第32話 やっと就寝

 この話の主な登場人物


 カトリーヌ 主人公(わたし)

 フランツ 護衛

 ヒルダ 家庭教師


  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



 フランツとヒルダは神妙な面持ちで手紙を読み終え、そして顔をあげた。

 わたしは両膝のうえでスカートを握りしめ、そしてぶるぶると身体を震わせて泣いた。


「わたしが、わたしが意固地を張ったばかりに、オーギュスタンだけでなく、アナベルにも気を使わせて。全部、わたしの我が侭が招いたことだわ」

 そして、「全部、わたしが悪い」と再度つぶやいた。


「そんなことないですよっ!」と、震えるわたしの手にそっと添えてくれたのはヒルダだった。

 そして、「誰も悪くありません、行き違いの話です」と言ってくれる。


「でも、でも」


 涙が止まらないわたしは、そうつぶやくしかなかった。

 そんなわたしをフランツはやさしく抱き寄せてくれた。


 彼は、「自分を責めるな」と言ったあと、耳元で、「カトリーヌ」とささやいた。

 それで震えが少し収まる。

 さらに、「誰が悪いのではない、これはそう言った話ではない」と慰めてもくれる。


 わたしはすがる。

 フランツにすがる。

 ぎゅっと彼の服を掴み、そこに身体を埋める。


 いつもいつも大変なときに助けてくれる。

 小さなことなら足場が悪いとに手を差し伸べてくれる。

 高いところの物を取ってくれる。

 それは何でもない日常。

 子供の頃から続く毎日。


 だけど今晩のような恐ろしいことや悲しい事が続くとき、この、彼の手は、その恐ろしい物をわたしに寄せ付けないように打ち払ってくれる。

 まるで破邪の手。

 それが彼の手。

 それに抱かれる。

 その絶対的な安心感。


 わたしは見上げる。

 そこにはフランツの顔がある。

 やさしく微笑んでいる。

 わたしは無意識に求める。

 彼の唇を。


 それは毒によりあの死の淵を彷徨ったとき、きらめいたただ一つの希望だった。

 彼の唇にはそんな意味がある。

 わたしはそれを求め、彼の首に手を回す。

 そしてフランツはそれに応えてくれた。

 わたしたち二人は唇を重ねた。

 それは身体の中から燃え上がるようなキスだった。


 それを見たヒルダはそっと立ち上がり、馬車の陰に身を潜める。

 背を馬車にあずけながら、「誓いのキスはわたしの目の前でしないでって言ったのに」と口を尖らせた。

 そして、天を見上げ、またたく星を見つめながら、「あーあ、わたしにも素敵な殿方が現れないかなぁ」とつぶやき、そっと星に祈った。



 わたしは本当はもっと、その、フランツと良い雰囲気に浸りたかった。

 だけど逃避行のまっただ中。

 しかも初日。

 それにヒルダを放っておくのも申し訳なかった。


「ヒルダ、ヒルダ、どこなの」


 声をかけると、しばらくののち、馬車の陰からヒルダが顔をのぞかせる。

 頭を横にして、目だけをこちらに向け、「お済みですか」と聞いた。


「ごめんなさい、二人だけの世界にしてしまって」とわたしは申し訳なさそうにする。


 フランツも、「ヒルダ嬢、気を使わせてすまない」と謝る。


 ヒルダは身体の前にそろえた両手をおいて、つつっと寄ってきた。


「無理もないですよ、新婚初日なんですから」と、たき火の前に座る。


「いま何時かしら」


 わたしは時間が気になった。


「午前三時かな」とヒルダが星を見て言った。


「そうだね、そんな時間だ」とフランツが肯定する。


 馬車に機械式の時計があるというのに、それも見ずに二人は即座にそう答えた。

 フランツは戦場の経験があり、狩りもするから星で時間を計ることもできるのは知っている。

 だけどヒルダはその学識から星を見て時間を言い当てる。

 そんな生きる力を二人は持っているというのに、わたしは持っていない。


 いままで求められた能力は、社交の場での挨拶や会話といった振る舞い。

 それがほぼ全てだった。

 だけど、こうやって邸宅やその組織の庇護から外れると、そんな能力はほとんど意味がなかった。


 ──ちゃんと生きる力を身につけないと、何時までもこの二人に迷惑をかけっぱなし。


 そんなことを考えているとヒルダがあくびをした。


「ふあぁー、もうそろそろ交代で休みませんか」と背伸びをし、「先に失礼してコンパートメントで横にならせていただきます」と腰を上げた。


 それは二人でごゆっくりという意味合いが込められている。

 それを察したフランツが、「ヒルダ嬢、そんなに気を使うことはないよ。さ、カトリーヌ、君も休んで。ここは俺が起きているから」


「でも」と言ったけど、わたし一人が起きていても、何かあったとして役に立つとは思えなかった。そんな自分が少し情けない。


「この先、何があるか分からない。休めるときにうんと休むのも大事だよ」


「う、ん」


「戦場で身につけたことさ。行軍の途中、一〇分でも、三〇分でも休憩があると横になって寝る。兵士はそうやって身体を休め、いざというときの為に備える。寝るのも立派な仕事だと思うといい」


 フランツはそう言ってくれた。


「じゃあ、お言葉に甘えて」と馬車に向かう。


「フランツ殿、もしどうしても辛くなったら遠慮なく起こしてくださね」とヒルダは手を振ってコンパートメントに入った。


 わたしと彼女はブラインドをおろし、ジャケットを脱いでスツールに横になる。

 馬車の座面は広げるとベッドのようになり、二人で横になっても十分な広さがあった。

 そこに横になり、ブランケットを掛けていろいろなことを考えた。


 今日一日で沢山のことがあった。

 そしてまだ続いている。

 目の前にはヒルダが居て、わたしの方を向いて手を取ってくれた。


「お嬢さまは病み上がりなんですから、沢山寝てくださいね」と言ったあと、「そうすれば付き添いのわたしも沢山寝れます」といたずらっぽく笑う。


 そうやって彼女はなるべく気を使わないようにしてくれていた。

 わたしはそれに感謝して、まどろみ、やがて深い眠りに落ちていった。

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