めてなんだ。どこにも行かないでよ。お願いだからずっと一緒にいてよ。他の人間なんて頼らないで……」


「ふ、ゆ、く……ん」

わたしが呼ぶと抱きついてきたので、何をするのかとぼんやりしていると、顎から胸元の辺りをモソモソ手探りして、わたしの首を絞め始めたのである。

キリキリと力を強められて、次第に呼吸が荒くなっていく。

わたしは酸素を欲して、バタバタもがいて悶絶した。

ふゆくんは顔を近づけて僅かに傾けた唇をぴたりと重ねる。

口内は嘔吐物でぐちゃぐちゃなのに、ふゆくんは気にした様子もなく、気持ち良いくらい蕩ける口づけをしてきた。

喉の奥が焼けそうなほど甘い。

不躾で無粋な勢いなんてない、不思議と安堵を感じさせる密着だ。


胃液混じりの唾液が口内に膜を張るとふゆくんの厚い舌が絡まって、首にあった手はいつの間にか耳の淵を擽っている。

思考はフワフワと溶けて、全身がトロンと多幸感に沈み込んだ。

唇を離されると肺に大量の酸素が入ってきて、わたしは激しく咳き込む。

「すき、すき……頭おかしくなっちゃう……好きだよ。ずっと一緒にいて……三月なんかより僕の方があなたを愛してるんだよ……」

ふゆくんの瞳はいつもより暗く翳っていた。

筋張った大きな手が甘やかすようにわたしの髪を梳く。

「ふゆくん……わたしのこと、殺したいの?」

乱れた呼吸を整えながら、わたしは尋ねる。


そういえば、首が絞まって死ぬ人間は窒息よりも、首の骨が折れることが原因であることが多いとテレビで見たことがあった。

「わたしは、いいよ」

露骨にふゆくんの表情が凍りつく。

翠色の瞳に光が戻り、ふゆくんは張りつめた力も崩れてシクシク泣きだした。

感情の発露に罪悪感がつきまとうなら、暴力ほど効率の悪いものはない。

ふゆくんは胸苦しさを抑えているようで、わたしの方にズドンと倒れ込んできた。

わたしの腰に縋りつくと、顔一面に涙を溢れさせる。

「許してください。こんなつもりじゃなかった。僕がおかしいんだ。どうしよう。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

今にも死ぬ人のようにただ泣き喚いていた。

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