第44話 峠の別れ

 この話の主な登場人物


 カトリーヌ 主人公(わたし)

 フランツ 護衛

 ヒルダ 家庭教師


 デニス 金髪の剣士

 従兵 デニスの配下

 コック長


  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆


「峠の別れって?」


 デニスが分からないという顔で聞き返す。


 従兵は、「ああ、そうか」とつぶやき、その後に、「若はお忙しいから、あまり演劇とか歌劇をご覧にならないので分からないのかも知れませんが、ほら、あの、とても有名なお話ですよ」


「どういった話なんだ」


「エルザスとの戦争に負けて王室から人質を差し出すことになったのですが、その時に、七歳になったばかりの息子と引き離された、第三王妃、エーベルファイン母子の別れの物語です」


「あっ、思いだしだぞ」とデニスが勢いよく言った。そして、「峠での母子の別れか!」と従兵を見た。


「そうです、その物語です。息子が人質として他国へ旅立つときに母親が付き添い、国境の城壁プルートが見える峠で最後の別れをする、それがクライマックスなんですよ。この箇所になると観劇している人々は、みな涙を流し、特にご婦人はハンカチがいくつあっても足りないとまで言われている名シーンです。それが、いま、そこに居られるフランツ殿ですよ」


 そのあと全員でフランツを見た。


「そうなんですか?」


 ヒルダがフランツに問いかける。


「わたしも劇は見て居ないけど、どうもそういう話で伝わっているらしい」


「劇の見所を教えてくれないか」


 デニスが従兵に尋ねると、彼は、まず、「えーと」と記憶を呼び起こし、その後にこう続けた。


「見所は三カ所。まず、戦争でわが王の第一王子が捕虜となり、エルザス側、フォルチェ家の王が捕虜交換の場に訪れたシーンです。数人いるゲルマニア側の王子を一瞥したあと、第三貴妃、エーベル妃の前に立ち、その傍らの息子、つまりフランツ殿を見て、『この子を人質とする』と宣言するんです。そのときのエーベル妃の驚きと嘆きが、また、涙を誘うんでさ。『後生ですから、まだ幼いこの子だけはおやめくださいっ!』と懇願するのですが、フォルチェ家の王が『それはならん』と厳しい決定をくだします。第一と第二妃はそれを黙って聞いています。何しろ自分たちの息子は人質にならずに済むのですから」


 それをわたしは暗い表情で聞いた。

 さらに従兵の言葉が続く。


「次のシーンは月下の誓い。エーベル妃は屋敷に戻って泣き崩れ、息子と別れたくないとずっと涙に暮れています。それを息子が諭すシーンです。部屋の灯りは落ちて暗がりのなかに月が光をさし、それを浴びながら、『離ればなれになっても、同じ月が見えます』と、どんなに離れても同じ空の下にいるのだと、まだ七歳の子供が、そう母親に語りかけるのです」


 そのとき、鼻がぐすっと音を立てる。

 見るとヒルダがハンカチを手に涙を拭いていた。


「そして例の『峠の別れ』です。エーベル妃は同じ馬車で息子に付き添います。何かで遅れたら少しでも一緒に居られるのに、何事もなく無事に国境まで着いてしまう。もともとそれほど離れていないので、あっという間にプルートが見える峠まで。そこがお別れの場所です。息子を抱きしめ、このままどこか遠くに逃亡したいと泣く母親に、息子が、『あまりお嘆きになられますとお身体に触ります。生きていればまた会うことも適いましょう、ですから笑顔で。いつか再開する希望を胸に、それを糧に、ご壮健であられますよう』と笑顔で母親に希望を芽生えさせます」


 従兵はそこで咳払いして、後を続けた。


「そして単身、人質となり、エルザスの兵に囲まれて、自らの足で歩いて敵国へと。エーベル妃が名を呼ぶ、すると息子が振り返り手を振る。それを何度か繰り返し、やがてプルートの城門をくぐり、その扉が閉じてしまう。それが別離。エーベル妃が泣き崩れ、そしてずっとその場を立ち去らない。これで幕となります」


「うぐっ、ひっぐ、母子を引き裂くなんて酷い」とヒルダが泣いている。


 わたしは、──ヒルダ、気持ち分かるけど、それをわたし達が言うのはちょっと。と思う。

 その悲しい別れの決定をしたのは、わたしの生家、フォルチェ家なのだから。


「うん、完全に思い出した。たしか歌もあるだろ、『Hänschen klein』(ハンス・クライン:幼いハンス)」とデニスが言った。


 それを受けて従兵が、「はい、最後のシーンに流れます」


「う、歌があるんですか」目と鼻を真っ赤にしたヒルダがたずねる。


「うん、こんな歌だ」とデニスが歌う。

※日本では唱歌『ちょうちょ』として伝わっているけれども、本来は母子の別れの歌。



「ヘンスヒェン クラィン ギン アラィン」

『幼いハンス坊やは一人旅に出た』

(日本語の旋律 「ちょうちょ、ちょうちょ」)


「イン ディ ヴァィテ ヴェルト ヒンナイン」

『広い世の中へと』

(「菜の花にとまれ」)


 こう歌い出した。


「シュトク ウン フー シュテー イーム グー」

『ステッキと帽子が良く似合う』


「イス ガーァ ヴォールゲムー」

『胸を張り、威風堂々と』


「アーベァ ムッテァ ヴァィネッ ゼーァ」

『でもお母さんは嘆き悲しんでいます』


「ハッ ヤー ヌン カィン ヘンスヒェン メーァ」

『だってもう会えなくなるのだから』


「ヴュンシ ディァ グルュク ザークト イーァ ブリク」

『幸運を祈るよと母さんの目が言う』


「ケーァ ヌーァ バルト ツルュク」

『きっと、すぐに戻ってくるのですよ!』


 デニスが歌い終わると、ヒルダが声を大きくして泣いた。


「うわーん、ハンスかわいそう。それなのに健気で。えっ、ハ、ハンス? フランツでなくて?」


 カフィを入れ終えたコック長が、答えながらカップをテーブルに差し出してくれた。


「本名では憚られるからです」


「はばかられるって、いったいどんな」


 ヒルダが涙を拭きながら首を傾げた。


「だって他に数人の王子が居るというのに、たった一人、しかもまだ幼いフランツ殿を人身御供として差し出したのですから、家にとってもあまり言いたくはない、または広まって欲しくない話なんです。だから劇では『ハンス』になっています。でも国民は誰もがそれが『フランツ』であると知っています」


 わたしはそれを黙って聞いていた。

 そしてその話を知っていた。もちろん当事者であるフランツも。

 でも改めて聞くと、我がフォルチェ家がやったことが、とてつもなく心のない行いであると思い知らされたのだ。

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